ある箱庭生活者の肖像〜我が征くは肉の大海〜
艶やかな肌をすべる指先。ライトアップされたしなやかな肉体が躍動し、宝玉のような汗の雫が引き締められた肢体の表面を流れ落ちる。
人間たち自身の体温によって上昇した熱気の中で、荒く乱れた呼吸がそれでも規則正しく繰り返されていました。そこは、思想に依らず肉体の与える快楽こそが人々を支配しうると信じる者たちの聖地でした。
対立する三つの思想が争うトリニティウォーの世界。理性を司るハルモニアと感性を重んじるソーマ、そして衝動に支配されるアゴー。中でもそれぞれの思想に特に傾倒し、ミラージュと称される異なる世界を見、モナディックと称される異形の力を用いる者たちを総じて幻視者と呼んでいました。
長く続く争いは人の世の常であり、それが幻視者という特異な愚者同士の争いでなくとも歴史からそれが絶えたことはありませんでした。生きる為の居住地を求める者と既得の郷土を護ろうとする者との間に、自由を得ようとする者と秩序を護ろうとする者との間に、権力を欲する者と権威を欲する者との間に、或いは神を信じる者と正義を疑わない者との間に。
古くは潰れた血管が壊死を起こすまで棍棒で殴りつけ、筋肉と骨ごと剣で叩き割り、肉体の焦げる臭いが立ちこめる中で炎を放ち、内蔵まで弓矢が貫き、集落が死に絶えるまで井戸に毒を流し。近代になれば火薬で放たれた鉛の弾が大量の人の血を吸い、無差別に設けられた地雷が無差別に人間の両足を吹き飛ばし、敵の軍事施設と呼ばれる町をミサイルが破壊していました。高度に発展した人間の文明は争いの技術においても高度に発展し、大量に人を殺す技術と確実に人を殺さずに破壊する技術の向上は未だ限界を知りませんでした。
そしてトリニティウォーの世界において、ハルモニアは兵器と情報によって、ソーマは自然なる力と呼び起こされる力とを用いて、アゴーは異形と化した自らの力と手で人間を傷つけ、破壊し合っています。それがモナディックと呼ばれる力でした。
◇
蛍雪荘と呼ばれる安普請。そこを中心に張られていた、モナディックを封じる結界は一人の青年の問題提起によってひとたびは打ち消されたことがありましたが、今はもとの力を取り戻していました。モナディックに頼る者がモナディックの無い世界に絶えられない可能性があるという事を結界の存在はある程度立証していましたが、その問題提起をした青年は今は自分の役目を終えて舞台袖に引き上げてしまっています。
「敵が…来るわ」
常の威勢の良さに隠し切れぬ緊張をはらんで、メッシュの入りウェーブのかかった金髪を揺らしながらシェリル・目白が言いました。後ろに従うように控えていた幼げな少女、月島悠と共にBABEL情報サービスに所属している彼女は、迅速で正確な情報から得られる危機を察知する能力に長けていました。
「敵?ですか」
「正直、詳しく話すのも恐けがするわね」
この蛍雪荘の管理人である大友興一の訝しむ声に、金髪をかきあげつつシェリル。悠が語を継いで言うには、それはトリニティウォーを越える勢力がこの結界を求めてやってくる、その警鐘でした。幼い容姿と言動とに似合わず、かつてこの結界を封じた青年と同等の知性を持っていた悠の調査をシェリルは信頼しており、今回そのギャランホルンを鳴らしたのもこの少女でした。
「このままじゃ勝てないよ。なんとかしなきゃ!」
四方を壁に囲まれた薄暗い部屋の中では天井に据えられた強い照明だけが室内をライトアップし、彼等の存在にくっきりとした陰影を投げかけていました。そこには『敵』たちが集結し、黙々とこれから始まるであろう争いの為の準備を続けていました。その中央にいるリーダー格らしい人物が背筋を伸ばすと、力強い声で同胞に呼び掛けます。
対立する三つの思想が争うトリニティウォーの世界において、理性を司るハルモニアと感性を重んじるソーマ、衝動に支配されるアゴー。
