樫宮学園男子青葉寮。柾木小太郎はいつものように朝まだ早い時間に目を覚ますと、朝の古坂町をひと走りしてから部屋に戻ってきていました。空手部の朝練の前にウォーミングアップを兼ねてのランニング、小太郎はけっして実力がない訳ではありませんでしたが、幼いころから続けていたボクシングがどうしても身体に染みついてしまっており、空手とのルールの違いでたびたび苦労をしていたようです。人より多い練習量はその違いを埋めるためのもので、いつもは同室の少年がまだ寝ているころには起き出してそっと走ってくるのですが、その日、小太郎がランニングから帰るとベッドの人影はむくむくと起きようとしていました。
「あれ、恵太?今日は早いね」
「うん…ちょっとクラスで体育祭とか文化祭の打ち合わせがあって」
ふああとあくびをしながら恵太。小太郎の知っているかぎり田中恵太は別に普段寝坊をしている遅刻魔というわけではありませんでしたが、いつも夜が遅いせいで朝はぎりぎりまで寝ているのが常でした。いつもよりずいぶん早くベッドから降りて着替えを始めている少年に、小太郎はやや珍しげな顔を向けています。
高校生にもなって半分以上まじめにUFOを探しているという恵太は、夜になるとたいてい寮の屋上に上って空を見上げており、小太郎が寝ようとするころに部屋に戻ってくることすらまれでした。その恵太がここ数日は屋上にもあまり上がらずに夜も早く寝ているようであり、それはずいぶん珍しいことだったかもしれません。小太郎の表情を見て話題を変えるように、恵太は笑顔を向けました。
「それよりどう?最近空手部のほうは」
「あとは瞬発力かな…空手の構えだとフットワークで飛び込む訳にいかないしなあ」
軽く腰に手をあてて、小首をかしげるように小太郎。もともとボクシングでは接近戦が得意な小太郎が空手部でいちばん苦労しているのが、飛び込む前に相手に蹴られて止まってしまうという単純だけど重要な問題でした。そして上体を起こして構える空手のスタイルから一気に飛び込むには、上半身を抑え込む力と下半身を踏み込む力の双方が必要になってきます。少年は弱点を克服しようと地道に筋力トレーニングを続けており、それは当人にも少しずつ先が見えてきているようで目には明るく前向きな光が宿っているように見えました。恵太はまだ少し眠たげな目をまぶしそうにこすると、どこかぼんやりとした顔で言いました。
「…頑張ってね、小太郎」
「ん?ああ、じゃあちょっとシャワー浴びてくるよ」
言いながら、恵太の様子に小太郎はどことなく不思議な違和感を感じていました。それはさほど大きなものでも、深刻なものでもありませんがシャワーで洗い落とすことができるものでもありませんでした。
「UFO喫茶とかいいんじゃないか?」
「それはどういうものだ?想像もつかん」
1年4組の教室。学園生活も二学期になると、体育祭や文化祭のように大きな学校行事が近づいてきますし、倶楽部活動においても新人大会の予選会が始まります。恵太のいる4組ではその日、幾人かの生徒が始業前に集まって事前準備の打ち合わせを行うことになっていました。
UFO喫茶とやら言っていたのは恵太、ではなく稲森仁也。あまり物事を深刻に考えるたちではない少年の提案は単なる思いつきでしたが、UFOはともかく喫茶店というのは無難な案かもしれません。高校生の文化祭で考えられることと言えば演劇のような出し物でなければお化け屋敷か喫茶店、奇をてらうのならその演出において勝負するのが通例でした。
「いいんでないか?思いついたモン適当にあげれば中にはいいのもあるさ」
「まあその考え方に異論はないがな。衣装の案なら出すが…」
文化祭の飾り付け用でしょうか、いくつかの奇態な人形や装飾を参考までにと持ち込んで並べていたのは鳴海谷瑠衣。演出や飾り付け、服飾による外面からの改革によって人の意外な一面を探すことに喜びを感じている少女でした。デザインした制服のラフスケッチやそこに飾るべき飾り付けの図柄、果てはマスコットにとデフォルメした犬だか狼らしいぬいぐるみの人形まで、趣味もここまでくれば立派なものと言えるでしょう。
