ひなたで過ごす
亀宮氷雨。腰まである長い黒髪が印象的な少女は、おだやかな外見にふさわしいおだやかな内面をもっているともっぱらの評判でした。東京の老舗料亭に生まれたお嬢さまは、物腰柔らかく礼儀正しく、料理と華道と着付けができて、年に似合わず知性と品性まで備えているといえば褒めすぎだったでしょうか。だからといって付き合いにくい性格かというともちろんそんなこともなくて、同年の友人たちは彼女のことをとっても好いていたはずですし、彼女のほうでも同年の友人たちをとっても好いていたはずでした。
ただ、問題があるとするなら彼女と彼女の友人たちが普通の変な人たちであったことかもしれません。個人主義のいまどきは、普通に変でない人のほうがよっぽど珍しいのかもしれませんけれど。
◇
自分の友人と競いあって磨きあうというのは、無尽蔵のエネルギーにあふれた学生達にとってはとても楽しいことでした。いつだって好奇心と向上心とを満たす楽しさこそが、ニンゲンをつきうごかすエネルギーの源であったでしょう。もちろん、どんな世界でもどんな付き合いでも競争があれば対立もあるし、気が付かないうちに不満がたまっていたりすることもあるのですが。
平成13年7月28日土曜日。しばらくつづいた猛暑も一段落して、暑いながら多少はすごしやすい一日。長野県は古坂町にあるここ樫宮学園では期末試験も終えて、一学期が終わり、学生には待望の夏休みがやってきていました。遊びまわることに全力をつくし、部活動に全力をつくし、中には補習に全力をつくさざるを得ない生徒も幾人かはいたでしょう。その翌日はニッポンという国で参議院選挙とかいうものがあるらしいですけれど、未だ投票権のない未成年にはわりとどうでもいいコトではありました。
「でもアントニオ・ホドリコ・ノゲイラが勝ったからいいや」
翌日の選挙ではなく書き手の個人的な感想でもある翌日の試合結果のひとりごとを呟きながら、やや色の落ちた茶系のショートカットをわずかに揺らして松本ひなたは女子寮の門を駆け出しました。日の出が早い季節の朝日を浴びて、軽快な動きでジョギングを始めると、その姿はすぐに視界から消えてしまいました。ひなたと同室の氷雨もやはりとうに起きていて、長い黒髪を時間をかけて櫛でとかしながら身支度をととのえており、ルームメイトの戻りにあわせて早い朝食を食べる予定でした。その部屋は樫宮学園女子若葉寮で、おそらく最も朝の早い一室ではあったでしょう。
この時間、体育会系の人間が早起きして走り込んでいる例は決して稀少というわけではなくて、例えばひなたの幼なじみにして陸上部のライバルである少年、星野瑞季も最近は早朝に走っていることが多く、先日はひなたと一緒に走っていたという話しも氷雨は同じ寮の先輩、麻生史緒から聞いています。気心のしれた幼なじみということもあって何かとそういった噂にあがることの多い二人でしたけれど、今日もお互い一人で走っているんだろうなとは氷雨の推測する、そして厳然たる事実でした。瞬発力を筋力トレーニングで強化する自信のある瑞季は、持久力をつけるためにいわゆる長時間のジョギングをひたすら続けていましたし、等間隔でダッシュとジョギングを繰り返すひなたの様子はシャドウボクシングをしないのが不思議なほどでしたけれど、瞬発力とスタミナの双方をきたえるにはとても有効な練習でした。
「だって一緒に走ってたら同じ練習しかできないから」
ばらけないように軽く束ねた長い黒髪をはずませて、その日は瑞季と一緒に走っていた史緒が後輩から聞いたことばは、以前彼女がひなたから聞いたものとまったく同じものでした。
北城瞳はその頃まだ夢の世界にありました。小柄で幼い身体をまるめて眠るその様子は人によってはそれこそ天使のように、と表現したくなるようなものだったかもしれません。昨日の夜、同室の天文部員、五島小夜に見せてもらった天文の図鑑に長く魅入っていたのがまどろみの原因であったにちがいありませんけれど、瞳が朝弱いのは別に小夜のせいではありませんでした。そもそも彼女はやっぱりとっくに起きていて、二人分の朝食ができた頃そのにおいにつられて起きてくるのが瞳の日課になっていました。
「瞳ちゃーん、パンが焼けたよー」
