ひなたで過ごす
十一月をまわり秋空は長雨の季節をすぎて、次第に冬空へとかわりつつある長野県は古坂町にある私立樫宮学園女子若葉寮。それはとてもよく晴れたある一日のできごと、発端は一人の少女の叫び声からはじまりました。
「ひなたんたいへーん!氷雨っちがこわれたー!」
細身の身体で慌ただしく、寮の一室に駆け込んできたのは不来方青葉。青葉が駆け込んできたその部屋は松本ひなたの部屋であると同時に「こわれた」らしい氷雨っちこと亀宮氷雨の部屋でもあるのですが、もちろんそれも青葉には承知のことではあったでしょう。騒動娘としてはファーストインパクトは衝撃的であるべきでしたが、この場合重要なのは彼女の騒動娘としての認知度であって相手の反応もそれによってまったくことなってはくるのです。
「どーしたの青葉?氷雨なら今日は夢見先輩とお寺行ってるよ」
のほほんとした反応。青葉と夢見の組み合わせ自体はたしかに奇妙なもので、夢見先輩こと乙姫夢見といえば一部で悪名高いオカルト研究会、通称オカ研所属の二年生。いわゆる優等生グループの一員で生徒会書記でもある氷雨との組み合わせは、他人の想像力を刺激するにはいい材料であったかもしれません。青葉がとびつきたくなるネタであるということも、ひなたには充分に理解できるのですが、
「でも氷雨がこわれたーはないでしょ」
苦笑するひなた。青葉が暇つぶしに友人の部屋を襲撃する話題を探してきたということは間違いがなくて、このあたり企み好きな騒動娘の性格をひなたはよく心得ていました。思ったよりいいリアクションが得られなかったことに、青葉も自分の策がいまいちだったかと不満げな顔を返します。
「おもしろいと思ったんだけどなー。氷雨っちが邪教に入信した!とかいいネタだよー」
「それは確かにおもしろいですわね」
突然背後から聞こえてくる穏やかな声。びくりと一拍置いて、ゆっくりと振り向いた青葉の肩越しには当の氷雨がにこやかな顔をして立っていました。氷雨が帰ってくる時間を予め聞いていたひなたは、会心のタイミングに意地の悪い笑顔を浮かべています。ばつの悪そうな顔で青葉が抗議しました。
「謀ったな…ひなたん」
「最初に謀ったのは青葉だよー」
「策士が策に思いきり溺れていますね」
氷雨の無邪気で容赦のないつっこみ。ちなみに本来神社の勢力が強い古坂町ではお寺の勢力はあまり強くはなかったのですが、茶道やら華道やらの習い事で和室を使う氷雨は小さなお寺の一室を借りて稽古をすることも珍しくはありませんでした。
そんな氷雨が夢見と知り合ったこと自体は生徒会活動と生徒会から問題のある活動として指摘されているオカルト研究会との関係からなんですけれど、その中でも比較的常識人であった夢見は氷雨の協力でオカルトに限らずその母体となった様々な思想や哲学を習うことで「まっとうな文化部としてのオカ研」を目指す地道な活動に尽力していました。
効果のほどはともかくとして。
いわゆる幽霊部員の存在は別として、私立樫宮学園オカルト研究会の主要な構成員は三名、それが三派に分裂しつつ対立していると言えば大げさな表現になります。占い霊感オカルト娘こと九念柚子はそう表現してもよいものなら純粋なオカルト派。反対に猪野神社の孫娘である猪野祈はそういったオカルト現象を全て現代科学で解明できると主張する極端な科学尊重派。そして夢見はといえばもとはその調停役でしかなかったのですが、とあるきっかけから三者が鼎立できるだけの思想の柱を打ち立てることにいちおう成功していました。対立する二つに並んで立つ一つというのは、三すくみと並んでもっとも安定するトリニティの姿だということはあまり知られていませんけれど。
「最初はオカルトの語源から調べ始めたんだけど…」
夢見の調べたオカルトの本来の意味はイタリア語のoccultareの過去分詞occulto、それは「隠された」という意味のことばでエジプト・バビロニアの技術にギリシア哲学とヘルメス主義をもとにして体系化された錬金術、その二本の柱となる治金術や哲学によって到達しようとする「隠された」真理の存在でした。そして、その錬金術における哲学を調べるときに彼女が必ず行き着いたのが、古いグノーシスの教義だったのです。
古来より複数に分派して久しいグノーシスの解釈は必ずしも一様ではありませんが、常に共通しているのは世界の騒音を越えて呼び掛けてくる声を聞くことによる無知からの覚醒。それによって究極の真理であるアイオーンに到達すること。そして真理からこぼれおちた存在が二元論として対立し、対立した結末によって真理に帰還することがあらゆるグノーシスの教義でした。いまここで様々な解釈の例を挙げる必要はありませんでしたが、夢見が興味を持った一つの解釈には次のようなものがあります。
