ひなたで過ごす
平成13年9月1日土曜日から2日日曜日にかけておこなわれた長野県陸上選手権兼国体予選大会。中学時代の記録がある松本ひなたをはじめ、長野県は小坂町にある樫宮学園陸上部一年生の数人は幾つかの種目で登録、参加を行っていました。中学生から大学生までエントリーする大会で、そのレベルももちろん高いのですが実体としては学年を問わず強い人がとびぬけて強いというのが比較的オープン性の高いこういった大会では常識でもあるのです。
「女子0400M走優勝長野日大付属高等学校中村選手、記録0分58秒01−」
「女子走り幅跳び優勝樫宮学園高等学校北城選手、記録1m60cm−」
中学生で県記録に近い結果を出す人もいれば、大学生で未だ全盛期からさらに向上を目指す人もけっして少なくはありません。去年の大会にも登録、参加している者であれば同じライバルに辛酸苦杯を舐めさせられることだって、決して少なくはなかったでしょう。
ひなたは女子0400M走と0800M走に登録、決勝で敗れたもののそれぞれ2着、3着と入賞を果たしました。同じく星野瑞季は層の厚さで知られる男子0100M走にエントリーし、少女にも見えそうな繊細な容貌には似合わぬ実力で決勝まで駒を進めましたが、惜しくも入賞はなりませんでした。開催時期のこともあり、夏休みの課題をかたづけるのに手間取っていたせいかどうかは理由がわかりませんが、北城瞳が走り高跳びで堂々の県優勝をさらっていった以外はそれぞれなりに満足なり不満足なりが残る結果だったでしょう。長い髪を後ろに縛って、小柄ながら自分の身長より高いバーを飛び越える瞳の姿は、彼女がスポーツ特待生として和歌山からスカウトされてきた事実をあらためて思い起こさせるものでした。
「瞳、おめでと!」
表彰を受けて戻ってきた瞳に、ひなたが祝福すると瞳も幼げな表情を崩しながら飛びついてはしゃぎまわりました。特待生ならではのプレッシャーから最高のかたちで解放され、仲間でありライバルでもある『ともだち』から祝福されるのがたぶん瞳にとっては最高の栄誉だったでしょう。
そして翌週からはいよいよ長野県の高校陸上新人戦、地区大会が始まります。中学時代から大会慣れしている少年少女にとっては、学年制限のない大会よりも同年の選手が集う大会の方がかえってプレッシャーを感じていたかもしれません。他競技から転向して参入した例などのように県選手権には登録せず、新人戦からデビューする未知の選手も多いのですから。
上々な成績でその日を終えた三人の表情は、競技場をあとにするその時にはもう重さが見えるようになっていました。帰って汗を流してから女子若葉寮で祝勝会を行ってもらったときも、瞳やひなたの笑顔の下から覗いて見えるプレッシャーの影は消えることがありませんでした。
すぐに平成13年9月8日長野県新人戦地区大会が、そして突破すれば29日には長野県新人戦県大会が開催されます。
◇
明けて3日の月曜日、長野県は小坂町にある樫宮学園高等学校。選手として大会に出ていた学生は1日にあった始業式を当然休んでいたわけで、他の学生の感覚的には夏休みが人より二日多いようにも取られてしまいます。だからやっぱりクラスメイトへの体面としてそれなりの成績は残しておきたいわけで、幸いそれなりの成績を残すことができた三人はそれぞれのクラスでも表彰されていたりするのでした。一年四組では「甲子園投手」桜庭一樹に次いで県優勝選手の北城瞳が生まれたことになるのですが、もてはやされる自分の立場になんとなく違和感を感じはじめていた一樹に比べると瞳は全くいつもと変わらないようにも見えました。
「そういや、北城は和歌山にいた時からこういうのは慣れてるんだよなあ」
「うん?でもひとみも県優勝は始めてだよ」
たまたま二人っきりになった休み時間、一樹は瞳のあまりに自然な様子がうらやましくも見えて聞いてみたのですが、やっぱり回答もいつもと変わらぬ自然な様子でした。甲子園に出たのは一樹ではなく野球部であって、でも甲子園投手とやらになった自分には他人の今までとは違う視線が…他人の視線なんてものを気にしている時点で自分はまだまだ小物かもしれない、などとも一樹は思ってしまいます。
「大物だなあ」
「えー、ひとみはまだまだ背が伸びるんだからね」
「いや、そういう意味じゃなくて…」
苦笑を返す一樹。やはり自分はまだまだだと思いつつ、かがめていた幅と厚みのある身体を伸ばすと一度、深呼吸をし直しました。野球部も練習を再開しているとはいえ、今月は陸上部の応援団になっていてもいいかもしれない。一樹はごく自然にそう思いました。
◇
「みんな昨日はご苦労だったな。まあさっそく来週から新人戦な訳だが…」
一見素行不良の学生にしか見えない小林ミイケがこういった演説をする姿は奇妙に見えなくもありませんが、これでも男子0100M入賞を果たした樫宮学園陸上部短距離のエースでしかも実家はラーメン屋です。もちろんラーメン屋は関係ありません。多少騒々しいところがあるとはいえ、気さくで面倒見がよくて実力もあるミイケに問題があるとすればそのTシャツのセンスくらいのもので、胸に大きく記された「原宿」の文字にはなにか有無を言わせぬ迫力のようなものがありました。