「そしてッ…肉体に魅了されるマッスルメン(マッソーメーンと発音する)!」
ポージングビキニ一つの姿で居並ぶ、逞しすぎる肉体を露わにした男達。ライトアップされた肌は汗と汁と油とが照り返し、床に滴っては染みとなっていました。自らの思想による世界の統一を争う事がトリニティウォーなのであれば、思想に依らず肉体で支配する事を望む勢力がマッスルメンだったのです。
モナディックを封じる蛍雪荘の結界のシステムが明らかになれば、思想に傾倒する貧弱な者たちを抑えて肉体に優れるマッスルメンが世界を支配できる。それは確かにトリニティウォーを脅かし得る新たな勢力の存在でした。
◇
蛍雪荘。古くに立てられた木造の安普請には緊張の水位が高まり、臨海寸前に達していました。悠たちの報告を受けて数時間も経たない頃には、正面入口に面する道路にマッスルメンの男達が迫り来ていました。横列に並び、逞しすぎる肉体にポージングビキニ一つを身につけて、日焼けした皮膚には充分なカラーリングが施されていました。戦闘態勢万全の小麦色の敵の群れを眼下に見据え、迎撃軍も慌ただしく防備の体勢に移ります。
「しっかし…あんな格好してよく警察なりに捕まらないな」
「後ろに何らかの組織が付いているという事だろう。その辺りは君の方が詳しいのではないか?」
至極もっともなジョニー・ジョーンズの疑問に答えたのは深守咲螺でした。公安特別監査局に所属するとはいえ、専ら戦闘専門だったジョニーはただ相手の戦術的な能力に気を取られていましたが、公序良俗を乱し過ぎている男達が何の障害もなく蛍雪荘の前に立っている事実から見ると、案外敵は多くの同胞を持ち利用するだけの組織力を有しているのかもしれません。咲螺は未だ敵の戦力を測り難く思い、迂闊に先手を打つべきではないと考えていました。規則正しく居並ぶ筋肉の群れから代表らしい一人が前に出ると、声帯までが筋肉によって押し潰されているのではないかと思える低い声が辺りに響き渡ります。
『蛍雪荘の者達に告ぐ!可及的速やかに当地を去り、結界を明け渡せ。尚、一切の交渉は無用である。五分後に我々は突入を開始し、残存する者は全て実力によって排除する。言っておくが警察等への通報は無意味だ。我々には治安システムを撹乱する用意がある』
高圧的で容赦の無い布告はただ威圧するだけの目的であり、自らの力に余程の自信があるのか、或いは他者と交渉するだけの知性がもともと無いのか、咲螺の耳にはその双方に感じとれました。
非戦闘員のみ退去する時間として五分間を用い、蛍雪荘の住人の殆どは迎撃の準備に当たっています。無論、門前に居並ぶ筋肉の鎧を着込んだ男達もただ無為の時間を過ごしている訳ではありませんでした。
『では五分間の猶予の間に、我々の力を存分に堪能させてやろう』
そう叫ぶと列に戻り、男達は一斉にボディビルの基本ポーズを始めました。両腕を後頭部に廻し、腹筋を引き締めると右足を軽く前に突き出す。これだけ腹筋のカットを強調できるアブドミナルアンドサイを行う者などそうはいなかったでしょう。更に男達は統一された、流れるような動きで背を向けると腰に手を当て、亀の甲羅のように背中の筋肉を広げたバックスプレッドを炸裂させます。
ギュチッ
見る者に筋肉の収縮する音を思わせながら一拍止めて、そのまま力強く両腕を横から上げると力こぶを盛り上げ、バック・ダブルバイセップスへと移行しました。背中に浮き上がるクリスマスツリーのような形をした筋肉の筋は見事という他はありません。小難しい理屈をこねるだけの軟弱な幻視者たちでは、この肉体に対抗するのは困難であったでしょう。