即ち、物質主義と精神主義がいずれも争いつつ唯一つの真理を探求しているという事。
夢見が氷雨に頼んで禅の思想を学ぶためにお寺を紹介してもらったことには、柚子と祈とがお互いに異なる方法で一つの真理を求めている、その哲学を組み立てるためでした。西洋における世界の真理の探求がグノーシス主義であれば、東洋における自身の真理の探求は禅そのものであり、そこには調べてみる価値があるように思えたのです。
それは多少卑怯な手段であったのかもしれません。夢見がこころみているのは柚子の霊感と祈の科学とをそれぞれ文化史の一つの思想としてあてはめてしまおうとするものでしたから。ただ夢見を動かしている原動力はオカ研をどうこうするという使命感だけではなくて、文化史を辿るという知的好奇心を刺激しまくる行為そのものになっていましたからそれは簡単に止められるようなものでも既にありませんでした。
◇
平成13年11月23日金曜日。祝日であり国民の休日でこそありますが、長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校では多少遅めの文化祭、その第一日目が開かれていました。高校の文化祭とはいえ公立でない私立の学園祭であればその趣向もそれなりのもので、凝った衣装やら派手な音楽やら大がかりな飾りが敷地内を埋め尽くすことになります。
「・・・うーん」
最近メアリ・コリンズは不機嫌でした。アメリカはデトロイトからきた留学生、好奇心旺盛でなんにでも首をつっこみたがり神出鬼没。日本文化が彼女に与えてくれる刺激のおかげで飽きることのない生活を送っていたメアリですが、不機嫌の原因はそれとは別のところにありました。
「最近、瑞季が冷たいです」
もともとは松本ひなたと星野瑞季の二人の朴念仁をからかってみるつもりでアプローチをかけていたメアリでしたが、それがあんまり堪える様子もなくそのまま落ちついてしまったというのは彼女にとってはとても淋しいことに思えました。同じクラスの北城瞳が同じことをしたときはあんなに騒動になったのに、と思いつつその瞳とひなたと瑞季の三人が楽しげに談笑している姿を見たりすると、淋しさ以上に不思議な悲しさがこみあげてきたりもするのです。
その理由がわからないでいるところがメアリの子供の部分ではあったのでしょう。誰とでも一緒にいるメアリがその日はまだ一人で、今日は誰と一緒に遊ぼうかと文化祭真っ最中の校舎の中を歩いていました。彼女のクラスの出し物は大正浪漫風喫茶店とかいう筈で、メアリがウエイトレスをやる時間にはまだなっておらずに他の出し物を見てまわっていたんですが、既に開店している教室には客足が流れ込んできていました。ジャパニーズ・タイショウジダイの着物を着た女生徒たちが元気な声をはりあげています。
「いらっしゃいませー…あ、ひなたチャン元気ー?」
「やっほー。瞳似合ってるじゃなーい」
「ありがとー」
お盆を片手に軽快な足取りで、ハイカラな和装をした北城瞳がひなたと瑞季、氷雨の三人を連れてテーブルに案内します。バザーで仕入れた不揃いのカップを満たしている珈琲の香りが独特の雰囲気をかもしだしていて、教室内の壁面をぐるり囲んだベニヤ板に描かれた内装も意外にいい味を出していました。瞳の後ろから、こちらはいわゆる鹿鳴館スタイルをしたナーサティア・月村がメニューを持ってきます。
「本当は床も貼り替えたかったのだが」
「それはさすがに怒られちゃうよ」
長身に和装が意外に似合っていて、瞳との身長差なんと40cmもあるでこぼこコンビのウエイトレスは意外な好評を博しているようでした。危なげのない様子で空のカップが積まれたお盆を運んでいるナーサティアの脇をくるくると走り回る瞳の動きや立ち位置もどうやら練習したもののようで、外見だけでない練習の成果がそこかしこで来客を楽しませています。
「あれ?そーいえば青葉は?」
「青葉チャンは空き時間だよ。剣道部の出し物に行ってるんじゃないかなあ」
ひなたに答える瞳。ウエイトレス役をしている女性陣のうち青葉やメアリはまだ時間外で、こういう日にクラスなり部活動なり所属の異なる友人が時間を合わせるっていうのはじつはけっこう難しかったりします。
その代わりにこうして働く友人の姿をからかいにもとい応援しにくる機会にもつながるのですが、青葉の分もふくめて次の空き時間を確認しておくことを約束すると瞳はナーサティアとさんざ練習した「芸」を披露してみせました。背の高いナーサティアに向けて丸いお盆をフリスビーのようにふわりと放りなげて、
「よっ」
と指先一本でそれを受け取るナーサティア。お互いの呼吸もぴったりで、くるくるとまわしてからキャッチ。単純な見せ物ですがたまに見せると効果は抜群で、もちろんもったいぶるのも芸のうちでした。
大正浪漫喫茶はなかなか好評のようです。