その日は補習組の生徒が早起きをする必要があったことを小夜もすっかり忘れていて、マーガリンをべっとり塗ったパンをくわえたまま寮から学生殺しの坂を越えて校門までの記録を更新するのが瞳の毎日のトレーニングになっていました。そもそも昨晩、彼女は勉強もそこそこに天文の図鑑を読んでいた筈なのですが。
帯電体質にして家電クラッシャーの異名をもつ不来方青葉は極端に電化設備の少ない部屋で寝ていました。一年生にして樫宮学園女子若葉寮のエアコン設備をぶっこわした前科さえ持つ彼女は頼れるぜんまい式時計で目を覚ますと、頭の下にしいてある氷嚢の位置を直して堂々と二度寝に入りました。
そして、日が昇って暑くなるまで目覚めませんでした。
◇
9月に新人大会を控えた高校の部活動ともなれば夏休みといえども練習があるのは当然で、もっとも進学校の樫宮学園では一日の休みもなしに毎日が部活動というほどのこともありませんでした。人間が肉体の疲労をとるために必要な時間が小筋で48時間、大筋で72時間というのは生理学的な根拠のもとに示された数値であったりはしますけれど、そのまえに鍛えておくことというのはもちろんありましたし結局はその部活動ごとに定められていたのは間違いありません。ひなたや瑞季、瞳の所属している陸上部はその中でも練習量の多い部類に属していました。瞳は午前中の補習に出る必要がありましたから、その日はひなたと瑞季の快速が目立っていましたけれど。
「よーし、瑞季11秒8!」
周囲に軽いざわめき。練習で100m12秒を切る高校一年生は、確かに期待の新人の名に恥じませんでした。それでも中学生まではひなたも瑞季に迫ることも多かったのですが、高校生になって更に記録が伸び続ける男子に彼女は複雑な思いを抱いていました。中距離志向のひなたの記録は100mで14秒を切る程度、幼なじみにはとてもかなわない上に得意の400mでも瑞季の記録はひなたの最高タイム58秒0に近いものがありました。
高校生ともなると記録に男女差が大きく現れるようになるのはめずらしいことではありませんでしたが、幼なじみで女の子のような外見で陸上部だけでなく美術部との掛け持ちや演劇部への助っ人や…関係ないことまで気にしてしまう思いがひなた自身にはとても複雑で、はっきり言うと多少いまいましくもありました。
「ふにー。練習より疲れたあ」
補習に出ていた瞳が合流したのは日があるていど昇ってからのことでした。その日は土曜日で陸上部の練習は午前中だけでしたので、挨拶程度で一緒に練習できないということが瞳にはとても悔しく思えました。もともとスポーツ推薦でここ樫宮学園に入学した彼女が進学校であるこの学園の授業で苦労するのはしかたのないことだったかもしれませんが、友人兼ライバルが走り回っているのを余所に机にしがみついていなければならないというのはとてもつらいものがあったでしょう。それでも一時間程度、存分に汗を流していったのは競技者としての瞳のプライドでもあったのでしょうが。
「んーとね、バーの上を跳ぶんじゃなくてバーが自分の下を通ってくの」
「イメージかあ…そういうの苦手なんだよなあ」
9月の新人大会には女子七種競技というものもあるらしく、好奇心と向上心で動く前向き100%娘のひなたが興味を示さないわけがありませんでした。瞳にすすめられて走投跳の練習を積んでいるひなたでしたが、走り高跳びの県代表候補の指導はまだ少しばかりハードルが高いようにも思えました。ハードルというよりバーが高いようにも。
青葉は剣道部の道場に顔を出したりはしていますけれど、本来マネージャとして入部を希望していた彼女としては今の正式部員待遇どころか新人戦の切り札のように思われているのはとても困ってしまう事態でした。もちろん中学生剣道都大会準優勝の実績と実力を持っていることを思えば彼女の待遇はもっともなものでしたけど、
(…個人戦の長丁場戦いきる自信なんてないよ)
生来持病があって激しすぎる運動のできない青葉は秋の新人戦、個人で勝ち残るだけの体力をもっていませんでした。都大会でもそれで棄権せざるをえなかったほどで、部員の少ない剣道部で一年生だけの団体戦出場なんて無理でしたから、彼女としてはせめて団体戦の選手として上級生とチームを組みたいところでした。
