ひなたで過ごす


 古坂町にある私立樫宮学園高等学校。人口わずか一万人強のこの町で同じ地区出身の同級生ともなれば、中には昔からの知り合いであったという事も珍しくはないと思います。もちろん、たとえば昔なじみといった関係がいったいどれだけの強さをもつものであったかはその時その人その場合によってそれぞれで、けっきょくは出会ったきっかけは単なるきっかけにしか過ぎないのかもしれません。
 ゴールデンウィークも明けて時には汗ばむ日も増え始めた平成13年5月10日のこと、もっともやや高地にあるこの町では余程涼しくてすごしやすい日々が続く中ですが、ある平穏な樫宮学園の一日のこと。

「待てこのー!」

 校舎の三階、廊下に響き渡る声。よくとおる声をはりあげて1年3組の教室から飛び出してきたのは短髪小柄の少女、松本ひなたでした。視線の先に立っている小柄でやや丸みのある外見をした少年、木佐茂に向かって愛用の金属バットをかざします。

「茂っ!人が楽しみにとっといた焼きそばパン盗ってくたーどういうつもりだ!」
「腹が減ったからに決まってるだろ」

 堂々とこたえる茂にうなりをあげる金属バットの軌跡。鋭い攻撃を身軽に避けつつ、逃げる茂の足元に伸ばされた足先が小柄で丸みのある少年の身体を宙に浮かせました。派手な音を立てて転がる茂を見下ろすように、扉の影から現れたのは星野瑞季。細身で繊細な外見には似合うようで似合わないかもしれない、意地の悪そうな笑顔を浮かべます。

「茂、まーたひなの昼飯食ったのかよ」
「痛ってーな瑞季!ピーマンも食えない奴はどっか行ってろ」

 瑞季とにらみ合う、茂の背後に近づく殺気を帯びた影。ひなたのスカートの下から伸びてきた足が茂の後頭部に命中するのは、そのすぐ後のことでした。この三人が以前からの知り合いであり、ひなたと瑞季とが幼なじみであるということは同級生の幾人かが知っており、瑞季と茂とが奇妙に仲が悪いということもやっぱり幾人かには周知の事実ではありました。ただ、どちらかというと瑞季が茂にからんでくる例が圧倒的に多いのも奇妙なようには思えたのですけれど。


 よく晴れたその日の空が明るい放課後、樫宮学園高等学校陸上部のトラック。今年の期待の新人三人、ひなたと瑞季と北城瞳はそれぞれ他の新入生や或いは先輩と一緒に、各々の希望種目の練習を始めるようになっていました。今はまだ基礎体力の練習が中心になっていましたが、短距離志向の瑞季と跳躍競技の瞳は一緒に瞬発力を鍛えるスタートダッシュとそのフォームの練習を中心に行っていましたし、中距離から長距離走の適正が見られるというひなたは筋力を増やすことと体重を落とすことの両方が課題になっていました。

(脚の筋肉が見えちゃうのが問題なのよね)

 男女を問わず身体が引き締まってくると当然、腕やら素足の太股やらにも筋肉のすじが見えるようになりますが、いちおうオンナノコのひなたにもやっぱりそういうことは気になるのでした。出るところが出ず引っ込むところが引っ込んでいるというのは、年頃の娘にとっては些細な問題であると同時に重大な問題でもあると思います。もっともひなたにとっては、最近はまりこんでいる中距離走への興味の方がより重大なことではありました。スピードとスタミナと瞬発力と駆け引きと、その競技性は陸上競技の中でも中距離走がもっとも高いものの一つであったと思います。

(それにしてもお腹すいたなあ…茂のやつ)

 結局その日は茂にお昼ご飯を食べられたということよりも、その後三人で暴れまわって昼休みが終わってしまったことで、中途半端な食事しかとれなかったのが辛いところでした。育ち盛りの暴れ盛り、充分なエネルギーの補給無しに体育会系の部活動に挑むというのは大げさに言えば自殺行為に等しいことだったかもしれません。

「ひなたチャン大丈夫?」

 そう言って大きなどんぐりまなこで、ひなたの顔を覗き込む瞳。ライバルとして競い合わせる理由もあって、陸上部では一緒に練習を組まされることの多い三人でしたが、それでその仲が悪くなるということはなくて寧ろ連帯感が生まれているようにも見えました。新人に対する練習は質を保って量をこなすというのが基本でしたから、空腹感のあるひなたにはその日の練習は特に厳しいものでした。瞳の言葉にあいまいな返事をした覚えがある以外には、その日の部活動の覚えが殆ど無かったというのは問題だったでしょう。