「あーいたいた青葉。何やってたの?」
「いやー実は個人出展一覧の裏版を入手するのに時間がかかっちゃって」
「そんなものが出回ってるんですか?」
暫くあちらこちらをまわりつつ、ようやく見つけた青葉と合流すると更に学園内の「探索」を続ける四人組。樫宮学園文化祭の出し物の基本はクラス出展と倶楽部出展の二本立て、それが教室または部室使用の場合と校庭に出店を開く場合と、講堂のステージで演目を出す場合とに分けられています。特殊な例としては天文台で映像を用意して行う天文部のプラネタリウムなんてものもありますけれど、それ以外にも個人出展というお好きな人にはたまらない出し物も数多くありました。むしろ正式な部活動として認可されていない弱小活動はここでアピールを行い、その実績をもって来年度の部への認可への足がかりとすることだってあるのですけれど、生徒会への申請や登録を敢えて行っていないアンダーグラウンドな輩というのもやっぱり存在している訳です。
『龍波流武者漬け喫茶』
『MJ喫茶ハイブリッドカクテル』
吸収の良いポカリと蜂蜜をベースに疲れを取るためにチョコとキャラメル、肉体強化のプロテインに漢方を加えてご飯をひたした武者漬け。そしてブレンドした甲類焼酎と100%ジュースにローファットミルクをベースにして卵の白身とプロテイン、豆腐にカロリーメイト(ミルク味&コーヒー味)と各種サプリメントと小魚を加え、シェイクした後にゆでた鳥のササミをトッピングしたハイブリッドカクテル(註.未成年なので焼酎のアルコールは全て抜いてあります)。
堂々と喫茶を謳っている二つの劇薬販売店の前に積み上げられている屍の山。限度を越えた××さはまた芸術の対象たりえるとでもいうのか、好奇心旺盛で命知らずな挑戦者たちはなお後を絶たず、それと同数の屍の山を更に量産していきました。ちなみに片方の露店が生徒会長直営であるということに氷雨は気づいていましたが、誰もが知っている暗黙の了解に敢えて指摘をしようとはしませんでした。
主に誰のためにかはわかりません。
そういった個人出展の中で、毎年最大規模の来客数と利益率とを誇っているのがオカルト研究会出展の占い館でした。特に昨年一年生で参加している九念柚子は占いのレパートリーでは歴代会員の中でも五指に数えられるとまでいわれ、手相や占星、タロットに精霊に筮竹といった一見まっとうに聞こえるものから開運カエル占いに加トちゃん占いに妖怪占い箸占いなどじつにあやしげなものまでレパートリーは無尽蔵でした。更にこれに対峙するかたちで、猪野祈がコンピュータ端末を並べた確率統計による占いと分析診断による心理ゲームのブースをでんと構え、そしてそれぞれの周囲は超常現象を写したパネルの数々で飾られているという有り様です。
常時会員わずか三名の弱小同好会が空き教室一室を堂々と占拠している理由は、女性を中心に多くの客が詰めかけしかもその足が途絶えることのない事実と実績とによるものでした。今年の占い館は曙を象徴する東側には祈の科学ブースが、魂の安息を示す西側には柚子の占いブースがそれぞれ陣を取っていました。ですが、もっとも不思議な人気を集めたのがその中央に夢見が建てた「アイオーンの部屋」でした。
◇
ことのきっかけは柚子の双子の妹である九念桃子の存在でした。友人の間ではわりと知られていることでしたが、病弱で寝台を離れることができない妹のために柚子がことさらに変で楽しいものを探すことを好むというのは有名な話で、それが明らかに行きすぎているという評価は別としても友人の妹のお見舞いに行くというのはそういった評価とはまったく次元の異なる行動ではあるのです。
「やっほー、桃子ちゃん元気ー?」
同じオカ研の一員として、夢見や祈が柚子の妹の病室に顔を出すことも一再ではありませんでしたが、特に最近夢見が凝りだした文化史の本なんていうのは長く暇を持て余している病人へのお土産としてはそれなりのものであったでしょう。そしてお土産に詰め込まれていた知識をひろい集めたからには創造する喜び、あるいは想像する喜びもまた生まれてくることになります。
普段出歩けない柚子の妹が元気なペットを飼ったり、あるいは元気な友人を見てうらやんだりするというのはごく自然な反応でした。一人でいるときに貪るように書物に目を通すということも、前向きな知識欲があるということでけっこうなことではあったでしょう。そして、そんな桃子が稚拙ながらも詩を書いたり絵を描いたりするということもまた、けっして不自然なことではありませんでした。彼女のメンタルはいわゆる文学少女のそれだったのでしょうけれど、例えば詩では心情描写が異常なまでに上手い桃子はどうしても見たことのないものを描かざるをえない絵画はとても苦手でした。
(じゃあ、心情描写を絵に描いてみたらどうなるんだろう?)
