ある箱庭生活者の肖像


 冬の日差しが差し込むよく晴れた日。青年はとあるオフィスビルの一角にある、日の当たるロビーに設けられたベンチに腰を下ろしていました。柔らかな窓越しの日差しは傍目にも心地よくて、日中の休み時間の間、青年が数十分間の僅かな午睡の時間を楽しんでいる事は明らかでした。
 黒髪黒目で中肉中背。社員用に与えられた個性の無い制服を着、ベンチに深く背を預けている青年は名前を田中広樹といいます。柏木グループというその巨大企業の将来有望な新人でも何でもなくて、良く言えば多少変わり者だが個性的な人物、とはいえ基本的にはその他大勢の中の一人に含まれる程度の存在と思われていました。ロビーの壁に掛けられた時計の針が12時55分の時刻を指し示したのと同時に、小さな電子音が青年の腰掛けるベンチの方から聞こえます。

(…もう時間かあ)

 腰を上げ、両の目を開いた青年の容姿が尋常なもので無い事に気付く者は多かったでしょう。青年の左の目にはセンサー内蔵の端末機がが据え付けられており、無機質な光を反射していました。生命工学技術と精密工業技術の発達したこの時代、人間は利便性を求めて自らの身体をすら改良できる能力を手に入れていました。広樹の左目は情報通信端末として、便利だからという理由で数年前に購入した物でした。今は昼寝をしていても、自由に鳴らす事のできる目覚まし時計としても重宝しているようです。
 午後の勤務に戻る為、立ち上がって歩き出そうとする青年の視界の端を警護用アンドロイドを連れた役員の一人が横切りました。入社式の時と年度毎の事業報告会の席で、芥子粒のように小さな姿を見る以外では良く知らない人物の事を、青年は然程気には留めませんでした。彼は少なくともその会社の中で、その程度の存在でしかありませんでした。


 生命工学技術と精密工業技術の発達したこの時代、便利な機械の数々が生活を覆い尽くしたこの時代において、古臭い文化や価値観は隅に追いやられつつも、それを愛する少数の人々にとってはより貴重な存在になっていました。毎日配信される電子ニュースよりもポストに投函される新聞紙を、立体映像や方位音楽で演出されるVRシナリオよりも古典的な書物を愛する人は絶える事がありませんでした。その数が少なくなっても、流通機構の発達した社会では個人の小さな望みを叶える為の事業が確立しており、人々は自分のささやかな趣味を満足させる事ができていたのです。

「蛍雪荘…ですか?」

 目の前のデスクに座している、まだ三十代の上司は黒髪黒目の青年に向かって指示を与えていました。初めて耳にする名前、その住所を聞いたところでは広樹の住んでいるアパートの近くだという以外に心当たりはありませんでした。
 衝動に支配されるアゴー、感性を重んじるソーマ、そして広樹の勤務している柏木グループを含む、理性を象徴とするハルモニア。トリニティウォーと呼ばれる三つの組織、というよりも思想による存在の対立構造があるこの世界で、数少ない絶対中立地帯となっている場所も無論幾つかは存在するのですが、蛍雪荘はその中の小さな一つとして知られているという事でした。ただし、各組識の政治的な理由によって中立地域として定められている場所に比べて、蛍雪荘はある種の結界を張る事で物理的な各組織の能力の使用が制限されている点が特殊と言えました。古びた一軒の建物とその界隈というごく狭い範囲のみの結界でなければ、その存在が取るに足りぬものとして無視されるような事は決してなかったでしょう。
 一冊の企画書と共に広樹に与えられた指示は、その蛍雪荘に集まる人間に接触する事で、他勢力の情報を収集するというものでした。黒髪黒目のこの青年が情報収集能力やその分析能力においては確かに非凡なものを有している事を、彼の上司はおそらく理解していました。ただし、その指示が一見深刻なものではない事を示すかのように最後にこう付け加えられました。

「まあ難しく考える事は無い。情報収集などどこの勢力でもやっている事だし、潜入などという大仰な行動を取らんでも、休みの日に近所の人間として普通に接触してくれればいいんだ。どうせ家にいてもする事など無いんだろう?」

 上司の言葉は広樹には不本意なものでしたが、それが事実を的確に指摘しているという事がまた不本意であり不愉快でした。不毛な反論をする事を諦め、せいぜい素直に指示を受けるとその日は通常勤務の為に自分の席に戻りました。


 そこにあった一軒の、古びた安普請としか称しようのない建物。ここ蛍雪荘に青年が足繁く通うようになった原因は、建物同様に古びた書庫に収められていた膨大な書物の数々を見つけたからに他ありません。そしてそれが、幾人かの人と人との関わりに影響を及ぼす事になる事は、
 それが人と人との関わりである限りは当然の事であったでしょう。

おしまい

他のお話を聞く