ひなたで過ごす


 すっかり涼しくなった秋空の下、平成13年9月29日から30日にかけて行われた高校陸上の長野県新人大会。夏休みまでの練習の成果を競い合う学生達にとって、夏はまだ終わってはいなかったのかもしれませんが、長野県は小坂町にある私立樫宮学園陸上部のうち、県優勝を堂々勝ち取ったのは北城瞳だけでした。女子走り高跳び、減量の上に腰まであった長髪を短く切り、体重を落としてまで記録に挑戦した瞳。男子に比べて女子のレベルがはっきり言えばとても低い長野県陸上フィールド競技の中で、参加する前から優勝が決まっていたとまで言われた瞳が自分の向上心を維持するためには、いまさらの順位ではなくて記録に挑戦するしか方法がなかったのかもしれません。

「女子走り高跳び、優勝私立樫宮学園北城選手、記録1m70cm−」

 減量で乾燥した肌が艶をうしなってしまうことは年頃の女の子にとっては重大な問題だったはずですけど、そんなことより大切なことはいくらでもきっとあるのです。二位の選手に20cmの記録差を付けての優勝は、スポーツ特待生の実力を存分に知らしめたものでした。
 一方で、男子陸上競技は年々レベルが向上し、例えば県で0100M走に優勝するには10秒台の記録をたたき出す必要がありました。星野瑞季は繊細な容貌に似合わず、樫宮学園一年生でも屈指のスプリンターでしたが、ライバルの厚い壁に阻まれて惜しくも決勝への切符を逃しました。

 松本ひなた。

 女子0400M走二着。
 女子0800M走四着。
 女子1500M走三着。

 誰もが意外だったのは彼女が県優勝を逃したことにあったのかもしれません。大会記録の出た1500M走や0800M走は別としても、得意と思われていた0400M走でも彼女は二位入賞こそ果たしましたが惜しくも県優勝は逃してしまいました。優勝タイムは61秒、ひなたの最高記録は58秒を切るのですが連戦の疲れかペース配分のミスか、競り合いの駆け引きに負けたのか。いずれにしても記録でも順位でも、ひなたは自分のベストを出すことはできませんでした。

「あーあ、負けちゃった」

 控え室に戻り、やけに爽やかな顔で微笑む幼なじみを見て、瑞季は胸の奥が痛むのを感じました。やせ我慢の仮面の下に膨大な感情がつめこまれているのは少年には一目で分かりましたし、この後、部屋に帰って一人になった彼女が大声で泣き出すだろうことも瑞季は知っていました。ですが、その顔を誰かに見られることを人一倍彼女が恐れていることもまた少年には分かっていたのです。

(ひな…)

 それこそ、ひなたを抱きしめて思いきり泣かせてあげることだって瑞季にはできたに違いありません。ですが、星野瑞季に慰められてしまったとき松本ひなたはそれ以上その先に進むことができなくなってしまうのです。不自然な笑顔の下で荒れ狂っている水流を、幼なじみの少年と少女は決して表に出そうとはしませんでした。ただ、帰り際に瑞季は友人の携帯電話を借りると知られないように短い一本の通話を行いました。

 ひなたが学生寮に帰ってきたとき、同室の亀宮氷雨は切れかけたお茶の葉の買い出しに行くために、たまたま夕刻の散歩に出かけるところでした。その余りに良すぎるタイミングに、ひなたが何を思ったかは後々までわかりませんでしたけれど、ごく僅かにだけ表情を動かしてから黙って自室に入るとしばらく閉じこもったまま出てきませんでした。氷雨がお茶の葉を買うだけにしてはとても長い時間、帰ってこないだろうことはひなたにはわかっていましたから。

 …。

 ……。

 ………。

 そして、つぎに見たひなたはいつものひなたに戻っていました。


 友人を持つということ。


 私立樫宮学園生徒会。今年度の会計に選ばれていた氷雨は真面目さと責任感の双方とで、当時いちばん適任だと思われた選出だったかもしれません。昨年度の予算支出の調査とその会計監査はとっくに終えていましたから、今は今年の年度会費の適正な配分についての生徒会としての方針作成にとりかかる必要がありました。こと予算の件に関しては、生徒会長の日崎克己の方がむしろ氷雨を補佐する立場だったかもしれません。

「そうか、そいつは松本さんも残念だったな」
「ええ。でももう明日から練習を再開するそうですよ」

 生徒会室で、一杯のお茶と銘柄不明の一本の缶ジュースとを間に挟んで。整理されたファイルの束を閲覧していた克己と氷雨は、しばしの休憩をとっていました。

 今期の生徒会長として、克己が出した方針のひとつにライトスタッフの運営があります。指名制で一般生徒から有志をつのり、生徒会活動の手伝いを依頼するのと同時に生徒会の活動自体を開かれたものにすることが目的となっていました。
 部活動等に積極的に参加している一、二年生を中心に、その中からほぼ無作為に指名された幾人かの生徒のうちもちろんライトスタッフへの参加自体は自由とされていました。ただ、倶楽部活動が学園の中でどのように運営されているか、のうち書類や金銭のやりとりを知るにはいい機会だとしてたいていの部はライトスタッフへの参加には協力的でした。たとえば部長が部を運営するときに、学園にどんな書類を毎回提出しているかなんてことは知らない部員の方が圧倒的に多いのですから。

