html> 1995年06月の回想

未来はいつも僕らがヒーロー 第3話


 長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。わずかに暖かみを帯びた空気と陽光の明るさが新緑を芽吹かせているそんな高原の春、その年も変わらず草木の緑が人の視界を染めていました。
 1995年のその年に入学、寮に入った征木小太郎は幼いころからボクシングをやっていた少年で将来はプロボクサーになるのが夢でした。幼げな顔つきに引き締まった精悍な身体が人によっては不釣り合いな印象を与えるかもしれませんが、その表情は生来の穏やかな性格から、その身体は毎日の地道な鍛錬から得られていたのかもしれません。

「あ、悪い恵太起こしちゃったか?」

 青葉寮132号室。樫宮学園に通う生徒が暮らしているその建物で、まだ夜明け前の薄暗い時刻、小太郎は二段ベッドの上で寝ている同居人に小声で謝罪の言葉をかけました。

「う…ん?今日も走りに行くんだ小太郎」
「ああ。朝飯まで時間あるから寝てなよ」
「そーする…おやすみ」

 眠そうな声をしていた田中恵太は昨夜も遅くまで夜空を見上げていたにちがいなく、早朝から起こすのも可哀想なことだったでしょう。一本縛りの髪の毛が小太郎を見送るかのようにゆらり揺れると、そのまま布団にもぐりこんでしまいました。
 同室の少年を気づかい静かに扉を閉めて寮を出ると、ようやく朝日に明るくなりはじめた長野の町へとトレーニングウェア姿の少年は走り出します。夜明けのまだ冷ややかな空気が、汗ばんだ小太郎の肌には心地よく感じられていました。

 私立樫宮学園高等学校。私立ならではの寛容な校風に受験生の人気が高く、ですが地元の進学校として学力の高さもかなりのもので、はっきり言えば小太郎が志望するには無謀に近いところがありました。ただ中学の親しい友人の幾人もがこの学園を受験する上に、少年の学力で普通に受験できそうなのは男くさそうな某工業高校があるだけだったのです。
 偏見まじりとはいえ普通科や商業科と違って、工業高校ではたとえ共学であっても女子の比率が圧倒的に少ないのは自明のことでしたし、小太郎としては年頃の少年なりには同級の女の子がいるに越したことはありませんでした。
 高嶺の花を望む思い。救いがあったとすれば、私立樫宮学園高等学校にはスポーツ特待生を受け入れる制度があり相応の実力とそれ以上の実績を持っていれば、入学するための別の門戸が開かれているということでした。幼少の頃からボクシングジムで鍛え上げていた身体能力に少年は充分な自信を持っていましたので、その方法なら小太郎の志望は絶望よりも希望に近いものだった筈です。
 パンフレットの募集要項を改めて見る少年。ですが肝心のボクシング部が樫宮にはありませんでした。

 中学三年生の秋に開催された、長野県の中学空手道選手権大会。本来は同時期に開催されたボクシングの大会に出るつもりでいた少年は、それでも勝手の違うボクシングスタイルでその地区大会を、半分はまぐれで快勝して県大会上位まで勝ち進み晴れて樫宮学園スポーツ特待生の枠にすべりこむことができたのです。

 ほんの少し不埒な目的を原動力に、ある程度の幸運にも恵まれて入学した学園生活で小太郎は当然スポーツ特待生として相応の実績を残す必要がありました。実績を残せなかったからといって学園を追い出されるようなことはありませんが、少年は「空手部員としての」厳しい鍛錬を日々欠かすことはなかったのです。

「ほら征木、もっと背ぇ伸ばして腹に力入れろ!」
「押忍!すみません!」

 その日も小太郎は学内の道場で何百本という突き蹴りの型を繰り返しては、先輩からの厳しい叱咤を受けていました。ボクシングも空手も同じ拳で殴る格闘技、似たようなものだろうとたかをくくっていた少年にとって二つの競技はバスケットボールとサッカーくらいの違いがあり、なまじ真面目に取り組んでいたボクシングの下地がかえって空手には邪魔でしかないことすらあったのです。

 元来接近戦を得意とする小太郎のボクシングはやや前傾姿勢、足先で軽快にフットワークを行い上体を動かしつつ懐に飛び込むのがその基本となっています。対して空手というものは上体を起こして踵までどっしりと構え、その重心を保ったままの一撃で攻撃と防御を兼ねるのが究極でした。重心も体捌きもまったく異なる格闘技をいくら両立させようとしても、そうそう上手くいくものではありません。
 そして所詮は格闘技、実戦でこそ強ければ別にいいじゃないかというのはもちろんできない人間の言い訳でしかなく、型の練習で散々に怒られる小太郎の立場が組み手で改善されるほど世の中は甘くありません。

