ある箱庭生活者の肖像


 発明王エジソンが実験と経験の繰り返しによってその名誉を得た人間であるとすれば、当時交流モーターを発明し、彼に勝るとまで言われた天才ニコラ・テスラは正に感覚によって既に彼の内にある現象を実体化する事で実力を世に知らしめた人間でした。その中には晩年研究開発の資金難によって彼の頭の中にのみ埋もれてしまったものも多く、共振と高周波とによってエネルギーと情報の全てを無線化する地球システムの構想や、彼の伝説の代名詞ともなっている殺人光線などは全て歴史の狭間に埋没してその正体は僅かな記録と記憶とによる憶測と推測の中にしか残ってはいませんでした。

 対立する三つの概念が自らの思想によって他を制しようとするトリニティウォーと呼ばれるその世界において、理性と感性と欲望、そして協力と無関心とによって思想は区分けされていました。人間の設けた卑小な分類によって人間の種類が決定されてしまうという、それは最も愚かな時代の一つであったのかもしれません。当時の人間には無論そのような意思はありませんでしたが、いずれにせよ現在の評価は現在にいない他人が行うべきものでした。現在の人間にとって重要なのは過去の結果としての現在と未来の原因としての現在でしかありませんでした。
 思想という名の力。それによって他を制するべく人々が戦う時代において、あらゆる時代に存在し得る戦わない理由を求める人間はその思想に伴う力を封じ込める手段を求めました。それは結界という形で彼等の前に現れ、その中であらゆる力はその効果を著しく減じられることになります。蛍雪荘というその安普請は古くからの所有者がトリニティウォーに用いられる力を封じる結界によって覆った建物であり、そこはごく小さな中立地帯として世界の中で特異な場所として認識されていました。

 ですが、力に慣れた人々にとっては力を抑制する力もまた力である事に代わりはありませんでした。これは、そんな力に直接関わる人々のお話です。


 その月、田中広樹が蛍雪荘の常の居場所である書庫にいなかった事を水天宮碧瀬は訝しく思っていました。その任務が理を求めるハルモニアの勢力から派遣されたスパイ任務にある事を公言している中肉中背の黒髪の青年は、碧瀬にとっては貴重な思考を示してくれる存在であると同時に、逆らいがたい人間の集団としての組織の存在を感じさせる人物でもありました。感性を重んじる碧瀬の思考は理性と欲望への協調という流れに傾きつつありましたが、それは彼女の作家としての感性と、彼女と異なる思索を持っている広樹ら蛍雪荘の人間との接触によってもたらされたものであったのかもしれません。彼女がこの結界の中で自らの所属するソーマの勢力にのみ依らない思想を持つに到ったという事実は、この蛍雪荘という安普請が各勢力にとって無視できない存在であるという事実をも声高に喧伝しているようなものでした。

(思想によって世界を律しようとする者達の瞳に、その思想が変えられるような場所がどのように映るか…)

 広樹が以前から主張していた、中立地帯であるが故の危険を彼女は感じていました。そして、この蛍雪荘がトリニティウォーに用いられる力を封じる結界によって覆われた場所であるという事実は、この安普請が各勢力にとって利用されるべき存在であるという事実を現してもいたのです。即ち、力に依らない戦いを好む人間にとって、力を封じる力は注目すべき場所であり手段であるという事、そして戦いを指導する事を好む人間程、力に依らない戦いをこそ好む人間であるという事実が存在していました。理を重んじ、システムよりも知識と知性とによって戦う事を好むハルモニアの人間は、感性に依り自然と生命を操るソーマの人間や欲望のままに自らと精神とを支配するアゴーの人間に比べて力に依る傾向の少ない者達でした。

「条件が揃いつつあるという事なの?だとしたら、彼等が謀っている事は…」

 独りごちた碧瀬の背筋を悪寒が走りました。


 蛍雪荘から少しだけ離れた所にあるアパート。そこは田中広樹の住んでいる一室がある建物でもあり、六畳二間の狭苦しい部屋の内、一方は床が抜けるのではないかと思われる程の書物で埋め尽くされていました。普段は広樹以外の他人が訪れる筈もない、淋しい男の独り暮らし部屋に、その日は客人が訪れていました。

「…そろそろ、準備が出来ますかね」

 張りのある声で呟いたのは、片桐和史という逞しい体躯と角刈りが印象的な人物でした。公安特別監査局に所属する彼はより大きな目で見ればハルモニアに所属する者であり、外見に相応しい重厚な肉体能力と知性とによって自らの思想の為に戦う者でした。技術者達が設置されたシステムの設定を行う様子を見て、部屋の主である広樹は安物の珈琲を口元に運びつつ、溜息まじりの声を和史に向けました。

