長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。高地の梅雨も過ぎかけた、一学期末の試験を控える学生には最も過酷である筈の時期。試験勉強の成果よりも貴重な晴れ間にこそ価値を感じているごく少数の学生は休み時間に数日ぶりの校舎の屋上、その日は更に給水棟の上、この学園の一番高いところまで登るとその縁に腰かけて座っています。
(まさか遥さんまで来るとは思わなかったな)
一本縛りの髪の毛を高地の空気に揺らして恵太は笑みを浮かべていましたが、それは苦笑と微笑の中間くらいにある笑顔でした。やるからには本気でやらなきゃね、と遥までが真面目に「珍妙な儀式」に参加してくれたのは、おそらく他人から見れば莫迦な行為以外のなにものでもなかったでしょう。
友人のために莫迦な行為も厭わないという、重要なその事実はたいてい気にも留められないものですから。
「ああ。また先越されたか」
その声に、おもわず恵太は笑顔を戻すと後ろを振り向きます。子供がそのまま大きくなった、しかもむやみに大きくと評される葛西克巳は外見は長身の好青年に見えますが、同級の女子には「首から下はいい男」と酷評されるような少年でした。
恵太が高い空の向こうを見るために校舎の屋上に登るのであれば、克巳はそこに校舎の屋上があるのであれば登らずにはいられない、という性格だったでしょうか。もちろん重要なのは動機ではなく、二人がそれを行動に移してしまうということかもしれません。軽快な大股で歩きながら、頭上にいる恵太に克巳は声をかけました。
「そーいや今度の肝試し出るんだろ?」
「出るけど…もしかして克巳、驚かす側?」
お手柔らかにね、と言っても無駄なことを少年は知っていたのでそれ以上は何も言いませんでした。夏休みの盛り、7月の末に学園の有志によって毎年開催されている肝試し大会。冒険と騒動、悪戯と罠や仕掛けが好きな克巳の性格を恵太はこころえているつもりでしたし、迂闊なことを言えばそれを利用してもっと凝った仕掛けを作られるに決まっています。少年にもそのくらいの計算は働きましたし、ついでに言ってしまえばUFOやオカルトが好きでもお化けはやはり怖いものでした。
身軽に梯子を登り、柵もない給水棟の上に座ると長い足をぶらぶらとさせる克巳。高いところから町を見渡す少年と、高いところに登って空の遠くに視線を向けている少年。彼等に共通しているのは建てられた柵の中にあって、その外にばかり目がいくということでした。
「…結局子供だってことでしょ」
その声に振り向いた二人の少年の視線の先に、屋上の扉を背に水木遥が立っています。彼女も恵太や克巳と同じ地元古坂町の出身であり、今更目の前の子供二人をたしなめる無益さを充分に知っているつもりでした。ただ、奇天烈だが純真な趣味が無害ではある恵太に比べて、奇天烈だが純真な趣味が迷惑千万な克巳は遥にとって要注意の存在だったかもしれません。その日はあえて追求をせず、少女は恵太の方に話しかけることに決めたようですが。
「本当、空見てるのが好きなのね」
「何か見えるんじゃないかと思って」
ただ空をぼんやりと眺めているだけのように見えていて、意外に恵太はいろいろなものを見ていました。例えば飛行機や人工衛星であれば時間と日付と航路の全てが決まっていましたし、昼間でも見える明るい星や彗星、時として浮かんでいるアドバルーンや飛行船など、たとえ同じ空であっても毎日見ていると様々なものが飛んでいるのです。
恵太はその全てではないにしてもたいていのものを知っていました。もしこの空を飛ぶあらゆるものを予測し知ることができれば見つけたものが本来飛んでいる筈のない存在かどうかが分かりますし、例えば普通の旅客機や見知ったアドバルーンと全く同じ姿の宇宙船が飛んでいたとしても正しい空の姿を知らなければそれに気付くことはできませんから。
「でも最近は何も飛んでないことが多いんだけど」
飛んでないのは未確認飛行物体だけでなく、確認のできる飛行物体もまたそうでした。少しく哀しげな顔で言う恵太にとって不本意なことに、昨今は空を漂うアドバルーンや気球や飛行船がすっかり減ってしまい、子供は凧をあげることもなければ風船を手から離して空高く舞い上げることもほとんどありません。誰も空を見上げないこの世界では、空に何かを飛ばすということはさほど重大事ではなく、たとえ飛ばしたとしても誰も気づくことすらできないのです。
「それなら地面を這いまわっているUFOを探した方がいいかもしれないわね」
