第五章 旅の別れ
ブリタンニアの西岸に横たわる内海の波は穏やかなもので、暖かい海水の流れが運ぶ空気も肌に柔らかくアニータ・プリシウスは満足感を示しながら彼女の赤毛を風に任せている。
チェスターの傍流貴族の娘であるアニータはエデンバルからの亡命王子である兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスと悶着を起こした挙げ句に今は騒動を避けるために故郷の町を離れて海の上に身を預けていた。勇敢で直情的な赤毛の娘は、貴族の令嬢とは思えぬ破天荒な性格をしていると人に思われていたが、残念なことにアニータ自身もそれを否定する材料を持ってはいない。
アニータの足の下で、軽快に内海を滑る船の名は「海のよろこび」号と呼ばれている。チェスターから陸路を辿って港町エアに向かい、そこで船に乗った彼女は内海を越えた対岸にあるオーハの町へと向かうつもりであったが、結局船は上陸することはできず赤毛の娘はそのまま船上の客となっていた。
より正確には、船の上客として扱われるようになっていたと言うべきであったろう。病も持ち直して今は船倉に身を休めている船乗りのパウロンはもとより、船員たちの多くが一人の船乗りを助けるためだけに平然と危難に身を投げた、勇敢で無謀な赤毛の娘を敬愛していたのである。もともと「海のよろこび」号の船員は客人に快い応対をする者たちではあったが、オーハを発ってからの歓待ぶりはかえってアニータを当惑させた程である。
「海の男が似合わないおべっかなんて使っても気味が悪いのよ!」
歯に衣を着せぬ赤毛の娘の言葉に、船員もアニータ自身も笑い声を上げる。アニータにしてみれば船上で知り合っただけとはいえ、陽気なパウロンが病から救われたことで充分に満足をしていたのだし、エアを出航したときの荒れ狂う波も収まって船旅は快適を絵に描いたものとなっていた。
荒れる海と災難を越えて訪れた、平穏な内海の様子はさして迷信的でもない「海のよろこび」号の船員たちにも祝福の存在を感じさせるものであったかもしれない。ただ、アニータは人にもてはやされることに慣れた娘ではなかったのだ。
「それにパウロンを助けたのは私じゃなくてタムシンとマリレーナよ、ねえ?」
「そ、そんな。私は・・・」
突然名前を呼ばれて、戸惑うタムシンの様子に甲板は再び和やかな空気に包まれる。アニータのよろこびは快い船旅の他にもう一つあった。「海のよろこび」号で出会った同年の少女であるタムシンという娘、彼女の瞳に穏やかな笑みが浮かぶようになったことである。
タムシンと出会うまでの彼女のいきさつをアニータが知る筈もなかったが、陽光に映える不思議な色の髪としなやかな印象を持つ娘は、彼女の短い過去と長い未来のすべてを捨てた者の顔をして世に思い煩う素振りすら見せることがなかったものだ。
その頃と比べてタムシンの様子が大きく変わった訳ではない。それはごくわずかに見せたタムシンの小さな変化に、赤毛の娘が気付くことができただけであった。装飾の凝らされた髪飾りをかけ、丁寧な模様が彫り込まれた大布を身体に巻き付けたタムシンの髪が陽光を照らして色を変えている、神秘的な美しさにアニータは心の底から感嘆する。それは湖を発ち山岳を高く越える大鳥を見たときに思う、畏敬の念に近かったかもしれない。
「タムシンの髪は鳥の羽根みたいに綺麗ね。うらやましいわ」
その言葉に、急にタムシンの表情が曇る。アニータにはその理由が理解できなかったが、ただ彼女の無邪気な賛辞がタムシンの繊細な心に触れてしまったらしいと感じとることはできた。誰にでも足を踏み入れることの許されぬ領域はあるものだと、アニータは話題を変える必要性を感じると彼女の旅や生まれ育ったチェスターでの他愛のない出来事を語る。ことに享楽の都には人の耳目を楽しませる多くの事件が溢れており、赤毛の娘にとっては彼女の故郷を語ることでもあった。
だがチェスターの名を耳にした刹那、タムシンの空色の瞳は濃い紫に色を変えると、曇っていた表情は更に深く沈み込んで重い視線がアニータに突き刺さる。それはまさしく一瞬で消え去ると代わって深い哀しみの色がタムシンの瞳を支配したが、赤毛の娘はタムシンの傷を理解できずただ戸惑いを覚えるだけであった。ごく短い間の、娘たちの深刻なやり取りに気が付いた者は誰もおらず、タムシンの振る舞いも普通に戻ってはいたが沈んだ瞳の色だけは戻ることがなかった。
