未来はいつも僕らがヒーロー 第7話


 どちらかといえば田中恵太は運動が得意なわけではなくて、ありていにいえば苦手な部類に入りました。野を歩き、山に登り、時には建物の屋上で。頭のてっぺんに一本しばった髪の毛を揺らしながらUFOを追いかける高校一年生の少年は、一人でも平気で好きなことを追いかける一方で人と競うことも記録をめざすことも決して得意ではない少年だったのです。

「見せてくれるわよね」
「え?」
「体育祭と、UFOと」

 友人の少女の言葉。そんな恵太がなぜ体育祭の実行委員などをやってしまったのか。いちおうごく普通の学園の一生徒である少年としてはそれは不思議なことではありませんでしたが、恵太が精力的に働いたのは少年の生来の生真面目さと、なにより一緒に実行委員をやったり自分をはげましたり手伝ってくれたりした友人たちがいたことがその理由だったでしょう。恵太は一人でも平気で好きなことを追いかけるような少年でしたけれど、一人でいることだけが好きなわけでは決してなかったのですから。

「おはよう、恵太」
「おはよう…」

 長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校、その男子寮である青葉寮の一室。日がのぼる前のまだ暗い時間になんとか目を覚ました恵太は、同室の柾木小太郎に声をかけられてまだ重いまぶたを軽くこすりました。空手部の朝練習、更に自主トレーニングも兼ねて小太郎は毎朝早朝に起きる生活をしていましたが、体育祭の練習のために恵太がそれにつきあうようになったのはここしばらくのことです。もちろん、つきあうのは起きて寮を出るまでのことで基本的な身体能力の違う小太郎と恵太は柔軟運動をしたあとで別れると、それぞれの練習のために走り出していましたけれど。

「瞬発力を鍛えるにはとにかくダッシュとジャンプを入れること。じゃあ頑張ってね」
「うん、ありがと小太郎」

 ようやく目が覚めてきたらしい、同室の少年のぼんやりした笑顔に小太郎も軽い笑顔を返すと、ふと思い出したように問い返します。

「そういえば、あっちの方は進んでる?」
「え?うん、なんとかね」
「昨日も遅かったんだろ。無理してもいいけど倒れるのは無しだぞ」
「分かってるよ。ありがと」

 おたがいに軽く手をあげて、あらためて走り出す少年たち。走っている間に少しずつ朝日がのぼりはじめて古坂町の時はめくれていきます。早寝早起きをしている柾木小太郎と、夜更かし早起きをしている田中恵太の、そんな最近の朝でした。

 眠そうな顔で大きなあくび。朝は走る練習をして学園では体育祭の準備、放課後は写真部に顔を出していて夜は寮の屋上にのぼって遅くまで空を見上げている、そんな生活。そんな恵太が眠そうな顔をしていてもさすがに仕方のないことだったでしょうか。

(ちょっと、プレッシャーが過ぎたかしら?)

 水木遥はたしかに恵太にがんばれとは言いましたが、それは無責任な放言ではなく彼女自身をふくめて友人の気持ちをあおるためのものでした。テニス部の県大会を控えていた遥、またこの時期はテニスに限らず新人戦大会の季節でもあり空手部の小太郎も練習に余念がなく、そんな中でUFO少年の恵太が友人たちに多少なりとも引け目を感じてしまうのであればせめてがんばるしかない筈です。少年少女にもとめられるべきは結果ではなくて過程であり、労なくして実を得るような賢さは大人にまかせておけば良いのですから。

 まあいつまでもという訳ではないだろうし、と思いながらも遥としてはあおった程度には気をかけずにいられませんでした。彼女自身が懸命に、手を抜かずに県大会での勝利をめざしているその事実こそが恵太の過大な重圧になっていたとしても、それで手を抜く意味も理由も遥にはありませんでしたから。
 ただ、気にかかるといえばむしろ恵太が体育祭に向けての練習だけではなく、他にも何かしているらしいこと。そして、恵太の寮での同室である小太郎がどうやらそれを承知しているらしいことでした。

(体育祭と、UFOと…)

 遥が恵太に出した注文は、確かにふたつありました。体育祭は実行委員として奔走している以外にも競技そのものの練習をしている、それは分かりますし小太郎が練習のアドバイスをしていることも明らかです。陸上競技と並ぶ科学的トレーニングの大家ともいうべきボクシングの経験者である小太郎は、そういった練習方法の知識についてはかなりのものでしたし、遥の方もたびたびそのお世話になっていました。クラスが違う程度の理由で、それを拒むような狭量さはおそらく小太郎には無縁でしょう。
 問題はもういっぽうの条件でした。たとえば遥は今度の大会で勝つために、自分のできる範囲の限りで人智を尽くすつもりでいましたけれど、それこそUFOのために人智を尽くすなどということが果たしてできるものなのでしょうか。

「まあ、とりあえずは体育祭ね」

 1995年の秋の10月。私立樫宮学園高等学校のグラウンドを覆う天蓋は青くすきとおっていて、少しく涼しげに流れる風が汗を乾かしてくれています。肩口まで伸びたセミロングの髪の毛を風に揺らして、双海蓉子は快晴の天気とどうにか無事にこの日を迎えられたことに満足感を覚えていました。実行委員の連絡席で、隣りのクラスの友人の顔を見つけた少女は楽しげに声をかけます。

