長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。1995年の秋、明るさに冷たさをひそめた風は少しずつ秋から冬への気配を見せはじめていて、文化祭の近づいた校舎に乾いた空気を運んでいました。
UFO喫茶、と言われてもさてそれがどのようなものであるのか、案を言い出した当人であるはずの稲森仁也にしたところで考えていたわけではありません。UFOにちなんだ装飾の喫茶店というごく無難な線に落ちついたのは彼らにとって幸いだったでしょうが、なにが幸いかというと個性と主張の強い1年4組の生徒たちの案が無難な線に落ちついたという奇跡のような事実がでした。
「喫茶と言って本場のteaを外すのは如何なものかしら」
「だーから、そのお茶を誰が客全員に煎れるんだ?」
喫茶店というからには一人に一杯の茶を出してそれで終わりというわけにはいきません。仁也にたしなめられた織倉七瀬は幸いにも分別があると自称していましたから、自分の好みをクラスの運営に押しつけようとは思いませんでした。
長髪で凛とした聡明な美人、中学生のころに英国暮らしの経験がある帰国子女の七瀬は少なからず他人のあこがれの対象になるような少女でしたが、そのせいかどうにも近寄りがたい雰囲気があるのも確かでした。それを気にしない友人はむろん幾人でもいましたが、それを気にする友人がいることもまた事実なのです。雰囲気などを気にしない、稀少な友人の一人が七瀬に声をかけます。
「七瀬、試着の衣装ができたぞ」
「あら瑠衣…って本当にそれを着るの?」
衣装合わせのために演劇部の部室の前で待っていた七瀬に、鳴海谷瑠衣が声をかけます。七瀬と二人演劇部に所属、趣味と特技が服飾だという瑠衣が喫茶用の衣装をつくるということは別段不思議ではなかったでしょう。外面の変化により内面までを改革させる、と些か演出過剰に宣言する少女の後ろには、既にその衣装とやらを着た友人が立たされていました。それを見て七瀬は率直な感想を漏らします。
「衣装というより仮装ね」
厚手の布地をヒトデのような姿にして、首のところだけ空けてすっぽりとかぶらされているのは沖田勇樹でした。小柄な勇樹には案外似合う姿ですが、これを着てウエイトレスとして立ち回るには少しく動きにくいかもしれません。やや呆れ顔の七瀬の視線を見て、瑠衣は小さく笑います。
「ああ、あれはディスプレイ用だ。ウエイトレス用はこっち」
と、手元に折り畳んでいた衣装を差し出します。ひろげるとやはり厚手の布地でできた、裾のひろがったスカートドレスで、先のとがったフードがある以外は一見ふつうの衣装と言えなくもありません。勇樹の姿にもっと奇態な衣装を警戒していた七瀬は、安心と拍子抜けの中間のような表情を浮かべていました。相手の心理を承知した瑠衣は、説明するように口を開きます。
「いちおう稲森と田中が持ってきた宇宙人の写真から型を縫った。頭のフードだけで意外に日常性を外れるし、服も腰で縛るだけだから簡単に着れる。交替の多い文化祭の衣装には向いているだろう」
宇宙人の写真?と訝る七瀬に瑠衣はコピーの束を差し出します。そこにはたしかにひとむかし前の特撮っぽくも見える奇態な姿を写した写真や図がいくつも載っていました。ひとつ目のヒトデの姿の宇宙人、大きなフードをかぶった背の高い宇宙人…。
「で、勇樹に着せる衣装は趣味に走ってみたわけね」
「私も演劇部だからな」
直接の回答を避けた瑠衣は、ヒトデ姿で走り回っている勇樹にちらりと横目を向けます。本人も満足しているようなので問題ない、と説明をすると瑠衣は話題を転じました。
「そういえば内装の準備はどうだ?」
「やってるわよ。コドモたちが」
「いいか、木曜の授業が終わって文化祭当日まで時間はおよそ40時間。そのうち約半分が我々に与えられた時間だ」
「分かってるよ、セットを組み上げなきゃヒーローショーもできやしない」
と言って内装を組み上げ始めたのは葛西克巳や冴希流悟と始めとした大道具担当、七瀬が言うところの「大きなコドモたち」でした。
