第七章 赤き鎧の騎士
牢獄はその周囲を石壁と錆の浮いた鉄扉に囲われた頑丈な代物であり、どこからか染み出している水気が部屋の隅にある暗がりに苔とカビの臭気をもたらしている。そこは古来から恐怖や威圧感を与えるためにどの民族でも発明して用いている場所であり、陰気を絵に描いたような部屋ではあったがたとえ陽気な牢獄というものがあったとしても心が浮き立つわけではないだろう、とマリレーナはいささか皮肉に考えている。
窓に類するものはなく、薄暗い部屋では通廊の向こうで揺れている小さな灯火と、僅かな石壁の隙間から漏れてくる光によって辛うじて視界を得ることができる。城を立てるときにできたのであろう、その隙間からはハイランドの高峰から吹き降りる冷たい空気を感じることができるが、それが魅惑的なジプシー女を快くさせる筈もない。
高峰の支配者ダビデが治めているエデンバルの地に入った彼女たちは、王が彼の孫娘であるタムシンを力ずくで連れ出してマリレーナたちを牢に押し込めるまで、成す術もなかった。高峰の支配者は人間の持つあらゆる徳性に恵まれた人物ではない、との評判をジプシーのキャラバンに乗ってブリタンニア各地を巡っていたマリレーナは知っていたつもりである。だが王がこれほど容赦なく強圧的な手段に出てこようとまでは彼女も考えてはいなかったのだ。
タムシンは彼女たちの目の前で殴り倒されると城内のどこかへと連れ去られてしまい、マリレーナたちは来賓を迎えるには誠意に欠ける部屋に押し込められている。扉は外側から閂が下ろされてそこには錠前もかかっており、容易に開けることはできそうになかった。さてどうしたものかと、思案するジプシー女の耳に聞き慣れた怒声が響く。
「開けなさいよ!開けろって言ってるでしょ、この・・・」
筆舌できぬほどに多彩な、しかも品位に欠ける表現は尽きることがなく、諦めずに、または飽きもせずに罵声を張り上げている赤毛の娘に、マリレーナは奇妙に感心している。アニータ・プリシウスは伝統的にエデンバルとは敵対するチェスターの傍流貴族の娘だが、彼女の純粋な怒りが無法にも友人を連れ去った王に向けられていることは確認するまでもないだろう。
相手が異国の王であろうが、友人の祖父であろうが彼女の信じる道理に反する者を見過ごすことをアニータは行うことができない。それは貴族の娘らしい正義感の現れだったかもしれないが、では貴族の娘としての知性と教養はといえば、王を罵るための語彙の豊富さへと今は用いられているようだ。
「さて、どうしたものかねえ」
先ほど心の中に浮かべた言葉を、マリレーナは誰ともなく呟きこぼす。今の境遇は思わしいものではないが、だからといって彼女たちがすぐに殺されるとか暴力的な処遇を受けることになるとは考えていない。王はタムシンに自分の望みを押しつけるつもりでいる、それは王が望む者の子を産み増やして彼の血統を途絶えさせぬことだ。
大陸のゴール人や古い遊牧民であるケルトに系譜が連なると言われているエデンバルは、ブリタンニアを南北に分かつハドリアヌスの長城を越えた北東部にある、ハイランドの峰の山麓にある王国である。寒冷な地の北面を囲う広く峻険な山岳が東西に長く連なっており、山と風の国と呼ばれるほどに強い風が一年中吹き付けて西方に流れていく。北風を受けて陽光を照り返すハイランドの麓にある、エデンバルを治めている「高峰の支配者」は数百年も以前に帝国がブリタンニアに入植を始めた時代から長城の南方と隔絶し、対立を繰り返してきた者たちの末裔であった。壮麗なアーチ窓や彫り込まれた壁飾りを随所に配している石造りの城は、そのエデンバルにも古えのローマ人が技術と文明をもたらした痕跡を示しているが今は当時を知る者もいない。