更にサイドチェスト、フロント・ダブルバイセップス、フロント・ラットスプレッドへと続き、ある者は見とれ、ある者は別の感情に支配されている間に五分間という短い時間は過ぎ去ってしまいました。ウォーミングアップ代わりの基本ポーズを終了させたマッスルメン達は寒空に火照って湯気を立てている筋肉の鎧を誇らしげに身に纏い、続く一切の布告もなく正面玄関へと前進を開始、そして蛍雪荘からも迎え討つべく二人の住人が現れます。いよいよ戦いが始まろうとしていました。
「待ちな。こっから先に気持ち悪ぃもんを入れる訳には行かないぜ」
「そういう事だな。大切な生徒もいるここに貴様等のような輩は必要ない」
迫り寄る筋肉の壁に堂々と正面から対峙したのはジョニーと風守戎でした。幻視者であり、モナディックの封じられる蛍雪荘の結界の中にいるとはいえ、この二人には充分な武術の経験がありました。敢えて銃器や武器を用いて無用な血を流さずとも、ジョニーの軍隊流マーシャルアーツと戎の中国拳法は素手で敵を無力化するに充分な能力を秘めていました。
それ以上は何も言わず、基本形の半身と順歩とに構えるジョニーと戎。マッスルメンからは二人の筋肉の塊が前に出て、残りは横列のまま後ろに控えました。正面からの挑戦に正面から応える自信はその丸太のような太い腕にあるのだろうと思われましたが、ジョニーも戎も頑健な体躯は決して目の前の敵に劣っている訳ではありませんでした。
互いに言葉を交わす必要を認めず、一気に間合いを詰めると右のジャブを放つジョニー。これを相手の眉間で止め、撹乱した瞬間に複数の急所か或いは四肢の関節を狙う攻撃に移行するのが素手によるマーシャルアーツの戦い方でした。ですが筋肉の塊はジョニーの牽制に怯む色すら見せず、掴み掛かるとがっちりと身体を密着させました。不覚の声を上げるジョニーに、マッスルメンの後方、代表の男から勝ち誇る声が聞こえてきます。
「しまった…!」
「ふふふ、我々を外見だけの単なる怪力自慢だと思うなよ。モナディックに依らぬ戦いを常に想定する我等は肉体のみによる戦闘能力を高めるべく、グレコローマン式アマチュアレスリングを中心に格闘技の練習をみっちりと積んでいるのだ」
何故グレコローマン式、という疑問を浮かべる暇もなく肉体の波に飲み込まれるジョニー。元々アマレスはあらゆる格闘技の中でも唯一完全に密着した零距離状態での攻防が可能な格闘技であり、例えば柔道のような組み技系の格闘技ですら頭突きや肘、膝打ちのような反撃が可能であるのに対してアマレスの間合いで有効に戦える格闘技はアマレス以外には殆ど存在しませんでした。そして未だアマレス最強論が消えない理由もそこにこそあるのです。
「くそッ、この…うぷっ」
裏返され、折り畳まれると大変な状態にされてしまうジョニー。敵を制圧する事に恍惚の表情を浮かべているおぞましい敵の攻撃を見て仲間を救うべきか、一瞬戎は躊躇しました。そして目の前に迫る大男への反応が遅れた事は戎から余裕を奪い去り、加減を抜いた接近単打の一撃として炸裂します。冲捶が大男の鳩尾へと吸い込まれるかに見えましたが、崩れ落ちる男を見て自らの運命に一瞬安堵した事が戎の最大の失策でした。
パムスプレーによりオイルの吹き付けられた肉体は戎の必殺の一撃の軌道を僅かに逸らせ、ダメージこそ与えたものの中国拳法特有の急所への的確な一撃とはなっていませんでした。そしてプレッシャーから来る一瞬の気の弛みは戦場では常に致命の失策であり、それを二度犯した戎の手には幸運のカードは既に残ってはいませんでした。倒れながらも戎の胴体に組み付いた男はそのまま組み伏せ、巨体を預けるようにのしかかります。
「ぐああああああっ」
蹂躙される二人の戦士の姿を正視するに耐えず、二階の窓から戦況を窺っていた興一は顔を背けました。結界によってあらゆる攻撃的モナディックの封じられる蛍雪荘において、これは思った以上に手強い相手なのではないか?蛍雪荘の管理人であり現在の指揮官でもある興一の脳裏を深刻な疑問が過ぎっていました。
◇
