ひなたで過ごす


 メアリ・コリンズ。アメリカはデトロイト出身の留学生。日本文化に興味があって、好奇心旺盛で感激屋で活動意欲にあふれる女の子。ただ、多少直情的で単純で勘違いが多いのが欠点といえば欠点だったかもしれません。私立樫宮学園の一年生で美術部に所属していて風景画が得意だけれど、視点も構図もおもしろいけれど一貫したテーマがない、と評されるのが難ではありました。


 平成13年8月20日月曜日から、22日水曜日までの三日間。静岡県は伊東市弓ヶ島で二泊三日の臨海学校。長野県は古坂町にある私立樫宮学園の臨海学校は、本当なら台風がきていて延期か変更か中止になった筈なんですけれど、お話の都合上その日は三日とも晴天で絶好の海水浴日和になったのでした。

 その辺は多めに見てくださいね。

 夏休み中で旅行の前日ともなれば、待ち遠しさに浮き足立つ学生も多くて荷物の整理やら行程の確認やらおやつの用意やら、頭の中とかばんの中の準備に余念がありませんでした。バナナに限らず果物はおやつに入りませんでしたから、夏の林檎やら梨やら葡萄やら、水筒に入れたお茶と一緒にたいせつにバッグに詰め込むのです。最近はスポーツショップに行った方がこういった小旅行用の道具が手に入りやすいことも多いですから、ついでに汗拭き用のリストバンドとかペットボトル用のポーチとか、追加で増える荷物をついつい買い足してしまうのでした。

「瑞季、メアリと結婚するのですー」

 町中のありふれた店内に響くには、あまりありふれていない言葉。留学生のメアリがいずれ故郷のアメリカに帰ることになるのは当然のことで、結婚して帰化してしまえば当然どこに帰る必要もない−最近、彼女が友人からそういう冗談を吹き込まれたらしいのは事実ですが、その後すぐに目に付いた星野瑞季にこの言葉を投げかけるようになったのは、国籍性別年齢に関わらずメアリの邪気の無い非常識さだったのでしょうか。ここ数週間来、美術部で顔を合わせるたびに結婚を迫られるようになった瑞季は、繊細な顔に乾いた笑いを浮かべるしかありませんでした。

 松本ひなたは瑞季の幼なじみで、陸上部ではライバルで、腐れ縁ではあったんですけどそんなひなたにしてみるとメアリの瑞季への「求婚」は些か気分が悪いことでした。もちろん、盛大な勘違いが原因になっているのはわかっているんですけど、あるいは、だからこそ。

「瑞季、血痕付けられたい?」
「なんでそうなるんだよ!?」

 友人兼幼なじみ兼ライバル以上恋人未満。評するならそのあたりの関係であったような気がします。


 朝も早朝に学園を出て、乗り継いだ電車の終着駅から用意された船に乗って小一時間。なんとか昼過ぎには現地に到着した樫宮学園一年生の一行は、青雲閣というやや年季の入った温泉旅館に荷物を降ろすと、早速浜辺にと駆け出しました。もちろん、その前に各先生方より臨海学校の目的と集団生活の意義についてのありがたくもかったるいお話があったのは当然です。百の講釈よりも一の実践が効果があるのは無論のことですが、一の実践の前にそれを失敗しないだけの知識を与える必要と責任が先生という職業にはありましたから、優等生には今更と思われ劣等生にはんだうるせぇと思われてもそれが彼等の仕事ではあるのです。
 細身の身体にパーカーを羽織って、多少日差しを避けるように歩いていた不来方青葉が見知った人物を見つけたのは、浜辺と自然公園との分かれ道にある標識のすぐ側でした。

「あれれ?中野先輩どうしてここに」
「え、星野やメアリから聞いてないの?臨海学校と一緒に美術部の合宿があるんだけど」
「いや、聞いてますけど…でも先輩美術部じゃないでしょ」
「えーと、それはその」

 中肉中背、ただ年齢に比してやや小柄な印象のある中野等は青葉の一年先輩にあたりましたが、多少の気の弱さを克服しようと最近は剣道剣術に励んでいました。その師匠役を買って出たのが美術部の二年生である守野歳と、そして一年生の青葉の両名でした。歳が美術部の合宿で青葉が臨海学校で同じ場所に、となれば等が付いていく理由も充分あるかもしれないのですが、実の所は