それぞれが意にそわない問題をかかえつつ。
◇
午後の時間。その日は夕刻から田坂池の周辺でささやかな夏祭りが行われる予定でした。陸上部が切り上げられる理由の一つがそこにあったことも疑いなくて、夕刻に再度の待ち合わせを約束した学生たちはいったん家なり寮なりに帰って汗を流したあと、それぞれの時間を過ごしていました。
「あ。ねー瑞季、これなんかいいと思わない?」
「そーだなあ」
買い物に興じる女の子二人、に見えなくもないひなたと瑞季。少年の細身で繊細な外見が女の子のようだと例えられるのは、ひなたにとっても瑞季にとっても不本意なことではありました。やや色の落ちた茶系のショートカットを傾けて、あらためて幼なじみの顔を見るとひなたはやっぱり複雑な感情を持たずにはいられなくて、目の前の「これ」が可愛いということが彼女にはとてもとても不本意でした。ファッション系でないたんなる町のスポーツショップで、夏の部活動や臨海学校に向けてスポーツドリンクのボトルだとか汗拭き用のリストバンドだとか実用的な買い物をしていることが、いわゆるデートと呼べるようなモノであったかどうかについては多少意見が分かれるところであったかもしれません。
もちろん経費は自己負担です。
正式な部活動ではないにしろ、とりあえず部室として割り当てられている一角でじっと水槽にいるモリアオガエルの目を見つめているような時間の過ごし方もあるわけで、生研では小さな水槽が隠れるほどの長身で、長い銀髪のポニーテールを揺らしたナーサティア・月村がただじっと水槽を見つめていました。こちらは餌用も兼ねて飼っている芋虫の篭の前に腰掛けた木佐茂も、やや丸みのある顔を向けて篭の中をじっと見ていました。
(かわいい…)
(うまそう…)
彼らはあまり意にそわない問題はかかえていなかったかもしれません。それでも敢えて挙げるとすれば、ナーサティアあたりは小さくてかわいい小鳥を飼いたいのになんとなく言い出せないことくらいでした。何かを考えているのは間違いない茂が何を考えているかは意外に他の人には測れないところがありました。
樫宮学園女子若葉寮107号室。浴衣の着付けだって和服としてのきちんとした着付けの技術と知識は必要でしたから、着るものに気をつかうオンナノコたちとしては、専門化の部屋にあつまるのも当然ではあったでしょう。ミニ浴衣否定派の私としては当然普通の浴衣ですけど、個人的には浴衣や甚平よりも作務衣を着るのが好きなのです。
「裾をおろして。できましたよ」
「ありがとー氷雨ちゃん」
専門化どころか、華や茶を立てるときに和服を着る機会も多い氷雨に頼って、瞳や小夜は、青葉でさえも浴衣の着付け指南を受けにその部屋を訪れていました。多少失礼な表現がまじっているかもしれませんが、もちろんひなたでさえも瑞季との買い物を終えたあとには寮に帰ってきて、浴衣に着替える予定になっていました。早朝のジョギングに、陸上部の朝練に、午後から買い物に行って、夜のお祭り。
「なんだか艦載機みたいよね」
「あおぴー、それはちょっとひどいかも」
悪意のない毒舌をたたく青葉に思わず笑う瞳。母艦である若葉寮の一室で、オンナノコたちはすでに発艦準備を終えようとしていました。このあと大きな荷物を同行者に抱えさせて、あわてて帰ってきたひなたは遅れて着替える者の常として友人の玩具にされていました。もちろん荷物持ちこと星野瑞季も急いで家にもどることにはなっていたのですが、少なくとも彼が荷物持ちとして頼りになる存在だということはひなたにきちんと認識されたことでしょう。
◇
田坂池の夏祭りは定番の屋台と和太鼓の並ぶ舞台にかこまれて、祭りにふさわしいにぎやかな喧騒につつまれていました。未だこういったときに和服を着るニッポン人は少数派ではありましたけれど、男性陣にくらべれば女性陣のほうが浴衣を着る例ははるかに多くありました。ナーサティアを除くオンナノコたちが全員浴衣姿で集合したのにくらべれば、男どもが野暮ったい洋装のままだというのは些か不満がなくもありません。野郎の格好なんてどうでもいい、という意見はその野郎どもから出ているにちがいありませんでしたから、オンナノコからすればせめてかわいい男の子にはそれなりの格好をしてもらいたいというのが人情ではあったでしょう。
