ひなたで過ごす
星野瑞季。細身で繊細な外見を持つ少年には、幼いころから付き合いの続いている親しい友人が幾人かいました。地元で生まれ育っている少年にとってそれは少しも不思議なことではありませんでしたけれど、そのうちの一人である普通は幼なじみと呼ばれるその少女が少年にとってとても身近な存在であったことは間違いがありません。松本ひなたという名のその少女は、元気で短気で負けず嫌いで、時としてまぶしいくらいの生命力のかたまりに見える女の子でした。
◇
平成13年6月21日木曜日。比較的高地に位置する古坂町では、たとえ梅雨とはいえ雨が多くてもそれが耐えようもないほどに蒸し暑くなる例はよほど少なくて、白い樺の木々の間を流れる湿った空気は冷たくてむしろ気分がいいくらいのものでした。古坂町にある私立樫宮学園、学生たちはもう四月の新年度に浮き足立つ時期をとっくにすぎて、五月の疲労と無気力が新鮮さを失わせる時期もとうにすぎて、この時期には環境にも慣れ親しんで、自分の新しい生活を見返す余裕も出始めていました。
もっとも、この年代の学生たちにとっては今この時その目の前にあるものこそが、彼ら彼女らの世界のすべてであったかもしれません。過去ではなく未来でもなく、今そのときを全力で生きるなら余裕はすなわち全力の範囲と場所が増える、ただそれだけのことではありました。
この頃になると、部活動にしても倶楽部活動にしても、進学校である樫宮学園では一部をのぞくたいていの三年生は受験勉強のために一線を引いている場合が多くて、新しい指導者となる二年生と新しい戦力となる一年生とが協力あるいは反発しあって新しい体制をかたちづくるようになっていました。星野瑞季や松本ひなたの所属する陸上部では、二年生では短距離の小林ミイケと、長距離ステイヤーの帆掛夏歩の両名が特に期待されているようでしたが、ミイケは実家のラーメン屋を継ぐことを目指し、夏歩は掛け持ちの演劇部にも力を注いでいました。
一年生の中でも例えば瑞季などは美術部と陸上部を兼任していましたし、本人が責任を持って活動できるかぎり、という条件で樫宮学園では部活動の掛け持ちが認められていましたが、例えばひなたのように陸上部一本に専念している人間にしてみれば、掛け持ちには負けたくないという心理も当然働くことはあります。もっともそれほど深刻なものではありませんし、元来個人競技に携わる者が他人に負けたくないと思うのはしごく当然のことではあったでしょう。
陸上部では三年生の多くは夏の高校総体を目指し、それが追わった者は即引退となるのが慣例です。それを見越して部内は既に二年生中心の新体制となっており、新戦力を期待される一年生への練習もこの時期には既に本格的なものとなっていました。特に中学の部活動とは異なり、例えば短距離なら瞬発力を強化する為の筋力トレーニング、長距離なら持久力を強化する為の心肺トレーニングなど、練習もより専門的で目的のはっきりしたものとなります。
「ほーら、あと10かーい」
珍しく後輩の練習を指導しているミイケ。小雨のふる校庭から体育館に移っての屋内練習は、瑞季や北城瞳といった短距離、跳躍系の選手の瞬発力を強化するために足に重りをつけての腿上げを行わせていました。
「いーち、にー、さーん、しー…」
ミイケの声がリズミカルに響きます。
「ごー、ろーく、しーち、はーち、なーな、ろーく、ごー…」
「せ、せんぱーい。勘弁してくださーい」
悲鳴をあげつつ腿上げを続ける瑞季と瞳。これが延々と繰り返されますが、体育会系なんてそんなものです。しぼりつつ筋肉をつけるのは短距離や跳躍選手の基本ですが、これがひなたのような中距離系の選手になると多少事情が変わってきます。隣りで腿上げをさせられているのは一緒ですが、彼女の足には瑞季や瞳が使っている重りはついていません。こちらは夏歩が手拍子でリズムを取りながら、ひなたの練習を教えています。
「どーだ松本、重りがないから楽だろ?」
「せ、せん、ぱい。いま、話す、のは、ちょっと…」
代わりにミイケの倍の速さでリズムをとる夏歩。そのリズムで動かされているひなたは当然、一緒に行っている瑞季や瞳より腿上げ自体の回数も倍の数を数えることになります。スタミナと瞬発力の両方が必要になるのが中距離走でしたから、両方のバランスをとりながら鍛えるのも当然のことでした。いずれにしても、この後で周囲に一年生たちの屍が横たわることになることには変わりありません。そして、ミイケや夏歩に限らず二年生が同じ練習を軽々とこなしていることも歴とした事実でした。
◇
校門前の急な坂道を下って帰る三人。瑞季と瞳、ひなたに華道部に出ていた亀宮氷雨が待ち合わせをして四人となり、日の長い夏至近くの夕刻を歩いていました。あまりに疲れの見える三人に気遣わしげな視線を向ける氷雨。長い黒髪を揺らしながら、おだやかな声で隣を歩いている瞳に話しかけます。
「大丈夫ですか?少しお茶でも飲んで休んでいきましょう」
「そ、そーだね氷雨チャン。ありがと」
健全な提案に同意すると、駅前の甘味所に腰を落ちつける四人。経済力の豊かではない学生にとっては安ければファストフードでも何でも良いのですが、この際は甘味所にある畳のある座敷が特に重要でした。
