ひなたで過ごす
年末の忙しい時期をすぎて。大晦日からお正月も明けて、初詣の混雑も収まりつつあり世は帰省ラッシュとやらが始まっている頃。長野県は古坂町にある私立樫宮学園周辺は雪も降りしきる冬景色の中にありました。
木佐茂。生研こと生物研究会員としての生き物への情熱と、味覚の探求者としての食材への情熱とを知られている少年。やや小太りで丸顔、地元出身で昔からの顔馴染みが多い一方で、いつも何か考えている、考えているその中身が表情にでない茂の価値基準はその古くからの友人たちにもあまり知られてはいませんでした。
普段何をたくらんでいるか分からないそれは茂の長所でもあり短所でもあったでしょうが、たいせつなことは必ず知っていてもそれを他人に知らせるというのはけっこう苦手だったのかもしれません。昔からの友人たちがいる中で、同年の幼なじみの少女に淡い恋心くらいは抱いていたらしいけれど、やっぱりそれを外に出したりしなかったのは茂なりの考えでしたがその考えを彼以外の誰かに知らせるようなことはけっしてしませんでした。
(夏の日差しって感じだな)
茂の初恋の相手は松本ひなたという名前で、元気と正直と負けず嫌いが取り柄のような生命力のかたまりは星野瑞季と並ぶ少年の昔からの友人でした。茂がひなたと知り合ったときから瑞季はその隣りにいつもいて、兄妹のような二人の関係は見ていて危ういところもある一方で、うらやましく思えてくることもありました。
茂がひなたに惹かれたのは夏の日差しのように力強く、尽きることのない生命力を感じたからかもしれません。ですがそれはひなたが瑞季と、瑞季や茂たちと元気に走り回っているときの生命力でした。で、あればそれを敢えて壊す必要は茂にはいささかもなく、頼りない瑞季という少年に初恋の相手の世話を任せて彼はそれと接する道を選びました。今のところ、それが間違った選択だとは彼は思っていませんでした。
今がいいなら今を壊す必要はないかもしれないから。とりあえず、人という生き物を見ていることが好きな茂の一日。
◇
新年の抱負。抱負だとか信条だとか、人は区切りのために目標を設けさせられることが多い本末転倒な生き物ではありましたけれど、ともかく目標は舵を取るためのたいせつな道程でした。
「今年は学力の挽回を誓うぞーっ」
「ひな、あいかわらず元気だなあ」
大晦日から年明けにかけて、ひなたや瑞季は東京にある亀宮氷雨の実家に遊びに行っていました。陸上部の大会に体育祭に文化祭、更には生徒会の手伝いと二学期の間あちこちを走り回っていたひなたの成績が氷雨や五島小夜といった優等生の友人たちに及ばなかったのは確かですが、それでも学年上位は充分に保っていました。ただ、保っているという状態自体はひなたはあまり好きではありませんでしたけれど。
興味のないことは頑張る、そして興味のあることは異常に頑張る。そんなひなたの様子を見て、いつもの元気の良さに呆れるのと感心するのを同時に行っていた瑞季は幼なじみの得意な科目を思い返していました。たしか自然科学が好きで地理が得意、現代文では詩歌が好きで数学とか物理は苦手。勉強で覚えられる学校英語は得意。
「実は結構試験勉強に向かない科目が好きなんだよな」
「何か言った?瑞季」
これ以上追求すると新年初殴られを経験することになりそうなので、早々に話題を変えると特急列車の座席にはなごやかな雰囲気が戻ってきました。
地元出身ながら家から近い学生寮に入っていて、頻繁に実家とのやりとりがあるひなたにとっては盆だ正月だからといって大仰に帰省をする必要はありません。どうせ地元の商店は閉まる時期、行くところがあるなら家への顔出しはその後でも構わないと放任主義の両親の寛容な言葉に甘えて、東京出身の友人の実家に遊びに行くことになったのはお盆以来のことです。
この期間は大規模な清掃やら補修やらが行われるために学生寮も閉鎖され、県外から来ている多くの寮生は帰省する上に長野から東京方面であれば交通機関の混雑の影響も少なくてすみました。
「でも正月来ないならお年玉はくれないってさ。せこいなあ」
「じゃあ帰省の交通費を出してもらったんですか?」