「瑞季も浴衣着ればよかったのに」
明るい青色の浴衣を着て、そう言うひなたが遥か昔に幼なじみの姉たちと共謀して瑞季に女物の浴衣を着せて連れまわしたという事実は、やっぱり当人以外は忘却の淵にしずめさっていました。それでも些細なトラウマが原因で抵抗があったとして、浴衣姿のオンナノコたちを見るのは年頃の少年としてはけっして悪い気はしなかったことでしょう。多少不埒な考えが頭をよぎらないでもなかった瑞季は、自分の雑念を振り払うかのようにやっぱ浴衣はいいなあなどと表現力に問題のある感想を漏らしていました。
不本意そうなひなたたちの顔には気づかなかった瑞季でしたが、この場合オンナノコたちが求めているお褒めのことばが「似合っているよ」のただひとことであるということに思いがいたるような気の利く男はいませんでした。
「みんな、ゆたかが似合ってるぞ」
「ナージャ、ゆたかでなくて浴衣ね」
気の利いているのがナーサティア一人であったということは問題だったかもしれません。
きっかけは些細なことでした。ちいさな波が干渉しあって大きな波乱になることは珍しくありませんでしたし、まわりにいただけの人間だって水飛沫に濡れるどころか大波に巻き込まれることも珍しいことではありません。反対に、おきた波を静めるための力というのはとてもとても強力なものが必要な筈であったのですけれど。
「焼きイカより焼きトウモロコシのがうまいに決まってるだろ」
「焼きトウモロコシー?子供じゃねーんだぞ」
焼きトウモロコシ派の瑞季と焼きイカ派の茂で口論。それだけならいつもの些細な言い争いだったのですが、その日に限って流れがおかしな方向に変質していったのは、誰しもに溜まっていた小さな不満が噴出した結果であったのか、それとも単なる気まぐれだったのかは今となっては判然としません。味方を作ろうと思ったのか、瑞季はひなたに話をふりました。
「ひなは確か焼き鳥が好きなんだよな」
「でもお祭りの焼き鳥ってレバーとか軟骨とかないからなあ」
「えー?ひなたちゃん焼き鳥ならつくねでしょ」
ひなたの意見に瞳が反論。これにネギ間派の茂とナーサティアが入ってくると、話はさらにややこしいことになります。更にレバーでもタレか塩かで意見が分かれるし、ついでとばかりにあんず飴と綿菓子とチョコバナナとでどれがおいしいかと意見が分かれます。好みなんてものが人によってちがうのはあたりまえですし、他人にゆずれるようなものでもなかったでしょうけれど、新しい屋台があらわれるたびにやれタコ焼きだ焼きソバだお好み焼きだと対立の種が増えていくのは穏健派の小夜などにとっては由々しき事態に見えたことでしょう。今も金魚すくいと射的とに分かれて言い争いを続けている茂とナーサティアと瑞季を見つつ、その小夜はと言えば
「私は型抜きのほうが…」
と渋い好みを主張していました。生研の茂とナーサティアが金魚すくい反対派だというのはわからなくもないような気がしなくもないような感じもしますけれど、あるいはそうでもないのかもしれません。
◇
田坂池の周辺に集まる人々。ささやかだけれど勇壮な花火が打ち上げられて、小さな祭りの雰囲気もそれなりに高まっていました。本来は星々を散りばめただけの天蓋が今は屋台の明かりに照らされて、それらのまたたきを貫いて昇るひとすじの明かりと風を切るような音。光りの流れが空に広がりおち、一拍おいて、太鼓にも似た勇壮な音。漏れ聞こえる感嘆の声と威勢のいい合いの手の声。口が開くほどに夜空に流れる光を見上げながら瞳がつぶやきました。
「やっぱり打ち上げ花火はいいなあ」
「でも線香花火も捨て難いですよ」
「う゛ー」
まだ続いていたらしく、瞳の意見に小夜が反論。天文部の小夜が空が明るいのを支持しないのもやっぱり自然なことだったのかもしれません。もちろん瞳にしてみれば空の高いところでどーんというのは捨てがたくて、ここまでまとまった意見が出てこないと正直いらいらしてもくるのです。だからといって雰囲気を察した小夜が夜空を見て好きな星は、なんて話題をずらしてみてもやっぱり意見が分かれるのは当然のことで、トランスセクシャル星なんて意見が出てくるともう収拾がつかなくなってくるのでした。