瑠衣にとってこういった非日常の機会は格好のイベントであり、どうせなら奇抜なだけでなくその奇抜さに意味と効果を持たせたいところでした。ただ問題はその奇抜さがどの方向を向くか、それ自体であり例えば英国帰国子女の織倉七瀬や中華街出身の煌美凰、米国ハーフのマクシミリアン・D・東郷もいるこのクラスではメニューの題目を並べるだけでもひと苦労だったに違いありません。
「何れにしても質の悪い品を出すのは反対ね。喫茶店のお茶が不味くては点睛を入れる前に竜が描けないわ」
「それなら飲茶中心にするなら我が用意するね?」
「あら。お茶と言ってTeaを外すのは賛成できないわね」
「コーラだ!」
「黙りなさい」
という国際色あふれた対立に収拾を付けることがまず最初にやるべきことのようです。とりあえず男子は裏方中心ということだけは決まり、恵太はといえば飾り付けのパネル探しを頼まれたりとそれなりに働いているよううでした。そのあたり少年は本来真面目な性格をしていましたが、それは普段のUFO少年しか印象にない同級生にとっては多少意外な姿に見えたかもしれません。恵太にしてみれば皆の役に立てるということ自体が楽しいことだったのは間違いないでしょう。
「ごめん、それじゃあ体育祭のメンバー表届けてくるからあとよろしくね」
そう言うと、恵太はできあがった用紙の束を抱えて教室を出ていきます。UFO少年はそのまま屋上に足を向けて空を見上げたまま用事を忘れてしまうようなこともなく、ごく真面目に働いているようでした。
1年3組。部活動の朝練を終えた生徒も始業に合わせて、急ぎ教室へと向かっています。基礎練習でみっちりしごかれていた小太郎は階段を上る足も重いとばかりに、息を上気させながら向かう教室への途中で遥に合いました。同じくテニス部で相当練習をしていたらしい少女は、しかし彼女なりのプライドからか息を乱した様子すら見せていません。それを指して可愛げがないと思うか、まぶしいほどの強さと思うかは人それぞれだったでしょう。
「おはよう、柾木君」
「お早う、水木さん」
元気?と聞きかけた小太郎は懸命にもその間抜けなことばを呑み込みました。自分の今の状態を思えば、少女が疲れを表に見せていないだけだということは分かりきっていましたから。無理矢理息をととのえて背筋を伸ばす小太郎を見て、遥はとても小さな笑みを浮かべます。彼女の知る幾人かの友人のまっすぐさは、彼女にとってとてもたいせつでこころよいものでした。少し、意地悪な表情になった少女は少年に呼びかけます。
「…元気?」
「はは、階段のぼるのが精一杯」
苦笑する小太郎。遥がこういった類の冗談を言うことは珍しい部類に属していましたから、少年が苦笑したのもその不思議な空気が理由だったのかもしれません。3階にある1年生の教室に向かう階段の踊り場で、短い休憩をとっていた二人の耳に聞き慣れた声が入ってきました。
「おはよー遥。早くしないとホームルーム始まるよ」
「おはよう蓉子…田中君もおはよう」
遥が振り向いた先、階段の下には手すりに片手をかけて笑っている双海蓉子と、その後ろに2クラス分のプリントを抱えた恵太がやはり笑みを浮かべて立っています。蓉子は恵太と同じ体育祭実行委員をやっていて、ようやく刷り上がったというプログラムをクラスに持っていくところのようでした。中学生の頃に足を怪我していた少女は少しく片足を引きずるように、手すりを利用して器用に階段をのぼると恵太からプリントを受け取ります。恵太は自分の手元に視線を落とすとすぐに戻して、プリントの束を抱えなおしました。
そんな恵太の様子を見て、ふと、遥はなにか引っかかるような顔になりました。いつだって高いところに登っている少年が階段の下にいる、蓉子も恵太も小太郎も、おそらく遥自身も気づいてはいなかったでしょうが、そんな単純なことに少女は言いようのない違和感を覚えていたのです。
(…それでいいの?)
