ひなたで過ごす
成長すること。
平成14年1月6日に第一回、平成14年2月9日に第二回、愛知県青少年公園にてクロスカントリー開催。そして愛知県青少年公園は2005年日本国際博覧会の開催準備のため、平成14年3月31日をもって全面閉鎖が決定。
なんですけど、今回は長野県古坂町で実施されるクロスカントリー大会が舞台。町開催なので大規模なものではなくて、中学生から一般まで参加可能なオープンレースに各部門ごとの順位で表彰される大会となっていました。もちろん、表彰されるといっても記念品とか小さなトロフィーがもらえるといったそんな程度でしかありませんが。
「結局交通費を出してもらえなかったんだよね」
本当は愛知県青少年公園の大会に参加登録させてもらう予定だったのですが、学園から交通費が出なかったことと何より丁度地元で開催されるならそちらに参加したほうがいいだろうということで、松本ひなたは古坂町のクロスカントリー大会高校生以上女子5km部門に参加することになりました。ちなみにクロスカントリーというのは坂や勾配に制限のないマラソン大会みたいなもので、山道だとか場合によっては階段なんかもコースに入れてしまいます。雪の多い長野県では冬場に開くには条件の悪い競技ですが、雪かきのされた道はそれだけでクロスカントリーらしい悪条件にはなりました。
平成14年1月26日土曜日、古坂町は樫宮学園にスポーツ進学の制度ができてから町のスポーツ振興度が高まって、こういった小さな大会がわりと開催されるようになったのはとても良いことだと思います。むしろ近隣の高校から樫宮の生徒に挑むために参戦してくる例すらあって、県大会ほどとは言えないまでもそれなりのレベルも保証付きでした。
「ひなたん適度に頑張れー」
気合いの入らない応援をするためにわざわざ駆けつけてくれたのは不来方青葉。細身の身体に厚手のコートを羽織り、黙っていれば美少女と呼ばれている少女は薄い胸元にホットコーヒーの入った水筒を抱えて防寒体勢は万全でした。傍観体勢、といってもいいかもしれません。
再開した剣道のおかげで最近はずいぶん血色がいいとはいえ、持病のせいでこういった大会に参加できるほどの体力がない青葉は友人を応援するためだけに暇つぶしに訪れていました。もちろん、この日は剣道部は休みでしたが日課としての「適度な練習」を終えてから来ているあたりに彼女の剣道への思い入れの強さが現れているのでしょう。
「あれ。そーいえば氷雨っちはどうしたんですかー?」
「氷雨なら遅れてくるよ。他校との交歓会の資料渡しがあるんだって」
「ふーん。じゃあ生徒会長閣下と一緒ですね」
「そーだね。スタートには間に合わないっていうから合流お願いね」
多少、意地の悪い顔になってひなたと青葉。樫宮学園生徒会長の日崎克己と会計役の亀宮氷雨との間柄はそれなりの噂が立つ程度のものではあって、というよりささやかな奇癖を除けば好青年と評判の日崎に近しい立場にいる氷雨には、ありていに言って嫉視と羨望まじりの噂がとぶこともありました。友人として、悪意のない噂というくらいだったでしょうけれど。
「おーい、松本油売ってないでさっさと支度しろー!」
「あ!すいませーん先輩すぐ行きます。青葉あとお願いね」
「まーかせて」
薄い胸を張って頼もしげにこたえる友人に手を振ると、名前を呼ばれたひなたはショートカットの頭をひとふりしながら元気に走り去っていきました。ひなたを呼んだ帆掛夏歩は陸上部では長距離専門、今回の引率役でこの程度の大会なら優勝が確実視される実力を持っていると言われています。本来中距離選手のひなたをこの大会に参加するよう指示したのも、部の先輩としてコーチ役を引き受けることの多い彼でした。
ウォーミングアップを指示されると、早速ひなたは柔軟運動の準備に入ります。距離の長い男子のレースが先に行われることもあって、夏歩の方は既に準備を終えており、出走位置に向かおうとしているところでした。
「じゃあ星野。松本の方は頼んだぞ」
「はい。先輩頑張って下さい」
