ひなたで過ごす


 平成14年2月11日月曜日。その日は祭日で、14日のバレンタインデーとやらに向けた最後の休日でした。ですから既に大量に買い込んである材料で、そこそこの義理チョコとたくさんの自分達で食べるためのチョコレートを作るために女の子たちがキッチンに向かう、その日はあちこちでそんな日になる予定でした。女の子が作るお菓子における味見の量は、完成品よりも多くあるべきだというのは誰の言葉であったでしょうか。

「いくぞー、ひなたん」
「どっからでもこーい」

 ごく平和な一日、長野県は古坂町にある私立樫宮学園女子若葉寮。そこそこの広さがある裏庭で親しみのある多少の見物客の中、松本ひなたと不来方青葉のチャンバラ一騎打ち、バレンタインには全く関係のない勝負が実現しました。
 審判役の北城瞳の小柄な姿を間に挟んで、どこから持ってきたのかスポーツチャンバラ用のウレタンのステッキを正面に構えている青葉と、同じくステッキを自己流に構えて気合充分のひなたが向かいあいます。賭け率は7対3で青葉有利、賭けの勝者には配当のクッキーが配られる予定でした。

「それではー、始め!」

 掛け声とともに、ぱんっ、と手を叩いた瞳の合図で両者同時に踏み込み、派手にふりおろすひなたの攻撃とスナップを効かせた青葉の一撃とが相打ち!ぱこんと威勢のいい音があたりに響きます。めげずに両者間を取って、更にふりまわされるひなたの攻撃がまたも命中、ですが続けて攻撃を空振りしたひなたの隙をついて青葉が剣道部らしいきれいな面打ち、命中数はイーブン、これまで意外なほどに互角の展開。
 テクニックでは遥かに勝っている青葉が回り込むように小手打ち、またも派手な音が響きますが、ひなたは眉をしかめながらスティックを横なぎにふって反撃し、これも派手に命中して足元のよろけた青葉は足をもつれさせて転倒しました。

「ダウーン!」

 楽しそうな瞳の声。細身なぶんだけわずかなパワーの差が出たか、やられたという顔になった青葉はゆっくりと立ち上がるとステッキを構え直しました。ひなたも構えて仕切りなおし、再び瞳の始めの声で打ち合い。ふりまわすひなたの攻撃は空を切り、青葉の鋭い一撃もかろうじてかわされます。そしてお互い踏み込んでふりおろした攻撃はまたも相打ち、今度は両者弾かれるように尻もちをついてダウン。

「やるなあ、ひなたん。こっからは本気で行くよー」

 強がりなのか自信なのか、軽く頭をふってから立ち上がると少しまじめそうな顔になって不敵に宣言する青葉。再度の始めの声と同時に打ちかかってきたひなたの連続攻撃を軽くかわして、カウンターの面打ち!一発でダウンを奪います。明らかに本気になってきている両者、まじめな勝負に周囲も緊張した面持ち。再度の開始、次の一瞬力いっぱい打ち込んだひなたと青葉の攻撃が思いっきり相打ち!

 すぱーんっ。

 かわいた音が響き、しばらくしてから両者同時にふらふらと倒れて勝負は引き分けに終わりました。

「うーん。ひなたん最後思いっきり殴ったなー」
「お互いさまだよ。痛ぁ」

 憎まれ口を叩き合う二人の少女の顔からは、少年めいた笑みが消えることはありませんでした。午前中の暇つぶしに行うにはあまりにも女の子らしくない方法でしたが、午後から女の子らしい活動を行う前にバランスをとっておきたかったのかもしれません。

 健全な、女の子としては健全でないかもしれない幕間狂言。


 白熱したバトルに熱中して忘れることさえない限り、もうすぐバレンタインデーという事実はもちろん変わりません。その日、ひなたは例年どおり、幼なじみの星野瑞季の家でキッチンを借りてチョコレート作りに専念する予定でした。