だがどのような国であれ、統治者やその後継者に正当性を求めることは古来から変わることがない。隔絶した世界を強力な王が治めているエデンバルであれば王の後を継ぐに相応しい者を彼の血縁に求める、王が倒れたときに争いや諍いが起きれば国は傾くのであるから、それは当然のことだろう。
マリレーナがそうした権威や正当性を嘲っている、ジプシーの女でなければ王の論理を理解できるのかもしれない。だが、さしあたって王がタムシンに望むことを思えば、自分たちは王がタムシンにそれを言い聞かせるための材料、ありていに言えば人質として用いられることになるのだろう。その人質を殺せば相手が要求を受け入れることは困難になるのは当然だ。だから彼女たちの安全は今は保証されているといってよい。
だがもちろん、牢獄の娘たちとしては彼女の友人のためにも、王に自分たちを利用させるわけにはいかない。何よりマリレーナとアニータと彼女の従者、人質が三人もいれば一人くらい数を減らすことも効果的な手法ではある。マリレーナは彼女の半生において、これまでにも似たような境遇に陥ったことがない訳ではなかったが、こうした場合の危難は相手の性格や状況によってまるで異なるものだ。
赤毛の娘ががなり立てている、騒音を耳に流しながらジプシーの女は思慮深げな顔をしている。彼女の視界の隅にいる、勇気と正義感の塊は友人だけでなく自分にも降り懸かっている危難を承知しているのであろうか。もっとも、承知していようがいまいがアニータの言動が変わることはなかろう。では、彼女の忠実な従者はどうであったか。
フランコは中背だが頑丈な体躯と日に焼けた肌をもつ偉丈夫であり、後ろに撫でつけた灰銀色の髪と同色の髭が頬から顎にかけて短く刈り込まれている。アニータの家に仕える従者であり彼女のお目付役でもあったが、昨今、マリレーナが見るに赤毛の娘をこのような性格に育て上げたのは一見泰然としたこの男ではないかと疑うことがある。視線が合い、マリレーナはフランコに声をかけた。
「何を考えているんだい?」
「もちろん、ここを出てタムシン殿をお救いする方法だ」
予想するまでもない、明快な回答である。楽観的な言葉にジプシー女の魅惑的な顔に苦笑の色が浮かんだ。
「本気でそんなことができると思っているのかい?」
「できなければやらないのかね?」
さも当然のように言うフランコに、マリレーナは優美な仕草で片方の眉を上げる。フランコは悪戯な目で笑うと、アニータお嬢様であれば、そう言うであろうなとつけ加えた。
どうやらマリレーナの疑いはかなりの確度で的を射たものであるらしい、そしてこの二人の悪癖が自分や、そしてタムシンをも汚染しているとすればせいぜいあがいてみるのも悪くないだろう。マリレーナの瞳が輝き、抜け目無い放浪の民の知性がめまぐるしく動き始める。
まずは彼女たちを囲う牢を抜けることを考えるべきか。そうではない、まずは彼女たちに都合の良い時間と場面を作り上げることが先立つべきだろう。この舞台は高峰の支配者ダビデがタムシンやマリレーナたちに用意したものであるが、王は今はこの場所にはいない。では今度は自分たちが台本を書く番である。そして彼女たちがここを抜け出してタムシンを助ける、フランコに言われるまでもないが、いずれにせよまずは時間を稼ぐことだろう。それは逃げるための時間でもあるし、敵が自分たちに与えてくれる余裕でもあるのだから。
ではそのためにどうするのか、高峰の支配者はタムシンのことしか考えておらず、孫娘の連れの正体などさして気に止めている筈もない。そしてその王に仕える者たちであれば、なおのことであるに違いなかろう。
「アニータがさんざん騒いでくれていたことが、この際は有り難いかもしれないね」
‡ ‡ ‡
牢獄を見張る通路に固い足音が響き渡り、短い槍を手に腰には堅木の棍棒を下げた衛視が姿を現したのはそれからしばらくしてのことである。若い顔にこれといった表情は見られないが、牢の巡回を表情豊かに行う衛視もいなかろう。
