未来はいつも僕らがヒーロー 第9話


 冬の空はきれいだから好きだ。
 でも、晴れていない冬の空は嫌いだな。

 空に揺れる一本縛りの髪の毛。冬の空、信越地方の早い冬を間近に控えたその前の季節の一日。長野県高校テニス一年生大会の予選となる地区大会が開催されたのは、体育祭や文化祭よりほんの少し前の季節のことでした。

「あ。恵太くーん、こっちこっち」

 双海蓉子が手をふっているにぎやかなベンチの一席、その日、田中恵太は同級生たちと一緒に私立樫宮学園高等学校テニス部の応援におとずれていました。秋の一年生大会、その前に行われていた新人戦で一年生ながら抜擢、県大会優勝の好成績を残していた水木遥などはともかく、素人に毛が生えたくらいの実力からようやく初心者に毛が生えたくらいの実力には成長したと言われる鰈伽レイなどにとっては、はじめての大会でありその緊張感もひとしおだったでしょうか。

「えーん。負けても怒らないでねー」

 などと頼もしいことばを残して控え室に消えていったレイの姿を思い出して、蓉子は些か不安な思いに駆られます。一年生大会ではメインドローと呼ばれる通常のトーナメントに加えて、コンソレーションと呼ばれる一回戦の敗退者同士によるもうひとつのトーナメントが開催されますから、勝敗に関わらず最低でも一人2試合を行うことになっていました。

 せめて何もできずに2敗というのは避けよう。
 せめて何もできずに2敗というのは避けたいな。

 せめて何もできなくはなければ
 もし2敗しても怒られないかな?

 そう思っていたレイは震える手でラケットを握ると震える足でコートに立ちました。ネットの向こうにいる相手も自分と似たような一年生の筈なのに、でもとても強そうに見えるのは目の錯覚なのでしょうか。

(魔法使いさーん…負けても皆が怒りませんように)

 あまりにも消極的な祈りをこめて。主審の笛の音とともに相手はボールを高く投げ上げて、あとはもうただひたすら走ってラケットを振り回していたことしか覚えていません。
 走る走る走る走る。追いつけないだろうけどそれでも走る。くたくたに疲れたけどまだまだ走る。応援席から、見知った人たちが声をはりあげて応援しているような気もしますがとにかく走る。走る走る走る。後で怒られるのはいやだから、そして。

「ゲーム!マッチウォン、バイ…」
「…え?え、え?」

 気がつくと、レイは友人の祝福にかこまれていました。たとえそれが地区大会の一予選試合であったとしても、まさか彼女が勝てると思っていた者がどれだけいたのでしょうか。

「伊達に厳しい特訓をさせていたつもりじゃないんだけどね」
「遥、さぁん…」

 冬を間近にひかえた、よく晴れわたった空の下の一日。少女がまっさきに飛びついた相手は、いつも練習のときにはおっかない同期のたいせつな友人でした。

「どうしたの?」
「うーん?努力することと努力した結果と、どっちが大事なんだろうと思って」

 友人に囲まれてレイが祝福を受けていたその日の夕刻。恵太の様子に怪訝な顔で問いかけた遥に、少年がそう言ったのはもちろんレイが高校テニス一年生大会で彼女なりの健闘にふさわしい彼女なりの活躍をしたからだったでしょう。ただ少年のことば自体は少女には自明の解答を持っていましたから、

「どっちもに決まってるじゃない」
「…そうだよね」

 遥からその回答がくることは恵太は知っていましたし、恵太がその回答に決して満足しないだろうなということも遥には分かっているようでした。好きで楽しむことすらできないならそれはもちろん問題ですが、結果を問わないよりも良い結果に恵まれた方がそれは良いに違いありません。では、良い結果があまりに期待できないかもしれないことを人はどうやって求めるのでしょうか。

 手に持った小さなカメラをくるくると回しながら、頭上に縛った髪の毛をくるくると揺らしている恵太。少年のカメラに思うところのあった遥は少し警戒したような、少し労わるような視線を向けています。恵太が何に悩んでいるかも少女には分かっていましたが、もちろんいくら友人であっても他人がそんなことまで教えることはとてもできないでしょう。

(自分の空は自分で見つけること)

 そんなことばすらも他人がいくら言ったところで何の意味もありません。少年に手を貸すことはできても、少年の代わりに決めることなど少年以外の誰にもできないのですから。

 長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。短い秋はとうにすぎて山地では雪も降り始めた冬の12月、ここしばらく、恵太は大きめのコートのポケットに小さなカメラをほうりこんで歩きまわることが多くなりました。写真部員でありUFO少年でもある少年にカメラはあまりに似合うような気もするのですが、意外に少年が写真を撮っている姿、を見た覚えのある友人はほとんどいないようです。
 撮りたいものを見つけてしまうとカメラを持っていることを忘れてしまう、というのはいかにも恵太らしいと聞いた友人の多くは思いました。それはそれで写真部員としては問題になる性格ですが、とりあえず少年は自分の探しているものをもういちど集めて見なおしてみようかと、髪の毛を揺らしながら切り取った空を集めています。