「瑞季ん家の手伝いのバイト代当てたもん。寮のお金出してもらってるし、あとは家は小遣い以外はくれないよ」
実家のある娘が寮に入っているのですから、金銭援助が厳しいのもあるいは当然のことかもしれません。世の両親が娘に与える援助の基準や平均なんてものを調べても仕方ありませんが、放任主義であるから援助も少ない、というのが厳しいか否かは家々の事情によってまったく異なるでしょう。ただ、氷雨の見る限りひなたは自分の家庭環境を少なくとも気に入っているのはまちがいありませんでした。
◇
氷雨の帰省先の実家で手料理になるおせち料理をごちそうになりながら見ていたTV番組に、不来方青葉とメアリ・コリンズが写っていたのはまったくの偶然でした。初詣客でいっぱいの混み合った神社、中継カメラがつかまえた理由は外国人のメアリが青葉と二人、着ていた着物姿と元気にはしゃぎまわる様子があまりに目に留まったからかもしれません。
「そっかあ。あおぴーも実家こっちだもんね」
奇妙に感心した声でひなた。翌日、もともと合流予定だった小夜もあわせて合流すると、前日よりは多少人混みも減って歩けるようになった神社に参拝に行きました。高校生の娘を長野に送り出した氷雨の両親にしてみれば、帰省してきた彼女が多くの友人を連れているということは喜ばしいことであったでしょう。
「剣道部は大会後なんで冬休みは休みなんだー」
「あ、いいなあ」
薄い胸をはって言う青葉の言葉にこたえるひなた。彼女の所属する陸上部はこの時期、マラソンを始めとする長距離がシーズンになりますから7日にある始業式よりも前から練習が再開される予定となっていました。中距離を主体にしているひなたもクロスカントリーの大会には出る予定になっていて、短距離専門の瑞季にしても自分の参加種目がないからといって休むような訳には無論いきませんでした。
「クロスカントリー…って何ですか?」
「簡単に言うと坂道や悪路ありのマラソンかな。心肺機能とか強化するんで出るように先輩に言われたんだ」
高校生にもなると陸上では参加種目の専門化が進む一方で、基礎体力づくりのために専門種目以外もこなすことで他の能力を補うことは別段めずらしいことではありません。例えば海外では水泳をいろいろな競技の補佐種目として実践している選手もいますし、陸上でもマラソンの選手が10000mで調整や訓練を行うことは普通に見られる光景でした。ただ、これが剣道のような複雑な種目になると素振りとか打ち込みとかいった特定の練習を幾つも行うことによって、複数の能力を鍛えるようになります。いずれにしても日々の修練が能力の向上に結びつくということだけはまちがいがありませんでしたけれど。
「剣道部といえば中野先輩は休み中も頑張ってるらしいですよー。素人のくせに生意気ですよねー」
嬉しそうに言う青葉。もともと保険委員で、マネージャ業を含めていちおう身体の弱い彼女を手助けする為に剣道部に入部した中野先輩こと中野等が、ひたすら単純でつまらない練習をまじめに行いつづけているのは部内では有名な話でした。その年の冬休みも温泉旅館のバイトやらなにやらであちこち走り回ってはいたのですが、それでも剣道初心者の彼が日課としての素振りを決して欠かすことがなかったというのは、昔から好きで剣道を続けてきた青葉にとっては嬉しいことだったでしょう。
もっとも等の方は後で驚くことになるのですが、部内で誰よりも冬休みに多く素振りを行っていたと思っていた彼の練習量は青葉についで部内で二番目でした。好きで好きで仕方のなかった剣道を一時期断念して、それをまた始めることになった喜びは他の人が思っている以上に大きいものだったのでしょう。体力をつけるために負担にならない程度の適度な運動、と言っている青葉の練習量は恐らくその天才を支えるにふさわしいだけのものでした。そして、それにつぐ等の剣道への取り組みが青葉には嬉しくてしかたのないことだったのだと思います。
◇
長野県は古坂町にある私立樫宮学園。人気のない剣道場で借り物の竹刀をひたすら振りつづける練習を終え、ひと駅乗り継いだ先の温泉旅館でのアルバイトに向かうために校門を出て歩いていた等とすれ違った茂は入れ替わるように校門の方に向かっていました。
