豆と鳩


−もし、好きな仕事につくなら?−

 1869年、明示25年10月11日の帝都での出来事。この頃、西洋から流入してきた科学はそれまで経験と推論に基づく学問の存在を知らなかった人々に数多くの知恵と知識と、そして人々にとって重要な事は、より多くの成果を与える事になりました。例えば車輪を作る事もより少ない力で動かせる車輪を作る事も曲がり角や坂道でより柔軟な動きが出来る車輪を作る事も、全ては科学を用いる事でかんたんに解決する事が出来たのです。生活に密着し、生活を向上させる事は競争原理と並び、学問に限らずあやゆる分野を発展させる原動力となるものであったのは間違いありません。その科学がどのようなものであるのかという事を探求する人々の事を、一般には科学者と称していました。
 これは、そんな科学者の卵になりかけている腐りかけの卵のお話です。

「科学の発展に伴って科学的な誤りも重大なものになっていったのは事実だ。例えば生物進化学を例に取ると無生物から発生した生物、という説の観点に立ち、そこから暫移的に発生した生物と無生物の中間的な存在が仮定された事がある。こういった仮定に基づいて希望的憶測による誤った観測が行われる事になる訳だが…」

 教壇で熱弁を振るう勢野國崇。珍しく難しげに聞こえる内容ですが、これも教材からの写しではなくて彼の興味と研究の成果ではありました。一人の学徒としては賞賛に値する性格であったでしょう。何しろ、自分の興味を自分の力で追い求めるのですから。

「結局の所こういった存在である所の無定形の有機体という物は遂に発見されなかった。そこに至るまでの長い道程は省略するけど、生物は生物が発生するに相応しい条件が揃った時に突然発生した、とする説が現在では最も有力なものだとされている。さて、そこで質問だけど、何故無生物から生物に至る中間の存在が批判されているか、その理由が分かるかな?」

 教師からの突然の問い。すぐに反応したのは短髪の少女、杜崎みよよでした。

「そんな中途半端な状態だとそもそも生き残っていけないからですよね?」
「そう。例えば海外には鹿に似ているけど高い木の上の葉を食べられるようにとても首が長くなった、キリンと呼ばれる動物がいるんだけど、鹿の首と、このキリンの首の中間の長さの首を持つ動物というのは発見されていない。そんな中途半端な生き物は木の上の葉を食べるにも地上の草を食べるにも不便極まりないからね。同様に生物と無生物の中間という存在では単独の生物として生き残るだけの充分な能力を有していないんだ。それこそそれが寄生する為の生物が既に存在していれば話は別だけどね」

 生物進化学の基本にもとる事ですが、実の所こういった誤りの存在は科学にとって決して有害な事ではありません。生物と無生物の中間の存在に関する研究は、同時に最も単純な生物と最も複雑な無生物に関する様々な調査の結果を残す事にもなりました。

「科学というものは常に文化と偏見と願望の影響を受ける。しかし科学によってたどり着いた場所が誤りであったとしても、たどり着くまでの道程は決して誤りでは無く、寧ろ後年の人々にとっては有用である例の方が遥かに多いんだ。結果に固執せず、論理に固執せよというのは多くの科学者の常套句だけど、まあ結果に固執しない人はそれを証明する為の論理に固執なんて出来ないだろう」
「じゃあ失敗を恐れず大いに間違えって事ですね」
「そんなに積極的に間違う必要はないと思けどな」

 お昼を告げる鐘の音。今日もみよよと苦笑する國崇の科学談義で一日が終わるのでした。


「という訳で私もたくさん間違える科学者を目指すことにしたの」
「…なんでそーいう結論に達する訳?」

 放課後の町を歩きながら、みよよの話にあきれる肥後美月。いろいろな意味で危なっかしいところのある友人に素直に心配する視線を向けていますが、それがどの程度本人に通じているのかは難しいところかもしれません。

「何かおかしいかな?」
「失敗を恐れないのは大切でござるが、失敗する気で行動する事もないでござろう」

 心底不思議そうな顔をするみよよに、やっぱり心配そうな顔で神代琥宮。結果と結果に至るための過程が重要だということは最初から変な結果を求めるという事は…それらしく難しそうな説得を琥宮が試みようと考えている間に、みよよは懐から一本のペンを取り出しました。

「でも例えばこれなんだけど…」

 そう言うとおもむろに琥宮の顔にぐりぐりとペンで落書きするみよよ。当然おどろく琥宮ですが、かまわずみよよは更にふところから一本の小瓶と手ぬぐいを取り出します。まずは手ぬぐいで琥宮の顔をぬぐいますが、油性らしいインクはほとんど落ちる様子がありません。

「落ちないでしょ?で、今度はこの薬」

 しゅっ。みよよが瓶を振ってから蓋を押すと、琥宮の顔に霧状の薬がふりかかりました。一見したところ何がおこる様子でもなく、不安そうな顔をする琥宮を見て美月が問いかけます。

「いったい何なのみよよ?」
「これ、もとは落書き落とし用に作った薬なの。でも汚れが落ちるついでにとんでもなく垢が出るようにもなっちゃって」
「そんなモノ何の意味があるのよ!」
「えー、でも新陳代謝が良くなってお肌がつるつるに」
「…あたいにも一本ちょうだい」

 このへん二人の女の子の会話を聞きながら、疑問を感じて琥宮が問いかけます。

「で、でもこの落書き落ちる様子が無いでござるが…」
「あ、ごめん。その薬効果が出るまで半日くらいかかるんだ」

 みよよの言葉になさけない顔になる琥宮。その日は二人の少女とほっぺたにぐりぐりと落書きをされた一人の少年の組み合わせが、いつもの茶屋を訪れることになりました。もちろん少年は人前を出歩くのを嫌がっていたようにも見えましたけれど。
 後日談。みよよの失敗作はどうしてもその後同じモノを作ることができず、結局一ヶ月も経たずに友人や同級の女の子の間で使いきってしまいました。更に薬が地面にわずかに落ちたところでは、小さな草花が急に生え出したりもしたんですが、それもまた別のお話。

 それから口に出せないようなその他の効果があったということも。

おしまい

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