第十二章 ダビデ・ファビアス


 ブリタンニアの北方、ハイランドの高峰を東から西に抜ける風が厳しさを伴って吹き抜けている。エデンバルへ続く街道は舗装もまばらであり、古い時代に整地された後はただ踏み固められただけの土と砂利の道が続いていた。数日歩けば街道の脇に並ぶ一里塚も増えて、エデンバルの王都が近付いていることを旅人たちに示している。周囲は静かで風の音のほかには地面を踏みしめる足音しか聞こえない。数月ほど前、娘たちが訪れたときは国境を越えるや衛視が現れると彼女たちを引き立てていったが今は人影すらも見かけることはできなかった。国に近付くにつれて集落や小村ですらもまばらになる、それがエデンバルの姿であることを娘たちは知っている。

「私たちが来ていることは、もう知っているわよね」

 冷たく厳しい風から彼女の赤毛を守るように、頭まで被った大布を襟もとに引き寄せながらアニータ・プリシウスは呟いていた。彼女の友人であるタムシン、エデンバルの前王ダビデの孫であり王ファビアスの姪であるタムシンを守るために、勇敢な赤毛の娘は寒風に身を晒して背を向けることがない。エデンバルを治める高峰の支配者に伝えられている秘術、それを知るタムシンを除くために彼女が育ったキャラバンを襲い、姉にも等しいシンシアやマリレーナを害した王にアニータたちは立ち向かおうとしているのだ。
 視線の先に石造りの市壁が姿を現すと、その内に建つ王城の様子を認めることができる。王都を囲っている堅牢な石壁は高く厚く建てられており、壁を繋ぐ塔の上や門の前にある衛兵の姿がこの地に人が存在していることを証明していた。小さな点に見える門が殊更にゆっくりと開くと、仰々しく騎馬に跨った数人の男たちが姿を現す。アニータたちも歩みを止めずに双方が近付くと、互いの声が充分に届くようになったところで赤毛の娘に従うフランコが先んじて声を上げる。

「新しき王、ファビアスが治めるエデンバルの衛視の方とお見受け致す!我らはチェスターの評議員、プリシウス家の名代であるアニータ・プリシウスの一行。高峰の支配者ファビアスにつつしんで祝辞の言を伝えるべく表敬に参った。エミリウス円形劇場以来、お変わりはないかと王にお伝え願いたい」

 その言葉にどれほどの皮肉が入っているかを、衛視は気が付いてはいないであろう。答礼のために馬を下りると形通りの礼を述べて、王に取り次ぐ故、同道を許されたいとの言葉を告げる。そこは既に開かれた獣の顎の内であって、アニータたちは警戒を緩めることはできないが引き返す道は最早存在しなかった。騎馬を引いた衛視に前後を挟まれて、それでも客人の扱いで石壁の門を潜る。
 石造りのエデンバルは各所に古いローマの所産が残されており、陣営地を思わせる整然とした街路に質実だが装飾も凝らされている建物が立ち並んでいた。気候が温暖で陽光が強い大陸であれば、日を避けるための回廊やふんだんに水を貯める水路や池がそこらに見られるものだが、寒冷なブリタンニアでは建物は風を防ぐために窓や中庭は小さく全体に狭い印象を受ける。チェスターでは内海を流れる暖かい風の影響もあって、もう少し建物は開かれているし広場には多くの人が集まるが、エデンバルでは人は建物に身を隠して窓越しからこちらを窺っている印象が強い。それが気候や建物のつくりのせいであるのか、他の理由によるかは分からなかった。

 アニータたち一行は彼女とその従者であるフランコ、そしてタムシンの三人しかいない。チェスターを出て一度は合流していた赤き鎧のレイモンド、エデンバルを逃亡した騎士は堂々と王都に入る訳にはいかず行動を別にしていた。プリシウス家の名代が王に会うために手を尽くすこと、それだけが彼に望まれた役割である。かつてタムシンの父と母を手にかけた卑劣な騎士を娘たちが許すことができなかったと同時に、エデンバルの逃亡者であるレイモンドがいることで要らぬ危難が増えることを嫌ったという理由もあった。二人の娘に壮年の従者を加えた三人は、赤き鎧の騎士が彼なりの手を尽くすことを期待しながらもその効果を信じることはできそうにない。
 新しき王となったファビアス、兄殺しのファビアスがかつてエデンバルを出奔してチェスターに亡命してより両国の関係は険悪なものとなっていたが、舗装された街路を進むアニータたちの視界に映る、人々の姿には度を越した敵意も好意も感じることはできなかった。むしろ自ら望んで無関心であるかのように振る舞う人々の様子にフランコが声を漏らす。