作りは単純、教室を喫茶店と厨房の二つに分けて、更にそれを壁から床から天井まで囲うこと。360度全景を俗世から切り放すという、テーマパークなどでは良く見られる手法です。問題は高校生の技術と財力でそれを行うことができるかということですが、付け焼き刃の工夫というのは貧乏学生の十八番でした。
まず重要なのは骨組み。特に室内を区切る壁として机を高く組み上げます。組み上げた机の上下左右の足を縛り、更に端側を折り込んで倒れないように工夫する。教室にあるいちばん無難な材料で基礎を組んだあとで、内装を貼り付けるための柱を壁に打ち付けます。
「壁や天井をいじるのは肝試しでさんざん怒られたろうに」
「ああ、だから今度はこないだより壊したところは少ない」
特に窓側や黒板など、凹凸があったり素材が頑丈な壁は釘を一本打つにも困難を伴います。そこに頑丈な枠さえあれば、それだけで加工が楽になるでしょう。
夜を徹して行われたらしい作業は職人の満足するレベルに達したらしく、組み上げられた骨組みの上に用意したパネルが貼られていきます。大量に仕入れた段ボールの一面を四角く切り取って、それに印刷した写真を貼り付けたパネルは重さと強度と値段を検討した苦心の作でした。壁から天井、そして床まで一面に。
「最後に明かりをつけて…完成だ!」
天井まで覆って薄暗くなった室内に、色を塗った数個の電球をぶらさげて明かりを灯します。赤や青の光が室内を幻想的に照らしているところに、瑠衣や七瀬が戻ってきました。
「へえ…」
と、感慨とも感想ともつかない声を漏らす七瀬。それは部屋中を、壁から天井、床までを覆いつくす一面の星空でした。机に黒いクロスをかぶせたテーブルが並べられて、テーブルの上にも置かれたライトが稚拙な星のようにまたたいています。
「近づけば粗が見えるけど、この暗い明かりなら分からないわね」
「そこまで考えてたわけじゃないけど」
克巳や流悟の後ろから、一本縛った髪の毛が姿をあらわします。部屋中を一面の星空で覆う、そんな莫迦なことを考えた田中恵太はこれだけ莫迦な苦労をできるという程度に一面の空が好きな少年でした。いちおう写真部の所属であるとはいえ、これだけの星空を用意するのはけっこうな苦労だったでしょう。
少年にとって、UFOと空というのは同じものなのかもしれない、七瀬はそんなことを思いながら別のことを口にします。
「さて、どんなUFOが見られるかしらね」
私立樫宮学園高等学校文化祭の当日。私立高校の文化祭らしく、拙いながらも雑多な思いつきと労苦の成果が敷地内にひろげられています。定番のお化け屋敷に喫茶店、演劇に歌にクイズに屋台にバザーまで。衣装と仮装と制服と私服とを着た人々が歩き回る中で、双海蓉子は友人の顔を見つけて声をかけました。
「あ、いたいた。遥、鰈伽さーん」
蓉子と遥、鰈伽レイ、同じクラスの三人の少女が互いに親しい友人であっても何の不思議もありません。テニス部に所属している遥とレイは先程まで部で出店している屋台の手伝いに駆り出されていたところであり、テニスウェアの上からベンチコートを羽織っていました。頭に乗せている動物の耳の飾りは、何かの仮装の一環でしょうか。
「どう?テニス部の方は」
「私達の今日の仕事はおしまい。テニス部の大会の方は文化祭が終わってから」
「遥さーん、今日は部活の話はやめよーよお」
遥の言葉に抗議の声をあげたのはレイでした。学生の秋は文化祭や体育祭の秋でもある一方で、部活動を行っているたいていの生徒にとってはさまざまな大会が開催される季節でもあるのです。高校一年生、抜擢されて夏の大会から出場していた遥と異なり、入部からひたすら練習だけを続けさせられていたレイにとっては始めての大会が近づいている時期でもありました。
「人に比べて著しく練習の成果が少ないけど」
「ひどーい」
遥がレイをからかっているだけなのか、単に事実を述べているだけなのか、それとも彼女流にレイのプレッシャーを軽くしてあげようとしているのか。この場合はどれであっても説得力を持つでしょう。その遥は前の大会で好成績をおさめていたものの、さすがに疲れを抜くために休んでいたので調子が戻るか否かは多少自信がありませんでした。話題を変える必要を感じたのか、遥は蓉子に顔を向けます。
「そういえば小太郎君は?」
「え?空手部に出てるはずよ、さっき腕相撲大会の助っ人に呼ばれてたもの」