「恵太君。お疲れさま」
「まだ終わったわけじゃないんだし、お疲れさまは早いよ」
「そうね、どうせなら勝ってお疲れさまって言いたいものね」

 蓉子の言葉に恵太も笑います。隣り同士のクラス、普段から課外授業などでも一緒になることが多い相手はいちばん身近なライバルでもありました。恵太のいる4組に比べて蓉子のいる3組は体育会系の生徒がどうしても少ないとは言われていましたが、いずれにしても健全な競争心は健全な向上心につながるものである筈です。
 二人は本部からプログラムと実行委員用の腕章を受け取ると自分たちのクラスへと戻りました。それまでは一緒に手伝っていたとしても、分かれたその瞬間から彼らは敵同士になるのです。

「負けないからね」
「うん」

 おだやかな返答はともかく目には充分好戦的な光を見た蓉子は、気合いを入れるように軽く拳をにぎります。腕章を袖に止めて、ゼッケンを被り、はちまきをしめると遥や小太郎の待っている3組の応援席に入りました。

 神城直紀は優秀な身体能力を持ったタレントの少ない1年3組において、自分の能力に根拠のある自信を持っている数少ない一人でした。中肉中背、おだやかな外見がやや大人びて見えたとすれば、彼が履修単位のつごうで2年ほど遅れて進学をしているという実際の年長者であったからでしょうか。

「ここは何としても僕が頑張って…」
「皆の心を一つにして勝利を掴みとるんだ!」

 ひとり呟いた直紀は、後ろで気合いの入った声に驚くと顔を向けました。裾の長い学生服にはちまき、ひとむかし前の応援団を思い起こさせる服装に身を包んでいたのは相沢真。七三分けの髪型に眼鏡、見るからに真面目そうな容姿をした真は転出入にともなう生徒数の調整のため、入学早々に4組から3組へと転入をさせられた経験がありました。
 その真が3組の学級委員副委員長をしているというのもいささか皮肉なことですが、それこそ入学早々のことであり周囲の生徒たちもそれを気にしてはいませんでしたが客観的な好意が主観的な納得を導くとは限りません。真にとってはこれこそ遅ればせながら自分が本当に1年3組の一員になる機会だとさえ思っていたのです。

「何をしているんだい?副委員長」
「君こそ何をしているだね?神城くん」

 彼らの目的は午前中の第一競技である50メートル走、その偵察でした。ライバルである4組の戦力を見ること、特に午後のクラス対抗全員リレーにかなりの得点が割り当てられていることもあって、クラスのために自分が役に立てればと思わずにはいられません。

「それより敵の戦力はどうかね?神城くん」
「やはり走れる人数で負けてるようだね、副委員長」

 お互いに名を呼び合う言いまわしは、おそらくふざけてのことなのでしょう。直紀だけでなく真も運動部員としてそれなりの身体能力を持っていましたが、他に3組ではそれこそ遥と小太郎あたりを除くと得点の稼げそうな生徒はほとんど見あたりません。彼らの目の前ではちょうど小太郎や恵太が走る用意をしており、ひととおり足の速そうな生徒の目星をつけると自分たちも走るためにトラックへと向かいます。

『一着3組柾木小太郎君…五着4組田中恵太君…』

 多少の練習をしていたとはいえ、それで恵太が小太郎に勝てるほど世の中は甘くありませんでした。それでも悔しそうにしているのは恵太が男の子であったからに他ならず、負けたら悔しいからこそ勝とうとして練習をするのです。

「御苦労、5着なら上出来だ」
「あ、鳴海谷さん」

 4組の応援席で恵太を出迎えたのは鳴海谷瑠衣。肉体派揃いといわれる4組の中で彼女は走るのも跳ぶのも投げるのも苦手でしたが、応援することはできましたし戦いにおいて応援は極めて重要なものである筈です。ましてリレーや団体競技ともなれば個人の強さや足の速さだけでなくチームワークが重要になってくるのですが、

「うちはそのチームワークこそが課題だからな」

「あら、そんな事は無いと思うわ」
「そうそう、我に任せれば万事解決ある」
「俺がアメリカだ!」
「だからそれが駄目だと言っている!」

 優秀な能力を持った生徒のみならず、海外帰国子女や日系人まで多く受け入れている4組では多少個人が尊重されすぎているのが悩みの種でした。英国留学していた織倉七瀬、中華街生まれのれっきとした中国人である煌美鳳、アメリカかぶれの日米ハーフであるマックスことマクシミリアン・D・東郷。彼らはべつだん仲が悪いわけではないとしても、自分自身の文化に誇りを持っていましたからどうしても協調性には欠けてしまうのです。個人種目で得点の稼げる午前中は良いとしても、午後になれば得点の高い団体競技が待っており一人の活躍よりもむしろ一人一人が足を引っ張らないことのほうがたいせつになる筈でした。

「この調子では午後が思いやられる…そうだな、いっそミス一回につき芸一つでもやってもらおうか?」
「あら。貴女の50メートル走7着はミスではなくて?」
「負けはミスではない。お前の6着だって得点が入らなければ一緒だろう」

