ある箱庭生活者の肖像
中肉中背で黒髪の青年、田中広樹が属する勢力は、三つの思想が対立するトリニティウォーの中で理に属する思想の一端を示すハルモニアの一組織、柏木グループでした。そこは管理された巨大な企業グループであり、広樹はその中の一社員に過ぎず、しかもごくありきたりでとりたてて評価される程のものでもない若手社員でしかありませんでした。その能力や資質に依らず、組織に新しく補充された一人というものは余程の理由が無い限りは大勢の中の一人としてしか扱われるものではありません。無論、証明できるのは広樹がその大勢の中の一員だという事だけで、彼の能力や資質も或いは大勢の中の一つという程度のものであるのかもしれませんでした。
彼が自分の所属する小さな部課から依頼されたのは、蛍雪荘という古い安普請のアパートに関する調査でした。そこは感覚と感情とを信奉するソーマの能力によって作られた結界に覆われている以外は雑多な人々が集うありきたりの建物に過ぎなかったのですが、単なるアパートに雑多な人々が訪れる理由こそがその結界にあったのです。それはモナディックと呼ばれる各勢力の持つ能力を抑え、それによってトリニティウォーの物理的な争いを抑制してここを中立地帯としようというものでした。しかし中立地帯の意図が平和的なものであったのだとすれば、その存在は物理的な争いを抑える一方で、皮肉な事にそれを幸いとして情報による争いを増大させる結果ともなりました。能力の抑制された蛍雪荘には雑多な勢力に属する人々が集まり、集まった人々から他勢力の情報を得る事を目的とした人々が集まり、そして思想が単独の勢力から外れる事を嫌う人々もまたそこに監視の目を光らせるようになりました。平凡な安普請に過ぎない蛍雪荘の小ささこそが、そこを小さいが故に取るに足りない存在として周囲に認識させ、危ういながらささやかな安寧を約束させていました。
蛍雪荘の近くに住む広樹のアパートの一室は、独身男性の住居の例に漏れず無秩序に支配されていました。それが例え理性と知性とを信奉するハルモニアの人間であったとしても、人間の本来持つ属性というものは容易には代え難いものであったでしょう。
「独身男性の部屋が汚い事が本来の属性かねえ」
自嘲的に呟きながら、広樹は頭をかくと自分の思索に戻りました。一時期とは違って企業が社員に向ける要求は必ずしも決められた時間帯に勤務する事ではなく、期待される一定の費用対効果を上げるというものでしたから、広樹に命じられた調査は厳格な枠を設けられているものではありませんでした。休日に、時には平日の午後にでもそこを訪れ、周辺を散策し内部の人間と接触する事は公的に認められた彼の仕事でした。サラリーマンの厳しさだね、とは彼自身の述懐する所でしたが、その言動から彼が自分の現状に厳しさを感じているように見える者はどこにもいませんでした。部屋の隅に鎮座している林檎箱程度の大きさの装置は、既にうずたかく積み上げられつつある雑誌やら書類やらの中に埋もれていました。ただ、近くに散らばっているノートには何らかの計算式が書かれた図面が記されていました。
その日、広樹は真夏を前に熱気に覆われた昼日中に一階が精神科医になっている知人の居宅を訪れていました。
「それ、こないだのと同じ装置ね?」
艶やかな容姿をした近江小夜子の声に、広樹は曖昧な笑みを返していました。場所は心地よい空調の効いた院内ではなく、無論魅惑的な女主人が住んでいる2階にある私室である筈もなく、無愛想な室外機の置かれた屋上ではどう客観的に見ても女主人と工事業者の若い営業マン、という程度にしか見えませんでしたが。
それはハルモニアの理論に基づいてソーマやアゴーの力に干渉するエネルギー、一般にはエーテルとも呼ばれている質量の無い力学運動を発生させる装置であり、無線情報の誘導や動力の増幅にも用いられるものでしたが、先日結界に対抗してこれを無効化させようとする実験の為に広樹の部屋に設置されていました。小規模の力場程度で結界が封じられる筈もなく、その時は無論失敗に終わっていたのですが。
「あれより小型の物ですよ。まあ、あくまで実験の続きという事で」
「場所のレンタル代と使った電気代は貴方の部課に請求していいのよね?」
笑みを浮かべながら言う小夜子の言葉に苦笑しつつ肯きを返し、広樹は小さいながら無骨な装置の起動スイッチを入れました。その駆動音は隣りに置かれている室外機よりも遥かに小さなもので、小夜子の脳裏を鉢植え置きに丁度いいかもしれない、という考えが過ぎりました。
◇
その年は短い梅雨はどこかに消え去り、既に日差しの強い夏空が度々見られる時期になっていました。例え蒸し暑い梅雨の雨であっても水が無ければそれを欲するのは人として当然の衝動であり、水天宮碧瀬は蛍雪荘の安普請にある図書室で、深守咲螺の羽織っている季節にそぐわないコートに視線を向けつつ大友興一に話し掛けていました。