 どすっ

 先輩の重い前蹴りが小太郎の腹に打ち込まれます。胃液まで吐きそうな痛みにうずくまりそうになると、無理矢理起こされて更に叱られるのですからたまったものではないでしょう。

「何遍言ったら分かる!
 背を伸ばして腹に力を入れるんだよ!」
「お、押忍!」

 いくら上体を振って懐に飛び込もうとしたところで、振られるのは上体ですから胴体部分は動かしようがありません。ボクシングのパンチよりもはるかに間合いの長い蹴り足で腹部を狙われてしまうと、小太郎には胃袋を抑えてうずくまる以外のことは何もできませんでした。

「お疲れー、生きてる小太郎?」
「…今日も飯食うのがきつそうです、沖田さん」

 なさけない声を上げて、顔を上げる小太郎の目の前でにこやかに笑っているのはの沖田勇樹。中学時代からの知り合いで、くせのある髪を短く刈っている勇樹は一見したところ小柄な少年にしか見えませんが、小太郎と同年のれっきとした少女で空手着の下に来たTシャツの中をよくよく観察すれば女性らしさが見つけられたに違いありません。もちろん、年頃の少年である小太郎がそんな視線で女性を見れる筈もありませんでしたが。
 少年と同じく空手部で、やはりスポーツ特待生として入学していた勇樹はですがこと空手に関しては小太郎よりもよほど優等生で、小柄ながら引き締まって均整のとれた身体には、外見にふさわしいしなやかさと力強さが秘められていました。空手の大会、しかも女子空手となれば柔道などに比べて規模も小さく大会数も少ないのですが、演武の大会まで含めて勇樹は関係者に名前が知られるくらいの実力を持っています。うずくまり屈んでいる小太郎とは対称的に胸を張り立っている勇樹、更にその背中越しから声がかけられました。

「勇樹ぃー、組み手やるアルよ組み手ー」
「おっけー。メイフォン今行くよー」

 勇樹に声をかけた煌美凰はれっきとした中国人の両親を持っていましたが、横浜は中華街に生を受け国籍はれっきとした日本人でもありました。やはり彼女も空手のスポーツ特待生として樫宮の門を潜っていましたが、偶然というよりむしろあまり有名でない競技に従事している選手にとっては、こういった制度のある進学先に集まるのはむしろ当然だったでしょう。
 もっとも、美凰はもともと拳法を心得てはいたものの空手の経験はやはり少なく、この三人の中で本当に空手出身といえるのは勇樹だけではありましたが。

 空手部の女生徒、更に同級生となると実に貴重な存在でしたから、勇樹と美凰が一緒に練習をすることは別に珍しいことではありません。何しろ型の鍛錬は一人でもできますが、組み手となるとそうもいきませんし身近なライバルがいるといないとでは意気込みだって異なるでしょうから。
 厳しい空手部とはいえ、稀少な女子部員のしかも有望選手とあれば先輩の態度が小太郎に対するより甘いのも無論で、彼女たちのために道場の一角が空けられると防具を着けた勇樹と美凰が向かい合います。実際に両者の技術が男子部員を含めた中でも高いのは周知のことで、女性ならではのしなやかさと女性らしからぬ力強さの双方を秘めた彼女たちの組み手は他の部員にも充分以上に参考になったのです。先輩部員が審判役をかって出ると、両者礼から構えて始めのかけ声とともに勇樹と美凰は打ち合いました。

 元来は接近戦の突き打ちを得意とする両者。踏み込む勇樹に美凰はスナップを効かせた前蹴りを放つと腹部に命中、乾いた音が響きます。安定した重心を持つ勇樹もこれで倒れたりはしませんが、それ以上踏み込むこともできず一歩後ろに下がりました。壁際で空気椅子の姿勢を取らされながら様子を見ている小太郎にしてみれば、自分の一番苦手な展開に二人がどうするかと気が気ではありません。勇樹の方は軽く息を吐くと、爪先を正面に高く蹴り上げながら間合いを縮めるべく踏み込みました。