「…他に下心があったなんて事じゃないですよね」
「し、失礼な。一応守野さんに言われたから僕もついてきたんだぞ」
「はいはい一応、ですね」

 最初は一人黙々素振りの練習でもしようかと思っていた等でしたが、その話をした所、歳からせっかくだから一緒にどうかと誘われたのは本当らしいようでした。今回美術部はここの自然公園で二日掛けで課題を行うそうで、よかったら瑞季とメアリには後でくるように、との伝言を受けて青葉は浜辺へと向かいました。


 浜辺で準備運動。少しでも運動をした事のある者か、あるいは実際に痛い目にあったことのある者なら柔軟体操と準備運動のたいせつさは知っているでしょうから、念入りに時間を掛けているかどうかでその人の運動に対する取り組みかたがわかる、とまで言い切ってしまうと多少言い切りすぎたかもしれません。

「お、お前等身体柔らかいなぁ」
「そう?別に普通だと思うけど」

 桜庭一樹は身長が高い以上に横幅と厚みのある身体を曲げて、準備運動にと筋肉を伸ばしていましたが、おなじみの陸上部三人組−北城瞳やひなたや瑞季が砂浜に身体が貼り付くほどの柔軟を行っているのを見ると、さすがに驚きの顔を隠し切れません。
 もちろん一樹も空手なり野球なりの経験で多少は身体の柔らかさにも自信があった程なのですが、目の前の三人の柔軟さはお酢でも飲んでるんじゃないかと迷信じみたことを考えさせられる程でした。身体についた砂粒を払い、笑顔に日差しを当てながら瞳が言います。

「桜庭クンは体格良すぎるから。ピッチャーなんだから柔軟はサボっちゃダメだよ」
「いや、もちろんそのつもりなんだけどなあ」

 身体の柔らかさは怪我の量に直接影響しますし、更には個人差もありますから陸上や野球のように特に特定の部位への負担が多い競技では、柔軟に念を入れて入れすぎることはけっしてないのです。頑丈さと筋力が売りの一樹にしたところで、関節の頑丈さはそれとは異なった性質のものですしむしろ筋肉が多いと関節の可動に害になることすらありました。

「よーし。そんじゃ瑞季、さっそく走るぞー」
「ひなー、こんな所まで来て走り込みかよー」

 充分に時間を掛けた準備運動を終えて、水着の上にTシャツを羽織ってシューズまで履いた姿で水辺に向かうと、ひなたや瑞季は飽きる様子もなくひたすら走り始めました。砂浜や浅瀬を走る事で足腰を鍛える効果が得られるのは当然のことでしたけど、こんなところまで来て、というのは正直なところだったでしょう。もちろん、一応存分に汗をかいた後で海に飛び込むことにはなるんですけど。


 岩場の影で、小柄で丸みのある身体を屈み込ませている木佐茂を見つけた瞳はランニングを中断して静かに忍び寄ると話しかけました。生物研究会通称生研に所属している茂ですから、何かいきものに関わっているのであれば静かに近づいたほうがいいでしょう。

「茂クン、何してるの?」
「んー?アメフラシがいたんだ」

 紫色のナメクジとイソギンチャクとをあわせたようなその生き物は、あまり瞳のお気には召さなかったようですが、茂にしてみれば海の無い長野県に住んでいる以上こういった機会は何に増してもたいせつなものでした。一緒にいた筈のナーサティア・月村は少し外れた岩場に長身を屈み込ませて、貼り付いたフジツボをやっぱり飽きる様子もなく眺めていました。遠くから見ると不思議な絵に見えなくもない、ですがなにかいい感じの光景でした。