「今年は空梅雨になりますかね…本にはいいのかもしれませんけど」
「和式の木造家屋は湿気を吸いますから、この部屋の書物は心配いりませんよ」
眼鏡の奥から柔和そうな視線を覗かせる興一。まだ少年から青年に移りつつある年齢とはいえ、祖父から引き継いだこの蛍雪荘の管理者となっている彼ですが、ここに集まる雑多な人々を全て捌くには力量も何より経験も不足しているのは仕方の無い事だったでしょう。古い木造建築に人が集まる最大の理由の一つは結界の存在そのものにこそありましたが、膨大な古書を収めた大規模な図書室の存在を求めて来る者も少なくはありませんでした。無造作に積み上げられた一冊が何よりも貴重な宝財である可能性を、自身も作家である碧瀬は充分に心得ていました。
「じゃあ、やっぱりもう少し雨が欲しいところですね」
幻視者と呼ばれる特殊能力者でもある碧瀬が、小さな水蛇を召喚する法を使ったのは会話の中で無意識に水を欲した事、一緒にいる興一が同じソーマの勢力に属する者であり、モナディックの行使に気を使う必要が無かった事、そして結界のある蛍雪荘においては発動しえないモナディックの能力が却って意識されない事など幾つかの理由があったのでしょう。ですが、彼女の指先から結界に封じられて本来生じる筈の無い小さな水流の蛇が姿を現した時、その場にいた二人は事の重大さに驚きを隠し切れませんでした。蛍雪荘とその周囲を取り巻く結界の力が明らかに弱まっている事を、彼等は自らの思想に相応しく感覚によって即座に理解しました。軋む扉の開く音が聞こえ、背後から穏やかな声が響いてきました。
「…思ったより上手くいったようだね」
「田中さん、一体何をしたんですか!?」
木造の壁と天井に興一の声が響きます。通路側から差し込む照明によって逆光に見える広樹の姿は、碧瀬にはその時とても不吉なものであるかのように見えました。その言動から広樹がこの事態の原因に積極的に関わっている事は自明のものであり、説明を求める興一に対して中肉中背の青年は皮肉そうな笑みを浮かべて話し始めました。
「見ての通り、モナディックを封じる結界を逆に封じたのさ。原理は簡単なものだけどね」
「…先日言っていた共振、ですか」
「ええ、その通りですよ」
咲螺の明解な推測に答えると、広樹は興一に説明を始めました。切っ掛けは先日、広樹の部屋で使用された結界に対抗する力場を発生させる装置の存在でした。それは力も弱く、強力な結界に効果を及ぼす程の物ではありませんでした。無論それ単独である限りにおいては、であったのですが。
「あらゆる力が波の性質を持っている事は知っているだろう?複数の波は干渉して大きさを変えるから、それを同調させてやれば小さな力を組み合わせてより大きな力を生み出す事ができる訳さ」
「単純に考えて同じ二つの力の共振で√2倍までは増幅できる筈ですね」
ソーマらしからぬ、というべきか咲螺の相槌に対しては感心した視線を向けつつ、広樹は説明を続けます。結界の中心点である蛍雪荘を囲う干渉した力の波を結界の力と等しい大きさの反ベクトルを持つ正確な円形に近付ける事が出来れば、その力で結界そのものを消滅させる事ができる。広樹の思案の元になったのは、いわゆる爆縮レンズに見られる物理学の応用でした。まず蛍雪荘の結界から東西南北の十字型に、これを等距離に囲む弱い力の源を四つ設置する。更に蛍雪荘を中心にX字型に、北東、南東、北西、南西の四方向を等距離に囲む強い力の源を四つ設置する。近い四方向からの弱い力と、遠い四方向からのやや強い力の波動を干渉させ、蛍雪荘から発する結界の波動を円形に囲うマイナスの力を作用させる…。
「机上の計算だけでも、八基の機械ならαに対する約94分のαの力で蛍雪荘の結界は無効化できる筈なんだ。それも使用する力は結界ではなく、結界に干渉し得るモナディックの力で構わないから装置自体も簡単なもので済む。作られた力場はまだ不安定なものだったけど、ご覧の通りここの結界を無効化する事には成功した。それこそ装置をより小型化して数を増やして囲めば、力場をより安定させる事も出来るだろう」
「でも、こんなことって…」
呟く碧瀬の言葉に戸惑いが見えるのは、単にそれを行おうとする者がいままでいなかった事の証明でもあったのでしょう。結界が存在する事による利を考えれば、敢えてそれを消す事を思う者は少数派である筈でした。結界の存在価値は中立地帯を作る事と、情報を得る為に中立地帯に集まる事と、情報を得る為に中立地帯に集まった人間達の情報を得る事とにありました。そして最後の者達の存在こそがこの結界が存在を許されている最大の理由であり、蛍雪荘に向けられる不透明な視線の正体でもあったのです。唖然として広樹の説明を聞いていた興一も、疑問の言葉を声に出しました。
「でも何故、こんな事をしたんですか?幻視者達が協調できる世界を壊す事にどんな意味があるんですか?」
「本当にここをそんなにいい場所だと思っているのかい?」