「え…?」
「あ…ごめんなさい」
言ってから、不思議な後悔に襲われた遥。なぜ自分が謝ったのか、そもそもそれは謝るべき言葉だったのかも不分名でしたが、ただ、遥は自分の軽口が恵太の笑顔に対してとても残酷な言葉だったのではないかという気になったのです。もし人が空を想う力を失ってしまったのだとすれば、それは恵太にはとても耐えられないことだったでしょうから。
「泳が言ってたよね。何時か必ず僕たちの方から尋ねていこうって」
休み時間、梅雨の晴れ間に近い校舎の屋上。先日の儀式の後で泳が言っていた、呼ぶから来ないなら会いに行こうという荒唐無稽にも思える言葉は、ですがオカルトの分野では荒唐無稽ではあっても科学の分野では決してそうではありません。概してオカルトは偉大なる先人の言葉を聞くものでしたが、科学は偉大なる先人の軌跡を追いこしてその先を探すことができるのです。
「アメリカが無人の宇宙探査船を飛ばしてるのは知ってる?」
「もう木星まで行ってるんだっけ」
「ううん、これから木星の衛星まで飛ばすんだ」
克巳の言葉を受けて恵太。米国はNASAから飛ばされた無人の宇宙探査船は、衛星軌道から打ち出されると太陽光発電を利用してゆっくりと目的地に向かいます。空気抵抗が存在しない宇宙空間では速度に影響を与える加速度は重力しか存在しませんから、他の惑星の軌道をしんちょうに避けつつ、氷につつまれた小さな星を目指すことができました。そして探査船にはいろいろなセンサーが積まれていて、衛星の表面にたどりついた後で表面を探査し、生き物の存在を示す二酸化炭素などの反応を調査してから地球に戻るのです。
その計画が海のむこうで立てられてからまだ数十年もたってはいません。ですが、その船は帰還を待ち受ける研究者たちに早くも貴重なデータをもたらしはじめていました。窒素に二酸化炭素、地表に見つけられる珪素や鉄分の反応。宇宙探査船の見つけだしたその星には間違いなく生き物が棲んでいる痕跡がある!
「…でもその星は地球という名だったらしいけどね」
「まあ、そんなものよね」
遥の感想に恵太はおだやかに苦笑していましたが、それはそのセンサーが正しく働くということの証明でもありましたから、今度こそ探査船は遠く氷結の星を目指して飛び立ちました。その到達は2008年を予定、目的地に着くまで未だ10年以上の月日を必要としていました。
「でも太陽からそんな離れたところじゃ寒くて生き物なんか棲めないだろ」
「うーん、必ずしもそうじゃないと思うよ」
克巳の発言はもっともでしたが、地球にだってまさかこんなところにという場所で見つけられた数々の生き物の存在があります。光の射さない洞窟の奥、そこにある川には伝説の双頭の蛇は見つかりませんでしたが、目の退化した古代の魚は今でも悠然と漂っていましたし、今では有名になったマンボウですら人間の航路を外れた外洋に棲んでいるために長くその存在を知られていなかったことも事実です。
そして実際に地球にも太陽の恩恵が届かない場所、深海の底がありますが、そこに棲んでいる生き物もちゃんと存在します。これまで地上に引き上げられた深海の生き物は水圧差によって内臓が破裂し、原型をとどめないために調査のしようもありませんでした。
ですが、人間と科学が調査技術を発展させてその地に足を踏み入れたとき、地熱によって深海に湧き出た温水の近隣に光も射し込まない隔絶された生態系が存在していたのです。氷に閉ざされた星の氷の下に海が存在し、そこに同様の環境が存在しないとどうして言えるでしょうか。
空の向こうの生き物を人間が見つけるかもしれないし、空の向こうの生き物が人間に会いにくるかもしれない。空高くあげられた風船はいずれ割れてしまうかもしれないし、割れずとも大気の層の更に向こうまでは行くことはできませんが、風船は飛ばさなければ決して空の向こうに近づくことはできないのです。
「大気のてっぺんを越えられる風船があればいいよね」
荒唐無稽な空想を実現する技術と科学、これまでもそれを人が実践したきたということを忘れることはできません。自分たちの手は、まだゆりかごの外に出ていないだけかもしれないのです。
恵太の話を聞いていた遥の頭に「空想の風船にぶらさがった理性」という単語が浮かびました。まあ待ってるだけよりは余程いいわねと思いつつ、高く上がりすぎた風船がもし理性を落っことしてしまえば大怪我の原因になるかもしれないように思えてきます。
(心配してるのかしら?)