 多少、チームワークに不安なしとしないのが4組の事情だったようです。

 午前中最後の種目となる騎馬戦は、男女に分かれての一発勝負。体育祭の競技としては棒倒しと並んでその危険性が槍玉にあげられることの多い種目でもありますが、元来どんなスポーツや競技であってもきちんと運営できなければそれは危険なものなのです。逆にいえば理性と良識とルールを伴ってさえいれば、充分な安全性は必ず確保されている筈なのでした。

「そんな訳で皆さん、遠慮せず思う存分に吶喊してください」

 1年3組、普段は車椅子生活をしている尾崎一文はどうしてもこういった催し物では他人に遠慮されてしまいがちですが、それを如何に気を使わせないかも彼なりの哲学でした。皆が慣れない騎馬の上に乗るなら多少のハンディキャップなど関係はありませんし、そもそも成算も自信もなく無理だけを感じさせるようなら一文も最初から参加したりはしないでしょう。
 無秩序に入り乱れている各クラスの騎馬を見渡して、普段車椅子の視線の高さから世界を見ている一文は人の肩よりも高いその位置から見える世界に新鮮な満足感を覚えています。

(ここからなら愚民どもも良く見えますね)

 という無言の冗談を実現するには自分と同じ高さにいる騎馬たちは邪魔ものなのでした。

 応援の声がフィールドを覆う中で、号砲とともに騎馬たちは一斉に動きだします。この手の戦いでもっとも避けるべきは、動かず様子を見ることであって混戦の中で動かない者は良い標的になるだけでした。すでにあちこちでもみあい、ぶつかりあいが始まり白熱した戦いが演じられています。

「闘え!勝つのはそのあとでいい!」
「負けるか!」

 正面激突こそ華、とばかりに突進する小太郎駆る3組の騎馬を正面から受けとめたのは4組所属の黒木零一。2メートルの長身それ自体を武器にしている零一の騎馬は、その上に乗る騎手にとっては相手の頭上を取りやすいという絶対的に有利な体勢を得ることができるのです。とにかく自分はがっちりと騎馬を崩さないことと、あとはなるべく怪我人を出さないこと。大柄な外見に似合わず人の好い少年は正々堂々と熱血空手部少年を迎え撃っています。
 小太郎にすればいくら瞬発力に自信があったところで、騎馬の上ではそれが活かせるわけではありません。零一に苦戦している間に他の騎馬に後ろから当たられると、帽子こそ死守したもののそのまま崩されて地面に落ちてしまいました。尚も混乱の度合いを深めていくフィールドの様子を見ていた一文の視界の隅で味方の別の騎馬が一騎、敵を蹴ちらしている姿が目に入ってきます。

「敵正面10時!突撃いー!」

 相手の左手側から勢いよく突撃をかけているのは直紀の乗っている騎馬でした。もちろん自分も左手側で攻撃をかけることになってしまいますので、騎手を狙うよりもむしろ退かずに相手の騎馬を崩すのが目的のようです。逆に相手が帽子を守ればそれは片手が塞がることを意味し、今度は騎馬から落としやすくなる筈ですし落とされそうになった騎手は今度は必死で騎馬につかまろうとして、すると帽子がおろそかになる。そこを狙って襲いかかる。

 ひょい、という感じで見事に帽子を手にした直紀は、同時に自分の頭上からも帽子を奪われていたことに気がつきました。正面の相手に熱中していた直紀の後ろから、こっそりまわりこんでいた恵太はこれまた見事にひょいという感じで直紀の帽子を手にします。

「やったーっ」

 にこやかな伏兵にあっさり撃破されている味方の様子を見て、一文は首をふりました。その彼はすでに幾つかの帽子を手に次の獲物へと襲いかかっている最中で、猛々しいというよりもむしろ相手の隙を見つけてひといきにとびかかる様が獣の剽悍さを感じさせたでしょうか。4組所属の稲森仁也も味方の足は引っぱるまいと必死に守勢にまわりますが、一文は構わず豹の動きで獲物の喉笛を噛み裂きます。
 そんな一文の奮戦を見ていた真は騎馬を近づけると声をかけました。少しずつ、生き残っている騎馬も減りはじめており、ここからは味方同士の協力が必要になる筈でしたから。

「尾崎くんもなかなか頑張っているじゃないか!」
「頑張らずに勝てればそんな楽なことはありませんよ」

 個人的に努力やら奮闘やらという言葉が嫌いな一文としては、真の声に皮肉っぽい返事をそれでも相手の気をそがないように返します。戦いの最中に少ない味方を減らす理由など何ひとつありません。例えば騎馬戦では禁忌となりやすい後退をふとなにげなくやってみる。すると

「…わっ、わっ、うわわっ!?」

 という声とともに後ろからこっそり近よってきていた田中恵太の騎馬をすかすこともできるのでした。バランスの崩れた恵太の頭から真が帽子を奪うと、一本縛りの髪の毛がひょこりと姿を現します。敵と味方をコントロールすれば戦果など誰があげても構わない、それが連携というものでした。4組の騎馬を直接撃破した真はいよいよとばかりに鬨の声を張り上げます。

「本日この日こそ僕たちが4組に立ち向かう第一歩だ!さあ、行くぞ!」

 威勢良く怪気炎をあげるとあたりを見渡す真。ですが、気がつくとあたりに味方の騎馬はいませんでした。
 憎き4組のゼッケンをつけた、目つきの鋭い少年を乗せた騎馬がゆっくりと近づいてきます。

