ある箱庭生活者の肖像
箱庭での生活。その場所を中心にして幻視者たちの力が抑制されている、その場所に集う人々はその場所を称して結界と呼びました。
トリニティウォー。対立する三つの思想、理性を司るハルモニア、感性を象徴するソーマ、そして衝動に支配されるアゴーが相争うその世界において、結界はその物理的な争いの力を抑制する効果をもっていました。ですが、人間の社会で対立する原因が常に力になく思想にこそあることは歴史の常でしたから、結界の抑止力によってその争いが解消されることは決して無く、もしあるとすればそれは結界に依らず別の原因によるものであったでしょう。
三つの思想による対立が争いにまで発展しているこの世界において、特に単一の思想に傾倒する人々を称してそれは幻視者と呼ばれていました。幻視者たちは時として力により、武器により、そして自らの思想によって他者と争い決して飽きることが無かったのです。しかし、飽きることが無かったのはあくまでも幻視者たちであって、幻視者たちの中にある個人には人を導くべき思想が人に血を流させているという矛盾に疲れている者も多く存在しました。結界は疲れた者たちのために用意され、それは飛び続けた猛禽がひとたび翼を休めるための止まり木ともなりましたが、血を流して飛び続ける幻視者にとっても、血を流すことを躊躇い翼を休める幻視者にとってもその木は永きやすらぎを得るに相応しい場所ではなかったでしょう。
>貴方は誰ですか?
中肉中背、黒髪黒目の青年が住んでいた安アパートの部屋を引き払ったのはつい先日のことです。それに伴い、その部屋に置かれていた無愛想な機械も取り除かれることになりましたが、その無愛想な機械が青年が結界を封じる為に用いた力の一つであったことは彼に関わる多くの人が知っていました。力を抑制する結界の力を更に抑制する八方向からの力の一。その撤去に伴って結界を囲うすべての装置はその役割を終え、蛍雪荘を中心とする結界はその息を吹き返したのです。
◇
目の前に建っている一軒の安普請。大友興一と名乗ったまだ若い青年がその建物の管理人であるというのは、貴方にとって少々意外な事実ではありました。古くから続く安普請の建物の管理人であれば、その者もまた建物に相応しい骨董品であるべきだと思うのは硬直ぎみでも自然な思考であったかもしれません。興一がこの蛍雪荘を建てた管理人の孫であり、ここに結界を作り出した人物の孫でもある事を聞いて貴方は得心しましたが、確かな事はここが都心に近い立地条件にありながら閑静な住宅地でもあるという、小さな島国の住民には極めて贅沢な場所に建てられていました。先日も、その場所に高速道路を建てるという計画が挙げられましたが住民の強い反対にあって辛うじて却下されたというのはその青年の語ったところです。
「正直苦労したんですよ。幻視者はモナディックに依らない攻撃に弱い、って言ったのは誰だったかなんて思ったりもしましてね」
苦笑しつつ、目の前の青年は語りました。複数の勢力が共存しているかに見える蛍雪荘に向けられる周囲の目は決して透明なものではなく、特に一端の思想によって世界が塗り潰される事を望む極派の者によって幾度かの攻撃を受けた事も彼等にはありました。しかし、感性を象徴するソーマの者である以上に、世慣れぬ学生である興一にとって物理的な手段に対するよりも政治的な「攻撃」に対抗する手段と能力のカードは決して多いものではありませんでした。以前から交友のあったシェリル・目白という女性を介して公安特別監査局の片桐和史の助力を得て、住人のみならず高速道路の建設そのものを望まない周辺の住民を含めた署名と嘆願書とを公的なルートで提出させたことで、蛍雪荘への「攻撃」をどうにか退ける事にその時は成功したのです。
「荒事を用いずに片付くならその方がいいからね」
先程紹介された時、そう言っていた和史は頑健な体躯と強力無比な武術の実力とに似合わず、こういった公的な運動の専門化でありました。そしてもう一人、しなやかな外見にメッシュの入った金髪の印象的な女性であるシェリルは、情報の扱いにかけてはプロであり周辺住民からの署名をシステムによって迅速且つ正確に、更に大量に集めてデータとしていました。周辺住民の有権者のうち72%から集められたアンケート結果の内、高速道路建設賛成が12%、反対が81%というのは公僕を説得するには充分な材料でした。
