ある箱庭生活者の肖像
トリニティウォー。理性を標榜するハルモニア、感性を重んじるソーマ、衝動に支配されるアゴーの対立する三つの思想が対立し、流血を呼ぶ世界。その事情が変わる事は遂にありませんでしたが、それは或いは本来の人間の属性であったのかもしれません。思想の対立が流血を呼ぶ事態など、それこそ人類の歴史において珍しいものではなかったでしょうから。古くは剣や棍棒で殴り合い、弓矢や銃弾を撃ち放ち、アンテナから流れる電波に誘導された砲弾が建物を打ち砕こうとも、その手段が変わる一方でその思想の争いは変わらずにただ技術だけが発展していました。つい最近もそういった争いの技術の結晶であるアンテナが町中に幾本か立てられ、携帯電話の普及という技術の副産物を産み落としていました。
ひとつめのことばは 夢?
源玲歌。黒く長い髪に儚げな外見を持つ少女は幼い頃より、皮膚を焼く紫外線の中では生きられなかった彼女は常に闇の中にその身を置いていなければなりませんでした。深く暗い闇の中でアゴーの思想と能力とを持つ幻視者として覚醒した彼女は、その事実によって人の中で生きる事ができずにやがてこの蛍雪荘に流れ、そしてトリニティウォーの争いの手段であるモナディックの力を封じた結界の中で暮らしていました。
彼女の皮膚を焼く光はそこにも無論差し込んではいましたが、思想の争いの枠を踏み越えたこの安普請ではハルモニアの技術によって紫外線を抑える閉ざされた環境を作る事が可能でした。薄赤い科学的な光が満ちているその部屋の中で、玲歌は初めて友人の顔を満足に見る事が叶い、友人もまた彼女の姿を見る事ができました。漣鈴音という同年代の少女は足しげく彼女の部屋に通っていましたが、玲歌と正反対に、年齢に相応しく内在する生命力の溢れ出しそうな少女が何故日課のようにこの場所を訪れているのか、本人を含め誰にも明確には分かりませんでした。なんとなく、というソーマの思想によって鈴音は支えられており、蛍雪荘では三つの思想が充分に共存し得ていました。
「玲歌…大丈夫でありますか?」
多少、奇妙な口調は鈴音の特徴でしたが、その裏に見える相手を心配する感情は誰でも変わるものではありません。数日来、少女の友人は体調の不調を訴えており、それは生来身体の弱い彼女にとっては珍しい事ではなかった一方で鈴音には不思議な違和感を感じさせていました。
「気分が悪い…頭に重たい布を被せられているような感じ」
暗闇の中で育った玲歌は人一倍感覚が鋭敏で、時には遠く離れた場所で落ちる針の音を聞き分けるほど感覚が研ぎすまされる事もありました。そして鋭いからこそ、異変に脆く弱いこともまた事実だったでしょう。ですが、そこに普段とは異なる不安めいたものを感じたのは鈴音がソーマの者である以上に、玲歌の友人であるという事実によるものだったのでしょう。
◇
近江小夜子の構えている拳銃の銃口から、消音器越しに乾いた音を立てながら銃弾が飛び散っていました。国内でも最大規模の企業グループである柏木の共用施設にあるトレーニング・ルームでひとしきり汗を流した後、汗と硝煙の臭いを消す為に温水と冷水のシャワーを交互に浴びた彼女はリフレッシュ・ルームで自分宛てに届いていたメール便のチェックを行っていました。仕事に関連するものが半分、その更に半分が企業宛てのダイレクトメール、残りは小夜子個人宛てのどうでもいいメールとどうでもよくないメールとで占められていました。
「あら?珍しい人からね…」
その中で一通、かつて蛍雪荘に足しげく通っていた青年からのメールが混じっていたのを彼女は見つけました。配属変更に伴って異動先の知れていなかった知人の所在を突き止める必要は小夜子には全くありませんでしたが、懐かしくも思える相手からのメール便は寧ろかつての蛍雪荘の知人達に向けられた内容となっていました。
小夜子がその手紙を蛍雪荘に持っていったのはその翌々日で、管理人である大友興一とその後見人のような存在であるシェリル・目白とにそれを渡したのも、彼女が差出人の意図を了承していたからであったでしょう。
「でもなんで手紙の転送なんてしたんでしょうか?」
「内容が内容だからね。直接手紙を送るのは避けたかったんじゃないかしら」