「この国の民は国の行方など気にしてはおりませぬ。ただ高峰の支配者の意思だけが彼らの全てなのですから」
「雷が落ちないように、首をすくめて生きることだけが許されているという訳ね」

 前後を歩く衛視たちには聞こえないように、アニータも呟くがその声には軽蔑というよりも哀れみが込められている。あらゆる人の徳性に恵まれぬという高峰の支配者、その意思に従うことだけを求められる臣民の暮らしとはどのようなものであるのか、享楽の都チェスターに生まれた奔放な赤毛の娘には想像することもできそうにない。その思いは日々を屋根のない山中に生きる、遊牧民のキャラバンで育てられたタムシンにも同じものであったろう。
 娘たちが目指す石造りの王城の奥、謁見の間にはエデンバルの新しき王となった高峰の支配者、ダビデ・ファビアスが座して彼の孫であり姪でもあるタムシンの到着を待っている。チェスター評議員の名代を名乗るアニータの記憶も王は持っているが、それはかつてエミリウス円形劇場で見たファビアスの記憶ではなく、エデンバルをタムシンと伴に訪れた赤毛の娘の姿を見たダビデの記憶であった。ファビアスの肉体を持つダビデにとって、彼の息子であった兄殺しのファビアスがどこへ行ったかなど気にも留めようとはしない。

「タムシン様が、ご到着致しました」
「分かった・・・それにしても、良い度胸をしておるわ」

 世界を統べるマスター、高峰の支配者ダビデにとってエデンバルの秘術は彼一人が知るものでなければならず、王はタムシンを逃がすことができない。そしてファビアスの旧知を名乗るチェスターの貴族が謁見を求めるとあれば、ダビデではなくファビアスとしてもこれを受けぬ訳にはいかないだろう。兄殺しのファビアスは長くチェスターに亡命の身をかこっていた者であり、その国を出るに際して使節や衛視たちを剣と棍棒の餌食としているのだ。
 王は昔からファビアスの浅慮に悩まされてきたことを思い返すと苦笑を漏らすが、それもこの日で終わりとなるだろう。それまでもエデンバルと世界のすべてはダビデの手の上で生きることを許されてきたが、それに従わなかった者が王の娘やその子のタムシンだった。例え砂粒の一つであってもダビデの手からこぼれ落ちてはならない。彼の玉座に腰を下ろし、エデンバルの秘術を知り世界を統べる高峰の支配者であるために、ダビデ・ファビアスは開かれた獣の顎に従容と首を差し出そうとしている愚かな娘たちの到来を待っている。

‡ ‡ ‡


 王城は古えの様式に似せた、石造りの堅牢な建物であるが実際に古代ローマにはこのような城塞は存在せず、かつてエデンバルを建てた者たちが王の権威を示すために考案したものであった。チェスターにも、ブリタンニアに残る他の町々を見ても市を囲う壁や砦はあっても王城は存在しない。それは都市を守ろうとする者と、王を守ろうとする者との違いである。
 前後を衛視に挟まれたアニータたち一行は、王の謁見の間にまっすぐに続く柱廊に足を進めている。正門をくぐり、高い階段を昇る造りは明らかにことが起こった場合に、ここで侵入者を食い止めるためのものであろう。正門からの距離はごく短いにも関わらず、玉座はその直前まで視界に入らず周囲には衛視や多くの者たちが身を隠すことができる場所が故意に設けられている。享楽の都に生まれ育ったアニータには国を統べる者の権威よりも、むしろ王である者が酷く奥まった場所に隠れている臆病さが感じられていた。