「今は潮が引いてるけど、どっちも海水に浸かるとまた動き出すんだ」

 茂の言葉は不思議と瞳の印象に残りました。あるものをきちんと見ている人の説明というのは、他の方法では出しようのない説得力を持っているものなのです。

 瑞季はひなたを連れて、美術部が合宿をしているという自然公園へと足を向けていました。おそらくメアリも来ていると思ったので、余計なやっかいごとを増やさないようにとひなたを連れてきたのですがそれだって更に余計なやっかいごとになってしまうことだってあるかもしれません。
 守野歳は落ちついた静かな印象を持っている女生徒で、例えばその印象はひなたや瑞季の一つ上にも、先程の等と同年にもとても見えないのですが、それは彼女が大人びているというよりも他人が彼女に比べて子供っぽいだけのようにも見えました。なにしろ先に来ていたメアリやスケッチブックを手にした等に美術部の課題を教えている彼女こそが、どう見てもごく普通の女学生にしか見えませんでしたから。

「えー?そんな課題に意味あるんですか」
「メアリが出来ないなら意味があるわよ」

 不満の意を示すメアリに、諭すように歳が言います。今年の美術部合宿のテーマは「○○だけ」。海面でも岩肌でも砂浜でも、それだけの質感を描くのが目的ですから美術部らしい課題とはいえ難易度も高くなります。風景画が得意なメアリですが、静物画や物の質感を描くのは地味で技術がいることでしたから、不満も当然のことかもしれませんでした。
 一応は夏休み中の課題ということで、臨海学校中の一年生には課題は帰ってからの持ち越しで構わないとの事でしたが、そう言われると何か描いてやろうという気になってくる者もいるのです。歳に付いてくる形で来ていた等も、慣れない手つきで鉛筆を握って、飽きる様子もなく黙々とスケッチブックに向かっていました。

「木々の連なりを知らず、葉の繁りを知らず、葉脈の造りも根の張りようをも知らずにどうして森を描く事が出来ようか。あたしの習った教えの一つよ」

 剣術を習っている歳にとっては、型の重要性は今更のことで型とは無論基本のことでした。歩く前に飛ぼうとする者の多い中で、一歩一歩歩みを進めることができるかどうかということは、何かを習得するときにはとてもたいせつなことでした。そして歩んだ一歩一歩を自分のものにし、努力を続けること。歳が美術部の合宿の話を等にしたとき、青葉も含めて剣の教師がいなくなる間どうするかと思っていたら「ひたすら素振りする」という回答が返ってきたからこそ、むしろ彼女は等を夏合宿に一緒に招いたのです。
 その等は確かに黙々と他に気を取られることなくスケッチブックに稚拙な筆を走らせており、この地味な、地味なだけの作業を黙々と行える集中力を磨くことこそが、美術にも剣術にも関係なく重要な能力である筈でした。

「好奇心旺盛なのはいいけど、それだけなら単なる賑やかしでしょ。メアリ、あなたは見つけたものをきちんと心に留めている?」

 歳の言葉はメアリにはとても厳しいものでした。どこにでも出没して、何にでも感激するということは単に飽きっぽいだけかもしれませんでしたから。


 潮風を浴びた肌を温泉のお湯で流し、簡単なオリエンテーリングを終えると夜の時間。男女に分かれて部屋に集まってしまうとあとはそれぞれの部屋が一つの世界になってしまいますから、その前に幾らかに分かれるグループも多くありました。ひなたがメアリを見かけたのは偶然でしたけれど、ついでだからと聞いておこうと思ったのはやはり気にしていることがある証拠でもあったでしょう。

「あのさあ…メアリ」
「はい、何ですの?」
「瑞季へのあれ、なんとかなんないの?」

 あれというのがメアリの瑞季への結婚の申し込みだということは、もちろんすぐに分かることでした。まわりに人がいないのが幸いでしたが、はっきりと言ってしまえばひなたはこういう話はとても苦手でした。

「ふふん、気になりますか?」
「い、いややっぱ結婚とかって簡単に口にしていいもんじゃないでしょ」
「それはメアリの都合ですね。ひなたの都合はどうなんですか?」
「え?」
「ひなたは瑞季の事どう思ってるですか?でないとメアリが何やっても何言っても自由のはずです」
「ちょ、ちょっと…」

 メアリの返答はひなたには意外なものでした。おそらく瑞季や瞳でも、これだけ困った顔をしているひなたは見たことがなかったでしょう。冗談だと思っていた言動がもし冗談じゃなかったら、一体どうしたらいいのかなんて、ひなたはその時まで考えてみたこともありませんでした。多少の気まずい沈黙を置いて、吹き出すようにメアリが笑い出しました。