「ひなの家でいいんじゃないか?」
「瑞季ん家の方がキッチンが広いんだもん」
「おじゃましまーす」

 そういって上がり込んできた青葉や亀宮氷雨ら女性陣がいることが広いキッチンが要求された理由だったのでしょう。この時期、開放されている女子寮の厨房や、樫宮学園料理部の部室兼用の家庭科室はどうしても一部の女の子たちでごったがえしていましたから、充分に設備の整った友人宅の厨房というのは女の子たちにとっては利用する価値のある施設に見えたでしょう。さすがに材料は自分たちで持ち込みになりますけれど。

「だからって人の家でなあ」
「いいじゃない。無料で教師付きの厨房なんてそうそうないんだから」

 しれっと言うひなた。それでもこういったことにわざわざ男の子の家を使用するというのは、もしかして瑞季君はひなたんに男の子として認識されてないのかしらん、などと青葉あたりは余計な想像を浮かべてしまいます。自分がチョコレートを作るために彼氏さんの家を使うことはあるだろーか、そのへん無遠慮なのか無神経なのか、うらやましいことなのかそうでないのか容易には判断がつきませんでした。
 贈り物を渡すあてを自分なりにつけているらしい青葉の目論見としては、パン屋の息子である瑞季と料亭の娘である氷雨の指導の下ですんごいチョコレートでも作ってやるかあと意気込んではいました。普通は手作りでなく贈り物を買ってくる例の方が多いでしょうし、手作りに劣らぬ立派な愛情を込めて贈り物を選ぶ人の方が大半だったでしょう。よりいいものを、でしたら作るよりも選んだほうがいいに決まっていますし、金額に関係なくいいものを選ぶ苦労というのはそれだけの思いがなければできるものではありませんから。
 にもかかわらず、女の子が敢えて手作りのお菓子とやらを選択する理由というのはわりとはっきりしていて、お菓子作り自体が趣味であるか興味があるか、でなければ大量に配る場合に費用を抑える為か、自分で作ればたくさんの味見を行うことができるじゃないかという即物的な考えもあったかもしれません。

「という訳で氷雨っち、ご指導よろしくね」
「あの…私も教わりにきたクチなんです」
「へ?」

 氷雨の返答にきょとんとした顔になる青葉。東京の老舗の料亭の娘さんである氷雨は料理はもちろん、お茶を立てることだってそれなりの和菓子を作ることだってできましたが、ちょこれいとなる洋菓子に手を出すのは始めてでした。そんなものはこの季節、そこらの本屋でいくらでも作り方を調べることができますし、実際に彼女も相当調べたらしいのですが、

「やはり経験者のご指導を受けるのが宜しいかと」

 やや完全主義者の傾向があるらしい氷雨ですが、それだけ贈る相手に思い入れがあるということなのでしょう。もっぱら食べる専門の印象があったひなたは瑞季に教わっているだけあって自分でも作れるらしく、こんなところでも幼なじみへの負けず嫌いが発揮されているのかもしれません。材料やら道具やら、荷物を並べはじめているひなたに向かって今日は先生役が決定しているらしい瑞季が言いました。

「ひな、少しは上達したのか?」
「あのねえ。瑞季と比べるんでなければわたしだってそこそこ作れるんだからね」

 師匠に文句を言う弟子の表情でひなたが言いました。パン屋の息子で幼い頃からケーキとかお菓子とかを作っている瑞季が相手では、さすがに負けず嫌いのひなたでも腕前を競い合う気にはなりません。それでも不祥の弟子として、そのうちこいつの舌をうならせるくらいの料理なりお菓子なりを作ってやるという野望はもっているようでした。もっとも瑞季が幼い頃からケーキやらお菓子やらを作っている理由がむしろ、当のひなたに作らされていたという事実はやっぱり都合よく忘れ去られていましたけれど。

 薄い胸に抱いていた不埒な目論見に多少修正をすることになった青葉は、氷雨と一緒に教わりながら作業にかかることになりました。この状況はまずい、と青葉は策士として思わざるを得ません。クッキーを焼けば七割が猫の餌になるという頼もしい実力を持っている同志北城瞳は、今年は大きなチョコケーキを買って彼氏さんと二人で食べるらしい話をしていたので今日はこの場に来てはいませんでした。今このキッチンにいる人間のお菓子作り技能を数値化してみれば瑞季は言うに及ばず、頼りの筈のひなたんも実は自分で作れる、氷雨っちはなんだかんだ言って料理の知識も経験もある…。

(じゃあ素人ってボクだけじゃん!)