 ひなたや瑞季もライトスタッフの一員に選ばれていましたけれど、ここ数週間はせいぜい氷雨の手伝いとして昨年までの収支決算表を整理したり、各倶楽部の活動報告書のまとめやら、一般生徒から意見を集めるなど雑事を行うのがせいぜいだったように思えます。瑞季などは部活動の掛け持ちが厳しく、陸上部自体が県大会の真っ最中だったこともありますから当然といえば当然ですが、それでも何度か生徒会室を訪れては単に顔を出す以上のことをしていました。

「しっかし行動力のある娘だよなあ。よく体力が持つもんだ」

 ひなたを話の種にあげつつ感心する克己。いつでもどこででも走り回っていて、陸上でも勉強でも上位の成績、それでいて友達付き合いが悪いということもなくて生徒会のスタッフにまで首をつっこんでいるのですから、いつか誰だかが思った「動くのを止めると死んじゃう生き物」のことを頭に思い浮かべたりもするのです。

「いいんじゃないですか?与えられた環境に不満と文句だけを言う人よりも、自分の力で何とかしようとする人の方が遥かに健全ですもの」
「おや珍しく毒のある言い方だね、会計殿」

 氷雨の発言に表情を変えて克己が言います。当の氷雨の方はといえばいつもの穏やかな笑顔を崩さず、

「その呼び方はやめてくれませんか、生徒会長閣下?」
「う。そうしよう…」

 何だか悪の大幹部同士の会話みたいだから、という感想を賢明にも胸の奥にしまい込むと、二人はその日の予定だったいきもの飼育同好会への予算配分の処理を再開しました。


 ナーサティア・月村の運営している、いきもの飼育同好会の活動が認められたということ。もともと数少ない会員のうち三年生が引退に近い状態になって、一年生の彼女一人で黙々と行っていた活動に生徒会からの予算配分が決定されたという異例の処置はいわゆる原理尊重派のひかえめな指摘を受けないでもありませんでしたが、大声で異論を主張するほどの反対を受けることもまたありませんでした。
 また、生徒会の援護として生研こと生物研究会の木佐茂が生物教師達の協力を得て、いきもの飼育同好会は教材や観察のための学園内のいきものの飼育活動を行っている、本来は学園が援助すべきですらある正当な活動である、として支持する申請を出したこともあって彼女の立場は充分に認められていました。

「まあ、いきもの飼育同好会には手伝ってもらってる事が多いからな」
「…感謝する」

 言葉少ななのは、留学生のナーサティアがまだ日本語に慣れきっていないこともありますが、もちろんそれだけが原因ではなかったのかもしれません。茂の生物研究会ももちろんごく小さな活動でしかないのですが、活動内容のために理科系の教師からは支持を取り付けやすい立場にいましたから、地味な毎日の活動になってしまういきもの飼育同好会よりも多少は動きやすいところがありました。それでも生徒会の決定に合わせるかのように支持申請が出たことは、ナーサティアの日々の活動に茂が普段から感謝していたということもあったのでしょう。

「これでうさぎ小屋に冬用のヒーターを付けることができる」

 感謝するナーサティアにとっては、それがいちばんたいせつなことでした。普段の無愛想な表情からは想像もつかないその時の彼女の瞳の色を見て、茂は軽く笑いながらやや意地の悪い顔になって話しかけました。

「でも予算が出るってことは正式活動ってことだからな。学園への活動報告書は書かないと駄目だぜ」
「あ…」

 国語はナーサティアのいちばん苦手な教科でした。


「という訳で王国書の書き方を教えて欲しいのだ、瞳」
「報告書、ね?」

 ナーサティアが瞳と親しいのは今さらのことではありませんでしたが、苦手な国語、というか日本語表現を習いだしたのはまだまだ最近のことでした。ちょっとした都合もあってごく最近入寮してきたナーサティアに、夜にでも勉強を教えるのは同じ建物にいる瞳にはたいへんなことではありませんでしたし、それでもわからないことがあれば学内成績上位のひなたや氷雨、それに同室の五島小夜にも聞くことは簡単にできました。

「用紙はあるんですから、いつもの活動内容をそのまま書けば問題ない筈ですよ」
「今日はうさぎが丸くなってて可愛かった、とかでいいのか?」
「…それは日記だと思うよ、ナージャ」