アルバイトの一環でもあり趣味の延長でもある山芋掘りの帰り道、毎日同じ時間に通る道で毎日同じ先輩を見かけるのが冬休みの茂の日課のようになっており、自然と覚えている顔も多くなります。視線の先にはひなたたち陸上部の先輩であり、地元のラーメン屋の息子としても顔が知られている小林ミイケが、古風な改造学生服姿の別の生徒と話していました。
「こんちは。先輩元気ですか」
「ん?…おお、茂じゃねーか。また山芋買うから取っといてくれよな」
茂の挨拶に振り向くと、軽く手を振るミイケ。学生服姿のもう一人は西川竜一郎、感性の古さはともかく樫宮学園の自称番長として実際に多くの生徒からは敬遠されている存在でしたが、ミイケも茂も細かいことは気にしない性分でした。三年生の18歳、校門前に乗ってきていたバイクについている漫画に出てくるような大きなドリルを見て、茂が親しげに話しかけます。
「先輩、何ですかこのバイクは?」
「デビルドリルと呼んでくれ」
「…あいかわらずだなあ、先輩」
呆れた声を出したのはミイケ。自称番長の竜一郎、傍目には半分以上は遊んでいるようにしか見えませんが、当人はいたってまじめで自分なりに学園の風紀を守ろうとしているらしいというのも有名な話です。自由な校風が売りの樫宮学園にも規律は必要だ、として現生徒会宛てに『十箇条』なる校則の追加やら風紀委員会の設立やらを呼び掛けた竜一郎は健全な番長なのでした。
茂とミイケの目の前のデビルドリル、とやらもこういう人間が軽いことを行うことでいわゆる「不良グループ」を親しみやすい存在にしてしまおうという目的があったのかもしれません。コミュニケーションの低下が一般生徒との間に壁を作ってしまう例は少なくありませんでしたから、竜一郎もいちおうそんなものを目指してはいました。いかつい容姿のごつい学生服男が意外にごく一部の人間には親しまれているというのには、そんな事情があったのかもしれません。
「安心しろ。登下校にはバイクを使ってはいない」
「いや、まあどっちでもいいんだけどさ」
茂と同じく、意外な顔の広さが売りのミイケももちろん竜一郎相手にべつだん物怖じせずに話せる人間の一人でした。というより、竜一郎が存外に話しやすい相手であるというのを彼と会話をしたことのある少数の人間は知っていました。一学年下である筈のミイケが気軽な口調で話しかけ、茂が特に遠慮する様子を見せてもいないというのはその証明だったでしょう。
もっとも、外見や格好のことをミイケに言われるのは竜一郎としては心外だったかもしれません。ミイケの着ている厚手のジャケットの下には大きな門松のプリントが入ったTシャツが堂々と顔を覗かせており、その奇異さかげんでは決して竜一郎には劣っていなかったでしょうから。
「今日は原宿Tシャツじゃないのか?」
「正月仕様だからな」
「そうか」
ミイケにはミイケなりに、莫迦Tシャツは市販品に限定し自作はしないというポリシーがあったりします。その真意がどこにあろうとも、抱負だとか信条だとかは舵を取るためのたいせつな道程になる目標でした。
年末に雪が降ったこともあり、4日から再開される陸上部の練習を見越してたびたびグラウンドの状態を見に来ていたミイケでしたが、茂や竜一郎と分かれるまでの話題は終始、ラーメンの新作やらデビルドリルや莫迦Tシャツのことに終始していました。
◇
平成14年1月3日。長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。学園内でも早い部類に入る陸上部の練習初めは翌日から、ですが幾つかの倶楽部活動は既に始まっているものもあり、生徒会室でも交替で窓口だけは開いていました。一人でも活動している生徒がいるなら生徒会は休みにならない、というのが今年度の生徒会長たる日崎克己のポリシーのようで、前日に帰省先の東京から戻ってきていた氷雨と二人、生徒会室に窓口だけを開いて簡単な事務処理をのんびりとかたづけていました。