相手が正気でないという批判をする資格はトリニティウォーの世界における幻視者には存在しません。モナディックの封じられた結界の中で肉体だけを頼りに戦うには、こちらも逞しい肉体を持つ身体能力の高い幻視者でなければならないようにも思えましたが、そのような男達は同時にマッスルメンを高揚させる餌でもありました。
精神的な屍となったジョニーと戎の骸を後に、一階に侵入を果たすと食堂を占拠するマッスルメン。既に冷蔵庫の中にはチキンブレストと赤身肉が詰め込まれ始めていました。もちろん卵の黄身は食べません。更にごっそり取り出したプロテインパウダーをローファットミルクに溶き、ミキサーでシェイクするとがぶがぶと飲み始めました。これは冗談事ではなく、相手に補給を行う橋頭堡を確保されてしまった事を意味しているのです。
板張りの床に滴り落ちる汗と汁。空調の効いていない廊下に熱気が立ち込め、体感温度を上昇させていました。言い様のない照り返しを放つマッスルメンの肉体に気の弱い者であればそれだけで正気を失ってしまいかねず、実際に幾人かの住人は気勢を削がれたかのように後退と撤退を続けています。最も勇敢な、或いは最も愚かな幾人かが頑迷に抵抗するべく二階に残っていましたが、状況は芳しくありませんでした。
「先程の戎くんの例を見ても、物理攻撃はオイルでダメージを軽減されてしまう恐れがある。何より我々には戎くんやジョニーくん以上の物理攻撃の使い手は少ないし、かといってここが多くのモナディックを封じる結界の中にあるという事情も変わらない。状況は極めて不利にあると言えるだろう」
冷静に事態の把握に努める咲螺でしたが、それを打破する方法となると困難を極めます。武器を用い、相手を打ち倒す事は正しく最後の手段であり、その方法を用いるのであれば相手も同様の兵器を持ち出す事は間違いがなく双方に死傷者が出る覚悟が必要であったでしょう。
何よりあくまでジョニーの命も戎の命も奪ってはいない敵を相手に殺戮を行うという事は、幻視者の思想が逞しいだけの肉体に敗北したという深刻な事実を意味し、彼等の存在する理由そのものを否定する事になってしまうのです。武器と兵器とが全てを解決するのであれば、幻視者の掲げる思想など必要のないものでした。
「今は一臣と那智が敵を食い止めているのであります!でも突破されるのも時間の問題なのであります」
臨時の司令部となっている二階の一室に駆け込んで来た漣鈴音は、幼いと称してよい少女で幻視者として本来のモナディックが封じられていたとはいえ、頑丈で身が軽く斥候としては申し分のない能力を持っていました。一方、迎撃に残っている三十男二人組のうち藤堂一臣は厳つい顔にマッスルメン好みの頑健な体躯を誇っていましたが、残存者の中ではジョニーや戎に並ぶ軍隊格闘術の使い手でした。日下部那智は戦闘力という点では肉体派の男達の足下にも及びませんでしたが、一臣と連携して地の利を活かしたゲリラ戦術で相手を急襲、撹乱する事で敵を分断し時間を稼いでいますが、これを打ち倒すには決定的に駒が不足しています。
「こいつは…やばいよ一臣クン。そろそろ一階を支えきれなくなる」
「…そうですね。ぼくが到らぬばかりに、すみません」
苦戦する防衛戦の状況が、鈴音達から次々と報告されてきます。本格的な対策を立てない限り戦線がすぐ至近に到達するのも時間の問題であったでしょう。
「外からの応援の連絡が来ません…かなり本格的な交通と情報の妨害がかけられているようです。小勢力の敵にこれだけの事が出来る筈はないのですが」
「もう思想が云々と言っている場合じゃないだろう。殺す気でやらないとこっちが殺られるぞ」
「それくらいならここを明け渡した方がましだろう。彼等の目的はここの占拠だけなのだから」
「そうも行きませんよ。彼等の目的はここの占拠と、『箱庭日記』にある結界の秘密の双方にある筈です。あんな連中の勢力が拡大するのを見過ごす訳にはいきません」
