豆と鳩
−もし、目の前にケガをして倒れてる猫がいたら?−
時は1869年、明示25年5月13日のこと。世は文明開化のまっさかり、学園で教鞭を振るう教師たちにも文明開化の波は押し寄せてくる訳で、変化する世の中というものに対応して文化と学問は変わっていくものですからそれを教える人たちにも相応の苦労が必要になってきます。
「そういう訳で、科学の発展によりそれまで経験則によってのみ語られていた法則が解明された分野は社会と産業の中で大きくその地位を向上させる事になった訳だ。これも科学の最大の功績の一つだと言えるだろう」
教壇にて熱弁を振るう勢野國崇。学校の授業というとたいくつなものの代表の一つに取られるむきもありますが、それは教師の力量と生徒の熱意の双方によって決定されることであったりはします。
科学の将来性。産業革命の頃に興ったある染料工場では、それまである色を作るのに原料を大きな鉄鍋で煮込んで作っていました。煮込んだ原料を大きな鉄の棒でがらがらとかき混ぜると、良い色の染料ができあがります。
「かき混ぜる音が大きい程良い色ができあがるという工場長の話を聞いて、ある科学者が答えたそうだ、『鍋に鉄の粉を混ぜれば労力を使わなくても良い色がだせるだろう』と。出来のいい染料にはより多くの鉄分が含まれていて、大きな音を立てるほど鍋と棒の鉄分が削れていたというのが真相だったという事だな」
現象を客観的に且つ科学的に分析すること。その工場は鍋をかき混ぜる労力を減らしてしかも安定した色の質を確保する事に成功したそうです。授業を終える鐘の音が鳴り、生徒たちは礼をして教師が立ち去るのを見送りました。
◇
「せんせーい、待ってくださーい」
「おや?杜崎くんかい」
日の当たる放課後。学園の敷地を出ようとしていた國崇を呼び止めたのは、先程の授業を熱心に聞いていた短髪の少女、杜崎みよよでした。共に科学に対して強い期待と興味と好奇心を持つ二人、熱心に科学を語る教師と熱心に科学を学ぶ生徒の関係は概ね良好なものです。
「お帰りですよね?途中までさっきのお話をまた聞かせてもらえませんか」
「ああ、いいとも」
肩を並べて歩く教師と生徒。会話の内容は色事にあらず、彼らに共通する興味の話題ばかりですが、それはまた話が真摯なものであることの証明でもあるでしょう。外国に渡り、外国の書物に勤しんだ國崇の話は未だごく狭い世界しか知らないみよよにとっては多くの驚きと感動に満ち溢れていました。こうして科学を志す者たちの知識の断片は、熱意と想いとを伴って他者に伝えられていくのでしょう。
その日、みよよは尊敬する教師から一冊の本を借りました。生活に必要な品以外がまだ高価であったこの時代、奉公先の裕福な家で可愛がられていたとはいえ、みよよがこういったものを自分で手に入れるのがとても難しいことであったのは間違いありません。小さな文字で埋め尽くされた厚い本は、みよよにとっては宝の箱にも等しいものであったでしょう。
國崇と別れ、帰路を急ぐみよよ。その足が一旦停止します。
(猫?)
大きな住宅の並んでいる、やや人通りの少ない路地。一匹のキジトラの猫がうずくまっていました。もう成猫に達しているちょっと大きめの猫は、近くで喧嘩でもしたのか丸くなって怪我をしたらしい足を舐めています。
(客観的に且つ科学的に分析すること)
一瞬、今日の授業での國崇の言葉がよからぬ響きを持ってみよよの頭の中で鳴り響きます。にじり寄るみよよに警戒の色を強める猫。
(…改造…)
にじり。幼い頃から奉公先の裕福な家で可愛がられた少女は、その家にあるいろいろな書物を読んで育ちました。分厚い事典、学術的な書物、そして海外から流入された空想物語。みよよの人格形成を手伝った混沌に問題があるとすれば、それが幼い子供に向けた内容でないものが殆どであったことでしょう。
にじり。少女の影が猫の頭上に覆い被さり、警戒が敵意に変わる猫。
「あっれ〜、みよよ何してんのお?」
背後からかかる声。買い物かなにかの帰りであったのか、髪の毛を二ヶ所頭の上で縛った少女、肥後美月が見知った背中に声を掛けます。一瞬、我に返ったような顔をして振り向くみよよ。
「美月さん?いやその、猫が怪我してたからさ」
「本当だ。喧嘩でもしたんだろ」
科学が発達しようが発達しまいが、人間以外の動物が持っている敏感さ、或いは鋭敏さというものはそうそう変わらないものです。猫は再びうずくまると、怪我をした足を舐め始めました。そんな猫とみよよの様子を見て、美月が話を続けます。
「まあいいや、それより今日は時間大丈夫かい?これからいつもの茶屋に行こうと思ってたんだ」
「行く!行きまーす」
◇
その日以降、その路地で見かけるキジトラの猫に二人の少女がときどき餌を持っていくようになりました。その猫はどちらかというと髪の毛を二ヶ所、頭の上で縛った少女の方により懐いているように見えました。
おしまい
>他のお話を聞く