あるとき、夢見がふとそんなことを思ったのは彼女がちょうどグノーシスの教義やら禅の思想やらを辿っていたからには間違いありません。そして思いつきのままに柚子の妹に持ちかけてみたのもそれほど深い考えがあってのことではなかったのでしょう。普通ならそんな曖昧な課題で絵が描ける人はごくまれにちがいありませんが、夢見の目の前で寝台の背にもたれかけて深々と腰掛けている少女はいつも自分のこころの中にある何かを見続けていた少女でした。
短い時間ためらったあと、太い刷毛でカンバスに塗りたくった色は散りばめられて吹き上げられた白色が流れている、薄淡いけど力強いピンク色でした。その色は彼女の名を現す桃色というよりも風に舞う桜の花びらとたんぽぽの綿毛とを表現したかのような色であり、妹のこころを最も的確に表現できたのはもちろん双子の姉の柚子だったのです。
「春の色、だね」
◇
そんな占い館は今年も例年以上の盛況で、それぞれのブースを訪れる客足がとだえる様子はほとんどなく、ひなたたちが訪れた今年も柚子の楽しく雑多で訳のわからない占いの数々は健在でした。
「九念先輩、瑞季に女難の相が出てるかどうか見てあげて」
「ばりばりに出てるわよ」
「…ぜんぜん占った様子がないじゃないですか」
ひなたの質問に即答する柚子に不満の声をあげる瑞季。柚子もももちろん女の子でしたから、占うまでもなくわかることだってたくさんあるのです。ぶ然とした顔をする瑞季を見て大笑いするひなたの様子を見ていた柚子は更に続けて、
「ひなたちゃんは最近女性に好かれる相が出てるわね?」
「…それ、こないだの仮装の時からです」
先日の体育祭で学ランを着た応援団やらベルサイユのばらの仮装リレーをして以来、ひなたは後輩の女子中学生を中心に奇妙な人気が上昇したのを自覚していました。占いの話題以上に話題を提供できる会話そのものが柚子の占いの真骨頂で、人気を博している理由だったのかもしれません。一方対面にあってまったくちがう雰囲気を見せている祈の心理分析のブースでは、青葉と氷雨が端末をたたきつつ打ち出される結果を待っていました。
「青葉さんは周到に用意した穴に自ら落ちるタイプと出ています」
「…それってものすごいまぬけってことじゃないのー?」
さんざんな結果の方が話題としてはおもしろいのですが、自分が話題を提供する主になるというのは青葉にとっては不本意だったでしょう。ちなみに氷雨も行った筈の心理分析の結果はなぜか誰に聞いても知られていなくて、本人に聞いてもやっぱり
「秘密です」
と教えてもらえませんでした。平穏無事でいたければ知らないほうがいいというものは世の中にはたくさんあるもので、もちろんそんなに大それたことではないんですが、そんなに大それたことではないかもしれないんですが、大それたことではないといいなあと思いつつ。
「秘密です」
文化祭が終わったあとで祈がコンピュータ端末を調べてみても、何故か氷雨に関するデータだけは完全に消去されていて復元することができませんでした。
◇
そして夢見の建てたアイオーンの部屋は一見したところ教会の懺悔室を思わせる小さな組み立て式の部屋でしたが、柚子の妹の絵が飾られた入り口をくぐった中はひたすら防音処置がほどこされていて、まっくらで静かな部屋内に据え付けられた椅子に座るとただゆっくりと静寂の中でこころを落ちつけることが出来ました。そして、箱の中で薄布の向こう側に座っている夢見の影に思うことを語ったあとで、その心の底にあるものを絵筆で描いて残すだけというのがこの部屋のたった一つの目的でした。
「では貴方のこころの色を描いてみてください」
防音された何にもない部屋。しばらくの静寂の後、夢見のことばに従って一枚の絵が描きあがります。小さなカンバスには人によってまちまちな絵が描かれ、その一部が飾られていましたが、多少似ているものこそあれ同じものは一つもありませんでした。そしてそれを描かせる手法と会話こそがこの部屋の真骨頂なのです。