タムシンの消沈とアニータの当惑を乗せたまま「海のよろこび」号はブリタンニアの西岸、内海の穏やかな水面を滑り西まわりの海路をめぐって更に南岸へと舳先を向ける。暖かい流れの抜ける海路はブリタンニアの南面で冷たい流れにぶつかると、島の東へと続いて気候を不安定なものへと変えていた。
虫食いと呼ばれる奇態な風体をした「海のよろこび」号は船としては頑丈にできているとは言えず、波高い東の流れを抜けるには適していない。ノーヴィオと呼ばれる島の南端にある港を最後にして、そこからはまた内海に戻るのが普段の航路である。ノーヴィオは古代ローマがブリタンニアに上陸した最初の地、ノヴィオマグスを起源としており、今でも大陸に渡るための大型の船が集まる交易の拠点となっている。トンマーゾは彼の船の甲板に立ち、視界に現れた港の姿を見ながら思案に耽っていたが、背後から現れた船客の姿に向きなおると人好きのする笑みを浮かべた。
「おや、お目覚めですか」
「夜更かしは得意だけど朝は苦手だからねえ」
多少の疲労感は残しているが、それはマリレーナの艶やかな容姿を少しも損ねることがない。魅惑的なジプシー女の様子にトンマーゾは格幅のよい身体を揺らしながら笑みを浮かべる。オーハの町で船荷を下ろすことのできなかった「海のよろこび」号は、ノーヴィオでそれらをさばいてから内海に戻るつもりであった。
ノーヴィオは大陸へ渡るための港というだけではなく、石畳で舗装された街道を北に向かえばロンディニウムをはじめとした数々の町へと繋がる都市でもある。街道はブリタンニアの方々に伸びてアニータの生まれたチェスターの町や、有名なハドリアヌスの長城へとつながっている。交易の拠点であるだけに、小さな商船にとっては競争者こそ多いが、宛てのない荷をさばくのであればこれほど適した場所も少ないであろう。
「稼ぎは小さくなってしまいますが仕方ありません。儲けがなければ私らは生きていけませんからな」
海上において、船の話題は船客の誰もが耳を傾けるものであることをトンマーゾは知っている。他愛のなさを装いつつ、話題を深いものへと傾けていくのは抜け目のない商人の常套手段であった。だが相手に問いたいことがあるのはマリレーナも同様であり、ときとして話題と噂が重要な商品となることは抜け目のない商人だけではなく定住せず各地を渡り歩いているジプシーの女も理解している。彼らの間での噂のやりとりは金貨のやりとりにも等しいものであった。
「貴女の連れている娘さんですがね。いや、とてもよい娘ですね」
「まわりくどい言い方はしないでいいさ。例の船員はエデンバルから乗ったんだって?」
マリレーナの直截的な言葉に小さな目を開いてから軽く両手を挙げると、降参するような素振りを見せてからトンマーゾも口を開く。オーハを発つ前に彼が聞いた話では「海のよろこび」号の他にも数人、方々の港でパウロンに似た奇態な病気で倒れた船乗りがいるらしいこと、その症状は一様ではないが、例外なくエデンバルに立ち寄った者ばかりであった点では変わりのないということ。
「とかく評判の悪い、そのエデンバルの王が王家に伝わる髪飾りを探しているそうです。髪飾りとそれを持つ者を連れてきた者には褒美を与えるとね」
「なるほど。で、あんたはどうするつもりだい?」
マリレーナの口調は厳しいものではなかったが、その瞳には氷の刃を思わせる冷たい光が宿っている。トンマーゾは長く商人を続けてきた経験として、彼が敵とすべきではない人種を見分ける術を心得ていた。
「いや、エデンバルは怖い国ですからねえ。娘さんは頭巾のひとつも被ったほうがよいかもしれません」
「なるほど。まあこの虫食い船じゃあ東の海流には乗れないだろうしね」
鋭さの消えたマリレーナの口調に、トンマーゾもそれは酷いですなと相好を崩す。だがトンマーゾの打算はマリレーナにも理解できた。知ってはいけない噂を知った者は別の危難に出会うことがありうるのだ。それでも、とぼけた顔をしているが彼はアニータやタムシンに心の底から感謝もしておりマリレーナもその心が理解できぬ者ではない。あの娘たちがいなければ、マリレーナはトンマーゾの船員を救おうともしなかったし救うこともできなかったであろうから。
