古代生活における市民生活についての駄文
昨今多少知られてきたとはいえ、ローマ帝国を中心とする古代地中海世界についてこの国ではあまり知られていないよなあとは思います。例えば羊飼いといえばモヒカンで手に斧を持ってヒャッハーという人々だったので、シチリアでは野盗と同義に扱われて特に恐れられている存在でしたし、エジプトのピラミッド建設は農閑期に雇用を確保するための公共事業として知られていましたから、私財を惜しんでピラミッドを建てない王様はケチな嫌われ者だったのですが確かにこういう常識はあまり知られていません。
そうした中でも西洋文明の源流となる古代ローマの衰退は今から千数百年も前のことで、かつて隆盛を誇った帝国も軍国主義や宗政一致によりすっかり弱体化するとイスラムに駆逐されてしまいましたが、弱体化は事実でもローマは最盛期も充分に軍国主義で宗政一致の帝国ではありました。ともかく中世暗黒期を経てやがて人々はルネサンス(情熱)と称して古代復興を掲げますが、所詮イスラムには勝てませんから新天地を求めて海の向こうに植民地を求めるようになり、産業革命や啓蒙主義の助けを得て近世から現代へと移り変わっていきました。古代世界のイメージとして知られる野蛮・不潔・迷信・危険は実際にはそのほとんどが古代ではなく中世以降の姿であり、かつての人類が現代の多くの国よりも長命で豊かな生活を営んでいたことはあまり知られてはいません。だからこそ西洋には「失われた超古代文明」の伝説が存在して多くの物語の題材にされているのです。
洋の東西を問わず、現代でも知られている技術や知識には数千年前に生まれていたものが少なくありません。エジプトではピラミッドを建てていた当時に歯医者がブリッジの治療を行っていましたし、日本で卑弥呼がまじないをしていた頃に中国では麻酔を使った外科手術が試みられてもいました。地球が丸いことも惑星や恒星や衛星や彗星の存在も知られていて、かのアウグストゥスがカエサル慰霊祭をハレー彗星が訪れる当日に合わせて「カエサルは天にのぼった」と祀ったエピソードは有名です。ちなみにヨーロッパで古代と中世を比べる分かりやすい例が水洗便所の存在で、古代では裕福な家や町中のあちこちに水洗便所が設けられていて、現代ではたいていの家にありますが中世には水洗どころか便所そのものが存在していません。当時のベルサイユ宮殿にトイレがなく、貴族たちはその辺でもよおされておりました。
現代に比べて古代世界で明らかに存在しないものといえば蒸気や電気による内燃機関で、動力は人力や家畜、水力に頼ることがほとんどですがそれだけに滑車やてこを利用する術は発展していました。巨大な競技場やアーチ式の水道橋を建てるには上半身ハダカで頭巾をかぶった男がムチでぴしぴし叩いても効果がなく、日本の中学生や高校生の頭を悩ませている物理や数学の知識を駆使するしかありません。古代ローマではこうした工事を行うためにクレーンや杭打ち機が発明されていて、長大なライン川やドナウ川を渡る橋をかけることができましたし、巨大な細密な神殿や建造物を建てることができたのです。これが中世を経るとノートルダムの大聖堂はあちこちをつっかえ棒で支えなければ建てることができず、ピサの塔は放っておくと傾いでしまい、韓国ではデパートの床が抜けるようになりました。現代に残る名将アグリッパの水道橋はあまり峻険な谷にかけられて誰も近づけなかったせいで、「悪魔橋」と呼ばれて今も壊されずに当時の威容を誇っています。
そんな古代世界、西暦百年前後頃の古代ローマの、ごくふつうの市民生活の姿をためしに覗いてみようと思います。古代ローマは地中海周辺に存在したエトルリアやギリシア、エジプトにフェニキアといった数々の民族が融合された巨大な一大文明圏であり、奴隷でも貴族でもないふつうの市民生活がこの水準であれば、外国人や蛮人が驚嘆してローマ市民権を求めたのも無理からぬことでした。ちなみに古代ローマに限っていえば奴隷というのは労働者階級のことであり、イギリスのブルーカラーに近いですが炭坑夫のような過酷な仕事に苦役させられた者もいれば秘書や家庭教師といった頭脳労働も彼らの仕事でしたから、市民が軍人や管理職をして奴隷が技術者をしていたと思えばおよそ間違いないでしょう。もちろんこれはローマの特殊例で、例えば民主国アテネでも奴隷といえば言葉をしゃべる家畜を意味しており、ギリシア人自身がこれではローマに勝てる訳がないと慨嘆しています。
朝は日が昇る前に目を覚ますと男はヒゲを剃りますが、ギリシアかぶれが高じるとヒゲを伸ばしたり香水を使う者もいて質実剛健な人には最近の若い者は眉をひそめられていました。着物は短衣に革のサンダルを履いて、正装をするときにはトーガと呼ばれる大布を肩からぐるりと巻きつけます。大きな一枚布を織るにはそれだけの技術が必要ですから、現代人のスーツのように端切れを縫い合わせた服はローマ人の目にはやたら貧乏くさく映ることでしょう。