「チェスターのプリシウス卿が名代、ご入来致します」

 門脇に立つ衛視の一人が、個性も抑揚もない声でアニータたちの到着を告げる。左右に柱の立つ広間の奥は一段高くなった階の上に玉座がしつらえてあり、樫の葉の冠を頭上に載せて手に錫を持つ高峰の支配者が腰を下ろしていた。かつてアニータやタムシンがこの場所で見た老王ダビデではなく、残酷な円形劇場や燃え上がるキャラバンに現れたファビアスの姿、新しき王ダビデ・ファビアスである。人を見下すことに慣れた視線と口調で、高峰の支配者は招かれぬ客人への蔑視も露にして玉韻を下す。

「愚昧な赤毛の女よ、お前がチェスターの使節であるなどと余は信じてはおらぬ。だがタムシンを余に差し出しに来たことは誉めてやろうではないか。お前たちの浅薄な試みなど余の興味を引くものではないが、タムシンは余のために生きていてはならぬしお前たちは生きたまま城の地下に押し込めておけばよい。今度は逃げられぬように足を切り落としておけば、牢の暮らしも悪いものではなかろう」

 傲慢な王の口調も、仕草もそれが覚えのあるデケ・ファビアスのものではなく、かつてこの場所で見た高峰の支配者ダビデのものであることをアニータやタムシンは理解した。タムシンの知るエデンバルの秘術、ブリタンニアの歴史を伝える知識の章と人に優れた力を与える肉体の章、そしてダビデだけが持つ、王が自らの後継者に秘術の真髄を伝えるという精神の章。
 外見こそデケ・ファビアスであるこの男は、ダビデの心を移した新しい高峰の支配者ダビデ・ファビアスである。自分の後継ぎを得るためだけにタムシンを捕らえて、マリレーナを害した老人の姿、エデンバルの秘術の正体が目の前にあった。

 沈黙するアニータたちの視線に、王は娘たちが秘術の目的を理解していることを悟ると鷹揚に手を広げる。意識せぬ、自然な動作であり幾代にも渡って人を支配することに慣れてきた天上のマスターによる所作であった。これだけはファビアスを思わせる、逞しい巨躯にふさわしい堂々たる声が新しい王の唇から紡がれる。

「その様子では、愚昧な者なりに余がダビデであることを理解しているようだ。左様、王が己の思想を完璧に後継者に継がせること、そのために歴代のダビデが編纂した錬金の力がエデンバルの秘術である。余からファビアスへの秘術は完了した。これからは余が高峰の支配者、世を統べるダビデである」

 秘術の章にある、知識と肉体、そして人の精神までも支配できると信じる王はすべてが彼の望みのままにあることを誇らしく思う。完全なる王が臣民を率いるエデンバルこそ、完全な世界に相応しい。

「余の愚息であったファビアスが王の思想を忠実に再現することができた時、ダビデにとって古い肉体は不要になった。メルキオルも獅子王バルタザルも、余に失望を与えたがその罪はすでに死によって償われている。故にタムシンよ、お前もお前が存在するという罪を償わねばならぬのだ。すべてはダビデの思いのままに世界は統べられる、ダビデは永遠を生きる者であり、ダビデは人と歴史を越える存在であり、ダビデは高峰から世界を睥睨するただ一人の支配者であるのだ」

 天を仰ぐ、高峰の支配者ダビデ・ファビアスはすべてが彼の望みのままであることに満足する。老境にあった肉体を捨てて若く頑健なファビアスを得て、不要となったメルキオルや獅子王バルタザルもすでに亡い。今一人、王に反意を見せた娘の血を引くタムシンも手の内にあってその取り巻きなどは論じるにも値しない。幾代を経てもすべてはダビデの思う通りに世界は統べられているが、それとても王の優れた叡智の結果であり、不断の思索と労苦によって高峰の支配者の座は支えられているのだ。
 人は彼に従わずともよいしひれ伏さずともよい。人の意思など高峰の支配者にとって問題ではないし、王が望めば人はその望みのまま王に従うしひれ伏すのである。それはダビデ・ファビアスの眼下で潰されるのを待っている赤毛の娘も同様の筈であったが、王の高説を聞いて沈黙するその顔にはダビデが望む恐懼も失望も諦念も存在していない。その様子に訝る表情を見せる高峰の支配者に向けて、アニータ・プリシウスが見せたものは軽蔑すら入り交じった確信であった。

