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1995年04月の回想
未来はいつも僕らがヒーロー 第1話
UFOの存在を信じますか?
僕はちょっとした機会に、そう聞いてみることにしている。回答はだいたい決まっていて、全く信じないか条件をつけて信じてもいいかもという人たちばかりだ。無条件に信じているという人はまずいないし、そういう人とは僕自身ちょっとお近付きにはなりたくない。お近付きになりたくない、だからこそそんな答えをしないという人もいるかもしれないな。
じゃあ僕自身はどうなのさ、といわれるとでも実はこれが信じていると思っているクチなんだ。UFO。Unidentified Flying Object、未確認飛行物体の略称だけどこの場合は英語で言うFlying Saucer、つまり空飛ぶ円盤こと異文明の産物を意味している。現代人は科学の進歩が地球儀や地図の表面を全て覆い尽くしたかのように錯覚しがちなんだけれど、この小さな惑星の表面でさえ人間が足を踏み入れたことのない地域や海域というのは実はけっこう存在しているんだ。例えばチベットの奥地や南極大陸の山脈部なんかまさにそうだし、海域にいたっては航路を外れた場所を船や飛行機が通るというのは、皆が想像している以上に有り得ないことだったりする。
地球の上でさえ行ったことのないところ、知らない場所がいっぱいあるし、そこでは実際に新しい生物すら発見されているのが実情だ。まして空の上なら宇宙の果てまで無限の広がりを見せているんだし、そこに僕らの知らないものがあって何の不思議があるんだろう。
と、このあたりでたいていの人は呆れて僕の話を聞いてくれやしなくなる。空想科学論者のこういう話が説得力に欠ける、使い旧された言い回しであることなんて僕は充分承知しているつもりだし、実証できずしかも再現性のないものは認められない、というのは確かに科学の大前提だ。だけど、空想すらしないで人はどうやって発展を求めるというのさ。
空はどこまで続いているんだろうって、あの山の向こうには何があるんだろうって思ったことはない?世界の果ての、そのまた向こうを想像した人は過去にいっぱいいたし、そういった人たちが空想の赴くままに描いた間違った地図、その間違いが正されていくことで科学は世界の果てまで広がっていったんだ。世界の全てを、無限の空の彼方の地図を描ききっていない人間が、その果ての世界を想うことをやめちゃいけないんじゃないかと僕は思う。海の果ては滝壷ではなかったけれど、丸い地球の水平線の果てが落ち込んでいることは本当だったし、東の果てに黄金の国なんてないけど、陽光に黄金の穂を一面実らせる国はあったんだから。
長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。生まれたときから住んでいるこの町が僕は大好きだし、新しい高校生活への期待だっていっぱいある。だけど四方を山に囲まれたこの町の、そしてこの空のずっと向こうの世界へのあこがれが僕の中で消えたことはない。できることなら塀の外へ、山の向こうへ僕はいつだって行ってみたいけど、いまどきの高校生くらいの年齢ではそうもいかないのは悲しい現実というやつだ。雑誌で知り合った文通相手に手紙を出したり、望遠鏡を覗いて、あるいはそうでなくても空をただ見ているというのは僕のあこがれなんだと思う。
僕が生まれてからも少しずつ、この町の空はせまくなっているし囲う壁は高く厚くなっている。人は届かなかった手を空に伸ばし続け、代わりにそれまで山にだけ囲まれていたこの町の空は、駅前のあたりではビルや建物に囲まれた狭い空になってしまった。狭い空なんて誰も見上げやしないし、広い空でさえ花火と凧上げのときにしか見ないのに皆はその花火や凧上げをすることさえ少なくなってしまったんだ。
誰もあんまり見上げなくなった空の青さを辿りながら、歩いている僕の目の前に学生寮の建物の屋根が近づいてくる。中庭のある2階建ての四角い箱みたいな、ここが来月からの僕の家だ。地元に住んでるのに寮に入らなきゃいけないってのも変わってるなあと思ったけど、そういうのは私立の進学校では決して珍しくはないみたい。でも僕が気にしているのはそんなことじゃなくて、空を見るために屋上に上らせてくれるかなあということなんだけど。
「これから三年間、よろしくね」
三年間より短い間に、屋根の向こうに行くこともあるんだろうかと思いながら僕はその門をくぐったんだ。
おしまい
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