豆と鳩


−もし、バスジャックされたバスに乗り合わせていたくてもバスなんてないだろうなという世界に生まれていたら?−

 科学。経験を分析して法則を見つけて現象を再現すること。人間は自分に都合のいい現象を再現し、自分に都合の悪い現象を再現しないことで文化と文明を発展させてきました。必ずしもぜんぶがぜんぶそうだ、とは言えないのですけれど。
 時は1869年、明示25年6月7日のこと。ここ帝都にも外国からの文化が流入し、それに伴って海外から伝わってきた科学が注目されるようになりました。むろん、注目していた人間は一部ではあったのですが、どんな知識であろうとどんな技術であろうと、それを社会に有効に生かした人間っていうのは後々まで伝えられるような何かを成し遂げたりすることになるのです。特に産業というものが動き始めたこの時代において。

「二つの鋼鉄製のお椀を向かい合わせて、その中の空気をポンプで吸い出す。西洋で実際に行われた実験だけど、こうしてできた球体は二頭立ての馬車が左右から引っ張っても決して外れることが無かったそうだ」

 いつもの光景。教壇にて熱弁を振るっているのは勢野國崇。難しい法則を教えるよりも興味深い事例を教えて生徒の好奇心を刺激する。教育の理想のひとつであると思います。大切なのは教えられることではなくて、学びたいという意欲を出すことなのです。そしてここにも学びたいという意欲を出している少女が一人。

「せんせーい、その球体って両方から馬車で引っ張ったんですか?」
「ん?ああ、私の見た資料ではそうなっていたな」

 質問のことばを投げかけたのは、それまで授業を熱心に聞いていた短髪の少女、杜崎みよよ。奉公先で学園に通わせてもらい、学問と科学に無類の興味を持ってしまったちょっと変わり者の女の子です。

「両方を馬車で引っ張るよりも片っぽを壁とかにくくりつけてもう片っぽを馬車二台で引っ張ったほうがいいと思うんですけど」
「ん?…そうか、確かにそうだな」

 壁が崩れたり引っ張る紐や鎖が切れたりしなければ、単純に二倍の力が得られます。もちろんお話の本題は真空についてのもので、この後球体の重さを量ったら空気自体の持っている重さを知ることができたって続く筈だったんですけど…。

「でも二台で引っ張って二倍の力を得るには引く力が正確に同一の向きを指している必要があるだろうな」「力の量まで測定したいなら重しとか使うべきですよね」「それなら実験環境を垂直に作れば力を一定の向きに保つ事も容易になる」「つかった重しをそのまま計ればどのくらいの力がかかったかも」「それは甘いな杜崎くん」「え?」「重りの重量だけでなくそれを支える為に使った鎖なりの設備と下方にあるお椀一つ分の重量も計らなければ正確な力は出てこないぞ」「そうですね!さすが先生」

 脱線もまた科学的に行われたのでした。


「という訳で三本の矢もおすもうさんでなら折れるだろうなというお話になったの」
「…あんたの話っていつ聞いても飽きないわねぇ」
「やはり力を合わせる事は大切だという事でござるな」

 オンナノコの通う、近代的な異文化の匂いが漂う一軒の茶屋。放課後のいつもの時間、杜崎みよよと肥後美月と神代琥宮の三人があんみつを囲んで話の花を咲かせていました。同年の少女であるみよよと美月に比べて、琥宮は多少幼さの残るオトコノコであったりはするんですが。幼さの残る、とはいえ琥宮くらいの年齢の男の子になると甘味所に入る機会も減るものですけれど、生来の甘い物好きはどうしようもない訳で、神主の家でやや世間と離れて暮らしていることもあってあまり気にせずに茶屋に入り浸っていたりします。おかげで琥宮はみよよや美月と同じく、互いに茶屋の常連の顔見知りになっていました。

 湿気のある暑さにつつまれた帝都の六月の午後。
 割れるような悲鳴が聞こえてきたのは日も弱くなってきた頃でした。

 驚いて茶店を飛び出した三人の目に入ってきたのは、片手に包丁、片手に金ぴかの狸の置物を持って向かいの骨董屋から出てきた人相の悪い男でした。大きな軒の下、強盗に入って金目の物(?)を持って逃げようとしている所のようです。まわりに人が集まろうとしているのを、かざした包丁で脅しつけています。

「強盗でござるか!?ならば琥宮が…むぎゅ」

 いきりたって飛び出そうとした琥宮の袴の裾を踏んづける美月。地面に鼻を打って抗議しようとしている琥宮を無視しながら軒先の一点を指さします。
 包丁でまわりを牽制する強盗らしい男。どんどん集まってくる人だかりから一人の少年が前に出ると、武器を手放しておとなしくするように忠告します。もちろん幼い少年にそんなことを言われて素直に聞くようなら、最初から包丁を持ってお店に押し入ったりはしないでしょう。まわりの野次馬からの、包丁を持った男からの制止の声を無視しながら歩みよる少年。男が前に出ようとした矢先、人影から二人の少女が飛び出すと軒を支える柱に走り込んで全力で蹴倒しました。

 めりめりめりどっすーん。

 軒の下敷きになった男はあっさりと捕まってしまいました。


「だからごめんって言ってるじゃない」
「そーそー、お手柄だって褒められて金一封までもらったんだよ」
「…」

 その翌日。時は1869年、明示25年6月8日のこと。いつもの茶屋で三杯のあんみつと一冊の新聞記事を囲んでいる三人。
 その隅に小さく載っている写真。笑顔で写っている二人の少女と、崩れた軒下に埋もれている二人の写真が写っていました。

おしまい

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