「…やっ!」

 牽制を目的とした最初の蹴り。空振りさせたこの足で踏み込み逆足での連蹴りを狙うのが勇樹の作戦でしたが、それを察知した美凰も合わせるように踏み込むと二発目の蹴り間合いの内側に飛び込んで身体ごと押し込みます。これで相手の重心が崩れる瞬間にもう一足踏み込めば、追撃の突きを入れることができる筈でした。
 ですが、美凰が飛び込んでくることを予測していた勇樹もこれに合わせて下ろしていた右足を軸に回転、左の後ろ回し蹴りから旋風脚ぎみに右の上段蹴りを放ちます。演武のような軽やかな動きに美凰も翻弄され、とっさに構えた防御の上から蹴り足を打ち込まれました。これで動きが止まったところに左から正調の中段蹴り、更に右の下段と続く蹴り。特に下段を受け損ねた美凰の腿に痺れに似た鈍い衝撃が伝わります。

「押し切るっ!」
「…そーはさせないアル!」

 そのまま蹴りで押し切ろうとする勇樹に美凰はまだわずかに痺れている左足を軸に前蹴り、下ろすと同時に一気に踏み込みながら左の逆突きを打ち込みます。勇樹もとっさに右拳を合わせますが、腹部に受けた蹴りで前屈みになっていたせいもあり重さに欠ける順突きの型でしか打てませんでした。相打ちながら、美凰の拳を鳩尾の付近に当てられた勇樹はそのまま弾き飛ばされるように倒れます。

「待て!」

 試合であればこれで技有りを先制されたことになったでしょう。勇樹はやられたという顔で起きあがると多少動きにくそうに防具を直して構えます。美凰も防具を直し、再び構えると両者向かい合いました。空気椅子を続けながら観戦している小太郎は、目の前で組み手を行う少女二人にずいぶん差をつけられているように感じずにはいられません。少年はこういったことで男女を差別するつもりはありませんでしたが、特に美凰は自分と同じように別の格闘技の出身者として空手を始めているにも関わらず、これだけの攻防をやってのけているのですから。

 複雑な心情の少年の目の前で再び組み手開始、今度は双方得意の接近戦に踏み込むと美凰が先手を取って逆突き。踏み込みから突きにつなぐ早さはさすが拳法の使い手ならではでしたが、正面からの攻防において空手は拳法に勝る筈でした。相手の突きを恐れず踏み込んで受けた勇樹はすり足のまま構え、危険を察した美凰もとっさに前蹴りを打ちますが一瞬遅く、蹴り足にあわせて今度は勇樹が右の逆突き。まともに受けた美凰が今度は倒れます。

「…うー、やられたね」

 軽く頭をふって美凰。迎撃に置いた蹴り足にあわせて突き、というのはいかにも勇樹らしい積極的な攻撃でした。
 自分と堂々と競い合える相手に嬉しさを隠せない二人はやはり同時に構えると、美凰が右足を上げて得意の前蹴りを仕掛けようとします。ですが再び受けようと構える勇樹の前で、美凰の右足はこれまでと違い重く踏み込むように伸びてくると、槍先のように下腹部に突きこまれました。

「うっ…!」

 屈み込むように倒れる勇樹。前腿や槍腿とも呼ばれる、奇襲に向いた拳法の足技でした。

「勝ったアルー」
「やられたあ…」

 悔しそうな顔で立ち上がる勇樹に手を貸すと、美凰は礼をします。古来より拳法はその型と流派とが細かに分かれているせいで寧ろ他流の格闘技にあわせやすく、例えば美凰が使う八極拳にしたところで開祖とされる呉氏開門八極拳をはじめ、一般に知られる孟村八極、羅ショウ系や東北系、強氏八極と分家してそれぞれがまるで異なる拳法のように伝えられてきていました。足さばきと体さばきを重視した接近短打を得意とする八極拳、足さばきが華麗な蹴り技中心の八極拳に体さばきが円の動きとなり太極拳と合した八極拳など様々で、それぞれが本流であり極論すれば家の数だけ流派があるとすら言われるのが大陸の拳法だったのです。

「両方使えると楽しいアルよ。空手の構えから踏み込むのはちょっと辛いアルけどね」

 何気なく言ったように聞こえる言葉は、小太郎への助言のようにも聞こえました。空手である以上は空手の技が空手のルールで優位なことは疑いようもありませんが、空手以外も使えるならばそれは相手が知らないだけ有利になる筈だったのです。糸目をいっそう細めると、美凰は人好きのする笑顔で言いました。