「ばっかばかしい」

 ゆっくりと上げた両手が腰に置かれて、呆れたような息を吐き出す。実際にアニータは呆れており、ダビデ・ファビアスの権威も思想も赤毛の娘には出来の悪い冗談にしか聞こえなかった。この程度の喜劇では享楽に慣れたチェスターの者を笑わせることはできはしないし、出来の悪い冗談には悪罵が向けられるべきなのである。

「高峰の支配者だか何だか知らないけど、自分こそ秘術に支配されているだけの人形が偉そうなことを言わないでよ。永遠が欲しいなんて単に歳を取るのが怖くなった老人の戯れ言じゃないの!」

 アニータには決して理解できないし理解したいとも思わない。ただ自分の意思を後代に伝え続けるために、人の世を思うまま統べるというつまらぬ理由のために、人を嘲り顧みることがない老人の思想が。血縁も徳性も秘術を伝える条件としか考えることができない、エデンバルの秘術に対する王の固執が。

「私はね!享楽の都チェスターの者らしく、めいっぱい楽しんで歳を取らせてもらうわよ。タムシンと一緒にね!」
「アニータ?」

 勇ましく腕を振る、赤毛の娘の心からの主張にタムシンは目を向け、ダビデとファビアスは驚愕して呆然としている。この真摯な勇気と、代えがたい自信こそがアニータ・プリシウスでありそれは高峰の支配者、天上から世界を統べるマスターの前であっても変わることはないのだ。

「私は女だてらに狩猟も馬術も好きだし、詩吟や本だって好きなのよね。タムシンとは趣味が合うのよ、チェスターにだってタムシンみたいな娘はいなかったんだから。貴方は祖父だか伯父だか知らないけど、タムシンの唄がどれほど美しいかなんて知りもしないでしょう。こんなうすら寒い石壁に囲まれた場所で、いじけた秘術で遊ぶくらいなら私はハイランドの風に流れる歌声に乗って踊る時間を選ぶわ。人の心は見えず、人の声も聞こえない糞爺はさっさと墓場に帰りなさい!」

 一国の王を相手に遠慮も容赦もない、アニータの暴言にタムシンは心にかかる翼の存在を感じ、フランコは多少の礼節の必要を感じていた。奔放な赤毛の娘の意思に比べて、高峰の支配者を名乗る老人はどれほど取るに足りぬ存在であろうか。アニータを見ると高峰の支配者に何の権威も脅威も感じることができなくなる。タムシンにはアニータの友人であることが、フランコにはアニータの従者であることがダビデ・ファビアスなどという小人の思惑よりも遥かに重要なことであった。

 その高峰の支配者ダビデ・ファビアスの驚愕は理解を超えた恐怖に変わっている。人の世界を統べるマスターである王にとっては反意を示すことすら許しがたい罪悪であり、かつてそれを見せた王の娘は、タムシンの母は塩辛のように刻まれて無惨な血袋と化していた。タムシンも一度はエデンバルを逃れていたが、今こうして王の望みのままに処分されるべく姿を現している。すべてダビデの望むままの結末がもたらされる、そのダビデを何故この娘は嘲弄するというのか。嘲弄は強者にのみ与えられた権利であって、高峰の支配者ダビデはただ一人の強者であるというのに。

「女・・・そうだこの女は狂っているに違いない。余が自ら懲罰してやろう、首と胴を別々に切り離してな!」

 それが恐れであることに気付かぬまま勢いよく玉座を立ち上がる王は、瞳が散大した表情で腰の剣に手をかける。狂人の妄言に惑わされることなく、現実を見れば恐れるものは何もない。叡智は暗闇を照らすただ一つの灯火であって、エデンバルの王はただ一つの叡智を持つ高峰の支配者であるのだから。
 ファビアスの巨躯を持つ王は自ら剣を抜くとやおら足を踏み出すが、タムシンも彼女の剣を抜くと王とアニータの間に立ちはだかった。帯剣のまま王に謁見が許されていた、その幸運は彼らがチェスターの特使を名乗ったためか王の傲慢のためであったか、あるいはレイモンドの暗躍のためであったのかは分からない。だがタムシンの剣は彼女のアニータを守るための剣であり、アニータのためにタムシンは無敵の戦士になることができるのだ。

