ある箱庭生活者の肖像
対立する三つの概念が互いの思想と能力とによって世界が律される事を臨む世界。トリニティウォーと呼ばれるその対立構造の中で、人々は自らが選択できる範囲の中では自由で気ままな存在として生きることが許されていました。しかし、人々のしぶとさと強かさは恐らく世界のしぶとさと強かさとに勝り、その世界の中でしぶとく強かに生きるものたちの生命力はその世界の存在によるものと言うよりは、寧ろその世界の存在を利用するもの達の力であったのかもしれません。
蛍雪荘と呼ばれるその安普請、一部ではトリニティウォーに於ける絶対中立地帯として知られるその結界。歴史的に見ても中立地帯の存在意義は、対立する勢力を知る為の場として用いられる事が常でありました。その住人が独立勢力として貪欲な産業経済活動を始める例も歴史にままありますが、そこに至るにはこの小さなおんぼろの安普請では、些か説得力に欠ける所があったようにも見えます。
「…あまり安普請安普請と言わないで欲しいですね」
蛍雪荘という小さなおんぼろの安普請の廊下で独りごちたのは、この小さなおんぼろの安普請の管理人たる大友興一でした。亡き両親や祖父から、このおんぼろの安普請である蛍雪荘の…
「いいかげんしつこいです」
その管理人の立場と膨大な蔵書の所有権とを引き継いだ17歳の青年は、自分の住んでいる結界が小さくともどれだけ強力なものであるかまでは自覚していませんでした。その中ではあらゆるモナディック−各勢力に属する者たちの特殊能力−が極めて大幅に制限され、そしてそれ故に対立する筈の各勢力に属する者たちが多少は相手の腹の内を探りながらでも、共にくつろぐ事が許されていました。
古びた書庫の扉。窓の無い、頼りなく見える灯火だけによって照らされたその部屋に興一は足を踏み入れました。そこはこの蛍雪荘の中でも、サロンと並んで最も固定訪問客の多い場所でありました。真っ先に興一の目に入ってきたのは、安物の事務用スツールの上に器用に胡座をかいて座りながら本を読んでいる黒髪黒目の青年、田中広樹でした。
「…器用ですね」
「そうかい?慣れればこの方が楽なんだけどね」
本から視線を外さずに広樹。書斎の中、という性質上動きの無い時間が過ぎていきますが、それが或いは氷の下を流れる水流に気付かないようなものであるのならば、いずれ氷を溶かし去った水が氷上に立つ者を沈めてしまうのかもしれません。柏木グループから中立地帯であるこの蛍雪荘に調査に訪れた、と自称する目の前の青年がこの書庫以外の場所で活動している姿を少なくとも興一は見たことがありませんでした。彼にいったいどの程度の思惑があるのか、どれだけの思惑すらもないのかは明らかではありません。
その時、書庫の中には興一と広樹の他にも幾人かの人間がいました。女性と見間違う程の美しく長い黒髪をした青年、神足仄香が物静かに長椅子に腰掛けている横では、清楚にも見える女性、水天宮碧瀬が小さな机に向かって何やら書き物をしているように見えました。酒木みどりは装丁の掠れた医学書を本棚から抜き取ってはその中から特定の単語を探しているらしく、暫く目を通した後で隣りの本へとその手を伸ばし、また別の一隅では近江小夜子が心理学の本を興味深げに読み耽っていました。
理論と知性による管理を理想とするハルモニア、感性を重んじて環境と調和とを崇拝し自然を求めるソーマ、自由と開放を求め本能と欲求に従うアゴー。三つの勢力の中でも、流石にアゴーに属する者は少数でしたが、ハルモニアとソーマの両者が例えばこういった中立地帯で共に過ごしている事は決して不自然には見えませんでした。これは互いの勢力が争う世界における、一つのささやかな平穏の姿であったのでしょう。
(本当に、そう見えるのかい?)
(え?)
