ある箱庭生活者の肖像


 その独身男性の住んでいる部屋、乱雑に積み上げられた荷物の山に混じって一冊の企画書が放り置かれていました。コピー用紙の束に無個性なワードプロセッサーの文字で記された表題には「プロジェクト・スネイク」の文字が記されており、下段には企画立案者の姓名と日付とが書かれています。その企画書が箱庭日記と対を成す存在である事を知っているのは、その部屋の居住者を含むごく一部の人間だけでした。


 世界を自らの思想によって覆う事を望む、対立する三者の争いであるトリニティウォーにおいて、理性を信奉するハルモニアと感性を重んじるソーマ、衝動を旨とするアゴーの三者の対立が流血を伴う中で、三者の協調を志す者と無関心を装う者とを合わせて世界は構成されていました。それは理想という植物の根こそが最も貪欲に人々の血を欲する事を皮肉な形で証明していたのかもしれません。
 蛍雪荘というその安普請を中心に、数十年前に張られたソーマの者による結界の力はこれらトリニティウォーに関わる者達が用いる幻視者達の異形の力、モナディックを封じる効果を持ち、作られた箱庭の中において限定された楽園を形成していました。ただ、異形の力が所詮争いにおける手段の一つでしかなく、力に対して物理的な制限を行う力が争いを制御する絶対条件足り得ない事は黒髪黒目の青年、田中広樹によって証明されていました。ですが結界の力を封じられた蛍雪荘において、確かに敢えてそれまでと異なる物理的な争いが起こる事はありませんでしたが、その事が結界が「存在していた」ことによる為か否かは別に証明される必要があったでしょう。
 いずれにしても、その争いが精神的思想的な事になれば話は別であり、力と力を制御する力に対する思想の争いはその以前から常に生じ、それは物理的な争いに劣らず激しいものだったのでしょう。

 結界を作り出した者の孫として、その存在意義を証明する事を欲した大友興一には、結果として作り上げられた幻視者の為の安息の場所の存在意義を支持する必要がありました。そして無論、彼は祖父の遺産を引き継いだだけの無能な人物ではなく、自らそれを越える結界を生み出す意志を持ち、更にその為に結界の存在の正当なるを証明しなければならなかったのです。広樹に封じられた祖父の結界を興一が直すのであれば、彼の力は祖父を越える筈でした。そして興一の望みは結界を生み出す力そのものではなくて、結界によって生み出されるエデンの園にありました。

「小さな楽園が少数の人間を救う事もまた或るべき姿ではないのですか」

 彼のそういった考えが、おそらくはシェリル・目白の影響によって得られたものであろう事は疑いありません。美麗な容姿にハルモニアの象徴を備えた彼女は、興一の祖父から引き継いだ結界の技術と思想である『箱庭日記』の書を管理していましたが、理性と知性とによって結界の存在を知ると同時に、結界が幻視者の中にあって弱き者を護りうる盾ともなっているという厳然たる事実をも支持していました。古くからシェリルと面識のある興一がその思想の影響を受けたとしても、より正確にはその思想の内にある真実の一端を自らの思想に投影したとしても不思議ではなかったでしょう。ハルモニアの者がソーマの結界を支持し、ソーマの者がその思想の影響を受けているという事実は結界が思想を越えた普遍の存在である可能性を物語ってもいるのです。

 それでも結界の存在と意義とを否定する立場に立っていた広樹は、結界という名の柵がその内に居住する者の意思に依らず、最も安易な「与えられた平和」を提供するという事実に不満を感じ、更にその者たちが自らを特権的な存在と誤認しかねない環境そのものに対して不安を感じていました。平和が必要ならそれは結界によって与えられるものではなく、人間の手によって得るべきものであった筈なのです。

「弱い者が護られるのは権利であっても義務ではないだろう?」

 環境を無原則に受け入れて与えられた結界という環境を認めるのなら、その結界が消失した環境を与えられた時に受け取ってもいいだろう。平和を嫌うのではなく、仮に平和でない状態になった時に生きられない存在に堕していく事は避けられるべきでした。
 誰だってベッドで安らぐことはあるけれど、ベッドの中だけでしか生きられない存在を目指すようなことはして欲しくない。力の制御に依らず争いが制御できるなら、それこそ力を制御する結界なんか必要ないじゃないか。広樹の主張は与えられた環境に依存する平和に対する危機感の表明でしたが、或いはその主張に関わらずその動機が不明である点が他人の忌避を買っていたかもしれません。