「脂ぎってるからいっそ火でもつけたらよく燃えるんじゃねえか?」
「この安普請まで燃えてしまうだろうな」
混乱の度を深める蛍雪荘司令部。完全に敵に先手を取られ、それを挽回する術が見い出せないまま事態だけが坂道を転がり落ちるように悪化していきました。困難な状況の中、引き続きBABELの情報収集に当たっていた悠が新たなデータに絶望的な悲鳴を上げます。
「これは…駄目だよ!藤堂サン連れ戻さないと危ない!」
◇
一臣と那智の懸命の努力も虚しく、蛍雪荘の一階は放棄されようとしていました。数人の筋肉の塊を打ち倒す事には成功していましたが、多勢に無勢という現状は如何ともし難く通路は肉の海に沈みつつありました。
そして苛烈な戦闘が突然停止し、訝る一臣と那智の前で筋肉の群れが左右に開くとマッスルメンの代表が再び現れました。他のどの男達よりもバルクアップされ、鋭すぎるカットの入った肉体は確かに芸術品のようにも見えます。二人の勇戦に敬意を示すかのように小さな拍手を贈ると、代表の男は話し始めました。
「頭でっかちの幻視者どもにしてはなかなかの戦闘能力だ。小細工を差し引いても上出来だよ」
「筋肉バカには頭を使って対抗した方がいいだろう?」
挑発する那智。言葉と演技力とによって相手を理性の淵から突き落とし、自分の意のままに踊らせるのが戦いの最上たるものです。相手の眉がぴくりと反応しますが、ただそれは那智の言葉が効を奏したというよりもその意図が知られた事によるものでした。
「挑発しようというのだろうがそうは行かぬ。我等が筋肉だけの肉体莫迦だとでも思うか」
「(ちっ…)どうだかね、たった二人にこれだけやられても言う事は御立派だな」
心中の動揺を見せない事には那智は慣れていましたから、僅かな時間稼ぎの意図も込めて挑発を続けます。たった二人の防衛戦線がこれだけ長く維持されているのは事実であり、一臣の武勇と那智の知謀の連携はマッスルメンが予測していた以上の損害を確実に与えているのです。ですが、代表の男の顔からは未だ余裕が消える様子はありませんでした。
「こちらに何も策がないと思っているのか?さあ、Mr.藤堂よ。今こそ正体を見せて我々の役に立つ時が来たのだ」
「えっ…!?」
思わず振り返る那智。アゴーならではの疑念の視線の先には、ですが意外そうな顔をした一臣がいるだけでした。身に覚えのない疑いに、慌てて弁明の語を発します。
「ぼ、ぼくは何も知りませんよ」
「あ、ああ。分かってるよ」
「…果たして本当にそうかな?」
那智の言葉を遮るようにマッスルメンの代表の声が響きます。その言葉は勝ち誇った優越感に満ちていました。
「藤堂よ。お前は確かに我々の仲間ではない。だが今も見たろう?お前は疑われているんだ。これだけ仲間の為に身体を張って献身的に戦って、だがお前はその仲間に疑われているんだぞ?偉そうな事を言っても幻視者という連中は決して仲間を信頼したりなぞしないのだ」
「ぼ、ぼくは…」
動揺する一臣。相手の意図を察した那智でしたが、それを食い止めるには原因となった那智以外の仲間がこの場に必要で、無論そんな人間はいませんでした。逞しく頑健な肉体を駆使して共に戦った仲間を疑った、アゴーならではのその思想を逆手に取られた事は那智にとっては痛恨事と言えたでしょう。マッスルメンの誘惑はまだ続きます。
「だが我々は違う。お前の強さを賞賛し、お前の美しさを素晴らしいと思う」
「ぼくが…美しい?」
「勿論だ。お前は自分の美しさに気が付いていないのか?顔の造作などではない、仲間の為に戦う心の美しさとそれを支える肉体の美しさ。そうだお前は美しいィ」
「ぼくが…美しい…」
「美しいお前には美しい我々の仲間になる資格がある。お前は選ばれた男なのだ。心の美しさと肉体の美しさを兼ねる者こそがマッスルメンなのだ。さあお前の美しさを隠す無粋な衣服など脱ぎ去って代わりに誇らしさを身に纏うのだ。我々と同じように」