「お茶が入りましたよ、日崎さん」
「さんぴん茶がまだ残ってるんだけどなあ」
「どうぞお茶です」
克己の声を聞こえないかのように湯飲みを差し出す氷雨。人望でも能力でも相応と評価される生徒会長の最大の欠点は通称MJと呼ばれるまずぅいジュースを愛飲していることで、老舗料亭の娘にして料理部所属で茶道やらもたしなんでいる氷雨にしてみるとちと困り者ではありました。もっとも、それほど深刻なものではありませんでしたが。
「飲み物に限らず好みは人それぞれだよ」
もっともらしく論評する克己の言葉はこと飲み物に関する限りは他人の信頼を得てはいませんでしたが、彼の言いたいことは氷雨はよく理解していました。飲み物でさえどうしようもない好みがあるのなら、人と人との付き合い方はもっとどうしようもない好みがある筈です。時には恋人のような、友人のような、あるいは兄弟のような関係。そしてたいせつなことは他人の好みをきちんと聞くことと、それを尊重することにある筈でした。
(でも、ひなたさんたちの関係は私にはやっぱり羨ましいですわ)
氷雨が持っている悩みを克己に知られるようになったのはいつの頃からか、頼りになる先輩は軽いようでいて、たいせつなことだけは必ず真面目に聞いていてくれました。いつでもすばらしい回答が返ってくるほど克己は人生の天才ではありませんでしたが、真面目に聞いてくれるというそのこと自体が氷雨にはたいせつなことだったのです。
「君に煎れてもらったお茶も、このさんぴん茶も両方とも好きだよ」
韜晦しているのか本心なのか、克己の返答はまっすぐでないことが多かったのですが、そこに真意があるなら氷雨はそれで満足でした。自分が自分でしかないということで他人をうらやましがるというのは健全なことではないと思う。亀宮氷雨は亀宮氷雨以外の人間にはなれないのだから、その代わりに彼女は彼女自身と誰かとの関係を他人にうらやましく思われているかもしれません。
「…そうですね」
ふと、氷雨は自分が今いるこの場所に充実感を感じているということに気付きました。冬休みの一日、長野県の冬に活動している生徒がごく少数になっているその日に自分がここにいられるということは、少なくとも彼女以外の人が代わりにいたら氷雨はその人をうらやましく思ったことでしょう。
その日も含め、年末年始も休みなく毎日活動している部活動は樫宮学園ではただ一つ、いきもの飼育同好会だけでした。
◇
飼育小屋のうさぎにひなたぼっこをさせようとしていたナーサティア・月村は、日の当たる午前中のうちにできる仕事はすべて終わらせてしまおうと思っていました。冬休みの間も彼女が毎日のように学園に訪れては、飼育小屋をはじめ池の魚や亀の世話から植えられている花瓶の花の水替えまでをしてまわっているのを茂は知っていました。一度、友人の実家に行くために数日長野を離れていたときに茂をはじめ何人かが代わりに彼女の仕事を手伝ったことを含めれば、文字どおりいきもの飼育同好会は年中無休で活動を行っているのです。
「やっほー。ナージャ手伝いにきたよー」
「ああ…丁度うさぎたちを干していたところだ」
「うーん、干すっていうのはちと違うかな?」
多少の違和感があるとはいえ、少しずつ日本語の使い方にも慣れてきたナーサティアに手伝いにやってきたひなたたち。先に花瓶の水替えを済ませて戻ってきていた茂の目には、日差しの中にある飼育小屋に集まるナーサティアやひなたたちの姿がうつっていました。
(なるほど、冬の日差しというのも悪くない)
その一日、今年の時間が動き出している私立樫宮学園をただ見ていた茂の受けた印象は、ひなたとナーサティアと当のうさぎと、誰に対して向けられたものだったのでしょうか。それは茂にとってはわりとどうでもいいことであったかもしれません。その日も茂はアルバイトを兼ねた日課である筈の山芋掘りに行く予定でしたが、少しだけ時間を遅らせて目の前の光景を見ていることに決めました。
今がいいなら今を壊す必要はないかもしれないから。
おしまい
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