 数カ月前に比べて遥かに長くなった日の落ちる直前、陸上部の練習も終えて帰り道のバーガーショップ。豪快な量のパンケーキのセットを頼んで頬張っているひなたの前に座っているのは亀宮氷雨でした。寮の同室ということもあり、部活動の終わったあとで待ち合わせていたのですが、もしかしたら大抵のオンナノコは甘味所なり喫茶店なりに入ってお茶なり軽いお菓子なりを頼んでいる時間なのかもしれません。もっともお昼ご飯の量が減るはめになってしまった育ち盛りの少女にとっては、ダイエットということばの意味を気にする理由は特になかったことでしょう。

「まったく…あの二人いっつもああなんだから」

 昼休みの件を思いだし、不機嫌そうに呟きながらパンケーキを口に運ぶひなた。氷雨の方はコールスローサラダにジュースという、二人ともバーガーショップとしてはやや異色のメニューを頼んでいるようにも見えます。羨ましげな顔にも見えるおだやかな表情で、ひなたを見ながら氷雨が言います。

「でもひなたさんいいですね。両手に花って感じで」
「氷雨…意味分かって言ってんの?」

 頬張っていたパンケーキを思わず吹き出しそうになりながら、ひなたは珈琲で流し込んでしまうと氷雨の方に顔を向けます。どういうつもりで言っているのか分からないけど、確かに瑞季なんかはお花みたいな外見をしていなくもないか。そんな冗談口をたたきながら笑うひなたを見る氷雨の顔はやっぱり羨ましげに見えました。おそらく、彼女にはひなた達の関係が誰よりもよく見えていたのでしょう。

「それじゃあ両手に花と団子ですね」

 いたずらっぽく言う氷雨のことばに笑い声が上がりました。


 バーガーショップを出る頃には、すっかり日が暮れて寮では夕食の用意が始まっている時間でした。女子寮の前に辿り着いたひなたと氷雨は、門から少し離れた路地に立っている瑞季の姿を見付けました。きれいなオンナノコのようにも見えなくもない少年が、日が落ちて街灯に照らされている路地に一人立っているというのは美しい図に見えなくもありません。しばらく前の時間から待っていたのか、ひなたと氷雨が歩いてくるのに気付くと、瑞季はやや明るい表情をして声をかけてきました。

「ひな。やっと帰ってきたか」
「なによ瑞季、覗きでもしてたの?」

 ひなたの軽口を流した瑞季は、少し照れくさそうな顔で持っていた包みを差し出します。

「ケーキ焼いてきてやったぞ。今日腹空かしてるみたいだったからさ」
「…あ、あんがと」

 他人の好意には弱いのか、とまどった顔で包みを受け取るひなた。女性的な外見でこれまで苦労してきたせいもあって、いわゆる女の子らしい行為を嫌っている筈の瑞季ですが、それでもこういうことをしてしまう所がまた好かれながらもからかわれる要因なのかもしれません。感謝しつつも今日二枚目のケーキをどうしようかと思っているところへ、学校帰りに寄り道でもしていたのか、学生服を着たまま手に買い物袋を持った茂が小走りに駆け寄って声を掛けてきました。一緒にいる瑞季に軽い一瞥を流ししつつ、気にしないふりで手にしていた紙袋を差し出します。

「おい、ひなた。昼飯頂いた代わりにケーキ買って来てやったぞ」
「な、なによあんたまで」

 彼なりに気を使っているのか、今日三枚目のケーキをひなたに差し出しつつ瑞季の持ってきた包みに敵意の視線を向ける茂。瑞季も負けずに肉食獣のような視線を茂に返します。そして女子寮前の路地で幾人かが集まっていれば当然人目を引くこともある訳で、セキュリティの掛かった扉を開けて先に寮に帰っていた瞳が軽装で現れると、四人の前にやってきました。

「どうしたの?みんなこんなところで集まって」
「いやその、たいした事じゃないんだけど」
「そうだひなたチャン昼間お腹空かせてたでしょ?私ケーキ焼いたから早く入っておいでよ」

 今日四枚目のケーキをすすめる瞳の申し出に頭を抱えるひなた。それまで後ろで笑いを堪えていた氷雨が堪えきれずに吹き出すと、笑いながら健全に提案します。

「皆で近くの公園にでも行きませんか?私、水筒にお茶入れてきますから」

 彼らは、そんな関係でした。

おしまい


他のお話を聞く