「あれ…みんなは?」
「3組の騎馬ならもうあんただけだぞ」

 いつのまにか一文を撃破して、そう言ったのは冴希流悟。身体能力に勝る4組でも特にエース級とされる少年で、にこやかな笑みこそ浮かべているものの鋭い目は自分たちを指名してくれた獲物に向けられています。更に生き残っていた零一の騎馬をはじめ数騎が迫り、真は「4組」に完全に包囲されてしまいました。

「人間五十年 下天の内をくらぶれば
 夢幻のごとくなり」

 そんな言葉が真の脳裏をよぎり、そして彼の姿は人の波に飲まれてしまいます。

 結局男子騎馬戦で3組は苦杯を舐めることとなりましたが、まわりも見えずに奮戦して戻ってきた副委員長はクラスの皆にあたたかく迎えられていました。あるいはこのときこそ、真が本当に自分のクラスを実感できた瞬間だったのかもしれません。

「相沢君、お疲れ」
「次は任せて」

 蓉子と遥の声。女子騎馬戦におもむく生徒たちには充分な気合がこもっており、それをもたらしたのは真たちの奮戦でした。敵は副委員長の首を取った宿敵4組、注意すべきは水泳部所属のキックの鬼、龍波炎火と空手部所属の元気印、沖田勇樹の二つの核弾頭です。

「それじゃあ、皆さんいきましょうか」

 遠足の号令のような綾瀬瑞乃の言葉に、女生徒たちは戦いのフィールドへと足を踏み入れます。

 根無し草が風に転がり、バイソンの骨が朽ちる荒野。そんな世界を思わせる荒涼としたフィールドに若々しい少女たちが並ぶ姿は壮観なものでした。競技の性質上、各クラスから選抜された騎馬の数は決して多くはありませんでしたがそれは少数が精鋭となる原因ともなったようです。その中でも精鋭中の精鋭と思える一騎が、好戦的な笑みを浮かべていました。

「いいか三剣。狙うは敵の撃破、近づく奴は全て蹴り飛ばす」
「ク、クラスの為です。がんばりますう」

 龍波炎火と一緒に騎馬を組んでいる三剣悠美は、気弱で体育こそ得意ではありませんでしたが180センチを超える長身に男子顔負けの大力の持ち主でした。騎手は攻撃を捨てて帽子を守り、振り落とされさえしなければ最強の騎馬が全ての敵を蹴散らす。それが彼女たちの作戦です。
 号砲とともに精悍な少女たちの戦いが始まり、炎火は血に飢えた獣の動きで獲物の群れに飛び込みました。最初にその犠牲になったのは五色八重佳。おそらくは彼女なりの作戦も意気込みもあったのでしょうが、かまわず突進してくる4組の対人兵器の前ではあまりに無力であったようです。

「うきゃーん!?」

 騎馬ごと蹴散らされる八重佳の様子を遠望して、遥は足元で騎馬を組んでいる友人に声をかけます。

「騎馬!行くわよ」
「えー!?ヤダヤダちょっと離れて見てようよ」

 鰈伽レイが何故騎馬戦にわざわざ参加したのかと問えば、純粋な人数合わせが理由だったのでしょう。争いごととはおよそ縁が無いどころか近づきたくもない少女としては、騎馬戦だけでも憂鬱な競技であるのにあんな恐ろしい相手との戦いにまで巻き込まれたくはありません。ですが嫌だからといって見逃してもらえるほど世の中は甘いものではなく、彼女たちもすぐに競技の輪に加わっていくこととなります。

「雄々しく戦う、さあ突撃だ」
「女性なんだし女々しく勇ましくってのは駄目?」
「それは意味が通じんな」

 瑠衣の上にまたがる沖田勇樹は身の軽さが身上でしたが、騎馬の上でも平気で立ち上がることができる動きは尋常ではありません。騎馬は彼女を落とす可能性など考えもせずに動きまわり、ただ敵にさえ挑めば良いのです。4組の陣営を出て、接近してくる瑠衣や勇樹の騎馬を迎え撃ったのは遥でしたが、逃げ腰の騎馬は思ったように動いてくれずにしばらく互いに届かない腕の伸ばしあいが続くことになりました。勇樹の方は腕どころか身体ごと伸ばしてきて平然としており、あるいはレイが逃げ腰でいてくれなかったらそのまま負けていたかもしれません。

「ちょっとレイ、いい加減に」
「ヤダヤダ!こっち来ないで!だめー!!」

 そんな調子のまま双方とも別れてしまったことは、どちらにとって幸運だったのでしょうか。獲物を逃した瑠衣と勇樹はそのまま立ち去ると今度は別の争いの渦中に躍りこんでいきます。その進路にちょうど立っていた美城咲音を、勢いのままに蹴散して。

「玉…砕…」

 崩れ落ちる咲音。男子よりもよほど激しい女子騎馬戦の喧騒は更に激しくなる一方で、このままでは3組の犠牲も増える一方だったでしょう。その犠牲を出す要因となった以上、あの敵は責任を持って自分たちで倒す必要がある。