 案の定、自分のまわりで湯せんに溶かされてはてきぱきと型に流し込まれていくチョコレートたちを見て、目の前にある浮いた油がまだら模様になった不気味な黒いかたまりとの違いを見せつけられるはめになりました。先日知人宅で意気込んでチョコレート作りに挑戦したとき、周囲から「錬金術?」と本気で聞かれた悪夢を思い出さずにはいられません。今日ここにわざわざ来た理由も瑞季先生の実力を期待してのことだったのですが。
 すぐ横で氷雨っちの嘘つき(青葉ビジョンでの感想)はあんなことを言っておいて、教わったまんますぐにきちんとしたチョコレートを作り、すでにトッピング選びにとりかかっているようでした。チョコレートを精製して硫黄と水銀が作れるんじゃないか、という固形物を前にして青葉はそれなりに、

「あ、味は悪くないと思うのだー」
「それって見てくれが悪いと宣言してるのと一緒だよ」
「う゛ー」

 これではいけない。一念発起した青葉は先達の指導を受けて、なんとかそれなりの贈り物を作ることができました。こうして彼女の目論見の一つは当初の目標ほどではないにしろ無事達成、もう一つの味見の方は失敗作が多かったぶん存分に達成していましたから、作戦の達成度は八割から九割程度といったところでしょうか。

「うん、さすがボクの計画はばっちりなのだー」

 やや自棄気味に自画自賛、多少の負け惜しみが入っているのも愛敬のうちでした。


 バレンタインデーの当日ともなれば世の男どもはそわそわと落ち着きなく、というほどのこともなくて普段とあまり変わらない三学期の平日となります。もっとも、中には特殊な状況におかれざるを得ない人もいる訳で、放課後陸上部のグラウンドでもその話題が挙がっていました。

「さすがに桜庭君は大変そうだったよ。騒ぎがどうというよりも山になったチョコレートどうしようかって」
「でもひなたチャンはもう渡してきたんでしょ?」
「うん。瞳はあとでこっそり落ち合うんだよね」
「えへへー」

 照れたように、小さく舌を出して笑う瞳。甲子園投手の人気はたいしたもののようで、大量の義理チョコとやらを前にこういう時に限って知り合いと友人が増えるぜ、とぼやいていた桜庭一樹の顔を思い出します。そういうひなたにしたところで、桜庭の存在はやはり「最近増えた友人である瞳のたいせつな友人」なのかもしれませんが。

「歯磨き粉プレゼントしようかって言ったら桜庭クン悲しそうな顔してたよ」
「うわー、それってかわいそう」

 無邪気に笑う女の子ふたり。こういうものは年賀状と一緒で季節の挨拶みたいなものですから、大抵は義理がほとんどで本命に対して義理チョコとやらを渡す人だっているでしょう。陸上部員のひなたや瞳としては、せっかくだからと赤い銃を拾うかのように部内に多少のチョコレートを配るわけで、いつもめんどうを見てくれている先輩やら同期のライバルあたりには「挨拶」が行き渡ることになります。通称ラーメンランナーこと、小林ミイケもひなたの挨拶を受け取った一人で、

「お。松本サンキューな」
「先輩からお返しでもらえるお菓子がけっこう好きなんです」
「そーかそーか、じゃあ予約しといてやろう」

 即物的な交渉が交わされました。実家のラーメン屋で働いているミイケ特性、手打ちの細麺を乾燥させて作ったラーメンスナックは珍しい食感が一部で評判になっている、ということでした。普段さまざまな創作ラーメンを作っている一方で、本業のラーメン以外でのチャレンジは邪道に値する、として特別な理由でもないかぎりは作られないという希少性がむしろ評判になっていたのかもしれません。
 ちなみに松本ひなたお手製のチョコレートはそれなりにラッピングして箱詰めにされた中に、小さなチョコレートが6コずつ。ミイケ達に渡した後でついでのように瑞季にも手渡しつつ、

「ぜんぶトッピング変えてるんだから。いろいろある方が飽きなくていいでしょ?」
「理由が現実的なんだよなあ」
「文句あるならあげない」
「とんでもない。感謝致します」