一臣に差し出されるショッキングピンクのポージングビキニ。トリニティウォーの思想を越えて、仲間を増殖できるこの能力こそがマッスルメンの真の力でした。ハルモニアにもソーマにもアゴーにも、全ての思想を越えた所にマッスルメンは存在し得るのです。
防衛線は完全に崩壊し、蛍雪荘の一階はマッスルメンの手に落ちました。
◇
「駄目です!一臣が敵に寝返ったのであります!」
「遅かったか…」
絶望に支配されつつある蛍雪荘防衛司令部。思想を越える肉体によって結界は覆い尽くされようとしており、既に一階は陥落、二階にも橋頭堡を確保され、更に『箱庭日記』の隠された地下書庫への道が発見されるのも時間の問題だったでしょう。マッスルメンが地下に向かおうとした時にそれを止める為の戦力は蛍雪荘にはありませんでしたが、不幸中の幸いにしてまず建物の制圧を目指しているマッスルメンは二階に向かい、地下の聖域には手を付けていませんでした。
「じゃあ地下は無事なのか?」
「恐らく今はまだ大丈夫です。シェリルさんが居る筈ですが、ただ連絡を取る手段が…」
地下書庫の更に隠し扉の奥の部屋、そこに厳重に保管されている『箱庭日記』には結界の真実が記されているとされてましたが、その守人たるシェリルは唯一の所有者たる女性の許可なくして何者にもその閲覧を許さぬ義務を自らに課していました。恐らくは二階が制圧されればマッスルメンは地下に向かい、いずれその部屋を見つけて結界の全ては敵の手に落ちる事になるでしょう。状況を伝えるには完全に分断された中を突破せねばならず、地下の隠し部屋に無線通話を繋げられるような設備は設けられてはいませんでした。
「奴等が来ましたのです!」
鈴音の声に緊張する住人達。そこには敵を迎え討つべく集結していた者達と、逃亡の余地なく残らざるを得なかった者達とが集まっていました。源玲歌は紫外線に身を焼かれる体質の為にその場を遠く離れる事が出来ず、暗闇に生き続けてきたその鋭敏すぎる感覚はおぞましい敵の接近を誰よりも強く察知していたでしょう。
「来た…」
玲歌の呟きと廊下を軋ませる足音とが重なり、筋肉の鎧を身に纏った男達が現れました。その傍らではポージングビキニ姿になった一臣がギリシア神話の彫像のような身体でぎこちなくポーズを取っており、無残にも同じ姿にされていたジョニーや戎は蛍雪荘玄関前で精神的な屍を晒していました。
興一や咲螺を先頭に蛍雪荘の残存兵力が廊下に出て、筋肉の壁に対峙しますが一見しただけでも貧弱そうな青年達の胴回りよりも太い二の腕を持つマッスルメンとの対比は、勝敗について論じるのも莫迦莫迦しくなるようなものだったでしょう。
「…話し合いに応じて頂けますか?」
「何を今更、と言いたい所だが遺言くらいなら聞こうか」
既に手持ちのカードが尽きた状態で、最後に僅かばかりの抵抗を試みる事に興一は決めていました。これまでの情報ではマッスルメンはトリニティウォーに属さない、ハルモニアにもソーマにもアゴーにも存在し得る勢力だという事であり、逆の発想をすればそのいずれかの思想によって説得出来る可能性があるかもしれないという事を示しています。彼等が真に肉体のみに傾倒しているのでなければ、交渉の余地はあるかもしれません。
「まず、これは要望というよりもお願いです。ここには例えば紫外線に弱い体質のせいで建物の設備を使わなければ生活が困難になるような娘もいます。蛍雪荘の管理人として彼女等を追い出す事は出来ません。その事情を思って貴方達に退去していただく訳にはいきませんでしょうか?」
「安心したまえ。婦女子でも我々のような素晴らしい肉体を得る事は充分に可能だ」
そう言うと、代表の男は背後の肉体の壁から一枚のポスターを受け取り興一に差し出しました。そのグラビアには厚い胸板を持ち、六つに分かれた腹筋と逞しい力こぶを持つ筋骨隆々とした女性達の姿が写し出されていました。