牢に押し込められている一行は王の孫娘タムシンが連れて来た者たちであるということだが、そこにエデンバルに敵対するチェスターの貴族がいることは王も衛視も承知している。王の唾棄すべき愚息である兄殺しのファビアス、デケ・ファビアスを今も匿っているチェスターはエデンバルにとって歓迎すべかざる隣人であった。
衛視が現れたことに気が付いたのであろう、先ほどまで騒々しくがなり立てていた囚人が屹として立ち上がり、鉄扉の格子に近付いたらしい様子が分かる。ジプシーの放浪民らしい異国の風体をした女の、怒りを込めた表情に衛視は囚人が彼に浴びせるであろう怒声と罵声を予期していたが、彼の耳を叩いたのは感情に任せた怒声よりも遥かに威厳ある、堂々とした叱責の声であった。
「衛視よ!貴国の王は何時まで遠来の使にこのような非礼を働くつもりでいるのか!」
毅然とした声、威厳ある態度、そして完璧なブリタンニアの発音は、城仕えに慣れた衛視の身を反射的に固くさせる。背筋を伸ばした、引き締まった表情と気品ある振る舞いは後ろに控えている粗暴な赤毛の娘よりもよほど高貴な人物に見えた。
チェスターの貴族がタムシンと伴にエデンバルを訪れたことを衛視は知っていたが、マリレーナの素性は一介のジプシー女であるとしか思っていない。しかし、目の前に立つ凛とした婦人にはどう見ても下賎な放浪民らしい様子はなかった。
浅黒い肌をした婦人の長く伸ばした黒髪は、よく手入れされて波打つ光を返しており、翠玉色の瞳は怒りと誇りによって激しく輝いているように見える。よく見れば婦人の身は随所に高価な、または装飾を凝らされた宝飾品で飾られており彼女を異国の貴人に見せていた。
「海峡を越えてブリタンニアを表敬する者を、答礼も無く牢獄に招くのがこの国の流儀か!チェスターとはあまりに異なる、これがエデンバルの礼節であるというのか!」
他国から途絶されたエデンバルに暮らす衛視は、ブリタンニアにある他の国ですら伝え聞きにしか知らず海峡を越えた大陸にある国の様子など耳にしたこともない。もしも彼女が彼女の言う通りに、王女タムシンに連れられてエデンバルを表敬した異国の貴人であればそれを監禁するなど国の恥辱である。
衛視は強力な王が治めるエデンバルの国に生まれ育っており、王や貴族が自分たちを如何ようにもできる存在であることを知っている。狼狽する衛視に向けて、マリレーナは少しだけ表情を和らげると、ゆっくりと威厳ある声で牢を開くように命じた。
これは賭けである。常であればどのような舌先三寸を用いようと、衛視が囚人の言葉に従って牢獄を開くことなど有り得る話ではない。だがエデンバルの兵は権威ある者に命令されることに慣れている者たちであり、それ以上に権威ある者に罰せられる恐怖を常に胸に抱いている者たちである。
言われるままに錠を開き、閂を抜くと一瞬、衛視は我に返って悔やむような顔になり牢に立つ婦人に恐々とした目を向けるが、マリレーナは牢が開いた好機に襲いかかるでもなく、かといって満足の意を見せている訳でもない。
衛視は婦人が求めているものにすぐに気が付くと、恭しく鉄扉を開いて丁重に頭を下げる。貴人が自分で扉を開けねばならぬような礼節はエデンバルでなくとも存在しないのだ。マリレーナはさも当然という風で一人、牢を出るとそれに従おうとしたフランコやアニータを振り返って厳しい一瞥を向ける。気圧されるように、チェスターの貴族の娘とその従者は牢の奥へと引き下がった。
「汝等には世話になっており感謝もしている。だが汝等とエデンバルの間に何の諍いがあるかを我は知らぬ、そしてこの国にもこの国の流儀があろう、今は下がっておれ。ことあらば我が汝等の身分を保証するつもりだ」