その日の昼休み。遥は屋上に足を向けましたが恵太はそこにはいませんでした。
「あれ?どうしたの恵太?」
「うん。ちょっと僕も走ろうかと思って」
放課後の空手部、練習前のランニングを始めようと校庭に出た小太郎は見知った顔に意外な目を向けています。少年の知っているかぎり確かに恵太は真面目な性格をしていましたが、いくら体育祭に向けてとはいえ放課後にわざわざ練習をするというのはちょっと記憶にありません。小太郎はちょうど瞬発力を鍛える訓練をするつもりでいましたから、一緒に練習の仕方を教えるくらいは確かに手間ではありませんでしたが。
「とにかく足だけでなく腿まで上げる。で、上体はそらしちゃ駄目だぞ」
「う、うん」
ジャージ姿で頭の上に一本しばった髪の毛を揺らしている恵太に、小太郎は簡単にコーチをすると手本を見せるかのように自分の練習を始めました。もともと運動が得意ではない少年とは違い、小太郎はだてに部活動で鍛えていませんからそのペースも時間もとても恵太が合わせられるようなものではありません。
すぐに息が上がりそうになる少年に、続けるなら無理せず徐々にと言う小太郎。空手部の少年はそれこそ幼い頃から自分を鍛えていましたし、UFO少年が持っている知識と同じくらいには自分の体力には自信を持っていましたから。
(自信なんて、無いよ…)
少年のその声は、言葉にはならず小太郎には届きませんでした。まっすぐ走っている少年に風は前から吹きつけてきて、後ろでつぶやく小さな声はその風に流れてすぐに消えてしまいました。
少年が空を見上げていないこと。部活動が終わり夕暮れの赤い日差しの秋、学園の帰り道となる長い下りの坂道。疲れたようにとぼとぼと歩いて寮に帰る、恵太を見つけた遥は小走りになってその後を追いかけました。少女もやはり部活動を終えた後の筈でしたが、少しだけ息が弾んでいることを除けば疲れている様子はまるで見えません。
「お疲れ。早いのね」
「あ…こんにちは遥さん」
遥の挨拶に少しとげがあるように感じたのは、恵太の気のせいだったのでしょうか。ですが、遥は自分の視線の下に恵太が立っているということがたまらなく嫌で仕方ありませんでした。
「…最近、空を見ていないの?」
少年が空の遥かかなたを追い求めていること、それは今更のことではありません。そしてそれがどんなに荒唐無稽な願いであっても追わなければ決して追いつくことはできない筈でした。これまでにも恵太は多くの偏見や常識の目にさらされることはあったでしょうし、それをいちいち気にしていては人が冒険心を満たすことなど決してできなかったでしょう。
遥の言葉に、少年は軽く目を伏せました。恵太が空を見ず地面を見ていることに少女はかすかな苛立ちを覚え、ついつい言葉が厳しくなります。
「体育祭で忙しいと空を見る暇もないわけね」
「僕は…。やっぱり…空を見るのって暇なことなのかな?」
ためらうように声を出す少年に、不審な目を向ける遥。不意に、少女は友人たちの顔を思い浮かべました。恵太のまわりにいる小太郎や蓉子、それにレイや遥たち。少年が空ばかりを見ている間に、少年の友人たちは自分たちなりの道を歩いています。自分の道に書かれている目的地が正しいのかどうか、人は誰でも不安に思うことはありますし恵太の歩いている荒唐無稽な道であればなおさらだったでしょう。
ふと、立ち止まってあたりを見回したときに感じた不安。そのとき自分が友人の役に立てることがらが落ちていれば、それが空でなく地面のものであっても、それを拾うことはとても魅力的でそして嬉しいことに違いありません。体育祭の準備をして、練習をして、友人のために普通の生活が送れるということはとても素晴らしいことである筈でした。恵太が体育祭の手伝いをすることには何らの打算もない筈ですし、UFOなんかを追いかけて人に心配をかけるよりも余程まじめで普通でまっとうな学園生活だと言えるでしょう。
でも、本当にそれでいいのかと思う。少女は、恵太の友人は少年にそんな普通には満足して欲しくなかったのかもしれません。恵太が求めたいと思っているものは普通でもまっとうでもないのだということを遥は知っていましたが、友人たちが頑張っているから恵太が不安になった、というのは結局単なる言い訳には違いないのですから。
「追い続ければ少しでも近づくことができる」
「え?」
「好きなことに一所懸命打ち込むことがたいせつだって、あなたの方が言いそうなことなのにね」
恵太の心が、頭のてっぺんに結んだ髪の毛のように揺れています。それを前向きに戻すのは恵太が自分でやらなければいけないことですが、遥にも小太郎と同じように手本を見せることはできるでしょう。
「今度の大会ね」
「うん…」
「勝つわよ、私」
それは約束ではなく、少女が前を向いていることの宣言でした。たいせつなのは無理を成し遂げることではなくて無理であっても成し遂げるべく追い続けること。自信なんて誰にだってないのですから、せめて自分で自分を信じてあげなければ誰を信じさせることだってできるわけがありません。
まだ、少しく揺れている恵太を見て遥は悪戯っぽい表情で続けます。
「見せてくれるわよね」
「え?」
「体育祭と、UFOと」
無理な注文なのを承知の上で、少女は恵太に言いました。少年は少年を助けてくれる友人たちに、そのお礼を見せなければいけません。それは、何の約束でもありませんが、あるいはだからこそ守るべきことでした。
「…うん」
「…そう。頑張ってね、恵太くん」
揺れていた髪の毛が少し前向きに止まったのを確認して、遥は小さな笑みを浮かべました。
しばらく少年に夜更かしを続けさせるのであろうことに、少しだけ罪悪感を感じながら。
おしまい