興一が聴いたように思えるその言葉、それは広樹の声のようにも思えましたが、思わず視線を向け直した先にいる黒髪黒目の青年は、先程までと変わらぬ様子で手元の本に目を落としていました。気のせいかもしれない、しかし、ソーマに属する興一は自分の感覚を単なる気のせいで済ませてしまう思考法を持ち合わせてはいませんでした。
ふと、仄香が手にしていた分厚い歴史書から顔を上げて、呟くように広樹に言葉を投げかけていました。その本はさしたる当ても無かったままに、広樹に薦められたものでしたが、人々の歴史、即ち人々の愚かな行いの記録が綴られていました。
「結局、発展も向上も歴史の上では争いの原因であるという事でしょうか」
「…」
その言葉に広樹の唇が小さく動き、言葉を紡ぎだしたような気がしましたが、興一の耳道から心には届きませんでした。
人が調和を求めて争う事は、世界を律する法則の内でも最大の矛盾を秘めたものであったでしょう。相争う何れの勢力も、破壊と殺戮のみをもって自らの理想を実現する為の手段とし、時により主体と客体が異なる点だけが違いとなっていました。ここ、蛍雪荘のように皆が共に生きる姿は単なる理想か、若しくは幻想に過ぎないのだろうか。興一がソーマの幻視者として目覚め、そしてこの結界の管理者となってより感じているこの疑問には、同時に常に不思議な違和感を彼自身に感じさせずにはいられませんでした。
興一が奇妙な違和感に捕らわれている間も、薄い氷の下を流れる水流はかき回されていました。書庫に納められている膨大な書物はそれ自体が情報と記録であり、時にはデータでさえありました。モナディックの封じられている筈のこの建物の中で、或いはそこは最もハルモニアの理に近しい場所でありました。先程の仄香の問いに対する考えを広樹が話していましたが、手元の書物から視線を離していたその目には、一種異様な光が見えるようにも思われました。センサー端末機になったその左目が放つ無機的な光に依らず、その時の広樹の目には理が満ちていました。
「…書物の最大の存在意義は人間の誤りと愚かさを忘れさせないでいてくれる事さ。原因があり、争いという結果がもたらされたのなら、それを忘れずにいる事は人々にとって必要な事ではないのかな?」
穏やかな表情で話す広樹の目に、仄香は違和感を感じていました。感じる事、それはソーマの礎でありましたが、明文化される事のないソーマの感情は時としてうつろいやすいものでもありました。例えばみどりの手にしていた医学書は知識としてそれを書き記した者以外の人々にも助けをもたらし、小夜子の手にしていた書物は、人の感情という最も強く最も弱いものの構造を、理性をもって書き記し解明を試みていたものでした。知性と理性が人々に無原則に調和と安定をもたらすとは言わない。しかし、その為の鍵として知性と理性を記し、残す事は必要にして不可欠ではないのか。
仄香の脳裏に、美しい金髪の女性が掲げる理の姿が浮かび上がりました。先程まで机に向かっていた筈の碧瀬が横たわって動かず、それが自分の姿でもある事を知った時、仄香の脳裏で何かが弾けるような音がしました。
ふと顔を上げると、先程までと変わらない蛍雪荘の書庫が目の前に広がっており、事務用のスツールの上で胡座をかいている広樹や医学書をめくっているみどり、心理学の本に読み耽っている小夜子、机に向かって書き物をしている碧瀬がいました。恐らくは仄香の生来の能力が見せた白昼夢は、奇妙なまでの現実味を伴っていました。
「…それ、私もたまに感じるよ」
仄香の様子を不審に思い、声をかけた碧瀬は彼女の見た白昼夢の話を聞いてそう答えました。時として感じる言い様のない居心地の悪さのようなもの。
考えてみれば当然の事であるのかもしれません。モナディックを封じる結界の張ってある場所で、その影響が特に顕著になるのは間違いなく感性に基づく能力を主とするソーマに属する者達であったでしょう。仄香らの疑問に答えるように広樹が話し始めましたが、その目は今度は穏やかな、しかしどこかしら深淵の暗黒を思わせるものに変わっていました。
「分からないかい?モナディックを封じる結界の中で、最もその影響を受けないのはモナディックに依らず理性と知性を頼るハルモニアに属する者達だ。ハルモニアに属する者たちはそこでの優位性を知ろうとするし、ソーマやアゴーはその特性の故に大きな制限を受け、だからこそモナディックの有効性をそこで学ぼうとする。結局は皆自分の属する勢力の為に動いているのさ。それがたとえ自分の意思に依らずともね」
小さいとはいえ結界の張られた中立地帯が各勢力に見張られていない訳が無い。だからこそ自分のように所属する勢力から送られてくる人間がいる訳で、またそういった目的の無い者でも自らの力が制限を受ける場所では、そこでの自分の生き方を、結局は自分の勢力の人間の生き方を考えてしまう。
ここ蛍雪荘に集う者はその半分が敢えて争わない理由を求める者達であり、残る半分は敢えて争うべき手段を求める者達であり得る。更にこういった結界内の者達が結託し、独立勢力として起たないとも限らない。異質な存在に対する周囲の目が透明である筈が無いではないか。
中立地帯であるが故の緊張感と違和感。仄香や碧瀬、興一が感じた感覚の正体はそこにありました。特にその結界の管理人である興一には。
「それで、広樹さんはどうするつもりなんですか?」
目の前の人間が覆し難い敵である可能性を突きつけられ、いったい如何なる対応を取るべきであるのか。明確な回答が無いのを承知で興一は問いかけ、その返答も無論明確なものではあり得ませんでした。
「私が自分の興味の為に動いているだけなら、それが満たされる限りこの世界の結末は知った事じゃない。だけど世が理によって満たされるような事になれば、人は知識を記録として残すのに多大な苦労と犠牲を払わずに済むようになるかもしれないね」
目の前のその人が、紛れもないハルモニアの者である事を改めて知った興一が書庫を出ていくのを見て、苦笑しつつ小夜子が広樹に言いました。
「ちょっと、脅かし過ぎじゃないかしら?」
「この建物に各勢力が不穏当な理由で人員を送り込んでいるのは本当だよ、私だってその一人なんだから」
「だから一応警告したって訳?それにどんな理由があるの?」
それがどのような理由か、を常に問うのはハルモニアの人間にとっては最も根本的な思考法でした。それに対する広樹の回答は、理を追求する人間としてはあまりまっとうなものとは言えなかったでしょう。
「もちろん、おもしろいからさ」
◇
敢えて問われる理由があります。敢えて問われる事もない理由があります。黒髪黒目、中肉中背のその青年に問いかけてみたならば、答えはこう返ってくることでしょう。
「全ては自分の興味のままに、とね」
おしまい
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