ひなたで過ごす


 北城瞳。樫宮学園に陸上の推薦で入学した少女は、小柄で年齢に比してまだ幼く見えなくもない外見をしていましたが、粗削りながらその将来を充分に期待されている能力を持っていました。彼女の出身地である和歌山に比べればここ長野県近隣の陸上競技の選手層は遥かにレベルが低く、年齢柄基礎的な身体能力のトレーニングまでしか行っていなかった彼女でも殆ど比肩できる相手がいないのではないか、とその時までは思われていました。もともと彼女の活躍によって本来進学校である樫宮学園に優秀な運動選手を呼び込もう、というのが推薦入学というものの本来の目的であったでしょうから、それはちっとも不思議なことではありません。
 ですが瞳が入部してすぐに出会った松本ひなたと星野瑞季という二人の同級生は、地元出身で普通に進学してきた生徒であるにも関わらず、瞳と並んで陸上部で将来を期待しうるだけの能力と実力とを持っていたのです。人なつこい瞳はこの二人のことが好きでしたし、それだけなら少女にとっても仲の良いライバルがいてくれた、というだけで済んだのかもしれません。ただ、本来進学校であるここ樫宮学園に入学しているだけあって、ひなたなどは学業でも充分程度の成績も治めていましたし、瑞季のように美術部と陸上部をかけもちしてそれぞれで活動を行っている者もいました。図らずも先日の中間試験で落第点すれすれの点数を取ってしまった瞳にしてみれば自分の居場所を問われるような気がして、親切に勉強を手伝ってくれるひなた達へのありがたさと申し訳なさもなくはなくて、多少は平静でいられないようなところもあったのです。

 平成13年7月3日火曜日。梅雨を忘れさせる夏空としかいいようのない晴天が続く一日、救いがあるとすれば吹く風が辛うじて冷ややかさを残していることだったでしょう。それでも脆弱なオトナに比べれば健全な学生にはプール開きが待ち遠しく、焼けた肌に水を浴びる感触を心に思い浮かべていたであろう頃、長野県は古坂町にあるここ樫宮学園では、短い梅雨が過ぎつつあって熱い夏の季節が訪れようとしていました。

「ていっていっていっ」
「振りが大きーい」

 まだまだ日の高い放課後のいっとき、校庭の一角。いつもの愛用の金属バットではなく、スポーツチャンバラ略してスポチャン用のステッキを振りまわして、松本ひなたと不来方青葉が剣の特訓らしきことをしていました。期末試験の期間中という事もあり、その日の放課後は部活動が休みとなった空いている時間。世が根性論に支配されていた頃に比べると休養とか休息とかいったものの重要性も認識されていますので、もてあました時間で試験勉強の為にまっすぐ帰る者もいれば自主的にトレーニングをする者もおり、もちろん友人と遊びに行く者もおりました。ただ友人と暴れ回る者は少数派であったにちがいありませんけれど。
 本人曰く振りまわしやすいという慣れ親しんだ金属バットとは勝手が違うとはいえ、豪快に振りまわされるひなたの剣さばきを全て受け流してしまう青葉はさすが剣道の都大会準優勝者だけのことはあったでしょう。剣道の動きといえば相手の僅かな予備動作から攻撃を予測し、その隙をついて

「めーんっ」

と鋭い一太刀を打ち込むというものでした。柔らかいステッキでの一撃でも力を集中すれば目の奥に火花が散る程度の攻撃力はあり、ひなたはのけぞるように身体を反らせると額を押さえました。

「きいたー」
「あはは、ひなたん大丈夫?」

 邪気のない笑顔で青葉。悔しがりつつも腕を振って再挑戦するひなたを見て、元気だなあと思いつつ瞳はある種のうらやましさも感じていました。ひなたとは同じ女子寮でたまに部屋を訪れたりもしているのですが、意外に試験勉強はあまり夜遅くまでしていないらしく最近は自分の勉強の手伝いによっぽど来てくれている様にも見えてしまいます。それでも今日も朝早くからジョギングをしていたし、校門前の通称「学生殺しの坂」を元気に駆け上って登校している様子を見たりすると、

(そういえば動くのを止めると死んじゃう生き物とかいたかなあ…)

とかくだらないことを考えてしまったりもするのでした。ひなた本人に言わせると普段身体を動かしていたほうがよく眠れて早起きできるし、試験勉強なんてモノは毎日の予習復習をきちんとやっておけば大抵はなんとかなるものらしいのですが。
 瞳の横に、その日の掃除当番を終えた星野瑞季が肩鞄をさげたままあらわれると、青葉との特訓?を見てこれ以上ひなたの戦闘力を上げてどうするんだという顔で胃のあたりをなでまわしました。このところ金属バットの軌跡が鋭く、避けるのが厳しくなってきたのは決して瑞季の気のせいではなかったでしょう。幼なじみの心に気づいたふうもなく、一段落ついて瑞季の姿を見つけたひなたの表情が変わると、ステッキを降ろして放り投げてあった自分の荷物にてててと駆け寄りました。