「昨日の大会に参加した選手は疲れをとる意味もあるから、今週は調整だけだ。疲れの残るような練習はするんじゃないぞ」
解散の声にばらばらと自分の場所に散っていく部員達。特に先日の大会参加組は今日は完全に休養日で、柔軟だけしたらあとは帰るようにと言われていました。ローテーションの厳しい中でコンディションを維持するのはスポーツ選手の義務ですらありましたが、自分がなまけているかのような錯覚に不安を感じる者もけっしていなくはありません。おそるおそる、という感じでひなたはミイケに質問を投げました。
「先輩、どうしても練習しちゃだめですか?」
「何だ松本、まぁた倒れて瑞季に看病してもらいたいのか?」
「う、古い話を…」
根拠の無い根性は決して美徳ではありません。中学時代に一度だけ、オーバーワークがとりかえしのつかない事態になりかけた経験のあるひなたはミイケのことばに反論できませんでした。ただ、この時期いわゆる最後の追い込みで記録を伸ばそうとしている選手は多いだろうし、自分にここからの上積みがないのはどうなんだろうとか思ってしまうといてもたってもいられなくなるのも間違いありません。一夜漬けで能力が上がるほど競技というものは底の浅いものではないのですが、そのあたりは心の問題ですからまさしく人それぞれなのです。
「んじゃ瑞季、あと松本の調教はお前に任せるからヨロシクな」
「変な言い方しないで下さいよ先輩」
競馬じゃないんだから、という顔で軽く抗議する瑞季とひなたに笑うミイケ。ミイケにしてみれば他の後輩や自分自身の調教もしなければならないのですから、当然ひなた一人に関わっているわけにもいきません。他の部員が練習してる目の前で休まれるのも問題がありますから、大会参加組は早々に柔軟運動だけを終えるとグラウンドをひきあげていきました。
◇
まだ本格的な授業のはじまっていない学園の帰り道。不健全な学生を除けばまっすぐ家なり寮なりに帰らなければいけない理由が特にあるわけでもなく、練習のできないぶんだけ欲求不満がたまってしまうのもあまり賢い選択とはいえないでしょう。であれば、それをてきとうに発散させる機会をつくるのもまたたいせつなことかもしれませんでした。
ぱこーん。
ぱこーん。
すぱこーん。
本来の休養の目的を考えると、軽くとはいえバッティングセンターで汗を流しているのが正しいのかどうかは多少の疑問が残らなくもありません。それでも鬱屈するより発散したほうがいいにきまっていますし、さすがバット使いに慣れたひなたの打率はけっこうなものでどうやら気分転換の効果は充分現れているように見えました。
「松本さん野球部に入っても良かったんじゃないッスか?」
「あはは、おせじでも本職に言われると嬉しいな」
笑顔を返すひなたに、半分くらいは本気の入っていた一樹。夏の大会が終わり、三年生が引退して戦力が落ちていることもあり、野球部員としてはひなたが男だったら…などと多少失礼なことも考えてしまいます。
楽しげにバットを振るショートカットの幼なじみの様子を隣りのボックスで見てから、瑞季もバットを構えました。ただこの際瑞季の問題になっていたのは、ひなたよりむしろボックスの外で待っている木佐茂の存在だったかもしれません。さっきから打率が競り合っていることもあって瑞季のほうが負けられないという気持ちで多少むきになっているところもあり、充分以上の気合いを入れていました。
もちろん茂もただ出番を待って控えているわけではなく、
「お前みたいに雑念の多い奴はすぐボロを出すから安心だな」
などと挑発をしてきます。茂とはなぜだか昔から反りが合わない上に、やや分の悪いことが多いのが不満な瑞季でしたが、それは能力の差というよりはたぶん茂のほうが相手を更に良く理解していることだったのかもしれません。
「でもお前新人戦は負けんなよ」
「え?」
茂の意外なことばに一瞬、とまどう瑞季。
「お前みたいに弱くてかっこつけでピーマンも食べられないような奴が負けたらそれこそ何のとりえもないからな」
どこまで本気かわからない茂の激励。最後の最後でペースをつかめない瑞季はけっきょく僅差で茂に苦杯を飲まされることになりました。
勝ち誇る茂に本気で悔しそうな顔をする瑞季。もっとも、競り合ったというよりは足をひっぱりあった二人の成績はそれぞれいまひとつだったのですけれど。勝利の報酬として支払いを押しつけると、茂は隣りのひなたたちの様子を軽く見てから瑞季に言いました。
「まあ、ひなたのフォローだけはしといてやれよ」
「…わかってるよ」
一見誰が見ても仲が悪いように見えて、そのくせそんなことばが飛ぶのもこの二人ならではだったでしょう。隣りのボックスで最後の一球、集中したひなたが振ったバットは美しいほど綺麗な軌跡を描いてボールを弾き返していました。