高峰の支配者ダビデが治めるエデンバルは、高名な不死歩兵団と呼ばれる狂信的な軍団を擁する閉鎖的な国家として知られている。それが行きすぎた信仰であれ忠誠心であれ、エデンバルの強力な統制力は他者から見れば不安を思わせるに充分であったろう。
高峰の支配者は他国との交易にも消極的で、旅人や商人の出入りもないわけではないが立ち入りの許された場所は限られており、マリレーナのキャラバンもエデンバルには足を踏み入れたことがない。一月ほど前にトンマーゾが「海のよろこび」号を寄せたというときも、商売を許されたのは港の周辺の一角だけであって、壮麗なアーチ窓や彫り込まれた壁飾りの配されている城壁に囲まれた町中に立ち入ることは許されなかったものである。
‡ ‡ ‡
ノーヴィオは六百年以上も昔に、古代ローマの軍団が最初にブリタンニアに上陸するために設けた港と陣営地がもとになっている。城壁は堅固で路面は舗装されており、雨水や排水はその舗装された地面の下を通って港に流れ出るように作られていて港には数十隻もの大型船が嵐と波を避けて逗留できるようになっていた。直角に交差した街路は機能的であり、「海のよろこび」号から港に揚げられた荷はすぐに立ち並ぶ倉庫に入れることが可能になっていて、それ自体が店子に面した市場となっている倉庫街では扱う品によって魚介や織物の柄が描かれているモザイクタイルが路面に並べられている。
ローマの陣営地はそのまま入植して町を作るためのものであり、荷揚げ場に限らず浴場や劇場のような公共施設に至るまでが当時、六百年前に設けられたものが手直しされながらも使われているのである。
トンマーゾは肉付きのよい身体を軽快に弾ませながら、積み荷をさばくためにあちこちの店子や商人の間を立ち回っておりその所在はようとして知れない。船員たちも荷下ろしの準備をはじめており、元気になったパウロンを含めて忙しそうに走り回っていた。
荷下ろしが終われば船は内海を西に戻ることになるのであろうが、アニータやそれに従うフランコにはこの後の予定が立っている訳ではなかった。ノーヴィオで下りてロンディニウムに行き、しばらくはブリタンニアの南を巡っているのも良いかもしれないが、タムシンやマリレーナと別れるのも寂しい話しではあった。この町に船がどれほど留まるのかはトンマーゾ次第だが、数日の間町中を楽しむことで娘たちは一致していたのである。それも、多少はアニータが強いた事情はあったかもしれない。
陽光を照らして神秘的に色を変える、タムシンの髪を水鳥の羽根のようだと称したのは今は亡いシンシアの言葉であった。タムシンが思い出していたのは短い船旅の間に語られていたアニータの言葉であり、マリレーナの言葉である。それは砕け散った彼女の心を少しずつ拾い集めてくれるものであったが、最早見ることのできぬ絵を思い出すことにタムシンは耐えることができないのだ。
「ねえタムシン、あなたの布ってハイランドのものかしら?」
「え、ええ・・・そうです」
無邪気なアニータの言葉は時として、タムシンに明るかった過去を思い出させる。タムシンが細い身体に巻いている大布はハイランドより北の地方に特有のものであり、マリレーナのキャラバンにあったものよりも倍は大きく織り込まれた模様も凝ったものである。彼女のいた部族では、生まれたときにその者だけの大布が与えられるのがしきたりになっていてタムシンも幼い頃に預けられたときに彼女の大布を与えられていた。
あきらめきれないらしく、トンマーゾの積荷にはないのかしらと呟いているアニータの様子に小さく微笑みながら、めまぐるしく感情の動く赤毛の娘の様子をタムシンは眩しげに眺めている。自分も昔はああだったかもしれない、と彼女は昔を懐かしむ老人のような思いで断ち切られた過去の糸をたぐりよせようとしていた。もちろん、切れた糸の先には何もつながっていないことは彼女自身が知っていたのである。
「あら、マリレーナ。どこに行ってたのよ」
アニータが声をかけた先、マリレーナは魅惑的な翠玉色の瞳を光らせながら紅の引いてある唇の端を持ち上げた。浅黒い肌に波打った黒髪のマリレーナはキャラバンでも有名なジプシーの踊り子であって、熟成された女性の魅力を全て備えており、あらゆる男の悦びとあらゆる女の悦びを知る女と呼ばれていた。
「まあね、別れる前に少しばかり稼いでおこうと思ってね」
