ひなたで過ごす
不来方青葉。たれ目で細身、一見悩みも何もない今時のオンナノコに見え無くもない少女は生来身体が弱かったのですが、健康のためにとはじめた剣道では都大会中学生の部準優勝の成績を収め、高校進学では療養も兼ねて長野県は樫宮学園に入学。いわゆる江戸っ子気質というものなのか、気さくでマイペースで時代劇とファーストサムライが好きという一面を持っていますけど、やっぱりごく普通の今時のオンナノコではないのかとも思います。
「何よ、ファーストサムライって」
分からないことをすぐに聞くのは悪い傾向かもしれません。でもきっと調べられるとぼくがなぐられてしまうにちがいありませんので、その間にこっそりとお話は始まってしまうのです。平成13年6月3日日曜日、樫宮学園に入って初の難関、中間試験を終えて間もなく、今日も今日とて樫宮学園とその周辺でのできごとのこと。
マイソード!
◇
やや色の落ちた茶系のショートカットが印象的な、松本ひなたと青葉が出会ったのは彼女がこちらに入学してきて間もなくのことでした。でもこの文章には少しだけ嘘が入っているかもしれません。青葉が最初に見たひなたは金属バットを手にした少女であり、その次に見たひなたも金属バットを手にした少女であり、お互いの性格からか、いつの間にか親しくなった彼女はやっぱり金属バットを手にした少女でした。多少の外見より金属バットの方が印象的に見えてしまうのは余程問題かもしれませんが、印象なんてものは評価者によってまちまちになってしまうものでもあると思います。
「ひなたん、やっぱり剣道部入らない…よね」
「うーん。かけもちじゃあ陸上部けっこう大変だからなあ」
「惜しいなあ、せっかくいい太刀筋してるのに」
こんな会話をする娘たちに普通の印象を問うことがどの程度の意味をもつのかは疑問です。青葉の見たところ、ひなたの太刀筋ならぬ金属バット筋は一見予備動作も大きくて振りも大きいのですが、人にも公共物にも見事に当たらないように豪快に振り回す様はある意味職人技にも見えました。
そもそもひなたがなぜ金属バットを普段から持ち歩いて、あるいは振り回しているのかは誰も知りませんでしたけれど、とりあえず誰でも知っているのはたいていそのバットに狙われるのが小柄でやや丸みのある少年、木佐茂や細身で繊細な外見の星野瑞季だということでした。瑞季にいたってはひなたの幼なじみでもあり、彼女の曰く、
「昔はよく泣かされてた所を助けてあげたりしてたんだけどね」
最近は何かとちょっかいを出してくる茂や瑞季に手が出てしまう、もといバットが出てしまうということですが、そもそも昔いちばんよく瑞季を泣かしていたのが当のひなたであるということは都合よく忘れられているみたいでした。
まだ梅雨に入るには早くて、たびたびの雨はあってもその日日曜日は快晴の一日となっていました。バスケットに詰め込んだ昼食を持って近くの田坂公園に向かう少年少女の一行は、健全であると同時に賑やかな場所で過ごすには予算が足りなかった人々でもあるのでしょう。もっとも、中間試験前の夜夜中に室内に篭って知識の漬け物を詰め込んでいた者たちにとっては、日の光の下で風を受けることへの欲求はおさえがたいものがあったのかもしれません。これでも優等生グループの端っこに引っかかっているひなた達も、知識を詰め込む代わりに日の光を身体から追い出していた組でした。
「うーん、いい天気」
「なあ、少しくらい荷物持ってくれよ」
「だーめ。男でしょ」
あくまで一般的に日本の風習としては、こういう時にバスケットに詰めた昼食は女性陣が用意している例が多いのかもしれませんが、自分で朝焼いてきたパンを詰めたバスケットを他の手荷物と一緒に持たされている瑞季は、公園の雑木道を歩いて大きな田坂池の前にある広場に向かいながら、新鮮な空気を淀んでいた肺いっぱいに吸い込んでいました。視線を横に、木の根本に何やら見つけたのか屈み込んでいる茂に声を掛けます。
「茂、こないだみたいに銀杏の拾い食いとかするんじゃないぞ」
「阿保か。こんな季節に銀杏は落ちてねーよ」
相変わらず仲の悪い二人。その後ろから楽しげに付いてくる幾人かのうち、重そうな荷物を両肩に担いで歩いているのは小林ミイケでした。瑞季たちより一つ上の二年生ですが同じ地元の出身で、一見目つきの悪い怖そうな人に見えなくもない彼は、ひなたや瑞季と同じ陸上部に所属する先輩でもあって、更に実家がラーメン屋で本人はかつて伝説の「イモリの黒焼きラーメン」を開発、売り出そうとして話題になったこともあるせいで、この近隣では一種の有名人として顔が広く売れていました。その横を静やかな足どりで歩きつつ、長い黒髪を気分のいい風に揺らせながら亀宮氷雨がミイケに気づかうような声をかけます。
