ある箱庭生活者の肖像
対立する三概念とそれに所属する勢力が常に自分たちの思想と能力によって世界が導かれることを欲しているこの世界。トリニティウォーと呼ばれる対立構造の中で、人々は自らが選択できるだけの範囲の中で自由では気ままな存在として生きることを許されていました。たいていの人々は社会の枠の中でのみ生きることを無意識のうちに強要されていますが、見えない枠を作っている社会よりもそこに住む人々の方が遥かにしたたかでしぶとく、そしてたとえ社会が崩壊しても人々は生き残るだけの生命力を有していました。
黒髪黒目で中肉中背のその青年もまた、そんな社会の枠組みの中でしたたかにかつ平凡に生きている人間の一人でした。田中広樹、柏木グループに所属する社員として、彼が絶対中立地帯として知られるここ蛍雪荘に情報収集の為に訪れるようになったのはごく最近の事でした。
蛍雪荘。格別広い敷地に建てられた、古びた一軒のアパートはトリニティウォーから外れた絶対中立地帯として、一部の人々には知られていました。各勢力の持つ能力や特性が結界によって物理的に弱められるこの建物が、古びた一軒の建物の中だけの事で無ければ各勢力からの興味は一層強く、より危険なものになっていたでしょう。恐れられる程強からず、侮られる程弱くもないその結界の力によって、絶対中立地帯としての蛍雪荘は寧ろ各勢力間の情報交換の場としての存在意義を持っていました。最も、そこを訪れるしたたかな人間達が、そこまで考えているかどうかはまた別の事なのですが。
「あなたさあ…何してんの?」
「情報収集」
ウェーブのかかった金髪にメッシュの入った、派手ながら多くの異性が振り向くであろう魅力的な外見の女性が黒髪黒目の青年を見おろすように、声を掛けてきました。外光の入らない蛍雪荘の一室、紙の束が山となって積み上げられたその一室で、手元の本に目を通していた広樹はシェリル・目白の質問に顔も上げずに返事を返しました。柏木グループの社員として、他勢力の情報を集める為に絶対中立地帯であるここ蛍雪荘を訪れている筈の広樹の読んでいる本は、既に絶版になった無名の海外小説でした。無論、こういった任務と自分の立場に不忠実な輩はどこにでもいるものですが、或いはこの男がこういった方法で他人を測っている可能性について、と無駄な思考を巡らせてしまう傾向はシェリルの理性の悪い側面であったかもしれません。
もともとシェリルは背後に控えている黒髪の女性、水天宮碧瀬を案内する為にこの書庫を訪れていた訳ですが、書庫にある家具の一部になったかのように積み上げられた本に囲まれている新顔の青年の姿を見て、興味を持ち話し掛けているように碧瀬には見えていました。
「で、その本でいったい何の情報が収集できるっていうの」
「もちろん、自分の興味の為の情報だよ」
やはり本から目を離す事無く、図々しくも言い放つ青年の神経が意外に気に入ったのか、シェリルは穏やかな苦笑を浮かべると軽く両手を広げ、降参の素振りを示しました。人物鑑定の手段には人それぞれの方法がありますが、当人が以前読んでいた事もあって、たまたま青年の読んでいる本の内容を知っていたシェリルは続けて問いかけます。彼が手元の本の内容をどの程度理解しているか、それは状況を見極める為の基準としては有効な材料になるでしょう。
「じゃあ、五次元の定理は分かるわよね?」
「連続しないパラレルワールド」
簡潔な返答をして、広樹ははじめて顔を上げるとシェリルに目を向けました。その左目は異様な光を発していて、センサー機能を持つ義眼になっている事が見てとれました。物語の主題を簡潔に表現するか否か、それは物語への理解度を示す最も簡単な基準の一つでありました。相手の意図を理解して、広樹もまた苦笑に近い表情を浮かべていました。
「何か、私は疑われるような事をしていたかな?」
無駄な定理に知力を費やしている目の前の青年が、疑う以前にシェリルには興味深く見えていました。それまで後ろに控えていた碧瀬が横に入ると広樹の質問を受けて続けました。
「すみません、さっきの五次元の定理って何ですか?」
好奇心を文章として整理する事は作家として活動している碧瀬には当然の属性とも言うべき癖になっていました。陳腐なSF小説に度々見られる四次元という単語に比べ、五次元の存在についての発想は馴染みの薄いものでした。そして知らない事を知らないままで済ませる事の出来る者であれば、文筆を生業とする事は最初から無かったでしょう。
紙の上にグラフを書き表す時のように、次元とはその世界に於ける特定の地点を表す為の軸の数によって示されます。0次元は軸の存在しない一つの点、一次元は一つの軸が存在する無限の直線、そして二次元は面、三次元が空間なら四次元は時間軸の存在する空間、五次元は平行する時間軸を表す世界、六次元は平行する時間軸を表す世界が連続する状態…と思考を展開する事が可能になります。
「そして時間が時間軸の上に平行して存在する空間であるならば、等量の空間を交換する事で時間転移が可能になる、っていうのがこの小説なんだ。昔読んだんだけど、まさかまだ本の形で残っているなんて思わなかったよ」
平行する時間軸を理学ではなく文学で表現するなら、それは今の姿にならなかった筈の世界を指しているという事も出来るでしょう。この世には過去と未来以外の現在の中に、ミラージュと呼ばれる影の領域が存在し、そしてそうならなかった筈の世界もまた存在しえたのかもしれません。広樹の思いを読みとったかのように、碧瀬が呟きました。
「或いは、この建物のようにトリニティの対立概念に抵抗する世界というものも存在し得たのかもしれませんね」
トリニティウォーに縛られている幻視者たちが、望むと望まないとを別に自分達を囲む枠の存在を意識している事は間違いが無いでしょう。自分の所属する勢力に忠誠を誓う者と、そうで無い者と。そしてその枠を容易に意識する事の出来るこの建物に集まる者は、各々が考えるべき問題にいずれ直面する事になります。
敢えて戦う理由と、敢えて戦わない理由とを。
おしまい
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