 めずらしく冗談めいた口調になって瑞季。わざわざ他の部員と一緒に渡していることといい、これもある意味照れているだけなのかもしれません。見事に包装も箱のサイズも同じ包みが配られて、まちがっても中にハートのチョコレートが入っている様子もありませんでした。


 昔から、渡す本人曰くありがたくも松本ひなたからチョコレートを受け取る栄誉に毎年浴しているのは星野瑞季と小林ミイケのご近所の幼なじみ二人、それから中学生の時に知り合った木佐茂を合わせて三人でした。その茂をひなたがようやく見つけたのは放課後陸上部が終わってからで、すでにどこかに消えていた瞳と別れて、瑞季と一緒に帰ろうかとしていた時でした。

「あ、いたいた茂茂ー」
「あのなあ。人を犬か何かみたいに呼ぶなよ」
「気にしない気にしない」

 笑って手をふると、チョコレートの入った包みを手渡すひなた。いちおうありがたく受け取る茂でしたが、その手に提げられていた袋には似たような包みがあふれていました。それを見て、感心したような顔になるひなた。

「何故か茂って毎年チョコレートたくさんもらってるよね」
「ああ、野菜売りのおばちゃんとか古坂小の子とかけっこう義理堅いんだよな」
「どうもお前の交友関係は掴めないな」

 横から入ってきた瑞季も学内では義理以上の贈り物を渡されて、何故かひなたに睨まれる程度の人気はあるのですが、茂の方はもしかしたら桜庭以上に人気があるのではないかという荷物を手にしています。瑞季にしてみればうらやましいというよりも、年齢学年性別を越えた茂の人気の理由が不思議で仕方ありません。
 人気といえばひなたもこの季節、毎年必ず一人から二人の女性からチョコレートなるものを頂いてしまうのがちと悩みの種でした。年上の先輩であったり下級生の女の子であったりと、それはそれで複雑なことであったでしょう。

「あえてコメントはしないでやるよ」
「そのコメント自体が頭にくるんだけどね」

 瑞季の憎まれ口に不機嫌な返事を返すひなた。もっとも茂に人気がある理由はひなたにはきちんとわかっていて、無造作に手提げ袋に入れられているかに見えるチョコレートの包みがきちんと袋の中で並べられていたり、今ひなたから受け取った包みは手提げ袋にではなくて背中のバッグに大事そうにしまったり。

(つまりは、そういう事なのよね)

 たぶんあとで一緒にしてしまっても、どの贈り物を誰から受け取ったかを少年はきちんと覚えているのでしょう。傍らにいる幼なじみの朴念仁にちらりと視線を向けてから、ひなたは付き合いの古い少年に視線を戻しました。その日は、生研こと生物研究会での仕事がもう少し残っているからという理由で茂はひなたたちと別れました。


 いつもの帰り道、いつもより少し遅い時間。この季節、あたりは充分に暗くて街灯に照らされた道路からは積もった雪が消える事もなく。雪道を二人並んで歩く少年と少女、気楽で適当な会話が続くなかで、ぽつりと少女が呟いて。

「もうすぐ2年生かあ」
「ああ、そうだな」
「ねえ、瑞季。今度温泉行かない?」

 脈絡のない誘いに一瞬どきりとする少年。たぶん、朴念仁の少女の方は「今度みんなで温泉に行かない?」と言ったつもりなんでしょうが、それなりに多感な少年は自分の勘違いを修正すべきか否か、一瞬だけ悩みました。そうだな、寒いし試験明けくらいには行きたいなあ、とあいまいな賛同のことばを返しておきましたが、それ以上には会話が続きませんでしたのでけっきょくその時の少女の真意を少年が知ることはありませんでした。それはそれでいいのだと思います。

 その日、平成14年2月14日の夜。少女の贈ったチョコレートを受け取った朴念仁の少年の方は、寮まで少女を送って家に帰ってから、弟子の作品の味見と批評くらいはしてくれるのでしょう。他の人にあげたのと同じ包装の、同じ箱に入った6コ入りのチョコレート。

 でも、たぶん気付かないんだろうなとは思う。
 瑞季の箱だけチョコレートが7コ入っていた事に。

おしまい


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