ひなたで過ごす


 松本ひなた。やや色の落ちた茶系のショートカットをした、小柄で元気で短気な女の子。勉強はそこそこでスポーツ万能、中学生の頃は陸上部に所属して、走ることと跳ぶことなら距離も種目も関係なくひととおりこなしていたそうです。本人曰く、好きな種目はリレーと400m走とクロスカントリーだそうですので、印象としてはなんかもうひたすら全力で走って力尽きるような競技が好きだったのかもしれません。
 今年の春から通うことになった私立樫宮学園。その女子寮にオンナノコの持ち物としてはやけに簡素な荷物が運び込まれたのは、桜の花がまだ満開になる前のことでした。その日、前の日から先に入っていた荷物に続いて小さなスポーツバッグを下げたひなたはこれからお世話になる寮の建物の前に立つと元気よく宣言しました。

「これから三年間、よろしくね」

 あるいは留年して三年より長い間お世話になるかもしれません。

「うっさいわね」

 それとも落第して三年より短い付き合いになるかもしれません。

「うっさいわよ」

 この後ぼくのことをぼこぼこにしてやろうと心に決めたひなたは、バッグともう一つ、長い革のケースを肩に担ぎ上げると寮門をくぐりぬけました。あらかじめ連絡してあった通りに管理人を呼び出し、簡単な入居の手続きを済ませてから門限の説明とセキュリティカードを受け取ると、中庭に面した107号室に案内されました。二人部屋の寮室の同居人は東京の出身で、地元民のひなたと違って少しく前からこの部屋で暮らしているそうです。どんな人だろうと期待をもってかあるいはもたないでか、ひなたは扉をノックしました。扉を開けて現れたのは、腰まである長い黒髪が印象的なおとしそうな少女でした。少女はひなたに目を向けると、おっとりして優しげな、それでいて芯のある声で話しかけました。

「こんにちは。あなたが松本さんですか?」
「ひなたでいいよ。よろしくね」
「亀宮氷雨です。よろしくお願いします」

 二段ベッドの部屋は先住者によってきれいに片付いており、お互いのスペースがきちんと整理されて掃除までされているあたりに氷雨の性格が窺えました。彼女が用意したらしい小さな棚や置物はどれも質朴で、それでいてセンスがよく高価そうな物ばかりで、ひなたにしてみれば女の子らしいというより女性らしい部屋に多少のコンプレックスを感じないでもありませんでした。もっとも余り荷物を散らかす性格でないひなたにとっては、これから暮らすことになる巣の中がきれいにかたづきそうなことは喜ばしいことではありました。
 担いでいた荷物を降ろすひなたに視線を向ける氷雨。野球部かソフトボール部がバットを入れるのに使っていそうな長い革のケースが机の横にたてかけられます。彼女が同居人について聞いていた話では、ひなたは陸上部に所属していて樫宮学園でも陸上部への入部が決まっているという話だった筈でした。

「ひなたさん…?それって何が入ってるんですか」
「ああ、金属バットだよ。母さんから譲られたんだ」
「え。あ、ごめんなさい…気付かなくて」

 母親に譲られた金属バット。多少変わった物でもそれが形見とでもいう事になれば、それはその人個人の事情によるものでしょう。申し訳なさそうな氷雨の表情に気付いて、あわててひなたは語を継ぎました。

「ちがうちがう。母さんはまだぴんぴんしてるよ」
「え???」
「わたしが進学するんで母さんにもらったんだ。母さんもこれ持ってたからね」
「え、じゃあひなたさんソフト部に入るんですか」
「ん?陸上部だよ。だって走るの好きだし」
「…」

 もしかしてこの人は変わった人なのだろうか。賢明にも氷雨はその言葉が口から出るのを堪えることができました。彼女が何故愛用の武器として金属バットを持っているかについては深い理由はまったくなかったりするのですが、少なくとも話しを続けてみるにそれ以外はむしろ真面目で好感のもてそうな性格にも感じましたので、ずいぶん大きめの違和感を感じながらも氷雨はこれから一緒に暮らすことになる少女のためにかんたんなお茶とお菓子の用意をはじめました。


 中学生の頃は陸上部に所属してて、走ることと跳ぶことなら距離も種目も関係なくひととおりこなしていたそうです。平成13年4月18日午前8時30分、既に予鈴の鳴る時間。校門前の急な坂道を一陣の風のように駆けのぼると、ひなたは校舎にすべりこみました。いつもぎりぎりであるにも関わらず、小学生の時にかかったおたふく風邪のときに休んだこと以外では、遅刻も欠席も一度もないのが彼女の自慢でもありました。
 本格的な授業はまだはじまっていなくて、レクリエーション中心の時期。ひなたは勉強も嫌いではなかったしそこそこ優等生でもありましたけれど、それはあえてここで記すほどのことでもないと思います。