一日の仕事は地中海の極悪な日差しが昇りきる前、午前のうちに片づけてしまいます。議会で討論をしたり広場で商談をしたり農地を管理したり、女性であれば家の仕事を済ませたら一足早く公衆浴場に足を向けました。風呂は時間で分かれていて午前中は女性が、午後は男性が使います。町並みは一面に石畳が敷かれていて、緑には欠けていて家の中庭でもなければ植物の姿はあまり見ることができませんがかわりに壁面をツタや葉っぱの浮き彫りで飾ったり、モザイクをはめ込むこともありました。有名なのオスティアの港にある市場のモザイクや、ポンペイの犬の床絵などですが精緻なものはドット絵なみに微細な表現がされていて8ビット機ではなかなか太刀打ちができないでしょう。
近隣の水源から引き込まれている水道が町の中心に流れ込むと勢いを弱めるために一気に吹き上げられています。これこそローマ人が発明した噴水と呼ばれるもので、これで広場を涼しくしてからあちこちに水が配られていました。地方であれば都市計画がしっかりしてまっすぐな道に整然とした建物が並んでいましたが、大都市では入り組んで増築改築された建物が道路にまで迫り出していた事情は古代ローマでも変わりません。皇帝ネロは首都が火事に遭ったときに必死に町並みの整備をしようとしましたが、すぐにもとに戻ってしまったそうです。水道は日本と違って蛇口がなく水が流しっぱなしになっていて、家に引き込んでいたのは金持ちだけですがそこらで水を汲むのはタダでした。そのため風呂や便所が町のあちこちに設置されていて、格安で利用できましたが皇帝ヴェスパシアヌスは便所のアンモニアを使う染色業者から税金を取り立てたので市民は公衆便所を指して「ヴェスパシアノ」と名付けると皇帝のケチくささを讃えています。イタリアで便所にたむろしているギャング・スターたちに「ここはあんたの家であんたの名前は公衆便所か」と聞けばお前は皇帝のつもりかというジョークになる訳です。
風呂は湯船につかることもありますがサウナが専らで、たっぷり汗を流してからアカスリや石鹸で汚れを落とし、冷水を浴びてさっぱりしたら油をぬって仕上げというのが一般的でした。男性は午前中の仕事を終えたら女性に替わって風呂に入り、シエスタ以降は自由な時間が訪れます。スポーツをする者もいれば囲碁や将棋めいたゲームに興じる者、劇場でお気に入りの役者を見に行く者に戦車競技や剣闘士競技の観戦に赴く者もいました。
戦車競技は二頭または四頭立ての馬が引っ張る小さな車で競うレースのことで、現代の競馬やカーレースと変わりません。十万人から二十万人も収容できる巨大なコースをぐるぐる回りますが、派手な事故が注目されてしまうのは現代でも古代でも同様でした。オリンピックにも採用されていた花形競技で、剣闘士試合よりも人気はありましたがなにしろ場所とカネがかかるので大都市でないとなかなか開催できないのがネックでした。
剣闘士競技は現代でいうボクシングの興行に近く、野蛮なので皇帝ネロやハドリアヌスのような文化人ふうの人物には嫌われていましたが、戦車競技に比べて中小規模の都市でも開催することができました。人間対人間だけではなく人間対獣や獣対獣が開催されたり、カネがない地方では罪人を引っ張り出して半分処刑のようなショーを開催することもありました。ちなみにローマ人の末裔を自認する英国紳士はしょせん辺境の野蛮人だけのことはあって、大英帝国時代にこの処刑ショーだけを復活開催しています。未熟な新米剣闘士が試合中の事故で死ぬ例もありましたが、ベテランはそうでもなく推計では十人に一人くらい死人が出たようです。有名選手は大相撲の横綱くらいの待遇と尊敬を受けることができましたから観客にとっても主催者にとってもうっかり死なれたらことでした。
競技上は政治家や町の有力者が市民のために寄贈するのが常であり、有名なコロセウムは公衆便所皇帝ヴェスパシアヌスが市民のために建てたもので収容人員五万人、帆布を張った開閉式の天蓋まで設けられているドーム型スタジアムでした。ちょうど東京ドームに似た規模の建物には、獣や選手を競技場に送るためのエレベータが据えられていたり、海上戦闘を再現するために競技場に水を流し込んでプールにするための水道や排水溝も用意されています。皇帝の次男ドミティアヌスは彼が皇帝になったときに松明を灯してナイター競技を主催しました。皇帝が大会を主催して自分も顔を出すことはほとんど義務のように思われていて、そのとき市民は彼の統治に満足していれば喝采を、不満があればブーイングを浴びせるのが慣例になっていました。やはり皇帝の長男であるティトゥスが異国の女王と熱愛したとき、民衆は皇帝と皇子にブーイングを飛ばしてティトゥスが悲恋した挿話も存在します。一般市民が国の指導者に対してブーイングを飛ばすことができる、残念ながらこの制度は現代では真っ先に廃れてしまったようです。