その答えは当の遥にも分かりませんでした。
夏休みの始め、7月の末に学園の有志によって毎年開催される肝試し大会。学園校舎を利用して生物室にある骨格標本を目指す、そのペアが恵太と遥になったのはずいぶんな偶然だとは思いつつも単なるくじの結果でした。問題があるとすれば順番が後ろに組まれて待っている間、暗闇から聞こえてくる先行組の悲鳴が絶妙に恐怖心を刺激してくれるということだったでしょうか。
「克巳だしなあ…何やってくるか」
「この場合仕掛けよりも仕掛ける人間の良識が問題なのよね」
時間まで待機をしている恵太と遥にさんざん言われていた克巳がそれを知れば、むしろそう言われたことを光栄に思うに違いありません。企画段階から綿密に計画を練り上げ、実施に到っては誰にも真似できぬほどに効果を期待させるのが真の演出者というものなのです。控え室として使っていた生物室隅の倉庫で、克巳は手書きの学園図をにらみつけていました。
「この扉から…これだけじゃ甘いなあ…」
「克巳、最後の演出の台本切ってきたぞ」
「サンキュー瑠衣ちゃん、咲音さんの方はOKだった?」
「ああ、もうすぐ終わる。流石に早いな」
克巳と同様に仕掛けを作る側に参加していた鳴海谷瑠衣は、一見短髪の地味な女生徒に見えて演出と芸術には譲れないこだわりを持っていました。衣装にこだわり、内装にこだわり、そして演出にこだわる。その日、目指しているのは完璧なる恐怖の演出でした。
やりすぎという消極的な言葉は若さにとって邪魔な存在でしかないのです。
そして本番。早くも幾組かの悲鳴が校舎の壁面に響きはじめていました。その悲鳴を彩る内装も見事なもので、廊下の窓にはすべてていねいにシートが貼られて明かりを通しにくくしてありましたし、そのシートに見事なヒビを描き込み、更に廊下の壁や天井のいたるところにトリックアート並みに丹念に描かれた染みや汚れが、樫宮の校舎を数十年以上前の荒れ果てた建築物へと変貌させています。
「月明かりの上に描かれる星明かりの美…」
美城咲音は自分の演出した作品の仕上がりに満足してつぶやきます。それは天才咲音の実力を正当に評価した瑠衣や克巳会心の仕掛けだったのでしょうが、あとで誰がこれを掃除するのかという些細な問題はまるで考えられていないようでした。
咲音の同行者であった冴希流悟は体育会系、基本的に怖いものなどないという頼もしい少年で、パートナーが女の子であれば護ってあげねばという程度の下心まじりの正義感もきちんと持ってはいましたが、それも相手によるかもしれません。ある意味で咲音と並び歩くということはよほど恐ろしい体験のようでした。
「あの…美城…さん?」
「闇に射し込む月光は細く、塗り込めた油が時を遡行させる…世界が二律背反を望むのであればそこに生と死の双方が描かれたとき全ては完成するのね…」
「美…城…さーん…?」
「でも完成しそうでしない、その一瞬が美しいのよ?流悟君」
自らの衝動に向かって独り言を呟くようでいて、隣りの流悟に声をかけている咲音。少年はたいていのことには動じないつもりでしたが、これはたいていの限度を越えています。
夜の学校、人気のない暗闇に少年の絶叫と少女の哄笑が響きわたりました。咲音は倒れた流悟を引きずり順路を外れた美術室に入ると、奇怪な儀式を行うかのごとく湧き溢れる衝動のままに絵筆を掴み放置されていたカンバスに向かいます。思いも寄らぬ行方不明になった少年は、やがて目を覚ました自分を取りまく狂喜の感情に再び叫び声を上げ、その声によって彼等は救出あるいは回収されることになるのでした。
恵太と遥の順番がまわってきたのは、既に幾人かの死が決定された宵の時刻が通り過ぎてからのことでした。意を決したように二人は暗闇に足を踏み入れますが、明らかに怖がっているのは恵太の方で、遥はといえば常の平静を失っているようには見えません。悲鳴どころか表情すら変えることはないようにも見えますが、怖がってまではいなくても驚いてはいるらしく巧いところで仕掛けてくるわね、と時折呟く遥の言葉には余裕と虚勢の双方が混じっていたのでしょう。