「来なさい!高峰の支配者ダビデよ、貴方の時間はここで終わりとなるのだから!」

 その言葉と同時に放たれる一閃が打ちかかるが、王の剣もまた正確な軌跡でタムシンの斬撃を弾くと金属を削る音が謁見の間に響き渡る。それを合図として柱廊の脇や門外に控えていた衛視たちが姿を現すと、アニータやフランコも懐に潜ませていた武器を構えた。チェスターの使節を迎える王の広間にはエデンバルの貴族の姿はなく、手に手に武器を構える衛視たちは王が誇る不死歩兵団の兵である。王の打倒を図るタムシンとアニータも、タムシンを除くべく図った王もまたこれあるに備えており双方がここで旅の決着を付けるつもりであった。
 エデンバルの王を討つという、大それた所行を試みるアニータたちはわずか三人の一行である。決死の覚悟さえあれば王を打倒できると信じる、赤毛の娘たちの愚かさが高峰の支配者には笑止でしかない。どれほどタムシンの剣の技が優れていたとしても、ダビデ・ファビアスは戦士としても最強の存在であって娘たちに望みなどありはしないのだ。だが殉教者を気取る無謀さすらも嘲る、王の耳に突然の喧噪が響くと通廊を抜けて一群の兵士たちが姿を現す。先頭に立っているのは赤き鎧を着た騎士、逃亡者レイモンドであった。

「老王ダビデの不肖の子ファビアスよ、兄殺しのデケ・ファビアスよ!かつてメルキオルを手にかけたその血塗られた手で、今度は誰を害しようというのか。我はレイモンド、老王ダビデに仕えし忠義の騎士である!エデンバルの血を流したファビアスの登極を、ダビデの意思は認めぬであろう!」

 用意していたのであろう、大見得を切って数人の兵を連れた赤き騎士が駆け込むと、ダビデが誇る不死歩兵団との間に一場の殺陣が繰り広げられる。広間の扉は手早く閉ざされて、謁見の間には高峰の支配者ダビデと打ち合うタムシンにアニータとフランコの一行、そして不死歩兵団とそれに対するレイモンドの兵士たちが入り乱れて怒号と喧噪が壁を打った。
 王を打倒するにタムシンの剣ではなく王の血を掲げ、前王ダビデに仕えたレイモンドの大義とファビアスの暴虐への反抗を謳う。大それた試みを為すのであれば利用できるものはすべて利用する、タムシンとレイモンドの、そしてファビアスの存在が王を思わぬ窮地に陥れたことをダビデは理解した。

「貴様ら!愚昧な虫どもが高峰の支配者を相手によくもこのような・・・」

 叫ぶダビデの声も肉体もファビアスのものである。常人ならば七度は命を落としているであろう斬撃もタムシンは獣の剽悍さでその全てを弾き、反撃に繰り出される一閃がダビデに自由な振る舞いを許さない。例え秘術を施していても、人間であれば変えることのできぬ五感の限界の外から計算され尽くした軌跡が咽や頚を狙うが、一撃として互いの身を掠めることもできずにいた。それでも思わぬ反抗に会いながら、非力なタムシンの剣がダビデ・ファビアスを驚嘆させる技を見せてなお王は自己の優位と勝利を確信して揺らぐことがない。武器を持った不平分子風情がどれほどいたところで、不死歩兵団に抗することができぬことをダビデは知っていた。
 戦いながら、打ち、突き、薙ぎ払いながらも、柱廊の影を躍り出る不死歩兵団が不逞な輩を迎え討つ様を高峰の支配者ダビデは遠望している。殺されてもしばらくは死なない、王を守る兵はエデンバルの秘術を施された精鋭である。精神をも支配するエデンバルの秘術の恩恵を受けた兵が王に反意を抱くことはなく、故に煽動された不平分子の中に無敵の不死歩兵団の者はいない。たちまちのうちに数人が倒されると王の衛視たちも傷を受けるが、彼らは首が半分ほど飛ぶ程度の傷であれば平然として王を守り続けるのだ。