後ろで見ていた鈴音は自分が筋骨隆々の玲歌を想像してしまった事に気づき、彼女の常の性格では有り得ない激しい後悔に襲われました。そして友人と同じ事を想像してしまったのか、玲歌も意識が遠のくとふらりと倒れました。マッスルメンの中でポーズを取り続けていた一臣の動きからも徐々にぎこちなさが取れ、しなやかかつ大胆で力強い動きに変わりつつあります。ソーマらしく感情に訴える誓願はどうやら効を奏しませんでした。
「ではこういう案はどうでしょう。ここの結界を作ったのは故人となった僕の祖父であり、それを多少なりとも引き継いでいるのも僕です。僕が貴方達に協力する代わりに、この場所を見逃しては下さらないでしょうか」
「取り引きか。だが結界の内容は地下にある『箱庭日記』とやらに記されているのだろう?それと共にこの建物を制圧すればお前の条件は不必要になる」
「な…!どうして地下の事を」
「同士藤堂は我々に協力的だぞ、それとも彼の存在すらお前達は忘れてしまったとでも言うのか?」
歴史的に見ても味方の内情を知る人間が寝返り敵に協力するという事は、多く戦略的敗退に直結する要因となります。傷心の一臣がマッスルメンに情報を提供したという事は想定し得ない事ではなく、またマッスルメンが情報を要求したであろう事も充分に予測し得た筈でした。アゴー的な駆け引きも失敗し、自分の迂闊さを呪った興一は舌打ちの音を立てました。
「既に我々の一部が地下室に向かっている。『箱庭日記』とやらを見せればお前達の戦意も崩壊するだろう」
◇
地下の書庫にある隠し通路を抜け、筋肉の鎧を纏った男達が自分の前に押し寄せてくるのをシェリルは緑色の冷ややかな視線で見つめていました。『箱庭日記』の守人としての彼女はその所有者たる女性以外の者にこれを渡す気はなく、自らの存在意義が果たせなければ殉教して果てる事も辞さないつもりでした。狭い通路を抜け、部屋に出ると横列に並んだ逞しいだけの男達は既に圧倒的な勝利を確信しており、余裕すら窺える威圧の声をシェリルに投げかけました。
「さあ、女。箱庭日記とやらを渡してもらおうか」
「・・・」
シェリルは直ぐには返答を返そうとはしませんでした。最も劇的な効果を狙うのであれば、最高のタイミングと最高の演出が必要になる。恐怖感と嫌悪感とを押さえ付ける為に自らの象徴たる理性を総動員して、彼女は無粋な観客を相手に演技を行っていました。充分な沈黙を置いて、ふと嘲るような顔付きになるとシェリルの声が天井の低い室内に反響しました。
「でもさあ…薬物に頼って得た肉体なんかがそんなに誇らしい訳?」
永遠にも感じる一瞬の沈黙。それが激発した感情に取って代わられるのにも正しく一瞬しか必要とはしませんでした。
「…な、何だと!我々の肉体が薬漬けだとでもいうのか!」
「だってそうでしょ?偉そうなコト言って注射一本で楽してるんじゃない」
「違う!ステロイド投入後の更なる鍛錬が我々により優れた…」
「ほーら。やっぱりクスリ漬けじゃないの」
汚らわしいモノを見るかのように軽蔑の視線を向けるシェリル。肉体に心酔するマッスルメンにとって、その肉体を侮蔑される事こそが何にも替えて耐え難い苦痛だったのです。その事にシェリルは気付いていましたがマッスルメンの男達は気付いてはいませんでした。そしてその動揺は彼等の内部に深刻な波紋を投げかける事になります。
「ふ、ふざけるな女ァ!」
「やはり…ドラッグ派はこのような偏見から免れられないのか」
そう漏らしたのはマッスルメンの中の一人でした。その言葉に周囲から殺気が立ちこめ始めます。
「貴様ナチュラル派か!そんなものはブヨブヨの身体の言い訳をする材料でしかないわ!」
「何ィ!ナチュラルを莫迦にするのか」
「フン、ナチュラルの大会がある時点で貴様等が我々に及ばない証明ではないか」