(それを敢えて言うのは理性によって恐怖を抑え込むための行動だ)
身を隠し、獲物に気取られぬように監視を続けつつ不敵な笑みを浮かべていたのはもちろん克巳です。ものすごく好意的に解釈すれば、少年は人を驚かせるのが好きなのではなく人に豊かな感情を与えることが好きなのでした。その様子を感じとったのか、遥がつぶやくように言います。
「恵太くん、前に荒唐無稽な空想を実現する技術って言ったわよね」
「うん?」
「それはきっと執念という名の原動力を持っているに違いないわ」
言った遥の目の前に広がる暗がりの通路。咲音の施した「装飾」は彼等をある筈のない時を越えた学園へと連れ出していました。内装だけで怖くなるなら苦労はありませんが、もちろん演出は内装だけではありません。
突然どたん、と教室の扉が倒れてぼろぼろの生徒が廊下に投げ出されます。思わず口元を抑えた遥、悲鳴をあげたのは恵太でしたが、それでも逃げずに少女の前から下がらないのは情けないながらも少年なりのプライドがあるためでしょうか。倒れた生徒はもちろん演技でしたが、倒すための扉を手作りで作っているところに驚かせる側の執念を感じます。
「だ、大丈夫?遥さん」
流石に表情が凍りついている少女に心配した声をかける恵太。タイミングを合わせたように今度はがたがたと窓がゆれて、思わずそちらに目を向けた二人の前で天井が音をたてて抜け落ちると、血まみれの人影らしきものがどさりと首から床に落ちて動かなくなりました。どうせ人形だろう、と思ってこわごわと近づくと人影は突然びくんとひと跳ねし、今度こそ動かなくなります。
果たしてどうやっているのかと感心するだけの余裕はそろそろ二人ともなくなっており、お互いに一人だけであればとうにパニックを起こしていたにちがいありません。そして、今年の実行委員のおそるべきは相手の様子を見て心理状態を見越してから最後の罠をしかけるところにありました。
「…誰っ!?」
音階の上下する恵太の声。真っ暗な通路の奥には見たことのない、大柄で中年太りの人影が立っていました。その前にうつぶせ気味に倒れているのは血まみれの瑠衣。人影は厚手のシャツにジーンズ、顔には表情の見えないマスクをかぶり、片手に持っている濡れた大きなナイフが玩具のように非現実的なものに見えました。
ぴくりとも動かない瑠衣を置いて、中年太りの男はそれが当たり前であるかのように二人の方にゆっくりと歩いてくると、恵太に向かってとん、と正面からぶつかりました。少年の腹部に突き立てられたナイフ、派手に飛び散る赤い液体の飛沫。
ぷつん、と何かが切れた音がして少女の視界が真っ白になり、そして真っ黒になりました。
その年の肝試しは参加生徒の気絶率が二割を越える騒動となり、後の伝説となる一方でその後しばらくは肝試し大会の開催が見送られる直接の原因にもなりました。校舎内にシートを貼って絵の具を塗りまくり、扉を張り替え天井を破り、周囲を血のりだらけにしたとあっては反論のしようもなかったでしょうけれど。
「非常識!やっていいことと悪いことがあるわ!」
と、かなりおかんむりになってしまった遥でしたが、彼女がそれだけ大声を上げて怒ったという例は恵太にも克巳にもあまり覚えがありません。中年太りの男に扮した肉じゅばんをぬぎながら、人に豊かな感情を与えるのが克巳の目的であったとすれば、それは成功しすぎているくらいに成功していました。ただ、必死になだめているのが何故か克巳ではなく恵太だったというのは自ら損な役回りを選んでいるようです。
悪ふざけの莫迦騒ぎ、若さを理由にその荒唐無稽をごまかしてしまったとしても、それはそれで良いのかもしれませんがとても悪いのかもしれませんでした。
おしまい