「どっちにしても功夫積まないと駄目あるね」

 いつものように全身をいっぱいの疲労感とわずかな満足感に支配された小太郎が寮に戻るころ、恵太は今日も屋上でカメラを手に空を見上げていました。幼い頃からの知り合いである少年が、カメラを持ってはいてもそれを構えているよりもただ空の向こうを見ていることが多いということを小太郎は知っています。視界に映るものに目を奪われて写真がおろそかになることすら珍しくはなく、にもかかわらず恵太の所有するたくさんの写真に写っている未確認飛行物体たちは、少年がどれだけ長い時間を空の向こうに費やしてきたかを現していたのでしょう。

「お帰り。今日もたいへんだったみたいだね」

 寮に帰ってくる小太郎を屋上から見つけて、恵太が部屋に戻ってくるのも日課のようになっています。小太郎にしてみれば部屋中に貼られている不思議な飛行物体の写真のほぼ全てが飛行機や人工衛星だったり、自然現象だったりするということの方がむしろ驚きだったかもしれません。

「こうして見ると本当に未確認な飛行物体だけどな」
「でもたいてい調べると確認された飛行物体になっちゃうんだけどね」

 肩をすくめて恵太が言います。未だ本気でUFOを探している、少年の変わった趣味を小太郎は笑う気にはなりませんが、それでいいのだろうかと思うことがあるのも事実でした。いい年をして、という心ない枕詞がつけられる、確かに高校生とはそんな年代ではあるのですから。
 宇宙の果てから流れてくる、手紙の入った瓶をあてもなく探している友人の姿。小太郎がときどき疑問に思うのは、幼なじみの少年が果たして本気でUFOを信じているのか、それとも信じようとしているだけなのだろうかということでした。UFO探しの現実を誰よりも知っているのは恵太自身の筈でしたし、それでも少年がUFO探しをやめようとすら思っていないことは少しく小太郎にはうらやましくも思えたのです。
 少しだけ、短い沈黙。

「…好きで楽しいならそれでいいんじゃないの?」

 唐突に恵太が言ったことばの意味を小太郎が理解するまで、少しだけ時間が必要でした。プロボクサーを目指している筈の自分が樫宮の空手部に入ったことは遠回りだったんじゃないか、小太郎の悩みに恵太が気付いたのは昔馴染み故だったのでしょうか。確かに、目の前の少年のように現実を承知の上でそれでも好きで楽しいことに専念するのなら、むしろそれこそが正しいことなのかもしれません。悩んで停滞するのも良いが、悩んでからどうするかを考えなければ決して何も変わりはしないのです。

「恵太…あのさ」
「あ、僕もっかい屋上に上がってくるよ。今日は雲がないから空が良く見えそうだし」

 照れ臭げに言うと、恵太は髪の毛を揺らして笑います。その様子を見て小太郎にも笑顔が移り、二人は昔から変わらない笑顔を向け合いました。

「風邪ひくなよ」
「うん。ありがと」

 長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。青葉寮の132号室、外はまだ朝靄につつまれた薄暗い時間、電灯の消えたままの一室で小太郎は二段ベッドの上で寝ている同居人に小声で謝罪の言葉をかけました。

「あ、悪い恵太起こしちゃったか?」
「う…ん…?走りに行くんだ小太郎」
「いや、ちょっと腹筋を強化しようと思ってな」
「うん?…がんばってね」

 そう言うと枕に顔を埋めてしまった恵太。昨日も遅くまで空を見ていたらしく、一本縛りの髪の毛が小太郎を見送るかのように揺れると布団にもぐりこみ、すぐにすうすうと寝息が聞こえてきました。
 自分はボクシングを捨てるつもりはないが、空手を蔑ろにするのも気分が悪い。同じ拳で殴る格闘技、両立できないと誰が決めた。そう思い立った小太郎はその日から練習をひとつ増やすことに決めたのです。両者が重心も体捌きもまるで違うのなら、それをつなげるためには尋常でない筋力と瞬発力が必要になる筈でした。

(上手くいけば確かに気分いいだろうけどなあ…どっちにしても功夫とやらが必要か)

 さてそう上手くいくもんかね、と心の片隅で思いつつ、ひたすら練習に励むその姿は少年らしい前向きさに溢れていました。そして前向きに信じてさえいれば、いつか荒唐無稽な願いであっても叶うことだってあるかもしれないのです。少なくとも、UFOを見つける夢が叶うかもしれないのであれば。

 寝息をたてている友人に視線を向けて、少年は静かに扉を閉めると朝日に明るくなりはじめた長野の町へと走り出しました。

おしまい


他のお話を聞く