抗い難いその言葉に従い、チェスターの二人が素直に下がる様子を見て衛視は奇妙な安堵感を覚える。囚人が逃げるつもりであれば、このような態度をとる筈もないであろう。そしてここから先はエデンバルの問題であり、少なくとも彼ではなく彼の上官たちが判断すべき事柄だ。
この場合、自分がたったいま囚人の牢を開けたという事実を衛視は都合よく忘れ去っている。再び閂を下ろし、錠をかける衛視にマリレーナは厳しい視線を向けた。だが、その口調は先ほどよりも多少穏やかなものに変わっている。
「タムシン様には旅の間にも多く世話になっている、あの方は何処にいらっしゃるか」
言いながら、マリレーナは心の奥底で思考を巡らせている。この言葉も賭けであって、これに相手がどう答えるかで彼女も即応せねばならぬ。
衛視は一瞬、言葉を詰まらせると彼の考えを巡らせているように狼狽した表情を見せた。その様子だけでマリレーナにはおよその事情が理解できる。どうやら、彼は彼女が最も望んでいる回答をしてくれるようだ。
「た、ただ今こちらにお連れ致します。王女は今、別室にて王の叱責の折りに受けた傷と、旅の疲れとを癒しておりましたが故に」
おそらくタムシンも近くの牢に放り込まれていたのであろう。だがマリレーナにそう伝えることができぬ衛視は、この場を取り繕うべくタムシンを連れてくることを思い立ったようだ。
どうやら彼の小さな責任感はエデンバルの国と彼自身の保身に傾いてくれているようであり、今は異国の貴人にこれ以上の礼を失せぬことが大事と思っているのであろう。
「では彼女に目通りを願いたい。ここで待っていても構わぬので会わせてはくれまいか」
相手が望んでいる回答を伝えているのだから、返答を聞くまでもないし王に怒りを見せていた彼女が今度は王女に会いたいなどという、都合のいい矛盾に気が付く筈もない。衛視はタムシンをすぐにお連れすると告げると、救われたように駆け出してその場を立ち去った。
マリレーナは一息をついて牢の中にいるアニータやフランコに視線を向けるが、彼女の賭けはまだ続いているのだ。ここまでは問題ない、だが駆け出した衛視はマリレーナが追うことのできぬ場所にいるのだから彼がどのように動くかによってこれまでの矛盾に気付くかもしれないし、そうでなくとも幾らでも最悪の事態は起こり得るのだ。だがフランコが言っていた通り、できなければやらないという理由もあるまい。失敗したらそれまでのことである。
長い沈黙の後、牢獄を出て通廊へ繋がる扉が開くと軽く居を正すマリレーナの前に三人の姿が現れた。一人は先ほどの若い衛視であり、一人は戸惑った表情を隠せずにいるタムシンである。王の孫娘は未だ頬に残る傷跡が痛々しいが、衛視が言っていたようにすでに治療はしているらしい。もっとも、タムシンのことであるから自分の手当は自分で行っているかもしれない。
だがもう一人、そのタムシンを後ろから彼女たちを見張るように立っている、赤い鎧を着た壮年の兵士の姿にマリレーナは緊張を覚えた。浅黒い肌に口髭をたくわえ、筋骨はたくましく露出する肌の数箇所に刻まれている古い傷跡が男の経歴を雄弁に物語っている。年齢はフランコよりも若いだろうが風雪に耐えた剛毅さには戦場で人を率いる者の風格が漂い、威風堂々とした様子は牢番の長よりもむしろ近衛の騎士団程度を従えていても不都合のない人物に見えた。
マリレーナは自分の人を見る目には自信を持っていたが、鎧の戦士は忠義と責任感を持つ第一等の人物であって力ずくでも舌先三寸によっても容易に篭絡できる人物ではないだろう。タムシンが加わったとはいえ、自分と二人で彼らを黙らせることができるだろうか。鎧の男の背後できしむ音を立てて、通廊に繋がる頑丈な木造りの扉が閉まる。だが、次の瞬間に生じた出来事はマリレーナが予想していたものではなかった。
背後からの一撃で、タムシンが衛視を打ち倒すと続けて赤い鎧の男がすばやくこれを組み伏せたのである。突然の出来事に呆気に取られているマリレーナに、駆け寄ってきたタムシンが飛び付くと、その顔には喜びと安堵を込めた彼女の笑みが浮かび上がっていた。