 そして結局、結界の技術と意義とを記した『箱庭日記』の当面の所有権は、興一でも広樹でもない思想を有した水天宮碧瀬の手に渡りました。彼女は協調とあるがままとを主張し、結界が存在し続ける事実とそれを封じた者が存在する事実、そして人々が自らの思惑に従って動き、且つあるがままの『箱庭日記』の存在に誰も触れ得ない事を望みました。それが『箱庭日記』の所有者となった彼女の権利であり、その所有権は自ら望むものに与えられるというのがこの本を記し、結界を作り出した者すなわち大友興一の祖父の遺志でした。そしてもっとも早く、最も強い意志をその本に対して示したのが碧瀬だったのです。それは彼女が興一と広樹の双方の思想に自らの思想を対抗させる事に成功したという事でもありました。
 今、蛍雪荘の結界は解かれていましたが、その内に住む者は自らの意思によって互いの存在を承認し更にはそれまで結界によってモナディックの能力が封じられていたアゴーの者もより自然に生活を始められるようになりました。

 結界の力が失われた蛍雪荘では、それまで結界の束縛を感じながら虚ろっていた淵乃屋逆が結界の束縛を感じずに虚ろう事ができるようになっていました。目に見える行動が変わらないならそれはイークォルである、という数式は人間の思想を以て対立する者に受け入れられる事はありません。ウェーブのかかった長髪を揺らしつつ、彼女は確かにそれまでと同じく蛍雪荘とその周辺をさまよいながら、それまで存在した結界の束縛にもその心に潜むハイツマンの悪魔の束縛にも従う事はなく、自らの意思による自由を楽しんでいました。

 アゴーの者は旧来の幻視者の意味であるパラノイアとしての性質を最も強く現している者達であり、彼等は最も明確な個人を持っている存在であると同時に、環境の影響を最も受けやすい存在でもありました。例えば黒衣に身を包んだ源玲歌は、肌を焼く光りの差し込まない闇に閉ざされた一室で、自らの所在を明らかにする為の歌を奏で続けていましたが、旋律のみが空気を震えさせる闇の中に在る彼女の感覚は、数mを離れた場所で落ちる一本の針の音すらも認識できるほどに研ぎすまされていました。その彼女にとって結界の束縛は自らを護る壁でありながらも、自らを高く囲む壁でもあったことでしょう。護られるという事は、それを護る者の優位性を示すというどうしようもない真理が働くという事でもありました。

 結界は確かに一部の人間の本質を束縛し、それが存在しない状態でも思想が共存できるという結論を証明しましたが、一方でこれらの事実に到る為の要因は結界の存在によって得られたものであり、或いは「結界が」ではなく「制御出来る結界が」人の共存を可能にするのではないかという仮定も考え得るのです。そして平行する思想に対し、その時の環境を支持しそれに合わせる思想を模索する事を望んだのが碧瀬でした。

「一つの思想に縛られるのではなく、環境に相応しい思想を用いる事」

 それが彼女のトリニティウォーへの回答でした。


 今となっては広樹に与えられたスネイク計画が立案・企画された日はその企画書に記された日付でしか推測する事はできません。それが箱庭日記が完成した遥か後であった事だけは間違いが無く、蛍雪荘の結界に対してハルモニアに所属する柏木グループの一部の人間が創案したものとして後に記録される事になります。但し、本来のスネイク計画の存在自体はトリニティウォーの開始とほぼ時期を等しくして発生し、思想の対立を支える力に対するそれを抑える力、及びそれらの力がもたらす思想への影響を測るためにその骨子が考え出されました。

「斯くして貴方の任務は無事終了した、という訳ね」
「恐縮です。色々協力頂いて感謝してますよ」

 散らかった独身男性の居室。美貌の女性を迎えるには今五つほど格式に不足しているその部屋で、広樹は安物のコーヒーカップに満たされた安物の珈琲を挟んで近江小夜子と話をしていました。柏木グループより与えられたプロジェクト・スネイクの企画書。曰く、エデンの園に住むアダムとイヴに禁断の果実を食べさせた蛇の如く、箱庭の中でモナディックを封じられた幻視者達にそれを越える思想を生み出す事が出来るかどうかの実験を行う事がその内容となっていました。
 楽園は人間を安全に生き延びさせる為の温室であり、温室の花はいずれ野に植え替えなければ自然に根づく事はない。その為に箱庭という名の楽園にある人々に禁断の果実を食させ、トリニティウォーの外で生きるための強い種子を探す事がプロジェクトの目的となる。

 力に頼り結界の存在に耐えられない者。
 力を制せず結界に頼らざるを得ない者。
 力が及ばずに結界の安逸を破れ得ぬ者。

 それらを越えて力を制し結界が無くとも生きていける者を生み出す事がスネイク計画の目的であり、アダムとイヴが生み出したエデンの種子だったのです。

「でもよくこんな任務を引き受けたわね?」
「まあ、所詮は私もサラリーマンですから。もっともこいつの話を聞いたのは蛍雪荘に来るようになって暫くしてからの事で、最初から知っていたら多分引き受けていなかったと思いますけどね」

 トリニティウォーで混乱し、疲弊する世界を愁う『神様』になろうと思った者が柏木グループには存在し、その神様である組織は個人を救う方法ではなく、少数の犠牲によってより多くの人々を救うマキアベリの論理に従ってスネイク計画を立案しました。