 歴然とした劣勢に赤毛の娘やその従者は、レイモンドらの後ろに逃れると手にしていた石弓を構えて矢を放つが同じことである。胸板に突き立つ太矢を受けても、王の兵士は痛みも恐怖もなく前進するが不意にその動きが鈍くなると糸が切れたようになり、人形の様相で豪華な敷布に崩れ落ちた。王の不審と驚愕が理解に変わったのは、一瞬を経てのことである。

「これは!タムシンの術であるか!」

 無論、アニータは王が連れている不死歩兵団のことを知っている。そしてエデンバルの秘術を災いとする術、王が秘術をただ一人占めようとする理由をタムシンは知っていた。秘術を受けていてもその知識がない不死歩兵団は太矢に流れる液体の正体を知らず、たとえ理解したとしても痛みも恐怖も知らぬ兵士たちは矢を避けることなど考えもしない。
 不死歩兵団は強くなければならぬ、だが王より強くあってはならぬ。王ならばそう考えるだろう。そして死なぬことが強さである彼らは敵の攻撃を避けるのではなく、攻撃を受けた上で敵を倒す技だけを学ぶのだ。アニータの矢は王に当てることができずとも、矢を避けぬ不死歩兵団には容易に当てることができる。軽快に赤毛を弾ませるアニータは石弓の背を折って弦を張り直し、次の矢をつがえながらも高峰の支配者に罵りの矢を放つ。

「エミリウス円形劇場で言ったでしょう、貴方が卑怯者なのは知っているわよ!それとも耄碌した記憶に私の姿は残っていないのかしら、だって貴方は若々しい木瓜老人ですもの!」

「黙れ!その薄汚い口を塞がぬかこの痴れ者が!」
「あら、口を開かず喋れるなんて王様はとても器用なのね?」

 今や王が憎んでいるのはタムシン以上に赤毛の娘アニータであろう。彼女が幼い頃から喧嘩以上に口喧嘩で負けたところを見たことがないというアニータの悪口に、侮蔑にも嘲弄にも慣れていない王は心の平静を保つことができずそれは王と打ち合うタムシンに助けを与えている。確かにダビデ・ファビアスの剣は尋常ではなく、タムシンでさえもこれに耐えることは容易ではないが水鳥の姫君の姿からは平静も自信も消えることがなく、恐怖も怯懦も感じさせずその事実も王を不快にさせる。
 度重なる斬撃の音が響き、互いの剣が遂に耐えられなくなると刀身が折れて宙に砕けた。あまりの衝撃に腕に痺れを覚えたタムシンが一瞬、顔を歪めるが射るような視線は王の姿を捕らえて離さない。すかさず腰からマリレーナの短剣を抜くと、野生の狼より低い姿勢で飛びかかって空の鷲よりも鋭い一撃を狙う。濡れた刀身を持つ短剣には石弓と同じ術が施されているが、切っ先が触れる寸前の間合いで後ろに飛びすさると王は手近にある重い燭台を手に掴んで槍のように振り回した。燭台に燃える炎が床に落ちて敷布に焦げ跡を残す。

「余にかけた秘術を利用するつもりであろうが、余はその秘術を用いていることを忘れるな。か弱き虫が如何ほどの腕を持とうと、虫は所詮虫である!わずかなりと高峰の支配者に傷を付けること叶わぬのだ!」