そう言った小夜子が興一に手渡した手紙には、短い挨拶の他には近況らしい文面が記されているだけでした。その本文と思われる一節にした所で、最近読んだらしい本に関する他愛のない感想のようにしか見えないものでした。
『ダーウィンフィンチに行われた選択圧の実験は実に興味深い。隔離された小島に棲んでいる黒い羽の小鳥に関する調査で提示された、進化論の概念。競争原理による自然選択と性選択の圧力が生物の進化の原動力となるというのは極めて有力な仮説で、その象徴たる嘴の形状は環境に適応して種々別々に発達してきた。もし、今後の研究によって環境と嘴の厳密な関連が明らかになれば、人間が用意した環境に適合させる事でフィンチを思うように進化させる事すら叶うのかもしれない。ただ、それには厳密なデータの収集と分析が大前提となるが、大切な事は理論よりまず実践であろう…人為的に用意された実験環境は鳥にとっては迷惑極まりないものだろうがね』
唐突にしか思えない内容が記された後で、手紙は結びの言葉で締めくくられていました。差出人の意図が分からず、興一は疑問を発します。
「これが何か?」
「わからない?ガラパゴスのフィンチ類に関する厳密なデータの収集と分析なんて何十年も前から既に行われているのよ」
「え?」
わざわざこんな本を読んでいる人間がそのことを知らない訳がない。そして隔離された小島に棲んでいる黒い羽の小鳥とそれにまつわる研究、と聞いてそこから連想されるものと、それについて記された手紙が送られてきた理由とを改めて推察すると、興一にも明確な回答が見えてきました。
「…蛍雪荘で玲歌さんに対して『実験』が行われるような動きがあるという事ですか?」
「たぶんね」
結界という特殊な環境下にある蛍雪荘が、結界の外にある勢力から様々な理由によって見張られ、研究の対象とされているという事は今に始まったことではありませんでした。実際にそれが幾つかの『実験』を伴った例もあり、その結果能力を越えた思想の原点を産み出した例や思想を越えた共存の可能性、複数の勢力が有する技術や思想を応用する方法なども発明されていましたが、当の研究の対象とされる人々にとってはそれはお世辞にも心地良い状態とは言えなかったでしょう。
「反吐が出るわね」
一歩間違えれば、ここは人体実験の為の農場となる。シェリルの呟きを興一は悪寒として感じていました。手紙の差出人には差出人なりの守っておきたいぎりぎりのモラルというものがあるらしく、如何な研究や実験であろうともやり過ぎは控えるべきだと思い、多少回りくどい方法で警鐘を発したのかもしれません。
「…あの人もこんなことしてるから異動させられるのよね」
暗示めいた内容で送られてきた手紙には具体的な資料も数値も何も記されてはいませんでしたが、不器用な知人からの気を利かせた手紙は小夜子を苦笑させました。感傷はハルモニアにとっては本来不要なものである筈でしたが手紙の差出人を動かした動機は恐らくそこにのみあり、柏木の人間も実際には柏木と戦い続けているという事だったのでしょう。
◇
蛍雪荘で実験は未だ続いていました。鈴音の心配する視線の前で、玲歌の体調は依然回復する様子を見せてはおらず、これが実験の結果であるという事は手紙に記されていた内容から推測できる一方で、その具体的な手段に関しては未だ見当もついてはいませんでした。
「玲歌ぁ、しっかりするのです」
見た所、玲歌が衰弱していたとしてもそれは致命的なものではなく、例えば熱があるでもなく寝込んでいるでもなくただ多少体調が悪いだけという程度でしたが、鈴音にとってはそれは重大なことでした。普段から大人しげな少女がいつもより大人しい程度、ではなく、彼女の目にははっきりと元気のない親しい友人の姿が映っていたのです。蛍雪荘ではその状況に心配する住人も多くいましたが、現象に対して対策を練る為には原因を突き止める必要がありました。
「といってもどうしたらいいのか」