やはり同級の少年の名前を遥は口にします。こうしたイベントで友人と時間を合わせることが意外に難しいことは、自分がテニス部に時間を取られていることでも明らかでした。
「じゃあ皆で一緒に回るのはクラスの演劇が終わってからね」
「あ、ごめん。その時間恵太くんのクラスに行く用事があるんで遅れて合流するね」
「…本当?」
軽く上目づかいで手を合わせている蓉子に、疑わしげな目を向ける遥。目の前の友人が変なことに変に気をまわしすぎるということを、年来の友人は心得ていました。だいたい隣りのクラスに行くのにたいした時間がかかる筈もないが、だからこそ少し分かれて遅れて合流するだけ、なのかもしれませんが。
今度はちらりと視線を横に向ける遥。レイにはあまり何のことだか分かっていないのが幸いでした。
UFO喫茶はそれなりに盛況なようでした。もっとも七瀬が見るかぎり、天井や壁に打ち付けられている頑丈そうな釘の数々や、厨房裏に転がっている蛍光灯器具を目にすると学内評価はとても期待できそうにありませんが。
(見なかったことにしましょう)
後で怒られるのは大道具係、と自分にいいきかせた七瀬はフラットウッズの怪物姿というらしいウエイトレス服を着て給仕に専念しています。1952年にアメリカはウエストバージニア州で目撃されたという宇宙人。とがった大きなフードのようなものをかぶり、スカートを履いたような姿を見て七瀬が思ったのは、演劇部である彼女としてはこれを着た姿をどう演じるかということでした。別に宇宙人ウエイトレスを演じるつもりはないけれど、分からないというのは気になるものです。
「いらっしゃいませ」
挨拶のことばもいろいろな案は出ていましたが、結局は客商売にあるべきことばに落ちついたようです。客席に隣りのクラス、3組の生徒が多いのはちょうど彼らが出し物であった演劇を終えて、戻ってきたところだったからでしょうか。
「凄い、ですねえ」
「あら。瑞乃さんお気に召しました?」
内装にぐるり目を向けていた綾瀬瑞乃の前に、七瀬がメニューを置きました。遥たちと別れていた蓉子と二人、席に座るとものめずらしそうにあたりを見回しています。
喫茶店とはいってもたいそうな調理をするわけにもいきませんし、メニューの殆どは作ってあるものをそのまま出すしかありません。UFO喫茶風のメニューを出すのに苦労した、とは実行委員を表明していた仁也のことばですが、それがUFOかどうかはともかく意外に個性的で、まっとうな品がそろっていたのは彼らの苦労の産物であったでしょう。
「あは、月のしずくと星のアイスって名前にしたんですねー」
あたためた果実のジュースや氷をまぶしたアイスクリーム。隣りのクラスでメニュー作成にさんざ苦労していた様子を、瑞乃は見ていた覚えがあります。瑞乃はその月のしずくのジュースを、蓉子は円盤珈琲を、と頼むと少しして彼女たちの前にグラスとカップが置かれました。それを見て、小さく笑う瑞乃。
「空飛ぶ円盤、ですね?」
「子供騙しだけどね」
ごく普通のカップに入った珈琲、そしてソーサーには「ふらいんぐ」の文字。それは円盤珈琲というには大仰な駄洒落でしたでしょうか。七瀬としてはメニューに一緒に載せていた、円盤紅茶が選ばれなかったことのほうが少し不本意だったかもしれません。他の品目はと目を通していた蓉子が言いました。
「でもどうしてコーラだけアメリカコーラなの?」
「それはー」
ようやく交替の時間、喫茶から厨房にまわった七瀬は衣装を脱ぐと上着を羽織りました。舞台裏で手早く着替えることは、演劇部員としては珍しいことではありません。飲み物の用意をしている裏方で、衣装や内装の補修をしていた恵太や仁也、それに瑠衣が七瀬を迎えます。恵太は写真部として頼まれているのかスナップ用のカメラを手に、ちょうど同級生の写真を撮っていたところのようです。
水で濡らしたタオルを受け取り、フードをかぶっていた首筋を軽く拭いている七瀬に瑠衣が今度は乾いたタオルを手渡しました。
「ご苦労。冷たい珈琲でも飲むか?」
「珈琲は嫌いなのよ」
「子供じゃあるまいし」