「そんな訳だからもっかい行くわよ、レイ」
「えー…わかったよお、でも危ないのはナシだからね」

 駄々をこねる馬をなんとかなだめながら、馬上の騎士は再び勇猛な敵へと矛先を向けました。向ってくる敵の姿を見つけた勇樹も旋回、今度こそと正面から両者は激突します。

「ダメー!崩れるよー」
「我慢なさい!もうちょっと…」
「負けないー!」
「行けぇ!」

 双方の叫びが交錯し、遥と勇樹はつかみあったまま騎馬から落ちそうになります。ですが瑠衣もレイも、双方の騎馬も懸命にこらえるとなんとか体勢を立てなおして両者は再び離れました。互いの騎手はつかみあったままで騎馬だけが。

「…なんで人の騎馬に乗ってるのよ」
「え?あははー、何でだろーね失敗したなー」

 身の軽さが仇になったか、遥につかまったまま3組の騎馬に乗り移っていた勇樹は気まずいところを落されて失格。4組で残る強敵は炎火と悠美たちが組んでいる騎馬のみとなったのです。

「瑞乃さん、こっちも行こう」
「はい」

 友人の殊勲に勢いを得た蓉子は、近くにいた瑞乃に声をかけると敢然として残り少なくなった競技の輪へと向います。すでに残りの騎馬も少なくなっている中で、蓉子たちの目の前で炎火は次の獲物を見つけるとこちらに近寄ってきます。体力差があまりにある相手に如何に対するか。

「逃げない!」

 走って鬼ごっこでもするならともかく、騎馬に乗って逃げきる自信は蓉子にはありません。いちばん長く生き残るにはあきらめずに逃げないことこそがいちばん良い筈です。堂々と正面から向かってくる騎馬にいい度胸をしている、と迎え撃つ炎火ですがその後ろから今度は瑞乃の駆る別の騎馬も近づいてきました。
 前後からはさまれての二対一、それでも炎火も悠美もびくともしませんが蓉子も瑞乃も必死にせりあってなかなか崩れません。なにしろ炎火の騎馬はとても強い一方で、騎手はそれにしがみついているだけでしたからこちらも騎馬さえ崩れないようにしがみついていれば勝てはしなくても負けずにはすむのです。やがて。

「それまで!」

 号砲と笛の音が同時にフィールドに鳴り渡り、女子の騎馬戦が終了しました。既に炎火たちを残し数騎となっていた4組に対して3組は瑞乃組、蓉子組、遥組ほかを残して圧勝。

「やったーっ!?」

 と両手を上げて飛び上がる少女たちの姿が午前中のハイライトとなりました。

 午後の最大得点種目のひとつである全員リレー。単純ですが一方でクラス対抗をこれだけ意識づけられる競技も他に少ないでしょう。足の速い人はどれだけ皆を助けることができるか、足の遅い人はどれだけ皆に迷惑をかけずにおくか、そしてリレー競技である以上は多少の足の速さ以上にバトンタッチの差が勝敗に大きく影響することになります。
 お昼休みをはさんで応援合戦やフォークダンスで盛り上がり、残り競技も少なくなってきます。ここまで3組と4組とは学年内で1位2位を争いその得点も接近していました。運動能力に決して優れているとはいえない3組の健闘は予想以上であり、彼らのチームワークと士気の高さが窺えるというものでしょう。

「いいな!チームワークだぞチームワーク」

 瑠衣の叱咤の声が響きます。個人種目の多い午前の競技で他クラスを引き離すことができなかった以上、午後の競技でそれをおぎなう必要があるのは当然でしたが、なまじ有能で個性的な集まりは一方で足並みをそろえることにかなりの労力を要します。人間は1と1を足してもけっして2にはならなのですから。
 性格のせいか応援団長っぽい雰囲気となっていた瑠衣は自クラスの実行委員に目を向けました。気合いの入っているように見えなくもない恵太の顔は、ですがいつものおだやかな顔にも見えてどうにもつかみどころがありません。頭のてっぺんに一本しばった髪の毛は、ぴんと力が張っているようにも見えるのですが。

「お前も実行委員らしく何か言葉はないのか?」
「え?うーんと、いっしょけんめいがんばろうねみんな」

 そんなありきたりの言葉でやる気が出るわけもありません。瑠衣はため息をつくのと同時に軽く首をふりましたが、恵太は続けて言いました。

「えっと…がんばってると、他の人のがんばってる姿って見てて元気が出るよね。だから、楽しく元気になろうよ」

 しどろもどろに言う恵太の思いはクラスの皆に届くのでしょうか。それは全員リレーの結果ではなくて元気に走るその姿に現れてくるのでしょう。すぐ隣りの陣地で、これから対決することになる相手の様子に遥と小太郎は笑みをかわします。

「恵太君らしいわね」
「ああ。明るく楽しく元気よく、僕たちも負けられないな」
「…そうね」

 くすりと笑う遥の様子に、小太郎は目の前の少女が最近こういう小さな笑みをよくこぼすようになっていたことに気づいていました。

 両クラスの第一走者がトラックへと向かいます。3組からは双海蓉子が、4組からは龍波炎火が出ると開始線の前に立ちました。最初から差をつけようという4組に対して3組はやや足の不自由な蓉子が先に立ち、他の生徒がそれを挽回するという作戦なのでしょう。であれば蓉子はその挽回してもらう苦労を強敵相手にどれだけ少なくできるか、が鍵になる筈です。
 スターターが構え、鳴り響く号砲とともに走りだす生徒たち。後続に控えている級友たちが応援と声援とを両者に飛ばしていましたが、その量がより蓉子の方に勝るのは仕方のないことだったでしょう。