「ステロイドに頼るような連中のせいでボディビルディングはオリンピック種目に認可されないのだぞ!」
「何だとォ!」
完全に二派に分裂したマッスルメン。遂には殺気が臨海点に達し、同士討ちが始まるまでにそれほど長い時間を必要とはしませんでした。シェリルは喧噪を避けるようにして、厳重に封が施された『箱庭日記』を持ち出すと別の隠し通路から抜け出しました。
「隊長!階下で反乱です!」
「何ィ!」
未だ解決の出来ていないナチュラル派とドラッグ派との対立はマッスルメンを完全に二分しました。既に大混乱の最中にある階下では逞しいだけの男同士が争い、殴り合い、組み付いては汗と汁と油とを飛び散らせていました。アマレスを貴重として絡み合っている男達は既に自分達の行為そのものに興奮して我を忘れ、中には絡み合う事そのものに熱中している者も少なくはありませんでした。阿鼻叫喚の地獄模様を収拾するべく、隊長の怒号が蛍雪荘内に響きわたります。
「えーい!貴様等、もめるなら外でやらんか!」
◇
◇
◇
脂ぎった男達はよく燃えていました。
内部対立を収める為に一旦蛍雪荘の外に出たマッスルメンは放たれた炎の一閃によって壊滅状態にありました。黒こげになった男達は戦意を喪失し、捨て台詞を残すと退却して行きます。騒動が収束した後で残されたのは、突然の出来事に茫然自失する蛍雪荘の住人、汗と汁と油のまき散らされた建物、取り残された一臣、ポージングビキニ一つの姿で晒されているジョニーと戎、そして演出者であるシェリルでした。
「やれやれ、掃除が大変そうね」
「有り難うございます…シェリルさん。でもよくあれを追い払えましたね」
恩人に駆け寄る興一。どうやらまだ僕はこの人には及んでいないらしい、多少複雑にそう思いつつも管理人として、この建物を護ってくれたハルモニアの女性に興一は感謝せずにはいられませんでした。
「相手を挑発するには事実よりも偏見に基づいた憶測を用いるべきなのよ」
そう講義するシェリルの思想は確かに知識と情報とを操るハルモニアのものでした。こうして蛍雪荘に訪れたマッスルメン騒動は落着しましたが、問題が残ったとすればジョニーや戎、玲歌たち一部の住人が暫く心に負った傷のせいで静かにしていたという事と、一臣が時折奇態なポーズを取っては周囲に白い目で見られるようになったという事くらいだけでしょう。
◇
一枚の手紙。それがシェリル・目白のもとに届いた時点で、この物語は終幕となります。
「元気でいるかな?炎の天使よ。
この手紙が届く頃には事は全て片づいているだろうけど、柏木を主導とした幾つかの共同グループで興味深い実験の計画が立てられている事を知らせておこうと思う。
思想に依らぬ力に対して力に依らぬ思想が対抗できるか、という実験の存在を私が聞いたのは転属の辞令を受ける少し前の事だ。話を聞いたのは偶然だし、君達に教える義理はないから全てが解決した時期を選んでこの手紙を送る事にするよ。私もサラリーマンなんで、流石に実験の内容を先に外部に漏らしてしまう訳にはいかないしね。
肉体だけで思想を持たない連中が蛍雪荘の結界に挑む。その結果はこれを書いている時点では分からないけど、たぶん君達の事だから無事でいるだろう。いずれにしても蛍雪荘の特異な環境が今後も様々な実験の対象になり得るという事は理解しておいた方がいい。
上手く行く限りにおいては楽園は維持され続け、失敗すれば安逸と引き替えに楽園は失われる。何ともやるせない話だけど、私もあの場所が好きだから頑張って欲しいな。尤も、そんな事を言われなくても君達は楽園を護る天使であり続けるのだろうね。
お疲れさま、と言っておこう。それではまた会う日まで」
その手紙を読んだ後で、こめかみを押さえながらシェリルがどのような感想を持ったか、それを知る者は彼女以外にはいませんでした。
おしまい
>他のお話を聞く