「え?」
やや揶揄するような口調と表情の広樹に、興一の表情が変化しました。目の前にいる中肉中背の青年は相変わらず口元に皮肉そうな笑みを浮かべていましたが、その目は今は笑ってはいませんでした。
「伝え聞きだけどね、君が以前話していた言葉を知った時、私は不安に思ったんだ。『この蛍雪荘を訪れた多くの理や虚も含む幻視者で、ここの環境に耐えきれずに出ていってしまった人間は、押し潰されてしまったんじゃないかと思う』ってね。他人が耐えられずに押し潰されて出て行くような場所で協調云々を語るなんて大変な矛盾だと思わないかい?」
「そ、それは…」
それは確かにかつて興一が語った言葉であり、たとえその時は深い真意が込められていなかったにせよ、或いはそれだからこそ蛍雪荘に通う人々がそれ以外の人々より上等であるかのような選民意識を感じさせずにはいられませんでした。本来は単に結界の中という特殊な環境に対応できた人々、という意味でしか無い筈のものが、結界の中という特殊な環境にすら対応できた人々となった時、自分を適応力のある優れた人間であると思う錯覚が生まれ落ちることになります。しかもその結界自体が譲り受けられた遺産に過ぎないというのであれば、それは貴族的な傲慢さと取られても仕方の無い事であったでしょう。
「箱庭に閉じ篭った人間が箱庭の外で暮らす人間より協調性で勝る筈がない。しかし或いはそうではないかもしれない。ではその壁を取り払ってしまうのが一番手っ取り早い実験の方法では無いかと思うんだが、どうかな?どうせ私の作った力場なんてここの強力極まる結界を一時的にしか抑える事はできないし、発生装置の一つを止めてしまえば直ぐに解除される程度の代物だ。だがそれまでの間にここの人達が変わってしまうのか、それとも変わらないでいられるのか、その程度を測る事は出来るだろう」
広樹の言葉はここに集う人々の意思に対する明らかな挑戦でした。力を封じられた場所で生活する人々が、力の使い方を本当に学んでいるのか。最強の武器が最強の強さ足り得ない事をどれだけの人が認識しているのかを測る事は、非常に興味深いものでした。そして広樹の言葉の真意を正確に把握したのが碧瀬であった事は、彼女が自らの力に掛けられた制限に対してよく考え、他人との協調に関してよく考える者であった証明だったのかもしれません。本性を感性によって導き、感性を理性によって支える事の重要さを彼女は理解しつつありました。
「結界に頼らなければ協調できない程度の関係なら崩れても構わない、そういう事ですか?」
「正解」
広樹の挑戦的な言動に返した碧瀬の表情もまた挑戦的なものでした。
◇
箱庭日記と記された本。
大友興一の祖父が記したその本の内容を知る者であるシェリル・目白はしなやかな外見をした肢体を蛍雪荘の地下の一室に向けていました。その傍らに立っているのは頭を角刈りに刈り上げた骨太な壮年の男性、片桐和史でした。シェリルはこの蛍雪荘の結界を作り出した大友興一の祖父を知る数少ない女性であり、当時まだ幼かった興一以上にこの場所の事実と真実とに近しい人間とされていました。
「事実は唯一つ、この場所を中心に結界が存在する事…」
呟くようなシェリルの言葉に、同行していた和史が顔を向けました。頑健な容姿とそれに相応しい身体能力を持ちつつ、尚知性に傾倒するのはハルモニアに属する者として彼が相応しい事を示しているものであったでしょう。例え厚い木板を割る拳や丸木を折る脛があったとしても、真理に近付こうとする脳細胞の一片には及ばない筈でした。よく響くバスの効いた低い声で、シェリルの言葉に答えるように囁き返します。
「では、真実は?」
和史の質問にシェリルは表面上は返答を返さず、口元に優美な笑みを浮かべるだけでした。蛍雪荘の図書室にある膨大な蔵書を支える書庫はその地下にあり、湿気を避ける為もあって、乱雑な図書室に比べれば遥かに秩序立てて箱や棚に並べられていました。そして彼女達が今立っている場所は地下の書庫の更に地下にある一室であり、恐らくこの部屋の存在は蛍雪荘の管理人たる興一にも知らされてはいませんでした。知る為の手段として、教わる事と知ろうとする事とが全く別である事は自明でしたから、理性と知性を信奉する者としては自ら得ようとする者にこそ恩恵が与えられてしかるべきでした。
結界を抑える者の存在はシェリルにも和史にも、恐らく予想されていたものでした。誰がそれを行うかという予想は別として、更に結界の真実に到ろうとする者が誰であるのか、幾人かの顔が彼女達の脳裏を過ぎりました。舞台の上演を心待ちにする観客のような表情になると、和史は隣りに立つハルモニアの象徴のような女性に語り掛けました。
「さて、どんな判定が下されますかな」
未来を語る者は、その時はまだどこにもいませんでした。
おしまい
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