結局、ソーマの者である興一はハルモニアの協力によって事を解決することができたのですが、問題を解決するにおいて理性的な行動こそが最も効率的な解法を導き出すという事は真理ではありました。興一の案内を受けて、貴方は或いは解体される筈であったかもしれない蛍雪荘の安普請の曲がりくねった通路を、自分に割り当てられる部屋に向かって歩いていました。
「あら、貴方新入りね?」
呼びかけられた声に振り向いた先に立っていたのは、端麗な白衣の女性でした。彼女は酒木みどりと名乗り、戸惑う貴方を値踏みをするかのような視線でひとしきり眺めた後、片手を上げて立ち去りました。仮に貴方がハルモニアの者であれば彼女の瞳に宿る理性の光に気づいたでしょうけれど、そうでなければ同時に幻視者特有の危険な光が臨海寸前の水位で漂っていることも見てとれたでしょう。彼女が医術を旨とする者である事を貴方はすぐに知る事になりますが、それは思い知らされる事になると表現した方が或いは正しかったのかもしれません。
若々しい外見に似合わず、既に相応の年齢の娘がいるというみどりはこの蛍雪荘で子供達の扱いが出来る数少ない人間の一人でもありました。トリニティウォーによって築かれたバランスによって律されているこの世界に於いて、一極の思想を体現する幻視者はその子らにとっては決して優れた教育者では有り得なかったと言えるでしょう。一極は他の極を支配する事を望み、その子らはその片寄りを教えとして受けるのですから、既に決められている思想に従う事だけを教えられた者は疑問を持たぬ者として個人を喪失するだけでした。そういった幻視者達の中でみどりは明らかに異端に属する者であり、それだけに思想のバランスを取る事も可能だったのです。そして、この蛍雪荘はそういった異端の者が多く共存する場所でした。
遊ぶ子供たち。その子らに教育とそして環境を提供する事は周囲の大人たちの責任でもありました。幻視者によって成る世界ではその一極の思想によって個人を塗り潰してしまう者もまた多くありましたが、そうでない者はその子らに幻視者がその社会に於ける特別な存在ではないという事、或いは誰もが個人という特別な存在であるという事を教える必要があったのでしょう。
少ない荷物を部屋に放り置いた後で、階下に降りていった貴方はその一室が異様な暗さに覆われている事に気が付きました。黒髪黒目のその少女、源玲歌は繊細というよりは脆く儚い者にしか見えず、実際彼女は光によってさえその身を焼かれる者であり、そのような彼女は事実として闇に生きざるを得ませんでした。闇の中で研ぎ澄まされ過ぎた感覚は少女を幻視者へと誘いましたが、自らにしか見通す事の出来ない闇の中では彼女は常にひとりでした。貴方がそのに響く別の子供の声を聞くまでは、ひとりであった筈でした。
「やっほー。玲歌、こんにちはなのです!」
「鈴音、いつも元気ね…」
闇に覆われた一室に響く子供の声。目を凝らすと部屋にもう一人の人影として見えた漣鈴音というその少女の声は、玲歌とは全く正反対の生命力を持っていました。本来、完全な闇の中でのみ在り続ける事が出来る少女も、光の波長を分析し、皮膚に有害となる部分だけを省いたその部屋の中で生活する事は可能でした。技術力によって作られたその部屋はハルモニア的な檻に他なりませんでしたが、少女はその中であれば自ら以外の者と向かい合う事ができたのです。足しげく鈴音の通うその部屋で、少女は確かにひとりではありませんでした。
蛍雪荘での生活。幻視者の思想が対立するトリニティウォーの世界に於いて、例えば玲歌のように自らの存在に制約を受けざるを得ない人間が安逸に暮らす事の出来る楽園は、例えそれが作られた楽園であっても楽園である事に変わりがありませんでした。争いの世界の中で、ここは貴方でさえも受け入れ、休む事の許される場所でした。一匹の蛇が禁断の果実を以て楽園の外の世界へ種子を導いたとしても、そこに楽園は已然として存在しているのです。
その日、貴方が最後に訪れたその部屋は、湿気の無いように床や壁が木板で作られた書庫でした。そこには整然と並べられた本と雑然と積み上げられた本とが見渡す限りに収められており、その量は全ての本を閲覧するだけで貴方の人生の半分が費やされるであろう程度のものでした。貴方がそこで出会った水天宮碧瀬という女性は清楚な中に凛とした力を秘めている瞳が印象的でしたが、最初に見たその視線は貴方に向けられた者ではなく、彼女の手にある書物に向けて落とされたものでした。その女性が今の蛍雪荘の真理の守人である事を貴方が知ったのは暫くしてからの事でしたが、しかし守人である筈の碧瀬はめったにこの蛍雪荘に居ることは無く、そして居る時は例外無くこの書庫で文字に視線を落としていました。