半分は予想していたらしい七瀬の返答に、苦笑ぎみになる瑠衣。英国帰国子女の友人が自分の趣味と興味に強いこだわりを持っているのを知ってはいましたが、珈琲云々というのは些か細かい好き嫌いのようにも思えます。瑠衣の後ろで、仁也も同じことを考えたようでした。
「確かにイギリス人はお茶にこだわるだろうけど…珈琲も普通に飲むんじゃなかったか?」
「それは、そうだけど…」
仁也のことばに、奇妙に口ごもる七瀬。冗談めかして瑠衣が言います。
「子供の頃に珈琲を飲んだら、夜眠れなくて怖かったそうだ」
「そんな訳ないでしょ!」
思わず強い口調になる七瀬。冗談が冗談として取られない、その理由は推して知るべきかもしれませんでした。お堅い友人の思わぬ反応に瑠衣はおやという顔をすると、少し意地の悪い口調になります。
「真実は追求しないでおこう」
「…感謝する気にはなれないわね」
少し顔を赤くして、長い髪をかきあげると視線を余所に向ける七瀬の顔はこれまで友人たちが見たことのないものでした。そしてその表情は、一枚のスナップ写真に収められて彼女の部屋に飾られています。
「よくもあんな莫迦げたことをやるわね」
その日の終わり、UFO喫茶を訪れた後の遥のことばは最高の褒めことばかもしれませんでした。人は、何かたいせつなもののためになら、いくらでも莫迦なことができるものですから。
恵太が文化祭に先だって、なにやら準備をしていたらしいことを遥は知っていましたが、少年の同室の友人である柾木小太郎に聞いても話をはぐらかすばかりで詳しいことを教えてはもらえませんでした。やきもちにも似た疎外感は、少し相手の術中にはまっているということかもしれません。
床から天井、壁までを少年の星空で覆いつくすという莫迦げた苦労は恵太の空へのあこがれを示していましたし、ひとつひとつ並べた星座の写真を撮る苦労もたいへんではあったでしょう。ですが、そんなことを恵太がわざわざ自分に隠している、しかも小太郎がそれに協力しているらしい理由は遥にはわかりませんでした。
体育祭と、UFOと。写真部の展示もあるだろう恵太が、あれだけ莫迦げた星空を教室に描き出したことは確かにすごいことだけれど。
「…あれ?いけない、忘れてた」
ふと思い出した遥は蓉子やレイ、小太郎をつれて写真部の部室へと向かいます。いくらクラス展示に注力したとはいえ写真部の恵太はそちらにも作品を展示しているでしょうし、それを見ないというのも可哀想な話でしょう。写真部の部室は校舎の隅、遥たちのいる教室から決して離れてはいないのですが、図書室に行くときに前を通りがかるだけで気に止める生徒は殆どいないような、そんな場所でした。
渡り廊下の向こう、閑散とした部室には写真部の部員が撮影をした他愛のない、人によってはなかなかの景観がパネルにされて飾られています。部員によっては数枚が飾られている、そこに恵太が展示していたただ一枚きりの写真を、遥はすぐに見つけることができました。
それは先日の体育祭の終わり、校門前のスナップショット。赤い陽の光が斜めにさしこむ蓉子とレイと小太郎、そして遥の写真。夕焼けの赤に染まった学生たちが笑っている、そんなありきたりの写真でした。そういえばあのとき校門で、クラスの違う恵太がそこにいなかったことを少女は不思議には思いませんでしたが、あのときに撮っていたということでしょうか。
だがよくこんな写真を写真部が展示させてくれたものだと思う、遥の感想はUFO少年が謎の物体なり宇宙人なり、遥か遠い星空でも写しているのではないかと些か拍子抜けしたからでしたが、蓉子や小太郎の反応はまた違っていました。なにやら言いたげに、あるいは懸命に笑いでもこらえているらしい二人に遥は怪訝な顔を向けると、友人に問いかけます。
「何を笑ってるのよ?」
「気づかない?それ、わたしの知る限り遥のいちばん笑顔の写真だよ」
「…え?」
蓉子のことばに例えようもない表情になる少女。こらえきれずに吹き出す友人の姿を見て、今度は不本意な怒りがこみあげてくると遥は大きな声を出しました。
「ちょっとこの写真、あなたたち知ってたでしょ!」
「あはははっ。ごめんごめーん!」
たまりかねて笑う友人とそれを追いかける少女。恵太が星空ともうひとつ選んだ写真。
写真の題名にはただひとこと、遥かの友人、とだけ書かれていました。
おしまい