メアリが占い館をおとずれたのはひなたたちが立ち去ってから少ししてからのことでした。そろそろ自分のクラスでウエイトレスの出番がまわってくる時間になり、そうすれば青葉たちとは間違いなく合流できる筈でしたけれど、誰もつかまえられなかったというのはメアリには悔しいとは言わないまでも残念なことだったでしょう。もちろんそれはそれで自由気ままにあちこち出歩いて楽しむことができた、ということなのですが。
「では貴女のこころの色を描いてみてください」
「…そんなの、何描いていいかわかんないです」
曖昧な質問に対してこういった回答が返ってくることも特に珍しいことではありません。では、といって貴方の思う誰かのイメージを色にして描いてみてください、とか相手に合わせて質問の内容を変えていくのがこの部屋での夢見の役目でした。それでも最初は多少の苦労を強いられたのですが、描かれたカンバスのいくつかを預かって部屋の中に飾っていくうちにそれを見た者もなんとなく何かを描けるようになっていきました。そして、たいせつなのは「なんとなく」というまさにその部分だったのです。
ただ、本来美術部に所属している筈のメアリは好奇心のままにいろいろなものを描いたことはたくさんありましたが、見えないものを描くなんてことは今までやってみたこともなければ考えたこともありません。さて何を描けばいいのかと左右を見て、目に留まったのは知り合いの名が入った二枚の絵でした。それは、同じものが一つも無い筈の絵の中で驚くほどうりふたつな一組でした。
「瑞季と…ひなたの絵ですか?」
「ああ、それね?ちょっと悪戯しちゃったんだけど驚くほど似てたんで飾らせてもらってんだ」
口調を普段のものに戻す夢見。最初来たひなたに貴女のこころの色を描いてみてください、と言って描いてもらった絵を見て次に部屋に入った瑞季に対して彼女はふとこう言ってみました。
「では貴方の思うひなたさんの色を描いてみてください」
そして半分むりやり瑞季に描かせてみた筈の絵は、おどろくほどその色使いがひなたの描いた絵とそっくりになりました。新緑に日の光が差し込むカンバスに塗られた色を見て、おそらくは二人に瑞季の絵を描かせた場合でも同じ色をした二枚の絵ができあがっていたのだろうなと夢見は思いました。
「よく見てるんだよね、あの二人」
夢見のことばを黙り込んで聞いていたメアリは何かを胸につきつけられたような気がしていました。それはひなたには瑞季の絵が描けるだろうということと、たぶんメアリには瑞季の絵は描けないだろうといった小さなことだけではなく。もしかしたら自分の絵を描くことのできないメアリには、友人の誰かの絵をただの一枚すら描くことができないのではないだろうかという恐怖でした。
好奇心旺盛でなんにでも首をつっこみたがり神出鬼没なメアリ・コリンズは、もしかしたらどこにも留まらずにすぐに立ち去ってしまうだけの存在なのかもしれません。そしてメアリが誰かの絵を描くことができないということは、誰一人メアリの絵を描いてはくれないかもしれないという恐怖とも紙一重だったのです。
「夢見先輩…ここ…防音でしたよネ?」
それだけ聞くと、メアリの両目からぽろぽろと涙が落ちていきました。好奇心のままにいろいろなものを見ようとしていた目が本当は何も見えていなかったのなら、目を覆っている膜を涙で洗い落とす必要がメアリにはあったのです。
すぐに泣き終えるといつもの明るい笑顔に戻り、あっけにとられていた夢見にお礼を言ってからメアリは部屋を後にしました。
彼女が何の絵も描かずに見た真理は少し塩気が多かったようでした。
◇
クラスに戻ったメアリはちょうど青葉や一緒にいたひなたたちと合うことができました。その時多少の気恥ずかしさがあったのはもちろんメアリにとってだけで、みんなはいつものみんなでしたがメアリの方はほんのちょっとだけメアリ・コリンズの中身が変わっていたかもしれません。
「次の空き時間はみんなで講堂に行くのでーす」
明るく約束すると急いで着替えるために青葉と二人、教室の仕切られた部屋の奥へと消えていきましたがそのとき他の誰にも聞こえないように小さく呟きました。それは松本ひなたにかかわるものの合い言葉であり、メアリのほんのちょっとだけ変わった中身がこぼれでた言葉でした。
「負けないです」
おしまい
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