「双海さーん、ふぁいとー」

 綾瀬瑞乃に柾木小太郎、田中恵太たちの声援が秋空に響きました。

「敵を応援してどうする!」
「ごめんなさーいっ」

 4組の陣営でこづかれている恵太をよそに、蓉子はけんめいに走ります。仲間たちを信じて、目の前を走る炎火にどんどん離されていきながらも。そして炎火はただ黙々と、長い脚で地面を跳ぶかのように先頭を走っていました。彼女たちに共通していたのはただ走ることに対するその集中心で、蓉子も炎火も懸命に走る、その耳に仲間たちの暖かい声はほとんど届いていなかったに違いありません。やがて肺と心臓と、そして膝が厳しくなってきたころにようやく蓉子の視界に次の走者の姿がうつりました。

「河内君、ターッチ!」
「まかせい!」

 第二走者の河内彰にバトンを手渡すと、蓉子は転がるようにトラックから出て屈みこみました。すぐに遥とレイが駆けよると、心配そうな顔であたためたタオルを蓉子の膝に巻きつけます。

「まったく、莫迦みたいに気合入れすぎよ」
「だいじょうぶー?蓉子さん」

 友人の声に蓉子は息を切らせたまま感謝の言葉を言うことができず、代わりに自分にできる精一杯の笑顔を向けました。その蓉子からバトンを引き継いでいた彰は前を走っている織倉七瀬を追いかけています。彼は新聞部の一員として、他人に感動を伝えるのが役目であって感動に参加するのは本来の姿ではありません。ですがその彰が懸命に走り七瀬との差を縮めたのは、おそらく蓉子の姿に彼自身が感動を伝えられたからではなかったでしょうか。他人を感動させるには、自分が他人に感動させられる感性を持つこともまた必要なのですから。
 追ってくるプレッシャーを背に、七瀬はそれでも炎火のくれた首位を保ちトラックを一周します。長髪を結び、炎火以上にしなやかで長い脚で走るその様は多くの他人の目を惹くほどには美しく、そして多くの人が彼女を見ていたとしても彼女自身に見えていたのは目の前でバトンを待っている級友の姿でした。

「瑠衣!タッチ」
「遅い!練習の成果はどうした!」

 悪口か毒舌か微妙な叱咤は、3組に追い上げられているその事実を鳴海谷瑠衣が全身で感じていたからでしょう。3組の次の走者である瑞乃はやはり足が速いとはいえない、というより足が遅いと言える少女でしたが瑠衣にしたところで他人にどうこう言えるほどの身体能力を持っているわけではないのですから。
 瑠衣に続いてその瑞乃も彰からのバトンを受けて疾走、学級委員長への声援は多く、また自分のクラスの思わぬ奮戦に3組の意気は上がる一方です。

「追いつける追いつける!」
「行けーっ!」
「すてきー!」
「可愛いー!」
「愛してるよーっ!」

 何やら間違えている声援を呑気に上げていた尾崎一文は、さすがに車椅子に乗っている身としてリレーは辞退していたのですが彼なりに真剣に応援をしているようでした。確かに、その声援の成果かどうかは分かりませんが普段のおとなしやかな様子からは想像もできず、顔を伏せぎみにして懸命に走る瑞乃は遂に瑠衣の背に追いつくと、バトンの差で逆転に成功します。そのまま3組の応援席に戻ると、

「誰ですか!莫迦な声を飛ばしていたのは!」

 その頃には一文は知らぬふりをして次の走者を応援しています。こめかみをひきつらせていた瑞乃は何か言いたくて仕方のない様子でしたが、彼女自身とんでもなく息が上がっていましたし確かに皆の応援をしなければいけませんでしたから、不満そうに応援に戻りました。一方でやはり不本意そうな顔で応援席に戻った瑠衣を七瀬は迎えると、

「遅い。練習の成果はどうしたのかしら?」
「…返す言葉もない」

 仲が良いのか悪いのかわからないやりとり。ともあれ逆転に成功した3組でしたが、ここで思わぬ伏兵が現れます。先頭に立ったプレッシャーか、大切な3組のバトンを手に走る五色八重佳はややもたつき、遅れて三剣悠美が後を追っています。本来彼女も腕力こそあれ走るのは相当に苦手な筈でしたが、蓉子や瑞乃の姿を見てどうやら触発されているようでした。感動は伝染する、それは何も味方に対してだけとは限らないのです。

「一所懸命がんばりますぅ!」

 友人たちの応援の声を背に自分が普段以上の力を出せるということを知る、それこそがこの競技の最大の意義だったのかもしれません。たったいま逆転をされたばかりの瑠衣や友人である沖田勇樹、普段は声すらかけることのない冴希流悟らが声をはりあげて自分に声援を送っています。八重佳を抜いて再び先頭に立った4組は悠美から恵太へとバトンが手渡され、3組も鰈伽レイへと走者が替わります。