座敷席でゴミのように突っ伏して座っている三人と一人。これからお茶か華道を始めるかのように礼儀正しく座っている一人がいることが、不思議と甘味所の店員にはうるさいことを言われずにすむ理由になっているようでした。しとやかに座ってメニューを開き、注文を順に聞いている氷雨に、三つのゴミの一つであるひなたが話しかけます。
「そーだ氷雨。今日帰ったら理数教えてくんない?」
「構いませんけど、今日は休んだ方がいいんじゃないですか?」
氷雨とひなたが寮の同室であることは当然瑞季も瞳も知っていましたが、いくら期末試験が近いとはいえその姿は少しくあるいは大いに無理をしているようにも映りました。大丈夫かと心配のことばを掛ける瞳にややあいまいな笑顔を返すひなたを見て、昔からその顔を何度も見ている瑞季は説得の無意味さを知っていました。
まじめで正義感が強く、負けず嫌いな女の子。些細な学内のイベントとはいえ先日来、寮生対抗の新入生歓迎会では先輩の男子生徒相手に腕相撲で挑んで敗北したり、一月ほど前の中間試験では学内上位に入ったとはいえ氷雨には及ばなかったりと、不本意な「戦績」が続いていることはたしかでした。理想が高いだけ、といったらそれまでなのかもしれませんが、ひなたの向上心と負けず嫌いが生命力のかたまりみたいな彼女の原動力になっていることを幼なじみの少年は昔から知っていました。
甘いお菓子と熱いお茶。ひとときの小さな回復を行うと、店を出た四人は家と寮への道を急いでいました。特に寮住まいで体育会系の瞳やひなたにしてみれば、帰ってシャワーを浴びて湯船に浸かることは毎日の急務となっていました。男女を問わず、大勢の寮生が汗をかいてつぎつぎとお風呂に入れば、時間が遅れるだけきれいな湯船とは縁が遠くなってしまうものです。
道を急ぐ瞳とひなたの後に続いて、並んで歩いていた氷雨と瑞季が話をしていました。なんとなく歩くにも隣りの瞳と併走しているかに見えるひなたを見て、あいつ昔から負けず嫌いだからなあ、と話す瑞季に氷雨が小さく笑います。
「でも瑞季さんはひなたさんには負けられませんものね」
何かを見透かすような氷雨のことば。おだやかで物腰の柔らかいことばの中に、完全に知りようもない真実の一端が潜んでいるように瑞季には聞こえました。歩みの遅れる二人に不審そうな視線を返した瞳とひなたとが、どうしたのと声をかけてきます。心得顔で氷雨も返事を返しました。
「日が落ちてきましたね。さあ、急ぎましょ」
◇
その日の陸上部の練習はトラックでの実践トレーニングとなっていました。基礎体力を身につけることは一年生にとって最も重要なことではありましたけれど、体力測定が彼らの種目ではありませんから、トラックでの種目の実践も無論たいせつなことでした。練習で強い選手より本番で強い選手を育てるためには、本番かそれに近い練習を積ませることや、それで競争心をあおることはとても大事なことだったでしょう。
「ひな、一緒に400m走らないか?」
「珍しいね。瑞季がわたしに勝負挑んでくるなんて」
短距離専門になりつつある瑞季にとって、800m走ではひなたにはもう叶わないと思っていましたが、400mならまだ自分の持久力を持たせる自信くらいはありました。それに氷雨に言われたことばではありませんが、華奢で繊細にも見える少年には、ひなたに負けられないと思う正直な気持ちがあったのです。
(掛け持ちでやってる以上負けられないからな)
美術部との兼任で陸上部に出ている瑞季としては、それだけにどちらにも力を抜くようなことはできませんでした。少なくとも今自分の隣りで気合いを入れている少女は、そんな中途半端を認めてはくれないでしょう。その少女を相手に今の自分の力を試してみる必要が瑞季にはありました。
スタート地点に構えると、状況に楽しそうな顔をしているミイケの叩く手の音で二人同時にスタート。最初のコーナーを抜けてコース分けが無くなる瞬間、先行したのはひなたでした。瞬発力に勝る筈の瑞季はその後ろについて追走、二人とも将来を期待されるだけのことはあるスピードで、数分にも満たない時間を全力で走り抜けます。途中でペースを落として様子を見るような余裕は400m走という種目にはありませんでした。
ひなたと瑞季の差は開かず、縮まりもしないまま最終コーナー。先行したひなたがそのまま逃げ切るかと思われた一瞬、直線に入る瞬間わずかにコースが外側にふくらんだ隙間をすり抜けた瑞季が先に立ち、そのままゴールしました。思わず右手で小さく握り拳をつくる少年。
「勝ったぁーっ」
「くっそぉぉぉ、負けたーっ」
しばらく走ったあと、屈み込む二人。心底悔しそうな顔を浮かべるひなたに瑞季は笑顔を浮かべていました。
「中距離は駆け引きもないと勝てないぜ?帆掛先輩に教わっただろ」
もちろん外見や口調ほど瑞季に余裕はありませんでしたし、切れそうになる呼吸を強引に抑えて話すのは並大抵の苦労ではありませんでした。幼なじみに負けたのが余程悔しかったのか、目の前で早くも再戦を誓って気合いを入れ直している負けず嫌いな向上心のかたまりを見て勝ち誇る以上に瑞季は安心していましたし、さらにそれ以上の満足感が多少の苦労は忘れさせてくれていました。
(…負けたらひなは俺のこと視界の外にやっちゃうからな)
その自然な気持ちがどういう感覚であるかを知るのには、幼なじみという関係は少しく期間が長すぎたのかもしれません。
もうすぐ夏が近づいていました。
おしまい
>他のお話を聞く