夏歩に答えた星野瑞季は短距離専門のスプリンターで、さすがにその日の大会には登録していませんでしたが、陸上部員として手伝いに駆り出されていました。特に夏歩がいない場合は瑞季が同期のひなたのコーチ役を引き受けることも多く、個人競技で選手をサポートするパートナーの存在が重要なのも間違いありません。町大会とはいえ地元樫宮学園の生徒は特に運動部のレベルが高いと言われていましたし、陸上部に限らずサッカー部やバスケットボール部のようなスタミナを重視される競技の選手も多く含まれていましたから、油断すれば足下をすくわれる可能性は充分以上にありました。ただ、そういった強敵が多いほど燃えてくるのが松本ひなたの真骨頂でもあったのです。
「あ、史緒先輩も今日出るんですか?」
「久しぶり。元気だった?」
そういった中でテニス部から登録していた麻生史緒は中学時代は陸上長距離の専門家、今でも特にスタミナを要求される競技に関わっているのですから本職以上に強敵と言えたでしょう。数カ月前の体育祭、1500m走で一緒に走ったときにはひなたが勝っているとはいえ、その時より距離が倍以上に伸びているのですから全く参考にはなりませんでした。
既に高校生以上男子10kmは号砲が鳴って出走しており、その三十分後、5kmの女子部門もスタートしました。勢いよく飛び出していく人々を見送った応援組はようやく休憩時間に入るわけですが、レース自体は一時間もせずに終わるわけですからそれ程長い時間待たされることもありません。
「すみません。遅くなりました」
「あー、氷雨っち遅いぞー」
短い暇をどう潰そうかと思っていた青葉のところに、ようやく氷雨が合流したのは史緒やひなたが出走してから十分程度もしてからのことでした。今ごろ選手たちは勾配のあるコースを走っている真っ最中の筈で、沿道を追い掛けるわけにもいかない待機組としてはいいネタがいい時間に来てくれたようにも思えてしまいます。
「氷雨っちー。冬だってのに熱くて大変だねー」
「今日は他校の生徒会の方々も一緒でしたもの。日崎さんと二人きりではありませんでしたわ」
さらりと返す氷雨。残念そうに言うその口調がどこまで本気でどこまで冗談なのか、青葉には読みとることはできませんでした。女の子の心の中を読みとるのは剣道で相手の予備動作を読みとるのとはわけが違って、ついでに言えば氷雨は女の子の中でもかなりの強敵の部類に入っていたのです。
そして剣道、といえばその青葉があこがれていなくもないように本人は思っている剣道部の先輩は一部部員の自主トレにつきあって学園の剣道場にいる筈であり、素人相手には簡単に勝てる程度に成長している初心者の練習を見てあげている筈でした。もちろん、体育の授業で剣道を選択しておらず、周りに素人もいないその初心者は自分の成長にはまったく気が付いていないのですけれど。
「でも近衛先輩は面倒見が良いですよね」
「そうそう、だからそこがいいんだよねーって…氷雨っちー。なんでボクが追求されないといけないのだー?」
いつの間にか、からかう側とからかわれる側が反対になっていることに気付いた青葉。どうやらこの強敵相手には剣道のように思い通りの試合はなかなかできないようです。
◇
競うことと勝つことと、それから好きなことと。年が明けてもやってることはあんまり変わることはなくて、変わっているのはやってる人たちの中身が成長しているということでした。
「あー。ひなたんが見えてきたよー」
「頑張ってー!もうすぐゴールですよー」
本来は中距離専門で、正直なところあまり自信のなかったひなたでしたがクロスカントリー高校生女子5km部門では他の長距離専門選手を抑え、堂々の三位入賞を獲得しました。様々な大会で好成績を残している一方で、なかなか優勝のできない器用貧乏ぶりはともかくとして一般参加まである大会での結果は充分健闘に値するものであったでしょう。そのひなたに先行して準優勝になった史緒と競り合ってペースを上げることができたということも、或いは好成績の要因だったのかもしれません。