「鰈伽さーん、頑張れー!」

 と声をはりあげている黒木零一もやはり4組の級友たちにこづかれていました。身長が2メートルに達する大柄な少年はレイに対する好意を公言していましたが、先ほど恵太が蓉子を応援していたことを思えば因果がめぐっているのかもしれません。
 本来やはり運動音痴とはいえテニス部でいつも走っているレイに比べると、付け焼き刃で猛練習した程度の恵太ではどうしても不利なようでした。一方で友人たちの声援を受けて、少しずつ少しずつ差をつめているレイは自分が間違いなくみんなの役に立っている、その事実に喜びを感じながら更に嬉しそうに足を速めていきます。それでも少年は少年なりの責任感で、ほとんど隣りまで並ばれながらなんとか先頭を保つと稲森仁也にバトンを渡します。

「タッチー!」

 その声もほとんど同時にレイと恵太から発せられ、二人は少しへたりこむとすぐに立ち上がって自分たちの応援席へと戻ります。今度は蓉子や遥、小太郎たちがレイを出迎えていました。
 一方、応援に戻った恵太のバトンを引きついでいた仁也は午前の騎馬戦でいきなり轟沈した無念を晴らすべく、どたどたと足を運びます。

(ま、できるかぎりは走らないとな)

 韜晦する少年のできるかぎりは、本当に精一杯のできるかぎりでしたがそれは相手も同じことでした。小柄で幼げな少女に見える玲飛燕は歩幅の短さも苦にせず軽快に走ると、わずかに仁也に先行します。やはり両者競り合ったままで次の走者へとバトンが渡されました。

「マクドくん!君には負けないぞ!」

 相沢真が3組に編入させられるきっかけとなったマクシミリアン・D・東郷。その名を変に略した真は気合いを入れて走り出します。そしてマクドことマックスことマクシミリアンは様々な意味で不本意だったのか、やや気負うと足を遅らせていました。もともと足の速さではマックスが勝る筈でしたが、真は執念の走りでわずかに4組との差を広げます。彼の健闘はこの日、群を抜いていたかもしれません。
 ここで3組は「いいこと探し」土佐泳に、4組は「首から下はいい男」葛西克巳に交替します。泳も決して足が遅いわけではありませんが、ここは克巳が快速を活かして一気に追い抜くと逆転、三たび先頭へと立ちました。

「ちょっと咲音ちゃん!?そろそろ出番よ」
「おお、もうそんな時間か…ではすぐに」

 にぎやかな応援席で、本物と見まごうほどリアルな応援団の立て看板を振り回していた美城咲音は、今度は応援される立場としてクラスの役に立つべくトラックへと向かいます。トリックアートの技法でも入れてあるのかはたまた何かの呪いなのか、残された応援団の立て看板は振り回す人がいなくてもなにやら蠢いて応援の声をあげているようにも見えました。
 ですが待ち受ける咲音の横で、一足早く4組のバトンを克巳から引き継いだのは冴希流悟。精悍そうな鋭い目つきの少年は常は冷静そうな性格に見えて、充分に熱血漢でしたしなによりこれまでの競技で充分以上にテンションが高まっていました。

「勝負!!」

 と叫んで走り出す流悟。陸上部も顔負けの俊脚は後続の生徒を一気に突きはなします。泳からのバトンを受け取った咲音もかなりの快速で追いかけますがとても追いつけたものではありません。無人の野を行くかのように流悟はトラックを駆けぬけると零一と交替します。バトンと多少の余裕を手に走り出した零一は、広々としたフィールドに響く声援に昔北海道にいたころの記憶を呼び起こしていました。

(思い出すなあ…昔リレー中のグラウンドに鹿が乱入してきたことがあったっけ)

 回想する零一の横を駆けぬける影が一つ。咲音から受け取ったバトンを手にした遥はほとんど無呼吸で疾走すると一瞬とも思える時間で零一を抜き去ってしまい、またも先頭が入れ替わります。上体を沈めるようにして走る、その姿は零一の目には本当に鹿のように映ったことでしょう。応援席ではレイと蓉子が我がことのようにはしゃいでいて、幾人かの友人の顔を視界の隅にとらえた遥は自分を待っている影に声をかけます。

「小太郎くん!タッチ…」
「オーケー!」

 3組の前向きの象徴、柾木小太郎は友人からのたいせつなバトンを手に一息に走りだします。後ろからは空手部の女子の同僚である煌美鳳が少年を追いかけはじめていましたが、遥からの会心のタッチもあり少年は差を広げるべく更に加速していました。空手の実力では一歩を譲っても、ひたすら練習を重ねてきた小太郎の瞬発力に及ぶ生徒など学園には数えるほどしかいないのです。
 小太郎が先頭のまま3組の走者はクラウディア飛尾に交替、人数の稀少なサッカー部女子部員である彼女を追いかけるのは同僚の羽流ふらの。両者の実力はほぼ互角でしたが、ふらのの方がバトンタッチに成功したか差を縮めながら追走します。最終走者、アンカーを前にして3組が先頭、ですがそのすぐ後を追う4組も大きな差は開いてはおらず充分に逆転が狙えるでしょう。

(最終走者はトラックを2周、ローギアから最後に120%で勝負する…)

 勝つために最善の方法をとる、神城直紀は追走する4組よりも数瞬早く最後のバトンを受け取ると走り出しました。全力を出しきるためにぎりぎりまで溜めた力を一気に爆発させて勝負をかける。そして最後のテープを切るべく長い歩幅で先行している直紀に遅れて、4組の最後のバトンを受けたのは沖田勇樹でした。