 その日は今年度の部活動がはじまる最初の日でした。もちろん二年生や三年生の中には春休み中も活動を行っている生徒はたくさんいましたし、新入生の中にも入学してすぐに部室の扉をたたき、その日から参加するようになった者もたくさんいました。ですから新入生の入部申し込みの期日が終わって最初に全員が集まってあいさつをする日、というのがより正確な表現かもしれません。そして、ひなたが入部した陸上部のような体育会系の部活には、新入生を歓迎するための恒例の儀式がつきものだったりするのです。
 さわやかな笑顔をした陸上部部長の佐藤輝男がさわやかなあいさつをした後で、何故か竹刀を手にするとさわやかな声で言いました。一列に並んだ新入生たちも、期待と不安のないまざった真剣な顔つきで部長の声を聞いています。

「それじゃあ、これから君達の実力を少し見せてもらいたいと思う。まずは100m走−

 を、全力で100本だ!」

 100m15秒を越えたら「全力」とカウントされない地獄のルール。4時間後、グラウンドは新入生たちの屍で埋め尽くされていました。屍の一つは松本ひなたという名前でしたが、最高タイムでは他の生徒に及ばなかったところがあるものの平均タイムでは新入生の中でも屈指の記録を残しました。


 日も暮れて、翌日の筋肉痛を覚悟しつつ足をよろめかせながらの帰り道。新入生のつとめとしてグラウンドの整備までを終えて校門前の急な坂道を下っている三人の陸上部員のうち、何故か一人は金属バットの入った革のバッグを肩から下げていました。

「あ、足が重い…」

 細身で端正な顔立ちをした少年、星野瑞季が呟きました。寮のある進学校のためか県外から集まる生徒も多いこの樫宮学園の中で、瑞季はひなたと同郷の幼なじみでした。陸上部の一年生の中でも短距離では最高タイムを持つ一人なのですが、もちろんそれを全力で100本走るとなると話は別です。当然、それで新入生の適正を見るという目的もあるんですが、新入生を迎える儀式はそういうものだろうというのがやはり一番の理由ではあったでしょう。

「ほんと。明日この道登るの大変だろーなー」

 疲労に軽く足を引きずりながら、幼い顔立ちの印象的な北城瞳。ひなたと三人、陸上部の帰り道で、元気な女の子二人に挟まれて歩く瑞季の顔は、多少照れ臭げにも見えました。もっとも走ることにそれなりの自信があった彼にとっては、昔から知っているひなただけではなく瞳の実力にも驚かされていたことがより大きかったかもしれません。短距離の最高タイムでは自分が勝っていたとはいえ、ひなたはスタミナで瑞季に遥かに勝り、スポーツ特待生らしい瞳は意外にも専門的でない荒削りな走り方で、彼等に匹敵する記録をはじき出していました。外見のせいか男らしさにあこがれを持っている瑞季にしてみれば、女性差別云々以前にやっぱり女の子より勝っていたい所はあったのです。その後やがて瑞季は短距離に、ひなたは中距離に、瞳は高跳びをメインに活躍するようになるのですが、それでもこの三人が、陸上部の中で激しいライバル争いを繰り広げることになるのです。

 幕を上げるささやかな事件、きっかけは一つの硬式野球のボールでした。遠くから聞こえる「あかん、やってもうたーっ」の叫びに続いて、学園の塀を越えてひなたたち三人の前に落ちてきたボールが弾んで、坂道の下に転がっていきました。恐らくは野球部の人間が予想を越えるとんでもない飛距離で−校門はバックネット側の筈なんですが−飛んできてしまったことが原因だったのでしょうが、問題はひなたがそれを何も考えずに元気よく取りに駆け出したことと、自分の疲労と坂道の傾斜とを忘れていたことにありました。上りより下りの坂道の方が止まることが遥かに難しくて、どんどん加速して坂道を下るひなたの様子に慌てて瑞季も瞳を後を追い掛けました。

「だわわわわわっ!?」

 ところがここまでくると意地が働くものでもあります。坂道を駆け下りる三人の前を転がっていく小さなボールを諦めることは、なんとなく異常にくやしいことのように三人には感じられました。中でも先頭をきって走っていたひなたは減速するどころか坂下の塀に向かってまっすぐに加速していました。

「ひなたチャーン!」
「止まれー!」

 瞳と瑞季の声を背にして。ひなたは追いついたボールを走りながら片手で拾い上げるとそのまま塀に向かってジャンプ、壁面を蹴って殆どスピードを落とさずに駆け抜けました。

「おお!凄いぞ!」
「だめー!ひなたチャン前前ー!」

「え?わああああっ!」

 ボールを拾って得意げなひなたが華麗に曲がった目の前。放置されていたごみの山に派手に突っ込むと、散乱したごみ袋から一つのボールがてんてんと転がった後、暫くして辺りに静寂が訪れました。慌てて瞳が駆け寄り、瑞季がひなたを助け起こします。

「大丈夫か、ひな?」
「あたたたた…ゴメン、だいじょーぶ」

 翌日は全身を擦り傷と筋肉痛に襲われることになりますが、とりあえずごみの山から無事に生還したひなたは照れ臭げな笑顔を浮かべました。

 私立樫宮学園の校門の前にある急な坂道の下にあるブロック塀。その後その塀に、

「ごみを放置するな」
「壁を走るな」

 の二枚の貼り紙が貼られることになる原因を知っているのは、その学園に通う三人の生徒だけでした。

おしまい


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