「…なんて、嘘ですわよ」
「え?えーと」
「ちょっと朴念仁に波風を立ててみたかっただけです。ひなたも瑞季も何考えてるかさっぱりなんで端から見てると気になってしょーがありませんから」
「メ、メアリあんたねえ」

 メアリの言葉に怒った顔つきになるひなた。その表情の変化の具合は見ていて気持ちのいいくらいでした。反対に、メアリの表情の変化を見る余裕はひなたにはあったのでしょうか。

「でもメアリが瑞季のこと好きなのも本当です」
「メ、メアリ?」
「だって瑞季を好きな人多いです。でも今の所ひなたが一番瑞季のこと好きです」
「な、ななななに言ってんのよ」
「ただ、好きにもいっぱい種類あります。レンアイどうこう言ってる人達ではひなたにかなわないです」
「メアリ…」

 言葉で何かを伝えるというのは本来とても難しいことですが、伝えようとすることと受け取ろうとすることがきちんと行われていれば、それはそうでないよりもたくさんのことをより正確に伝えることができる筈でした。メアリの言いたいことは何となくしかひなたには伝わってはきませんでしたが、そのなんとなくで必要なことは充分に伝わっていたのだと思います。
 けっきょくはメアリの言動にもメアリなりの理由があるんですが、それを表現する手段として彼女なりの不器用な冗談に転化するしかなかったのでしょう。

「うーん、とりあえず、頑張ってみる…」
「たぶんそれでいいと思います、ひなた」

 熱中できることがあって、それにまっすぐに突き進むことができる人達の存在はメアリにはとても羨ましいものであったに違いなく、好奇心いっぱいの目で見ているメアリにはそれがとても良いものに見えていたのですけれど、そろそろ自分も何かに突き進んでもいいんじゃないかと思っていました。彼女がナーサティアに教わった言葉で、日本語ではたしか「当たってくじけろ」とか言うはずでした。


 夜が明けて、夏の日差しが浜辺に昇ると海は人々を誘うようにて水面に光を弾き返します。一般にスポーツ少女っていうのは脂肪を落として絞っているぶん、ぐらまーがどうとかはあんまり期待しない方がいいんですけど追求するときっと殴られてしまうので男性陣にとってはとりあえずは満足なのです。
 多少オープンな私立高校でも、学生の臨海学校でそんなに露出度の高い水着を着るわけはありませんでしたから、書き手のぼくが個人的に好きな健康美というやつで浜辺は満たされていました。

「瑞季ー、行くよー」
「よーしこーい…ってうわわっ!?」

 浜辺の浅瀬で古典的にビーチ用の大きいボールを放り投げるひなたと、それを受け取ろうとして上を向いた隙に足下を茂にすくわれて倒れる瑞季。何事もなかったかのように砂浜へ引き上げる茂を追い掛けようとする瑞季の頭上に、ぽこんと当たるボールの音。笑うひなたの顔面にお返しのボールがクリーンヒット、一瞬の沈黙のあと、含みのある笑顔になったひなたが瑞季にお返し、これが逸れて瞳に命中。ゆらりと傾いてから水面に水飛沫。浜辺の隅っこで蟹と戯れているナーサティア。

 なんということのないいつもの光景を、メアリは砂浜で青葉と一緒に飽きる様子もなく見ていました。生来身体の弱い青葉は「お肌を日に焼くのは苦手」という理由を付けて砂浜で甲羅干しに興じていましたが、多少暇を持て余したように隣りにいたメアリに話しかけました。

「メアリ、一緒に泳いでこないの?」
「後で行きますです。青葉は行かないのですか」
「ボクは日に焼けるのは苦手だから甲羅干しをしてるの」
「それって大変な矛盾です」

 メアリの目的は今この時を描いてみることで、その為に今この時を忘れないことでした。そして彼女が臨海学校から帰って描いた一枚の絵は、その夏の樫宮学園美術部の作品の中でも屈指の出来になりました。

 それは、メアリが描いた「時間」でした。

おしまい


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