◇
樫宮学園若葉寮の一室。その夜、多少は気の晴れたひなたは同室の亀宮氷雨の入れてくれたお茶を飲んでくつろいでいました。茶道の経験云々というのに関係なくお茶の入れ方というものを知っている人というのはいるもので、誰かに飲んでもらうためのお茶というのはそうでないものと比べてまるで味がちがうものです。
「はあ、氷雨のお茶ってなんだか落ちつくなあ」
「光栄です」
お茶と和菓子を前に、くつろぐひなたに穏やかな笑顔を向ける氷雨。東京の老舗の料亭の娘であり、華道と着付と料理が特技で、茶道はかじった程度でしたが仮にそれらの経験がなかったとしても彼女なら他人のためにいくらでもおいしいお茶が入れられたことでしょう。まして、それが友人のためであるのなら。
「どうですか?来週の大会は」
「うーん、正直不安なんだ。先輩にも瑞季たちにも注意されてるんだけど」
らしからぬ弱音が言えるのも、ひなたが氷雨をそれだけ信頼している証拠だったからだと思います。勝てなかったらどうしよう、何か失敗したらどうしよう、なにより全力を出しきれなかったらどうしよう。
自分がこれまでやってきたことにもその記録にも多少の自信はありましたが、それが過信や慢心につながることの方が彼女にはよっぽど恐ろしいことのような気がしていました。だからこそ、本番を控えて練習を抑えている間というのはひなたにとっては耐え難い時間でしかなかったのです。ひなたの悩みを見透かしたような表情で、氷雨がことばを投げかけました。
「例えば勝つことと全力を出すことと楽しむことがあるとして−」
「ん?」
「ひなたさんはどれを望んでいるんですか?」
「うーん…」
氷雨のことばに考え込むひなた。
わたしは…
「どうせなら全部望んでもいいんじゃないですか?」
「え?」
「欲張っちゃいましょうよ」
「あ、あは…そうだね、そうだよね氷雨」
氷雨のことばにひなたは不思議な感情が引き起こされて、それまでの悩みをきれいに洗い流してもらえたような気がしました。自信が過信になって慢心になって、いっそ増長したっていいじゃないか。悲観的になって失敗したときのことを考えるのではなく、楽観的になって全ての成功を考えることこそがスポーツ選手に必要な集中力を高めることにつながるのです。
そしてその日が近づくにつれて、ひなたの顔に宿っていく力強さは鋭さすら備えていくようになりました。氷雨の穏やかな笑顔はあいかわらずでしたが、奇妙な確信めいた表情がその裏には見えていました。
◇
そして平成13年9月8日土曜日、長野県陸上中信・北信東信高校新人大会のその日。競技場の控え室、意外に張りつめた空気ということはなくて、むしろあちこちからあふれている体育会系の気合いが号砲を待ちわびている、あたりはそんな雰囲気でした。
ミイケたち先輩の指導を受け、瞳や瑞季たちライバルに刺激を受け、茂や、氷雨や、みんなに助けてもらって、あとはひなたがそれを出し切るだけでした。時間をかけて柔軟運動を行いながら、ひなたは自分の集中力がどんどん高まっていくのを自分でもはっきりと感じていました。
「ひな、ちょっといいか?」
「ん?いいけどなによ瑞季」
かけられた声に一瞬、気をゆるめると自分より後のレースを控えた幼なじみの顔を見つめるひなた。トラックへ移動する直前の時間、柔軟運動を終えてウォームアップも万全のひなたを控え室から連れ出すと、人のいない通路で瑞季は幼なじみと向かい合って立ちました。知らない人が見ればいい雰囲気のように見えるのかもしれませんが、すくなくとも余計な話でひなたの集中を邪魔するようなつもりは少年にはありませんでした。背中を軽く壁にもたれかけ、腕を組んでひなたの瞳をまっすぐに見つめながら、確信めいた表情で瑞季は語ります。
「今さら俺から言うことなんてないんだけど」
「うん」
「ゴールだけ見て走ってな。ひなならそれだけで勝てる」
「…了解」
ひなたの集中力に最後のスイッチを入れると、瑞季はその肩を軽く一度だけたたいてから控え室に戻りました。少年の心の中にひとつだけ残っている心配が消えた瞬間、瑞季の集中力も自分の記録のことだけに切り替わって幼なじみのことは頭の中からきれいに消え去りました。
◇
鳴り響く号砲の音、その瞬間、消える世界。
遥か先に見えるゴール。
心が走っていく。身体が、それについていく。
風。
風。
風。
信じてるから。
ゴールが、見える。
◇
「女子0400M走、一着樫宮学園高等学校松本選手、記録0分57秒85−」
◇
長野県陸上東信・北信地区新人大会を終えてその日、それぞれの得意種目で県大会への参加を決めた樫宮学園陸上部一年生の三人は、喜びを全身で表現しながら帰りの途についていました。先程までの鋭いほど厳しい表情はすでに消え去っていて、三人三様の笑顔が背中から浴びる夕日に伸びる影の中で輝いていました。
次は県大会、少年少女とそれを助け合うみんなのお話は、まだまだこれからです。
おしまい
>他のお話を聞く