「先輩、大丈夫ですか?ありがとうございます」
「なーに、松本もそうだけど、こないだの試験で理数教えてもらった礼だと思えば軽いもんだ」
かっかと笑うミイケに氷雨は笑みをこぼします。
「そう言って頂けると嬉しいです。私もまさか先輩に勉強を教える事があるなんて思ってもいなかったですし」
氷雨本人には悪気はないのだと思いますが、事実は往々にして人を傷つけるものでもあったりはするのです。氷雨のことばに笑顔を凍り付けているミイケにしても、もちろん陸上部の後輩やその友人に試験勉強を教わっているようでは問題があると思いますが。
◇
大きな池の見える公園の一角、短い下草の生えた上にシートを敷いて休む男女。既に風を受けて寝入っているミイケや指先につまんだ芋虫を興味深そうに眺めている茂とそれを非難がましい目で見ている瑞季、本格的にお茶を立てているのが場違いにも見える氷雨から少しだけ離れたところで、池に張り出した木に登っているひなたと、拾った長い棒切れを手にその幹の横に立っている青葉。平和な風景ではありますが、子供っぽい行動をしている幼なじみに視線を向けた瑞季が、
「ひなー、お前もいちおう女なんだからさ」
「何よ?別にスカートはいてる訳じゃないし」
見える訳じゃないでしょとキュロットの裾を軽くつまんでみせるひなたに、そういうことを言っているんじゃないと瑞季。ひなたが腰掛けている太枝の先は完全に池の上に張り出して垂れ下がっていて、そこには公園などで見られるにはとても珍しくなったモリアオガエルの卵がぶらさがっていました。恐らくは水面が高い位置にあった時期に生みつけられた卵で、そういったものに興味を引かれること自体が女性としてはどうなのかと思いつつ、仕方ないなと瑞季は腰を上げました。
ひなたはもう少しだけ枝を前に進み、泡につつまれた卵の様子を見ようとしていました。すでに彼女の足下は完全に池の水面に出ていましたが、経験からくる計算では彼女の能力も枝の強度もまだ充分に耐えられる範囲にある筈でした。
モリアオガエルの棲む条件は水質がきれいである事。自分の生まれ育った一ノ蔵にある公園で見つけた卵はひなたにとってとても大切なものに見えており、それが彼女に好奇心あふれる少年のような行動をとらせた原因でもあったでしょう。ですが、ひなたに計算を間違えたところがあったとすれば、彼女の重さでたわんだ枝が垂れ下がり、枝先の卵がより水面に近くなった事、そしてその水面上に波紋が広がり、その下に大きな魚の影が現れたことだったでしょう。それこそ跳ね上がれば簡単に届きそうな高さに。
「ひなっ、下に魚きてるぞ!」
「え?え!わたたたっ!?ちょ、ちょっとタンマ!」
誰に待ってというつもりなのか、慌てて枝から戻ろうとするひなた。もっとも、そんな不安定な場所での動きがそれほど俊敏にいくという訳もなく。水面に上がる波紋が彼女にはとても危険なものに見えていました。刹那、青葉の立っていた場所から伸びる影。
ひゅんっ
それは心得の無い者には神技にしか見えなかったかもしれません。スナップを効かせて青葉が鋭く突き出すように投げた棒切れが卵を突くでもなく、魚を突くでもなく、魚が飛び上がろうとしたその軌道を横切って鼻先に当たり、軽くはじかれた枝と魚はそれぞれ水面に落ちていきました。無論、卵の一つを落とすこともなく。
「あ、青葉凄…ってわ!わわっ」
ざっぱーんっ
感嘆して我を忘れていたひなたは自分のいる場所と姿勢も忘れていたらしく、バランスを崩すと水面に派手な水しぶきを上げました。幸い、枝から下がっていたせいで卵のついた枝先はそれほど揺れずにはすんでいました。水音にちょうど目を覚ましたミイケや視線を向けた茂らに向けて、氷雨の穏やかな声が響きました。
「皆さん、お茶ができましたよ」
◇
この後、田坂公園の池のほとりに「木登り禁止」の立て札がかけられる理由もやはり彼ら彼女らだけが知っていることになるのですが、多感な少年が水に濡れた幼なじみの姿に不思議と恥ずかしげな顔を浮かべたり、公園の芋虫の数がその日一匹少なくなっていたり、いきもの飼育同好会がモリアオガエルの観察を始めるようになったのはその後のお話です。
おしまい
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