「お、よくやったな松本」
「は、はい。ちょっと、ダウンして、きます」
三十分のスタート差を追いつかれることなく、先にレースを終えていた夏歩に祝福されるひなたでしたが、さすがに切れる息をまだ抑えることができず、しばらくはクールダウンのために動き回っていました。タオルとコートジャケットを持ってひかえていた瑞季が慌ててその後を追っていくと、ジャケットを肩から羽織らせます。
「おい、身体冷やすぞ」
「あ。あんがと、瑞季」
一足先にクールダウンを終えていた史緒が戻ってきて、夏歩の隣りに並んで立ちました。
「まさか松本さんがあのペースに付いてこれるとは思わなかったな」
「だてに基礎から鍛えてないよ。もともとあの娘は中長距離向きだしね」
元気な後輩の成績に満足している一方で、テニス部に負けた部員を後でどう理由を付けてしごいてやろうかと考えているあたりは夏歩も健全な先輩のようでした。新人の段階から専門競技が決められてしまわないように基本能力の底上げは普段から続けて行われており、初出場三位の好成績を予測できなかったのはおそらく当のひなただけだったでしょう。中学時代に経験がある分、他の部員に比べて成長の速度が頭打ちになっていた彼女にとっては久々に意外な、しかも良い結果になっている筈でした。
「成長を実感するのが次のやる気の原動力だからな」
夏歩がひなたに大会出場を指示した理由の多くは、むしろそこにあったのかもしれません。もっとも、夏歩や史緒も自分たちやひなたの成績はそれなりに予測できたとはいえ、全く予測できない人間の行動や能力というものはいくらでもありました。既に次々と選手がゴールに駆け込んでいる男子10km部門で夏歩は堂々の優勝をさらっていたのですが、全体的なレベルが地区大会程度とはいえ、「小林軒」と大きく書かれたTシャツを着ている宣伝ランナーが四位に入着しているという事実はやっぱり恐ろしいものだと思います。
(あいつは短距離選手の筈なんだが…)
短距離の男子陸上部員の中でただ一人大会に参加していた同期の顔を思い浮かべて、夏歩と史緒は複雑な表情を浮かべていました。そのラーメンランナーはゴールしたあと早々に出張屋台に入り、宣伝効果抜群の営業を行っていました。冬の寒空の下で、ラーメンスープの匂いが辺りにただよいはじめています。
しばらくして厚手のウインドブレーカに着替えたひなたもようやく戻ってきて、あらためて夏歩から祝福を受けると運動後だからだけとはいえない紅潮した頬を上気させていました。冬が終わるまでは長野県の陸上大会は長距離レースの開催を除いては落ちついた状況で、本業の中距離を再開させるまでの間トレーニングも兼ねて長距離をやってみるのもいいかもしれない、春までにまだ幾度かの大会が近隣では行われていた筈で、そう思わせるだけのものを彼女は見つけたようでした。
「次は麻生先輩にも勝ちます!」
「お、言ったな」
本人を前にして宣言する元気の良さが、快速娘のやる気と成長の原動力でした。
◇
やりたいことがいっぱいあって、そのどれもに全部全力で挑んで楽しみたいという元気はまさしく彼女たちの特権でした。そして誰だって成長することはできますが、とても成長することができるというのがこういった年代の男女の特権だったのでしょう。
「女性として成長するかはともかくとしてな」
「なんだってえ?」
出るところは引っ込んでいて引っ込むところは引っ込んでいるというのは、鍛えられて引き締まった女の子としては悩みの種だったと思います。それでも起こっている年頃の女の子としての微妙な変化にも、例えば付き合いの長い幼なじみでなら気付くのかもしれませんが、付き合いの長い幼なじみの朴念仁ではとうてい無理な相談だったでしょう。
追い掛けまわす少女と逃げ回る少年の図。変わらない風景。
そんな成長。
成長していないかもしれませんが。
おしまい
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