 多少の苦労をしつつ。書き終えた報告書のサンプルをしまいこむと、ホットミルクの入ったカップを囲んで三人のオンナノコは談笑していました。こういったものは一度書いてしまえばあとはいくらでも応用が効きますし、日本語と日本文化になじんでいないことを除けばナーサティアはけっしてそれができないタイプでもありませんでした。会話の中であらためて思い出したように、小夜が瞳の先日の優勝を祝福します。

「そうだ、瞳さん県大会優勝おめでとう」
「ありがとー。でもなんかほっとして気が抜けちゃった」
「もう減量はいいのか?」

 長髪を切って、よりも甘い物を絶っていたことのほうが瞳にはよほど辛かったかもしれません。また本格的な練習に入ることにはなるでしょうが、彼女の本音としてはその身長からいずれ限界がくるであろう走り高跳びの他に、短距離走や他の跳躍競技にももう少し取り組みたいという意思が出ていました。もちろんまだ限界のきていない走り高跳びで、その限界を見てやろうというスポーツ選手らしい欲はありましたけれど。

「うん、だから明日ケーキ食べにいこ?」

 ちなみに髪を切ったことよりも、髪を切っても自分の幼げな外見が変わらなかったことがいちばん瞳にはショックだったのですが、それはもちろん誰にも言いませんでした。


 ひなたチャン、大丈夫かなあ…。


 その夜、ベッドの中で横になっていた瞳が気にしていたこと。スポーツ特待生として入学した彼女が、ひなたの存在に多少のコンプレックスを感じていたのは事実でした。でもそれは県大会の結果がどうだとかいう小さなことではなくて。

 決勝に残れなかったとはいえ、女子七種競技の参加に先だって瞳はひなたの練習にいろいろと付き合っていましたが、そこで驚いたのは彼女が同年代の高校一年生とは思えないほどに、陸上競技の専門的な技術やトレーニング法を知っているということでした。中学時代は趣味の延長で陸上を行っていた瞳に比べて、ひなたは独学ながら、その頃から行っていた本格的な練習の積み重ねで今の能力を得ているのです。

(それじゃあ、ひなたチャンの成長は頭打ちに近くなってるかもしれないってこと?)

 彼女の能力が中学生の頃の同年代の男の子のライバル、星野瑞季に対抗するために鍛えられたものだということは瞳にはわかっていましたし、男子の陸上記録に対抗するために彼女の底なしの負けず嫌いと向上心が生まれたということもおそらく間違いありません。もし記録の伸びや大幅な成長という点でひなたがそれを既に終えているとしたら、それは彼女にとってあまりにも残酷なことでした。そして瞳がそう考えたのも、自分自身の走り高跳びの限界を考えるようになったからこそだったのでしょう。
 自分の限界が見えてしまったかもしれないときに、自分はいったいどうしたらいいのか。そしてそれは自分が自分自身を信じられるように、誰かたいせつな人に信じさせてもらうことかもしれない。大丈夫だ、ってひとこと言ってもらえれば自分はまだあきらめないでいられるかもしれない。それなら。

(そっか、ひなたチャンには…)

 思索の海、シーツの波間を漂って行き着いた結果におだやかな顔になると、瞳はそのまま深い眠りにつきました。


 松本ひなたの記録が高校女子としては第一線級であるのは今更のことではありません。全国レベルにはまだまだ及ばないとはいえ、県優勝をしてもおかしくない記録を彼女は既に持っているのですから。そして今年及ばなかったとはいえ一年生の彼女には来年も再来年もありますから、負けた悔しささえ忘れることがなければ挽回の機会はいくらでもあるはずでした。

「瑞季…今日から、朝練一緒にやっていいかな?」

 翌日、早朝の走り込みの為に玄関を出た瑞季の前に、トレーニングウェア姿の幼なじみが立っていました。それは、目の前の幼なじみのことをよく知っている瑞季には意外なものでした。

 瑞季の記録に及ぶようになれば、大会でも行けるはずだから。

 ひなたが瑞季に教わるということは、少なくとも彼女が幼なじみに及ばないことを認めたということになります。その上で瑞季をパートナーに本格的に高校「女子」陸上に打ち込むことをひなたが決めたということなら、幼なじみの少年には嫌も応もありませんでした。あるいは欲しいものを手に入れるために、ひなたは瑞季へのプライドを捨てようとしているのかもしれませんが、それを決める権利は松本ひなただけにあるのですから。

「…ああ、わかったよ」

 大丈夫、のことばは次の大会までお預けにして。その日から早朝、瑞季に並んで付いていくように走るひなたの姿が見られるようになりました。県大会の雪辱を誓う瑞季が走り込みのペースを上げたこともあってそれはひなたには厳しい練習になっていましたが、幼なじみが自分の為に中距離用の練習内容を考えてくれていることは彼女には分かっていました。

 長かった陸上部の夏が終わり、すっかり涼しくなった私立樫宮学園はじきに新たなお祭りのシーズンを迎えます。

おしまい


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