興一は自問自答していましたが、方法としては実験の意図を推理するか、玲歌同様の鋭い感性を持つセンサーを探すか、或いは最近蛍雪荘やその周辺で行われた活動を調査するか、限られた選択肢を全て実践していくのが早いだろうと思えました。古来より人が未知の困難を克服してきた方法は理論よりも行動である場合が殆どなのです。特異な環境において感性を研ぎ澄ました玲歌の能力に迫る者として、興一が思い当たったのは神足仄香という青年の存在でした。蛍雪荘から離れた古い屋敷に一人住んでいる、美しく手入れされた長い黒髪を持つ青年は優れた霊感のようなものを持っているとされていました。外光に弱い玲歌を外に連れ廻す訳には無論行きませんでしたから、興一は屋敷まで知人を尋ねると事情を話しました。
「そうですね。最近奇妙な事というと…野良猫が増えた事くらいでしょうか」
「いや、そういう事ではなくて」
要領をえないながらも何とか聞き出した情報として、最近蛍雪荘を訪れた時に何やら奇妙な感覚を感じた記憶があるという事は仄香も認めていました。ただ、それが何であるかという事までは分からず実際に来てもらってもその結果は同じでした。何らかの特異な力が蛍雪荘に対して働いているという事は間違いない、だがその力の正体までは分からない、という状況はあまり改善されませんでした。それでも興一が仄香をここに改めて連れてきた行動の意味は決して無駄にはならなかったのです。
「やっぱりここの野良猫が減ってますね。みんな家の方に流れてきてるようです」
仄香の言葉に周囲を見回す興一。確かに、本来野良猫の数匹はいる筈の木造の安普請には、奇妙に生き物の影が絶えていました。それどころか、周囲には小鳥のさえずりもなく無機的な騒音を除けば静寂しか存在しませんでした。猫や小鳥でさえ気付く異変に気付いていないのは人間だけで、幻視者の中で更に鋭い感性を持つ者だけが辛うじてそれに及ぶようです。最悪の場合は玲歌を仄香の住んでいる屋敷に移す必要があると思われましたが、『実験』が人為的なものであれば彼女がどこにいても追い掛けられる恐れがありました。推理を進めるには材料が少なすぎる…興一がそう思ったとき、懐にある携帯電話が着信メロディーを奏でました。
『興一君?原因が分かったわよ、直ぐ戻ってきて』
吉報はシェリルからのものでした。驚きと喜び、そしてそれ以上に自分の行動がまたもハルモニアの天使に遅れを取ったらしいという事が、まだ充分に若い青年には残念なことだったかもしれません。蛍雪荘の目の前で電話を受けた興一は、直ぐに玄関から中に入って行きました。
◇
玲歌に対する実験の目的そのものが選択圧をかけられることで覚醒する幻視者の能力のサンプルを取ることにあったのは間違いがありません。つまり、結界という閉鎖世界の中で操作を行い、任意の能力を有する幻視者を作り出す事がその究極でした。プロジェクト・スネイクもそういった実験の一環であったし、思想に依らない肉体を旨とする者たちの侵攻や結界の増幅を図る思念を持つ者による占拠が企図された件もまた同様であったでしょう。幾つもの実験がこの場所で行われてはいましたが、今の所それは目が覚めれば現実に戻りうる悪夢という程度で済んでいました。
「シェリルさん、原因が見つかったんですって?」
「正確には見つけたのは鈴音だけどね」
「鈴音が?」
シェリルの意外な返答に驚いた興一は、功労者である少女の方を向いて思わずその幼い顔を凝視しました。あどけない顔は興一の視線の意味を理解してはいませんでしたが、その瞳には友人の為に行動している者の誇りが宿っていました。
「いろいろ聞いて回るので電話してたのであります」
「そしたら鈴音が電話してる最中だけ何度か具合が良くなって…」
鈴音の説明に続いて、玲歌が続けました。その様子を伝え聞いたシェリルが、特定の携帯電話事業者宛てにかけた場合に限り玲歌の具合が良くなる、という事実に到るまでに長い時間を必要とはしませんでした。無論、蛍雪荘の近くに最近立てられていたアンテナの一本から、常人には認識できない周波数の音波がしかも強い出力で発せられていた事が判明するまでにも。
知ってしまえばそれはアンテナの一本を折る事で打ち倒せる驚異でした。ただ、それに思い至ったのは理論立てた推理でも選択肢を潰そうを試みる行動でもなく、友人の為に戦おうとした少女の思想であり、或いはそれもまた箱庭から生まれ落ちる種子の一つになるのかもしれません。確かな事は、鈴音があちこちに電話をかけるために蛍雪荘の電話線を借りて発信を行っていた事であり、後にその請求書が興一のもとに届くという事だけでした。