「瑞季。掃除当番お疲れさんっ」

 いつものバッグから取り出して、瑞季に放って渡したのは新品らしいシューズでした。

「な、なんだよ…これ」
「何って、誕生日のプレゼント。今日でしょ?」
「あ…ありがと」

 普通プレゼント放り投げるか?剥き身で包装とかしてないのって女の子としてどうなんだ?いや、確かにプレゼント自体は嬉しいし良さそうなシューズだしサイズもぴったりなんだろうけどさ。あまりにも幼なじみらしい贈り物に感謝しつつ、瑞季の脳裏にいろいろな考えがよぎったのも仕方のないことではあったでしょう。
 学生にとってスポーツシューズはけっこう高額なものである筈でしたから、ひなたの好意は瑞季にはとても嬉しいものである反面、これはこないだ400m走で負けた雪辱戦の表明でもあるんだろうなあとも思えてきました。複雑な感慨にふけっている少年を余所に、背後からかけられた青葉の声に「特訓」に戻るひなたを見て、瑞季の口からため息とも慨嘆ともつかないつぶやきが漏れました。

「…あのエネルギーはいったいどこから来るんだろう」
「でも良かったね。お誕生日おめでとう」

 どんぐりまなこで無邪気に笑う瞳を見て、瑞季はそういえば瞳もこないだの400mでひなたを抑えてたよなあと先日の記憶を呼び起こしていました。この娘も気をつけないとひなたの負けず嫌いの標的に…と思う一方で自分の陸上の記録がここまで伸びているのも昔からひなたと競い合っていたせいじゃないかという気もしていました。陸上部期待の新人三人、が同年の他の部員の追随を許さない記録を残しているのも案外そのあたりにあったのかもしれません。
 瞳なんかにしてみれば推薦入学である以上、他の生徒には負けられませんし瑞季にしたところで美術部掛け持ちやら演劇部の助っ人やらで奔走する中で、陸上は疎かになっていましたということでは幼なじみのバットの錆になる運命が待ち受けているだけだったでしょう。負けず嫌いとか向上心とか好奇心とか憧れとか、ニンゲンを突き動かすエネルギーというのはとても強力なものである筈でした。部活動でも勉強でも遊びでも全力疾走するひなたのエネルギーには、幼なじみの瑞季ですらたびたび圧倒されることがあります。

「俺も負けないようにしないとなあ」
「大丈夫ですよ。期末試験ではひなたさんは私に返り討ちに遭いますもの」

 いつのまにか現れていた亀宮氷雨が、長い黒髪を風に揺らしながら瑞季の後ろに立っていました。いつも穏やかに笑っていて、なんの悪気もなく言ったことをごく自然に実現してしまうこの娘が、あるいはいちばん侮れないかもしれない、などと少年は思っていました。それとも知り合って半年もたたない同年の友人たちのことを、すでにいちばん把握しているのが目の前のおっとりしたオンナノコであったのかもしれません。
 友人を待つ時間。明日の試験科目に理科選択の生物が入っているという大義名分もあり、その日の放課後は通称生物部に立ち寄る予定になっていました。


 通称生物部。生研と書いてナマケンと呼ばれることもあるその倶楽部活動は、まだ部活動として正式に学園には認められていませんでした。幾人かの生徒が自分の興味の発端からたちあげた生物研究会といきもの飼育同好会とが共同し、文化部棟の一角を借りて生研は構成されていました。部員五人+顧問の教師で部としての申請が可能になるまではこういった居候生活を余儀なくされるわけですが、もちろん厳しい生存競争のなかでも持ちつ持たれつという言葉は存在します。ひなたたちを出迎えつつ、木佐茂は生物の習性と遺伝に関する資料を借り物の棚から持ち出してきました。

「まー文化部は予算は食うけど運動部ほど場所は食わないからな」
「一番食うのはおまえの食費じゃないか?」
「うっせーぞ瑞季。ひやかしでもそうじゃなくてもお前は帰れ」

 あいかわらず仲の悪いように見えなくもない瑞季と茂。生物部そのものはなくてもそれに関わる生徒というのは代々存在しているらしく、彼等が伝承している生物の試験にまつわるレポートの束は、生研が生き残るための最大の武器となっていました。もちろん今の世の中にはコピーという便利なしろものが存在しているのですが、ちょっとした事典くらいの厚さのあるレポートは生研の外には持ち出し禁止となっており、門外不出のありがたみすら感じさせるものでした。噂では教師陣から図書室に寄贈するよう要請があったほどで、そのときも丁重に断ったというエピソードがあるそうです。

「度々加筆されてるらしいのに読みやすいのよねえ」
「でも全部読もうと思ったら夏休みを使い果たしてしまいますね」

 ひなたと氷雨。茂から話を聞いて好奇心を刺激された二人は、これまでにも何度かこのレポートに目を通しているようでした。生研の一員は卒業までにこれに自分のレポートを一つ加筆することが求められているとも言われ、そうして代々の活動は部活動という枠に縛られることなく記録を綴ってきたのです。陸上部で個人競技に専念しているひなたには、個人の記録が代々伝えられていくシステムはある意味とてもうらやましいものに見えたかもしれません。