「全力…だーっしゅ!」

 直紀よりも頭ひとつ小柄な少女は難しいことなど何も考えず、ただひたすら全力で走りはじめました。トラック2周を全力で走ったことなど彼女にはありませんでしたが、ないのならやってみれば良いだけです。おそろしいほどの快速で追い上げてくる勇樹の気配を背に感じて、直紀もすでに最高速度でただゴールをめざしていました。3組と4組と、双方の応援団は声も枯れんとばかりに声援を送り、喉の痛みも気にせずにかすれた声を張り上げています。残りわずか、というところで直紀の後ろにせまっていた勇樹がさらに声をあげました。

「更にぃ…だああああああっしゅ!」

 それは美鳳あたりから教わっていた中国拳法の踏み込みの応用だったのでしょうか。それとも、みんなの声援を受けた少女のそれこそ限界を超えた本当の実力だったでしょうか。走るというよりも飛ぶようなスピードで更に加速した勇樹は一気に直紀を抜き去ると、そのまま先頭に立ってテープを切りました。その瞬間、4組の応援席では生徒たちが一斉に飛び上がると、トラックにぱたりとへたりこんだ少女に駆けよっていきます。喧騒に包まれる中で勇樹は息もできないほどにうつむいて、悠美や美鳳らの友人たちがその小さな身体を抱えていました。

「ゆーき、ゆーきー」
「勝ったよゆーきー」

 ただ繰り返される、祝福の言葉が当人たちにどれほど理解されていたのでしょうか。どれだけ修辞を凝らしても、少年少女たちの思いを完全なことばにすることなどとても無理でした。彼らの思いをひとつにまとめていたのは、言葉以上の笑顔と泣き顔だったのですから。

 その様子を見せつけられながら惜しくも2着に入った直紀は、本気で悔しがっている3組のみんなに顔向けができない思いで一杯でした。自分は倒れるほどに走らなかったのだろうか、手を抜いた筈もなく、クラスのみんなへの思いでも負ける筈のなかった直紀でしたが、負けたという結果そのものが彼自身を責め立てていたのです。

「お疲れ様、神城くん」
「副委員長…」

 そんな直紀をまっさきに迎えたのは真でした。眼鏡の下にあるおだやかな目は直紀を責めるでもなく、慰めるでもなく、純粋にお疲れ様と労わる思いが満ちています。

「ごめん相沢。負けてしまった」
「負けたのは仕方ないさ。もし全員リレーで負けても体育祭で負けても、皆で諦めなければ次は勝てる」

 真は屈託のない笑顔を見せると、今度は軽く咎める顔になって言いました。

「だから僕も皆も君に謝られる筋のことじゃあない。僕たちは皆で戦ったんだからな」
「相沢…」
「さあ、応援席に戻るぞ」

 乾いた風が二人の背を押して、その視線の先にはクラスの仲間たちが待っています。皆の目は、先ほどまでの真のそれと同じ光を持っていました。

「どう?いっしょけんめいできたかしら?」

 それは聞くまでもない質問だったので、夕刻の太陽が赤くグラウンドを染めているその帰り道、遥は恵太を探してまでそれを問おうとはしませんでした。この日ばかりは自分のクラスの人たちだけで帰ろうかと思う。校門では蓉子にレイ、それに小太郎たちが待っていて、遥の姿を真っ先に見つけた蓉子が大きく手を振っています。

 おそらく、自分を迎えている友人たちと同じような笑顔をしたクラスメイトたちに恵太も迎えられていて、ひとしきり皆で騒いだあとで一緒に帰るのだろう。そして、それでも少年はきっと今日も夜空を見るのだろう。こんな精一杯の日に見上げる夜空は、いつもとはちがって見えるのだろうか。それとも、空の遥か彼方はそんなことなどお構いなしに変わらぬ姿を少年に投げかけるのだろうか。
 精力的に、生真面目にとりくんだ体育祭。空の遥か彼方を飛んでいるに違いないUFO。恵太の姿には誰も気づかない無理が明らかに見えていましたけれど、少年には少年にしか見えていないものもきっとある筈でした。それはこの体育祭で見せてもらうことができたようにも思いますが、あるいは遥がそう思いたかっただけかもしれません。

「ねえ、小太郎くん?」
「なんだい?」

「恵太くん、大丈夫よね?」
「大丈夫なんじゃないか?」

 わざとらしいその返答で、遥は理解しました。恵太と同室の少年は明らかに全ての事情を知っていて、しかもそれを自分に隠している。恵太がいっしょけんめいに何かをしようとしていることを小太郎は知っていましたが、遥がいくら尋ねたところで少年がそれを少女に教えてくれることはけっしてないのでしょう。

「…こういうとき、男同士のなんちゃらってずるいわよね」
「え、何か言った?」
「なんでもないわよ」

 少し口をとがらせる。そんな自分の様子を見て笑いを堪えている蓉子を軽くこづいてやりたい気分になった遥は、ひとつ大きな息を吐いてから背筋を伸ばすと、恵太の一本縛った髪の毛を脳裏から消してしまいました。今日は、蓉子やレイや、それから小太郎たちと帰る日だから。

(小太郎君には少し意地悪してもいいかもしれない)

 そんなことを思いながら少女は学園を後にします。
 秋風に吹かれた髪が夕日に映えていました。

おしまい


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