「…判らない事は判る人に訊くのが一番ですよ」
先程の高速道路建設の話について尋ねている時であったか、貴方に語った碧瀬のごく当たり前な言葉は不思議に深く印象に残るものでした。異なる思想と能力に依る者同士が協力し、互いの長所を活かして短所を補い合う事は有意義である筈なのに、その至極当たり前の事がトリニティウォーの世界に於いては最も困難な事だったのです。人は何と頑なな者なのだろう、という彼女の深い嘆きがその短い言葉には込められていました。
大友興一の祖父が作り出した蛍雪荘の結界は、幻視者に楽園の安逸を与えると共に三つの勢力の何れにも依らない思想を与えました。そして碧瀬が二度と再会する事のなかった「彼」の教えによって得た一つの思想に縛られない事、という思想はトリニティウォーそのものに敵対し得るアイオーンでした。
神による楽園の創造と蛇による禁断の果実への導きによって得られた真理の一端。ただ、結界の消滅とその後の復活の後にいなくなった幻視者がいたという事実もあり、それは少なくとも大友興一の祖父が作り出した今の結界が何らかの拘束を居住者に与えているのだという事の証明に他ならなかったでしょう。拘束や束縛は決して悪ではありませんが、居心地が悪くなるという事は安普請のアパートの管理人の立場としては好ましくない事であったでしょう。そして、興一にとってはそれが一番の問題でした。
やがて楽園の創造者の孫としての興一は、自らが新たな創造者となる事でより多くの人間にとっての楽園を作り出す事になるでしょう。そして、その楽園を生み出す方法と、それを生み出す心情とが記された記録こそが彼の祖父が残した一冊の「箱庭日記」でした。今、その所有は本来の所有者であった彼の祖父からハルモニアの娘たるシェリルに預けられ、そして新たな所有者となった碧瀬の意思によって誰にも見られる事はありませんでした。碧瀬はそれがただ誰に見られる事もなく在り続けることを望んでいましたが、箱庭を生み出した人物の心情はソーマの感情を越えた者である彼女には分かっていました。それは、その箱庭を破壊した人物の心情を彼女が知ることが出来たからでもあったのでしょう。
その人は、もう今はどこにもいませんでしたけれど。
◇
この箱庭の物語の語り部であるシェリルの頭上で幕は降りかけていました。貴方がやがて物語の二幕目で如何なる配役を与えられるのか、その脚本はまだどこにもなく、脚本家の孫はまだ自分の箱庭日記に一筆目を記し始めたばかりでした。そして大友興一の祖父によって書かれ、遂に誰にも読まれることのなかった箱庭日記の一幕目の脚本の末尾には、こう記されていました。
「結界を作ることで救われる者が存在するということ。だから私は結界を作った。しかし、救われた者にとって或いは私は神になってしまうのではないか。人にとって生きた神が側にあることは良いことではないというのに。であれば、私は結界を作りそして結界を作った私はいなくなるべきなのだろう。
幼い孫にまだそれを託すことはできぬであろうから、目白の娘には私の後始末を押し付けることになってしまうかもしれない。彼女は自らに与えられた名によって私の物語を語るだろう。そして何れ興一が成人した時に、自分の祖父が残した遺産についてあの子は考えるであろう。或いは私の物語を継ぐのは私の孫では無いのかもしれないが、それはそれで一向に構わない。親の業を子が継がねばならぬという法はどこにも無いのだから。だが、もしあの子が私の作り出した箱庭を見て、その不完全なるが故に自らそれを生み出そうとする時がくるのであれば。
その時、あの子もまた私の心情を知るであろう。
箱庭を生み出した者は箱庭に生きる資格を失うということを。
あの子は、私を恨むだろうか。
◇
◇
◇
さて、
これでわたくしめの語る箱庭日記、
その第一幕を降ろさせて頂きます。
それは神々の作った箱庭を破った
一匹の蛇の物語。
箱庭からこぼれおちた一粒の種子、
そして次の主なる事を目指す青年。
貴方の目の前で開演される第二幕、
しかしそれを語るは
わたくしめの役ではございません。
貴方が箱庭で如何なる者であるか、
それを語るには
わたくしめは少々知り過ぎました。
何れ語られるであろう貴方の物語、
その役は他の者に任せて
今は幕を引く事といたしましょう。
貴方の安寧なるを祈ります。
理性と知性の御名に於いて。
おしまい
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