「まったく、私の部屋を実験に使う事も無いだろうに」
「会社なんてそんなものですよ。柏木だろうと公安だろうと変わらんでしょう」

 皮肉っぽく答える和史に広樹は苦笑を浮かべます。柏木グループから、蛍雪荘という結界の力による中立地帯の調査を命じられた広樹は、その結界自体の効果とそこに通う人々の性質についての彼なりの報告書を上司に上げていました。会社人としてそれはごく当然の行為でしたが、広樹の公言するスパイ活動の本質から見れば報告に対するリアクションは考慮されて然るべきものであったでしょう。
 広樹の報告書に対する柏木グループの回答は、ハルモニアの技術による同質の結界の実現の実験でした。その為の場所として、報告者である広樹自身の部屋が選ばれる事になった次第です。狭い部屋の隅に小型の箱のような機械と動力が据え付けられ、幾つかの試験器による計測が行われている様は、一見したところ家電製品の工事に訪れた民間の業者程度にしか見えませんでした。
 同じ柏木グループの人間という名目で、近江小夜子もその場所を訪れていましたが、艶やかな女性を迎える部屋としては今五つくらいは劣っていたと言えるでしょう。無論、小夜子自体は名目以上に単なる好奇心で訪れていた可能性が余程高いのですが。彼女のしなやかな唇から質問の言葉が紡ぎ出されます。

「で、実験とやらは成功しそうなの?」
「恐らく無理でしょう。そう上手くは行きませんよ」

 広樹の代わりに答えたのは和史でした。広樹の方は和史の意見に返す言葉もなく、同意の意味で苦笑してみせるだけでした。
 ハルモニアの力により制御可能な結界が任意に作り出されるのなら、それはトリニティウォーの内、より物理的な争いにおいて重大な影響をもたらす要因に成り得ます。その為の研究は以前から勢力を問わず誰もが繰り返していましたし、それが上手く行った例は極少数でその少数の例も何らかの障害が伴う事が常でした。

(そう上手くは行かない、か)

 柏木グループより派遣された技術者達が行っている実験の様子を見ながら、広樹は安物の珈琲を入れ直す為に散らかった台所へと向かいました。


 日が暮れる頃、技術者達が帰って暫くしてから、碧瀬は深守咲螺を連れて広樹の住むアパートを訪れていました。ハルモニアの人間が実践する奇怪な(感性を重んじるソーマの人間には奇怪としか思えないであろう)知識を見るには、ソーマには珍しい理性や知性に深い興味を持つ咲螺の協力が必要だと思えました。客人を出迎えた広樹は、狭い部屋に押し込まれた人々に不揃いのカップに入った珈琲を提供しました。

「やれやれ、今日は千客万来だな」

 安っぽい苦さのある珈琲を口に、碧瀬は広樹に単刀直入に問いかけました。ハルモニアの力によって結界を作ろうとしたであろう試みについて。そしてそれが上手く行っても行かなくても、蛍雪荘が結界という『盾』の存在である事に対しての『矛』を持つ組織の人間達の目に映る印象について。彼女の質問にまず最初に答えたのは小夜子でした。

「結論から言えば実験は失敗。システムは何の効果も現さなかったわ」
「もっとも、あのシステムでは当然ですがね」

 続けて和史の声。部屋の隅に無造作に置かれた機械を見て、広樹もそして咲螺もその理由を正確に認識していました。動力と何らかのエネルギーの発生装置。そのシステム自体が本来の結界の発想から外れたものである事を、蛍雪荘で実際の結界に触れた人間は理解していました。和史の語を継いで、碧瀬に説明するように咲螺が話します。

「所詮、単独のシステムが発する力では結界に対抗する程の大きな力は得られないという事だよ。結界というのは封じるエネルギーを共振させて得るより大きなエネルギーによって、もとの力を封じるというものだからね」

 あらゆる力が波としての性質を持っている事は科学が発展してからの常識であり、複数の波を共振させる事によって得られるより大きな力を利用する方法は、天才ニコラ・テスラならずとも到達し得る発想の筈でした。それでは、何故広樹の部屋での実験にその方法を用いる事が無かったのか。

「結局はカモフラージュの為もあるんだけどね。何より幻視者の力を封じる結界なんてものが容易に作れるようになってしまうと、ハルモニアを含めてあらゆる組織が困ることになるからさ」

 それによって最も得をするのは誰かという事を考えた時、力を封じる結界の恩恵を最大に受けるのは、トリニティウォーの三勢力の何れにも属さない者である事が、彼等には分かっていました。『盾』は『矛』を持つ人間にとって他人に渡してはならない物であったのです。広樹の言葉に、碧瀬は自分の感じていた不安がより以上の意味を持っているという事実を突きつけられていました。
 力を持つ者は力を持つという事実だけで、それを持たない者に忌避され、恐れられる存在となる。力から身を守る為の力も無論、力である事に違いはない。蛍雪荘の結界が持つ力が何れ近い将来に、そこに住む者達にとって最大の危険になり得るであろう可能性を彼女は見せつけられ、しかもそれを否定する論拠は多くありませんでした。「これは自衛の為の武器です」という主張が武器を持たない人々に果たして通じるのだろうか。であればその武器を持つ私達は一体何をすれば良いのだろうか。

 安物の珈琲の酸味が碧瀬にはより以上に苦く感じられていました。

おしまい

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