「こいつはいったい、どういうことだい」
「この方が助けて下さったんです。今は時間がありません、急いでここを出ましょう」
その時の力強く、誇らしげにも見える顔はマリレーナがタムシンを拾ってから始めてみる彼女の本当の表情であったろう。自分たちが往生際悪く諦めることがなかったように、タムシンもまた自分の境遇に絶望することなく好機を窺い、アニータやマリレーナを助けようとしていたのだ。たった一人でも勇気を失わなかった娘の頭に、マリレーナは自然な動作で手を乗せていた。
小さな再会の間にも赤い鎧の男は衛視の懐から、手際よく鍵束を抜き出している。錠前を開き、閂を抜くと待ちきれぬとばかり飛び出したアニータがタムシンに抱き付いているが、先にタムシンが言ったように今は時間がない。倒れた衛視はくつわを咬まされると縛られてから牢獄の奥に放り込まれる。鎧の男はアニータたちを連れて衛視の控え室に出ると、部屋の隅には彼女たちの少ない荷が積まれていた。
掴み取るように荷を抱えると、脱走者たちは鎧の男に従って急ぎ城の通廊へと抜け出す。足取りは早いが余計な音を立てぬよう静かに、窓外からの明かりが差し込む古い石造りの通廊を走る。鎧の男はレイモンドと名乗り、かつてエデンバルの騎士を務めていたが今は牢番の長を任されていた。衛視の巡回の時間をレイモンドはよく心得ており、次の衛視が牢獄の異常を見付けるまでの間に、城を抜け出さなければならない。
「自分はタムシン様の両親を殺した者です。この鎧は逃げる者の血を浴びた罪を示すためだ」
身を潜めながら、鎧の男は呟くような声で自らのことを語り始めた。それまで知らされていなかった男の素性に、タムシンの表情が小さく変わる。
かつて高峰の支配者ダビデの命によって、持ち出されたエデンバルの秘術とタムシンを取り戻すべく幼子の両親を殺したレイモンドは、王の娘を殺したにも関わらず王が求める秘術の書を持ち帰ることができず、王の孫であるタムシンを見付けることもできなかった。
帰参したレイモンドをダビデは迎え入れるどころか、エデンバルの未来を暗い雲で覆った者として忠勇な騎士に厳罰を下したのである。エデンバルで武勇を謳われる有数の戦士であったレイモンドは赤き鎧のレイモンドとして恥辱を負わされ、騎士の身分は奪われたが牢獄を見張る衛視長程度には命じられて、以来十数年が過ぎていた。
「私はタムシン様の帰還を心待ちにしておりました、私は私の罪を償いたかった。そして王もそうだと思っていた。過ちを犯したことで過ちに気が付いたのだと思っていた。だが王は同じ過ちを繰り返そうとしている、私は嫌だ!もうたくさんだ」
レイモンドの語気が強くなる。彼の主張が結局は自己弁護でしかないことは、彼自身が誰よりもよく知っていた。赤き鎧のレイモンドがタムシンたちを逃がすべく手を貸していることも、かつて王の命でタムシンの両親を殺してなおその王に冷遇された、その怨みを晴らそうとしているだけかもしれないのである。
タムシンも、彼女が連れている友人たちもレイモンドを許すことはないであろう、だがレイモンドは彼自身のためにタムシンを助け出さなければならない。彼女たちは高峰の支配者ダビデが真実に恐ろしい人物であるということを、知ってはいても決して理解してはいないのだから。
自分が覚えてもいない両親を殺したと語る男を前にして、タムシンの思いはどれほどのものであったろうか。レイモンドは地面に目を向けてうつむき、タムシンの顔を見ることができないでいる。卑怯で、臆病で、狡猾な赤き鎧のレイモンドは恥辱を与えられるに相応しい存在なのだ。