「あ、そうか・・・そうよね」
船の荷下ろしが終われば「海のよろこび」号は西に戻るであろうし、マリレーナたちもキャラバンが残るエアに向かうことになるのであろう。残念なことではあるが、であれば近い未来の別れは忘れて、それまでの時間を存分に楽しむのがアニータの流儀であった。赤毛の娘は勢いよくタムシンの腕を掴むと、引っ張り回すようにしてノーヴィオの市場へと向かう。そこにはトンマーゾの下ろした荷が並べられている筈であり、どうやらタムシンのものに似た大布を本気で探すつもりでいるらしかった。
元気なことね、と苦笑するマリレーナは後ろから声をかけられると、振り向いた先には頑丈そうな体躯に灰銀色の髪と髭を持つ男が立っていた。それがアニータの従者であるフランコであることはマリレーナには今更である。
「従者さん、お嬢さんの護衛はいいのかしら」
冗談めかして言うマリレーナだが、相手の用事が自分にあることくらいは様子を見れば分かる。だがフランコの目には警戒心も敵対心も見ることはできず、少なくともマリレーナをどうこうというものではないらしい。悪い予測を先に立ててしまうのは悪い癖だと自嘲しつつ、マリレーナはフランコの言葉に耳を傾ける。予測が悪いものであれば、現実はそれより良いものであるとは限らないのだから。
「この港でも幾人か、エデンバルをの者が倒れたという噂を聞いた。奇態なことに、症状は違えどどれも激しく苦しみ続けながら衰弱を続けることでは変わらぬということだ。多くの医者が匙を投げている有り様で、エデンバルへの渡航を取りやめた船も多いと聞く」
そのような噂が流れること自体、人々がエデンバルに恐れと警戒心を抱く原因となる。だが高峰の支配者が治めるエデンバルの地はもとより閉鎖的な国家であり、警戒心が畏怖の心となれば彼らの望まぬ怠惰な繁栄が訪れることもないであろう。
フランコはノーヴィオについてから方々を回り、エデンバルとその地を治める王ダビデについて多くを聞いて回ったが、その内容はチェスターで知られているそれとほぼ変わることはなかった。つまり、何も分からないということである。大陸のゴール人や古いケルト民族に系譜が連なると言われている、自然崇拝と独自の伝統を重んじるエデンバルでは、高峰の支配者ダビデによって人々は厳格に統治されており軍団は強力であって不死歩兵団の名を冠している。
「あれは病ではない、と言ったのは貴女でしたか、それともタムシンという娘でしたか。いずれにせよ病よりも薬の心得がある者の幾人かがそれを癒すことができたとのこと。もしも目的があるのだとすれば、エデンバルはそのような者を探しているのだとしか思えませぬな」
「なるほど。で、あんたがたはどうするつもりだい?」
マリレーナの問いは、先ほどトンマーゾにしたものと同じものである。何もフランコやトンマーゾでなくとも、多少目端のきく者であれば誰でもエデンバルの思惑に気付いても不思議ではないだろう。特に、その当事者であろうタムシンがいるとすればなおさらであった。挑発的に腕を組み直したマリレーナに、フランコは口調を変えずに続ける。
「我々のことではない。貴女がたこそ、いったいどうなさるおつもりか」
「え?」
マリレーナの問いに返したフランコの言葉は、ジプシー女の意表をつくものであった。
「非礼を承知で申し上げる。もしもエデンバルの目的があの娘であるならば、タムシンという娘、いずれ自らエデンバルに向かおうとするでしょうぞ。それは時が早いか、遅いかの違いでしかない。だがそれは未来には決して向かわぬ危難の道であるやもしれぬ。であればお嬢様がいたく気にかけておられる、あの娘にそのような道を選んで欲しくはないものですな」
質実な印象を与える壮年の男が、単にチェスターの貴族の娘に忠実なだけの従者ではないことをマリレーナは知った。赤毛の娘が持つ無鉄砲なほどの勇気は、この男が支えているからこそ育まれたのであろう。非礼を詫びる必要があるのならば、それはどうやらマリレーナの方であるらしい。
「そうだね。タムシンが危難の道を選ぶと言えば、あの赤毛のお嬢ちゃんは黙ってはいないだろうねえ。で、あんたは嬢ちゃんの影の差さないところを歩くつもりはないんだろうね」