「わたしも残るような記録を打ち立てるぞ、なんて考えてたろ」
「え?なんでわかったの瑞季」
「んなこたー瑞季でなくてもわかるぞ」

 瑞季の代わりに茂が答えました。羨望が向上心に直結するところが、この娘のエネルギーの源泉の一つかもしれません。もっとも興味のあること、好きなことに向上心がないようでは人として問題があるようにも思えますが、このエネルギーを少しわけてもらえないかしらんという思いが瞳の脳裏をよぎりました。なんだか後ろ向きな自分の発想に話題を変えるかのように、茂に話し掛けます。

「それで茂クンたちは何のレポート書くつもりなの?」
「食べられる生き物について」
「カエルの背と腹の色の違いについて」

 茂の声に続いて、横合いの高い位置から声がかかります。女性ながら2mに届こうとする長身、ロシア人とのハーフだという容姿と長いポニーテールに結んだ銀髪の持ち主はナーサティア・月村という名前でした。一年生ながらたいへん大人びていますが現に実年齢は19歳に達するということらしく、日本に移住することになった今年から樫宮学園に通うことになったそうです。やたら存在感があるわりに発言が少ないためにとっつきにくいと思われがちですが、書くのは苦手でも日本語の会話も充分にできるので目の前の友人も含めて交友は決して少なくはありませんでした。友人だけでなく多少ファンの比率が多いのが問題ではあったかもしれません。
 そのナーサティアがいきもの飼育同好会に入り、先日田坂池から採集してきたモリアオガエルの飼育と観察を熱心に続けているさまは奇妙に見えなくもありませんでした。モリアオガエルの産卵期は五月から六月にかけてであり、採集された木の枝に産み付けられていた泡状の卵は、今では大きな水槽の中でオタマジャクシとなって泳ぎ回っています。

「兵隊になったら池に帰す」
「成体…ね?」
「そうとも言う」

 多少の日本語の間違いはありますが、水槽を見る時の彼女の目の穏やかさを見ていると、ナーサティアがいきもの飼育同好会に入ったことは全く奇妙には見えませんでした。


 帰り道。やはり寮生活の学生たちはきれいなお風呂を確保するために早足で帰路につくことも珍しくはないのですが、ひなたが青葉と一緒に歩いている様子を見るとそれすらも何か競争しているように、瞳には見えてきてしまいました。おなじような感想を以前に瑞季が抱いていたことなど無論知るはずもなく、同じ寮暮らしの瞳にも急ぐ理由はもちろん充分にあったのですが、生来の性格のせいか瑞季と並んでのんびりと歩いています。

「でもひなたチャン元気ねえ」
「まあ、あれで苦労もしてるんだろうけどな」
「そうなの?」

 それはちょっと失礼な感想かもしれないがもっともな感想かもしれない、とそれこそ失礼な感想を抱いた瑞季は苦笑を浮かべました。例えばこと陸上に関していえば、それに専念しているひなたが瞳はともかく瑞季に負けるというのはそうとう悔しいことだったでしょう。それに瞳は推薦入学で入ってきた自分にひなたが拮抗している事にも多少のプレッシャーを感じているようでしたが、

「なあ、北城」
「何?瑞季クン」
「俺、ひなに本気で怒ったことが一回だけあるんだ」
「?」

 やや声を落として、瑞季は話しはじめました。まだ中学生の時でしたがその時も今と同じように、入ったばかりの陸上部で瑞季と競い合ったあげく、僅差で破れたひなたはあまりの悔しさにオーバーワークで倒れるまで「特訓」を行ったことがあったのです。瑞季がひなたに殴られたことは何度もありましたけれど、瑞季がひなたを平手ででも殴ったのはその時がはじめてで、それ以降はただの一度もありませんでした。

「いちおう自制してるみたいだけど、やっぱり心配でな。新しいライバルも現れたことだし」
「それって…」

 私、のこと?ひなたや瑞季に比べて、まだ粗削りにも関わらず相当な実力を持つ瞳は自分がこの二人にもプレッシャーを感じさせていることには気がついていないようでした。でも、そうすると自分はこの二人に無理をさせているのだろうか。

「だから、北城…」
「う、うん」
「これからも全力であいつを急き立ててやってくれ」
「へ?」

 どうしてそういう論理の展開になるの?

「見てて分かるだろ?ひなは競争相手がいるときの方が圧倒的に元気だ」
「うん」
「そして俺一人であいつに対抗するのはとても体力がいる」
「う、うん…そうかも」
「だから少し手助けを」

 それはなんとなくなさけないような気がしなくもなかった瞳でしたが、望むところという感情が確かにあるのも事実でした。自分の友人と全力で競い合って磨き合うというのはとても楽しいことかもしれない。そして、その楽しいということがひなたの持っているエネルギーと同じものであるということに、そのときはまだ瞳は気づいてはいませんでした。彼女が瑞季に聞いたのは好奇心にあふれたオンナノコらしい質問。

「それで、瑞季クンの方はひなたチャンに本気で怒られたことはあるの?」
「いや、それは…」

 本人曰く、二回ほどあるとのことですがその内容については教えてはくれませんでした。

おしまい


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