「エデンの園である箱庭日記に、それを脱出させるスネイク計画か…最初から承知している貴方はともかく、興一君には貧乏くじを引かせた事になるんじゃないかしら」
「大丈夫ですよ。彼ならいずれ自分の力で新しいエデンの園を作り出すでしょうし、その時はそこから新たな別の種子も生まれるでしょう」
「そうして歴史は繰り返される、という訳ね。じゃあその時の蛇は…あ、もしかして貴方」

 何かに思い至った表情になる小夜子に、苦笑を返しながら広樹が答えます。

「ええ。一度知ってしまった者には同じ配役は回ってこない。新しいエデン計画を別の者に託す為にも、おそらく興一君の祖父は結界を作った後でそれを他人に託さなければならなかった。それも計画に思い至らない別の世代の人間にね。だから私もじきに本社に呼び戻されて、どこか地方に転勤になる筈です。近江さんも私の話は聞かなかった事にしておいて下さいよ」

 任務に成功すればそれを知る者として地方送り、失敗すれば誰も破る事の出来なかった楽園で安楽に本を読み耽る生活が許される。目の前の黒髪黒目の青年が後者の結末を望んでいた事を小夜子は知っていましたが、それは楽園の人々が外で生きる能力を失う事を意味していましたし、職業人としての彼の責任感は自らの任務を放棄する事を由とはしなかったでしょう。不器用なサラリーマンに表情を和らげた小夜子が、広樹に問いかけます。

「二つだけ聞いていいかしら…スネイク計画って蛍雪荘以外の場所でも行われているの?」
「知っているだけでも国や地域を問わずやってるみたいですね。ただ箱庭の全てがスネイク計画に到る訳じゃないですし、それとは別の原因で設立した中立地帯もあると思いますよ」
「成る程…じゃあ、最後に一つ」
「何ですか?」
「送別会はいつにしたらいい?」

 せめてささやかな宴を催すのが、この際は小夜子の精一杯の慰労の表現でありました。


 送別会が行われるとして、それは柏木グループの中で行われる事になるでしょう。部課が異なるとはいえ、小夜子がそれに出るのは難しいことではありませんでしたし、シェリルや片桐和史のようなハルモニアの者も多少のつてを辿って別れの挨拶を交わすくらいの事はできました。ですが彼が自ら破壊した楽園である蛍雪荘に戻ることはもうできませんでしたし、既に自らの力で新たな楽園の設立に挑もうとしている興一と会う訳にもいかなかったでしょう。役の終わった俳優は舞台袖に早々に引き上げるべきでしたから。

 能力を使えない環境によって能力の本質を知らせる事。それが誰も読むことのなかった『箱庭日記』に記された結界の目的であり、能力を知った者を環境から追い出し自立させる事がプロジェクト・スネイク、スネイク計画の真実の目的でありました。大友興一の祖父が結界を生み出した時にこの計画の全てが既に存在していたのかどうかは分かりませんが、何れの場合でも、彼はそれを箱庭日記に記す訳にはいかなかったでしょう。

「で、これを記念に貴女に渡してくださいってさ」
「広樹さんが…そうですか」

 広樹にとっての碧瀬は互いの思想と立場とを越えた教師と生徒のような関係だったのかもしれません。この優秀な生徒はろくでなしの教師が大した説明もなく提示した課題に充分満足のいく回答を示し、自らの回答を証明する為に行動するだけの能力を有していました。碧瀬が小夜子から既に不要となったスネイク計画の企画書を渡された時、黒髪黒目の青年は既に安アパートに借りていた部屋を引き払い、その行方は遂に誰に聞いても分かりませんでした。

『貴女の到った思想こそがプロジェクト・スネイクの目的である』

 師匠に一人前として認められた弟子のような心境で、碧瀬は企画書の最終ページ、広樹の直筆で書かれた一文に目を通していました。彼女は自らの意思を持つことでトリニティウォーに束縛されない者であり、その碧瀬に広樹のような人間の存在は必要ない筈だったのです。大友興一は祖父の作った結界を越える、より楽園に近しい結界を作るであろうし、そこでは幾人かの幻視者が確実に救われ、そしていずれ新たな蛇が訪れてトリニティウォーに縛られない新しい種子を産み落としていくのでしょう。

「ずるいですよね、広樹さんは」
「…そうね。結局は貴女に押しつけて逃げてる訳だから、ね」
「それも、ありますけどね」

 敷かれたレールの上を好き好んで、自分の意思で歩いて去っていったその人の事を、碧瀬は暫くは忘れる事はできないだろうと思いました。そして結局韜晦し続けて本心を語ってはくれなかった年上の友人が、自らの箱庭での生活の肖像を残そうとしなかった、その臆病さが彼女には愛しくも痛ましくも思えました。彼の望みは、いずれ忘れ去られる事にある事を碧瀬は理解していましたから。

(…お世話になりました)

 まだ、箱庭日記は続きます。

 一つの種子を生み出して。

おしまい

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