忠実な従者はその問いに寡黙で答える。マリレーナは定住せぬジプシーの民であり、彼女がタムシンを連れている限りは彼女の所在が知れることはそう有り得ることではない。ジプシーの素性や風体を気にする者はいないし、閉鎖的なエデンバルはジプシーを受け入れてはいないからタムシンがかの地に立ち寄ることもない筈であった。
ジプシーの踊り子であり、占い師でもあるマリレーナは星を見ることができる。彼女は星の巡りが人間の全てを支配すると思ってはいなかったが、不思議な色の髪をした娘を拾い、直情的な赤毛の娘に出会ってより彼女の頭上を巡る星からは不吉な姿が消えることはなかったのである。
‡ ‡ ‡
数日をして、トンマーゾは彼が望む取り引きを終えると「海のよろこび」号を発たせるべく船に戻る。新たに積み込む荷と客人を集めて、虫食いと呼ばれる船体のあちこちには荷材が積み込まれたりくくりつけられたりしていた。
パウロンや船員たちも忙しく港と船の間を立ち働きながらも、赤毛の娘が来れば別れの声をかけるために、足を止め手を休めることを咎める者は誰もいない。それは船主のトンマーゾにしても同じことであり、駆け寄って差し出した手に握られる乾いた暖かさは決しておざなりなものではなかった。大きな手を両手で握り返すアニータに、トンマーゾはどこか申し訳なさそうな声をかける。
「色々探してみたんですがね。ちょっと大布までは手に入れられませんで、お恥ずかしい限りです」
「いえ、こちらこそお心遣いありがとうございます。また、お会いしましょうね」
屈託のないアニータの笑みに、その時までに大布を仕入れておきますよと請け合った商人はフランコにも丁寧な礼をすると甲板に続く渡り板を昇っていった。長いとはいえぬ船旅であったが、それはアニータにとって楽しいものであったし「海のよろこび」号はタムシンやマリレーナと出会えた場所でもある。
その二人、魅惑的なジプシーのマリレーナと不思議な色の髪をしたタムシンも彼女たちの前に姿を見せていた。アニータは耐え難い感情を押し隠そうとしていたが、赤毛の娘にとってそれは無駄な努力でしかなかったようである。彼女が堪えることができたのは、こぼれ落ちそうになる雫を止める程度のことでしかなかった。
「短い間だったけど、ありがとうタムシン。それにマリレーナ・・・」
感慨深げなアニータの言葉に、マリレーナはどこか悪戯な笑みを浮かべていたしタムシンはどこか意外そうな顔をしている。不思議な髪の色をした娘が以前よりも多くの表情を返すようになったことは喜ばしい限りであるが、アニータにしてみれば感動的な別れの場面に彼女たちの表情は似つかわしいものだと思えなかった。
別に劇的な演出を狙おうというのではなく、心の底から沸き上がる自然な感情を否定しないアニータはそのときも率直な違和感を言葉に変える。
「ちょっとマリレーナ?私は本当に・・・」
赤毛の娘が訝る様子に耐えきれなくなったマリレーナは、むしろ声を上げて笑い出す。タムシンの顔は意外さから戸惑いに変わっていたが、いずれにせよそれがアニータが望んでいた絵でなかったことは明白だ。ひとしきり笑った後でおざなりな謝罪の言葉を返しながら、ジプシーの踊り子は翠玉色の瞳に未だ消えぬ笑みの名残を残しつつ声をかけた。
「お嬢ちゃん。あたしたちがいつ船に乗るって言ったんだい」
「え?だって別れって・・・」
自分は余程困った性格をしていると、マリレーナは自覚しながらアニータの正直な顔を見ている。赤毛の娘がどういう反応をするか予想した上で、マリレーナはタムシンにもアニータにも全てを黙っていたのであるから。
ただ次の言葉を伝えた後でなら、直情的な赤毛の娘はいったいどのような反応をするのであろうか。マリレーナの好奇心はそれをこそ知りたがっていた。
「私にとってキャラバンと別れるのは大きな別れさ。もしもあんたたちさえ良ければ、しばらく一緒に旅をさせてもらえないかと思っているんだがね」
その言葉を聞いて、アニータは真っ先にタムシンに飛びつくと友人の手を取って無邪気に踊り出したのである。全身で喜びを表現しているアニータの姿と、不器用に振り回されているタムシンの姿に呆れつつも、魅惑的なジプシーの踊り子は自分の好奇心以上のものを見せてくれる娘たちの姿を見やりながら、目を細めて二人の娘の様子を眺めている忠実な従者と同じ感慨を抱いていた。
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