 懐に手を入れたダビデは一掴みの黄色い粉を取り出すと、鼻孔から大きく吸い込む。こめかみに太い血管が浮き上がり、瞳がより一層散大して口角には泡が漏れていた。王がタムシンから離れたと見て、幾本かの石弓の太矢が一斉に放たれるがダビデ・ファビアスは軽く身をひねるだけでこれをすべてかわしてしまう。虚しく背後に突き立つ矢に一瞥もくれず、重さのない羽根のように燭台を振り回した王の顔に禍々しい笑みが浮かぶ。どれほどタムシンの技が優れていたとしてもそれは人間の範疇に収まっているが、真に秘術を極めた高峰の支配者は一時であれ、人間を超えることができるのだ。
 王の力とその危険を一瞬で理解したタムシンは、身体がきしるほどの低い跳躍を見せると、俊速の動きで戦いを決める短剣の切っ先を突き出す。だがマリレーナの刃は王の身に突き立つことはなく、必殺の間合いもかわされると跳ね上げるように振り上げられた燭台の一撃がタムシンの右腕を下からへし折った。ありえない方向に曲がる腕を抑えて、タムシンの悲鳴が広間に響く。

「タムシン!タムシーン!」
「これが剣であれば腕ごと切り落としていたな、幸運に思え」

 アニータの声に侮蔑と嘲弄を返して、ダビデ・ファビアスは残酷な満足感を感じていた。これこそが高峰の支配者に許された、強者のみに相応しい権利である。ダビデは絶望したタムシンを潰すためにことさらゆっくりと燭台を振り上げるが、不意に背後から迫る気配を感じて身をかわすと、タムシンのものと同じ短剣を構えたアニータが傍らを過ぎてよろめき倒れる姿が目に入った。健気な友情とやらがなせる業であろう、殺されるために現れると無様に床に転がっている愚昧な二人の娘の姿に、王は心からの満足を覚える。

「友情とは麗しいものだな。美しい自己満足の姿に、余は涙すら浮かべたくなるぞ」

 残酷な王の足下には右腕を折られたタムシンと無様に倒れるアニータ、そして液体に濡れ光る短剣の一本がまるで世界を統べる高峰の支配者に平伏するかのように転がっている。娘たちを仲良く潰れた血袋に変えようと、再び重い燭台を振り上げたダビデはふと心づいてそれを脇に置いた。
 王の目の前にはタムシンが落とした短剣が落ちており、その刃が濡れ光っているのは、エデンバルの秘術に災いをもたらすタムシンの術であったろう。それが王の肉に突き立てられればあるいはすべてを変えることができたかもしれないが、今は娘たちの絶望とダビデ・ファビアスの未来のみしかこの短剣には残されてはいないのだ。

「そうだな、どうせならお前の短剣で殺してやろう。余に突き立てる筈であったお前の短剣でな!」

 手を伸ばして王は短剣を拾うが、途端に刺すような感覚を覚えると悲鳴を上げてそれを取り落とす。ダビデが手を伸ばした短剣はタムシンのものではなくアニータが転がしていたものであり、柄に細工がされて薄い刃が仕込まれていた。タムシンはたとえ腕が折れたところで、王を倒すマリレーナの短剣を手放したりはしない。刃を通して流れるごくわずかな液体と、それ以上に高峰の支配者が欺かれた驚愕と崩壊する未来への絶望とが王の動きを止めてアニータに結末を確信させる。くだらない秘術よりも、ジプシーの手品がどれだけ役に立つかを王の目の前で証明してみせるのだ。

「落とし穴を見つけた者はね!穴の底にもう一つ穴が掘ってあるとは思わないものなのよ!」

 気位の高い王であれば、嘲弄する無様な獲物を前にすれば劇的なとどめを狙うであろう。アニータは自分が振り回す短剣が王に当たるとは考えてもいなかったが、ならば王に自ら毒刃を握らせればよい。奔放なジプシーの教えを受けた赤毛の娘は王からごくわずかの時間を奪い取り、アニータの賭けを理解していたタムシンにはそのわずかな時間だけで充分だった。まだ動く左手に、持ち直したマリレーナの短剣がタムシンのすべての力を乗せて一息に突き上げられる。

「王よ!人に詫びなさい!」

 王は身を翻すが間に合わない。高峰の支配者、人と世界を統べるダビデ・ファビアスの肋骨の隙き間、右の脇腹に深々とマリレーナの刃が突き刺さった。


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