彼はタムシンや彼女の友人が自分に向けているであろう視線に耐えることができない、だからこそ彼女たちをこのエデンバルから逃がすのである。彼らが潜んでいる通廊の向こうに見える、木造りの裏戸を抜けれはそこはもう王城の外であった。
タムシンの逃亡もレイモンドが手引きをしたことも、今はまだ城の者たちに知られてはいない。裏戸に詰めている二人の衛視に何気ない風で近付いたレイモンドは慣れた剣撃で一刀のもとに一人を、驚く一人をもう一刀で打ち倒す。赤き鎧の騎士の技量は未だ衆に優れたものであるのだ。
裏戸を出た彼らの目の前には小さな林が横たわっており、王城の北に抜けることができる。エデンバルは町中にも王の目が行き届いており、留まることなく一刻も早く町を出て北辺のハイランドに入ることができれば、峻険な山岳と深い森林に阻まれて追手も容易に後を追うことはできなくなろう。
「すぐに王の追手がかかるでしょう。私も逃げるつもりだが、貴女がたとともには行かぬほうが良いと思う。ここでお別れです。貴女がたのご壮健を、私には信じることができぬ神に祈りましょう」
最後まで、レイモンドは逃げるつもりであった。自分のような卑劣漢は、彼女の側近くにいてはならないのである。自分の両親に手をかけた者と旅をするなど、耐えられるものではない。そして王は裏切り者の自分をも追うであろうし、そうすれば追手を二手に分けることもできるだろう。
名分が立つことまで考えている、自分の卑劣さに赤き鎧のレイモンドは自らへの糾弾を止めることができない。鎧の戦士は彼が十数年もの間ため込み続けていた、境遇を語ってからただの一度もタムシンや彼女の友人たちの顔を見ることができずにいる。だが、娘たちの思いはレイモンドが考えていたものとはまるで異なっていたのだ。
タムシンは鎧の戦士に伝えるべき彼女の言葉を迷ってはいない。一度、アニータの顔を見ると彼女の目にも自分と同じ思いが宿っていることを知って嬉しく思う。レイモンドは彼女たちと伴にどこへ行くこともないであろう、だから、タムシンは彼女が思うことを彼に伝えなければならないのだ。
ゆっくりと、臆病な戦士の手を取るとタムシンの瞳がレイモンドの視線を捕らえた。怯えの表情すら見せて目をそらそうとしている戦士に向けて、娘のような年齢のタムシンは彼女の、彼女たちの言葉を伝える。
「私の、たいせつな友人を助けて下さってありがとうございます。貴方には本当に感謝をしています。ですから私たちにも、貴方のご壮健を祈らせて下さい。私たちを見おろすハイランドの峰と、私たち自身に誓いましょう」
その言葉、十年以上もの間、望むことすら許されなかった言葉にレイモンドはタムシンの手を強く握り返すと膝をついて、子供のように泣き崩れた。彼が助けた娘たちは、赤き鎧の騎士などよりも遥かに強く、誇らしい魂を持っているのだ。
レイモンドに救われて古き忌まわしき城から解き放たれた娘たちは、握っていた恩人の手を放すとタムシンが育ったハイランドの峰を目指して踵を返した。高峰の支配者が治めるエデンバルの城、壮麗なアーチ窓や彫り込まれた壁飾りを随所に配している石造りの城を背にレイモンドは止まらぬ涙を流しながら、その顔には久しく忘れていた笑みが浮かんでいたのである。卑怯で、臆病で、狡猾な赤き鎧のレイモンドは今ようやく自分の恥辱に誇りを持つことができるようになったのだ。
‡ ‡ ‡
高峰の支配者、ダビデは王の謁見の間に獅子王バルタザルを呼ぶ。王の下にはすでにタムシンの逃亡とレイモンドの反抗とが伝えられていた。高峰の支配者が座している背後には数代にも渡って織り込まれた、エデンバルの秘術を伝える王たちのタペストリがかけられている。王の紋章を背にした高峰の支配者は彼が自ら選んだ婿に言葉を投げかけた。
「お前の花嫁が逃げ出した。あの娘は秘術を知る者だ、気を付けるがよかろう」
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