がるるるるる。
競争と向上心と好奇心と趣味との裏に対立がひそんでいるとするならば、意見の相違なんてあっても当然とはいえやや険悪な雰囲気。お互いにその雰囲気を感じたのか、みんな仲良くしよーよというたしなめの言葉が出たりもしたのですが
「そんなに仲良くする必要なんてありますか?」
意外な言葉は氷雨のものでした。あっけにとられる一同に、あいもかわらず落ち着いた笑み。対立だの議論だの言い争いだのと表現するからコトがややこしくなるのであって、自分の好きなものを主張して友人の好きなものの主張を聞いていることというのは、本来とても楽しいことである筈でした。自分の居場所は自分と違う意見が存在する場所において確保される筈で、そこには自分の代わりはいないのですから自分と同じ意見なんて、ないほうがよっぽど自然なのです。仲良くするより楽しくしましょう、という氷雨のことばを受けて、いたずら心を起こしたひなたが
「じゃあ氷雨、なにか楽しいことやってみて」
「そうですねえ…」
◇
長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。学生たちの待ちに待った夏休みの一日、9月の新人戦に向けて陸上部期待の一年生たちはその日も練習に明け暮れていました。向上心と好奇心がエネルギーになって、全力で競争しつつお互いを磨きあうのはやっぱり楽しいことではあったでしょうが、より単純に考えれば負けたら悔しくて勝ったら嬉しいから勝とうとして成長するのです。
その日、ひなたは400mで57秒0の記録を出しました。部活の練習中でのことですし、多少は時計の正確さに問題があった可能性もありますが、じつのところこの400m走に限っていえば彼女の記録は女子の地区どころか県大会レベルであることに気付いている者はあまりいませんでした。問題があるとすれば幼なじみにも指摘されたことがある併走されるとペースを乱してしまう性格と、そもそも女子7種競技には400m走がなかったことくらいでしたけれど、些細な問題は気にせずひなたは走り幅跳びや高跳びの練習にうつることにしました。苦手なことを行うのが練習である、とは誰のことばだったでしょうか。
そのひなたに高跳びの基本を教えるということは、実はいままで感覚と身体能力とで跳んでいた瞳にとっては自分自身に基本を教えるということでもあるのでした。基本ってだいじなんだなあと思った瞳の陸上でなくて学力に影響が出るかどうかはこれから先のお話になりますが、彼女の目的は記録に残る数字なんかじゃなくて、ともだちに負けずに私もがんばるということではあったのでしょう。
勉強もちょっとがんばる。
剣道部の道場で青葉はいつものように短い時間の軽い練習をした後はずっと見学をしていました。短い時間でどれだけのことができるか、が彼女のテーマでしたからむしろ見学をしている最中の視線が厳しいものになってたのは本人を含めて殆ど誰も気づいていないようでした。動く前の一瞬の予備動作、それに気づく集中力と反応速度とが、剣士としての不来方青葉の生命線の筈でした。
(自分の予備動作と無駄な動きもなくさないとなあ…)
人の動きを見て自分の課題に気づくことも立派な練習たりえます。天才でも型を重視する必要はあるよなあと頼もしいことを考えたのは、汗の量によらず成長するための彼女の手段でした。
自分の友人と競いあって磨きあうというのは、無尽蔵のエネルギーにあふれた学生達にとってはとても楽しいことでした。いつだって好奇心と向上心とを満たす楽しさこそが、ニンゲンをつきうごかすエネルギーの源であったでしょう。もちろん、どんな世界でもどんな付き合いでも競争があれば対立もあるし、気が付かないうちに不満がたまっていたりすることだってあるでしょう。ですが、大きな楽しさの中でそれはきっと些細なことであるのにちがいありません。先日の夏祭り、氷雨のことばは友人たちの暴走しまくるエネルギーをいっそ堂々と承認するものでした。
ただ、ひなたの言葉に彼女がどんな楽しいことをしたかについては誰も何も言いませんでした。当の氷雨に尋ねたところで、いつもの穏やかな笑顔でこういうだけでしょう。
「秘密です」
おしまい
>他のお話を聞く