◇
選択圧の実験。闇に生きる人間の聴覚、嗅覚が常人と比べてどうであるか。感覚器官自体の性能とともに、それをどれだけ使い慣れているか。これらを組み合わせ、自在に作り出す事ができれば進化した超人類に到るのではないか、という思想は進化や遺伝子について人が考え始めた頃から発生し出したものでした。競争原理による自然選択と性選択との圧力が生物の進化の原動力となるというのは進化論の基本概念であり、であれば幻視者とそれを取り巻くトリニティウォーの世界は通常では有り得ない人類で実験を行うための環境になる。
有り体に言ってしまえば、常人に玲歌の能力を与えることが意図的にできるのであれば、それは超人類を生み出すための手段となるということでした。玲歌の幻視者としての能力以上に、幻視者としての彼女が得ざるをえなかった研ぎ澄まされた感覚に到る過程が注視され、それを望む者はそれを得る為の『実験』に尽力していました。たとえ、実験環境が黒い羽の小鳥にとって迷惑極まるものであったとしても。
「選択圧がかかるたびに新しい種子が産み落とされる。変化と、成長と。でも普通であろうとする力が働けば振り子はもとに戻り、再びひとときの安寧がおとずれる…」
禁断の果実を蛇に導かれたエデンの楽園の種子たる水天宮碧瀬は何を思っていたか。結界の技術と思想について記された箱庭日記の存在に対する彼女の主張は、それがそのままそこに在り続けるという事でした。
「ですが、或いはそれは変化から目を背けるということになりはしませんか?」
「思い違いをしてはいけないわ」
そのままに在るを望むのは箱庭日記という古い導の存在。道標は古い日記にではなく、自ら書き記すものであり、箱庭日記は読まれることよりも書き綴られ続けることにこそ意味がある。だからこそ日記はこのままここにある事こそが望ましいのだ。誰が発したのかは既に忘れられたその質問に対して、彼女はこう答えました。
「今の日記を書くのに昔の日記を書き写す人はいないでしょう?」
ではこれからどうするかということ。明確な回答を持っている者は彼女自身を含めてまだ誰もいませんでしたが、人が成長を伴う変化をすることは真理の一端を捕らえている筈でした。揺らされた玲歌の振り子はもとの状態に戻りましたが、戻ろうとした玲歌と戻そうとした鈴音の思想の変化は成長の方向に向かっている筈でした。玲歌の為に戦いうる鈴音と、鈴音の為に応えようとする玲歌と。
「ひとつの変化は越えたのだから、今は安寧を楽しむといいわ。あの娘たちは、これからもいろいろな経験をすることになるんですから」
蛍雪荘にある起こりつつある協調の流れは確かに碧瀬が望んでいることでした。その為に与えられる変化という名の試練が、安息や安寧とは相反する存在であるという事を彼女は痛感していましたが、自分がそこに関わる訳にいかないという事もまた彼女には分かっていました。人々が協調しうるという事を碧瀬は信頼しており、彼女が手を差し伸べずとも蛍雪荘の人々が成長するという事を信じている筈でしたから。
地下にある書庫で、明かりも点けぬままに箱庭日記の所有者は立ち尽くしていました。ここに在る時の彼女にできることはただ蛍雪荘の人達を信じつづけることであり、自分の信じた思想が発展して人々の導となる事が碧瀬の望みでした。
彼女は蛍雪荘の未来の姿を確信していましたが、それは確信したかっただけであったのかもしれません。そして、彼女と共に未来を語ることのできる者はそこにはいませんでした。誰もが蛍雪荘の現在に生きており、未来は軽々しく語るものではないのでしたから。
悲しげな笑みを漏らした女性は自分の現在に帰るために書庫を離れ、蛍雪荘を後にしました。彼女の現在も無論存在していましたが、未来を選択した蛍雪荘の中にだけはそれはありませんでした。
(所詮、そんなものかもしれない)
未来からの嘆きは決して現在に生きる者に届くことはありませんでした。もし届くことがあるとすれば、彼等は彼女の待つ未来に辿りつかねばならなかったのです。
いずれその日が来る事を信じて、水天宮碧瀬は箱庭を後にしました。
おしまい
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