競技場は正式には円形劇場と呼ばれていて、ギリシア起源の半円劇場を二つ合わせた姿を指しています。劇場では様々な劇や音楽が上演されており、ギリシア好きな皇帝ネロは足しげく劇場に通ったものでした。とはいえローマ人はギリシア悲劇よりも風刺のきいたローマ喜劇を楽しんでいたようで、荘重な劇作はよくも悪くも貴族趣味の人々が好んでいたようです。お決まりの口上である「皆様拍手喝采をお願いします」というのは、これをしないと好き勝手に騒ぐ観客で収拾がつかなくなってしまうからでした。
競技場や劇場に足を向けるのでなければ、食堂や酒場でくつろぎます。多様な分か文明が集まるローマでは多彩な食文化が流入していましたが、ローマ人の主食は小麦とオリーブでこれにチーズが加わりました。犠牲祭でもないのに肉を食べるのは蛮人がやることですが、共和政時代に比べて帝政ローマではその蛮人が軍団兵になり市民権も得ていましたからあまりに気にされてはいなかったでしょう。ちなみに蛮人というのは白人の直系の祖先たちを指していて、巨体に金髪で赤ら顔の彼らは現代でもパンに肉をはさんでむしゃむしゃと食べているようです。
酒はたいていワインですが水で割って飲むのが一般的で、割らずに飲むのは酒好きと呼ばれてあまり感心されませんでした。水は水道水がごくふつうに飲めますが、よく冷えたアルプスの氷や炭酸水を運んでくる例もあったようです。なにしろお前のムネのように(チャッカ談)平坦な街道が遠く山脈まで繋がっていましたからアルプスの雪や氷を馬車でてくてくと運ぶこともできました。カエサルが雪にシロップをかけたシャーベットを好んだ話は有名ですが、皇帝ネロは花の蜜をかける命名ネロ・ブレンドを若者に推奨したといいますからシャーベットは高級菓子ではあれ庶民に手が出ないシロモノでもありませんでした。ちなみに氷や雪を運ぶ方法ですが、ローマでは素焼きのツボに雪を入れて、表面に水をかけて蒸発させることで気化熱により中身が冷えたまま運んでいたことが知られています。同様に薄く水を張った水路の下に石室を設けて冷やす冷蔵庫も発明されていて、どちらも地中海の猛烈な日差しがあるからこそ実現できる方法ですが暑い場所を涼しくする技術と同様に、彼らは寒い場所を暖かくする技術も持っていて極寒のドナウ川流域では温泉を利用した床下暖房の遺構が発掘されていたりもします。
この文明圏における流通や経済を支えていた通貨は、かつてカルタゴから手に入れたスペイン半島の巨大な鉱山から産出される金や銀によって支えられていたようです。遠くインドや中国でも発見されているローマ金貨は現代のような紙っぺらではなく、金の質と重さによって価値が決まりますから彫られている浮き彫りの絵が異なっていても、使い込まれてすり減っていても同じ価値の金貨として扱われていました。金の含有率はほぼ100%ですが、皇帝ネロの時代にはあまりにも市場が拡大して通貨が足りなくなったために95%程度に落としています。通貨価値の5%下落ですから1ドル100円が105円になったくらいの影響はあったでしょう。
ローマ金貨の価値が急速に失われるのはセヴェルス朝以降で、一気に50%に引き下げられると後の軍人皇帝時代には「金メッキをした銀貨」が金貨を名乗るようになりました。もちろん古代のカネの価値は金の価値そのものによって決まりますから、帝政初期に比べてネロ時代が1ドル105円だったとすればセヴェルス朝では1ドル200円、軍人皇帝時代には1ドル数千円くらいにまで暴落してしまいます。こうなると経済が崩壊してよその土地と交易することができなくなってしまい、輸出も輸入もできなくなった地方は自分たちだけで畑を耕すようになり、中央政府が存在する意味がなくなると軍隊も弱体化して蛮族に蹂躙されてしまい、おらが村を守ってくれる地元の有力者が領主になって中世がはじまるようになりました。
ちなみに今も残っている皇帝セヴェルスの凱旋門、軍人皇帝時代目前の時期に建てられたそれは土台の上にあちこちから集めた凱旋門のパーツを乗せたり貼り付けたりしたもので、当時の彫刻が雑なのに貼り付けた浮き彫りは精緻という実に気の毒な姿で現存しています。この時代にはそれを酒の肴にして笑おうとしてもワインの質もすっかりまずくなっていましたが、皇帝ネロのへぼ詩人ぶりを庶民が笑える時代であれば帝国のワインは芳醇であり皇帝と母の横顔が彫られた新通貨の出来もよく、テーブルには噂のネロ・ブレンドを味わう若者や婦人が談笑する声が聞こえたことでしょう。うまい酒を飲んでデザートで締める、それが許されていたのが古代文明だったのです。
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