 そんな恵太は写真を撮るよりも写真を見ることが好きなようでした。ほんものの空をただ見あげる魅力にとりつかれている少年は、写真の中にある空の魅力を見ることもできましたから教室からほど近い図書室にこもって、何冊かの写真集に手を伸ばしています。

「さすがに図書室にUFOの写真は置いてないよ」
「そりゃそーだな」

 稲森仁也の同意のことばに小さく笑うと、恵太は意外に豊富な学園の蔵書から借りた一冊の写真集を開きます。そこには多くの写真家や登山家が写した数々の空が収められていて、長野県の山に囲われた空しか知らない少年たちにとってはそのどれもがまだ見ぬ世界を覆う天井の姿をしていました。
 写真を挟んで話をするのであれば図書室のテーブルよりも教室の座席のほうがふさわしいには違いなく、興味を持ったクラスメイトも近寄ってくると机を囲んでいます。三剣悠美はとても背の高い、気の弱いせいでとても背の高さばかりが印象に残る少女でしたが、好きなものもあり夢も見る、同級の友人たちと同じごくふつうの女の子でした。

「でも空の下に人がいると思うと素敵ですよねえ」

 空の写真があるのならその下にはその写真を撮った人がいるということだし、あるいはそこに住んでいる人だっているかもしれない。人が行くことのできる場所なんて限られているのだろうけれど、自分の住んでいる町の中でさえ行ったことのないところや見たことのない場所なんていくらでもある筈です。自分の知らない空がたくさんあったとしても、人の知っている空であればそれはとても広く、とても遠くまで届いていました。

「そんな人たちとお話してみたいですよね」
「そーだなあ」

 仁也と話している悠美を見て、恵太は自分の知らない空に思いを馳せていました。そこでも、自分と違う誰かが写真を手に似たようなことを考えているのでしょうか。人と人というのはどこまで遠くまで広がるものなのでしょうか。

 私立としてわりと開かれている樫宮学園では留学生も帰国子女も日本に帰化した学生も幾人かがいましたが、織倉七瀬は英国の冷たい空気に覆われた空の下で育った経験のある少女でした。彼女にももちろん彼女自身の空があって、それは多分に彼女の育った環境が影響を与えていることは疑いありません。ただ、七瀬は環境やら他人の影響がどうというよりもまず自分がどうあるべきかを最初に考えてしまうような少女ではありましたけれど。

「空でも宇宙でもUFOでもいいんだけれど…」

 仁也や悠美が囲んでいた写真が夜の星空に移り変わるころ、七瀬が興味のあるという顔つきで恵太たちに近づいてきたのは彼女も年相応に好奇心のある少女であった故でしょう。ただ、彼女の性格として少年少女のロマンチックな空想に感応するよりもむしろ、真面目な事実と真実とを追求せずにはいられないようでした。
 先日の文化祭、教室をいっぱいの星空で満たすという莫迦らしいほどにロマンチストな演出に腐心していた少年たちは、そのためにあちこちの壁や天井に穴を開けたとしてさんざ怒られていたものでした。良識派を自認する七瀬としてはコドモたちの荒唐無稽さに呆れて苦笑しながらも世話の焼ける可愛らしさを感じていましたが、同時にその子供っぽさに彼女なりの警鐘を鳴らさずにはいられません。

「ただ、ニセモノは所詮ニセモノよ。本物を知っているか、自分で本物を持っているかしなければ決して本物を創ることはできないわ」

 それは演劇部に所属する、幼い頃から演劇に携わっていた七瀬としては当然の主張だったでしょう。文化祭のUFO喫茶、宇宙人のイメージということで衣装を着せられていた七瀬は自分が宇宙人を演じることができるのかと、喫茶とは関係のない別のところでずいぶん悩んだものでした。たとえそれが必要のない悩みであり思考であったとしても、考えなければ気づくことは何もないのですから。
 そして七瀬の悩みを、七瀬より遥かに深く遠くそれに関わろうとしている筈の少年がどの程度真面目に考えているのか、それが気にならないといったら嘘になるでしょう。専門外の人間に想いが及ばないのであれば、そんな思い入れに価値のある筈もありません。

「お節介を承知で言うけど分からない、とか何時か見つかればいいね、とか言うだけなら誰でもできるわよ」
「厳しいね」

 苦笑する恵太。こういうはっきりとした物言いと考え方は七瀬の留学経験故か性格故か、あるいは両方なのかもしれませんでした。知らないものを研究する学問は古来より幾らでもありましたが、ただ与えられる知識を覚えることのみに満足してしまえばそれはオカルトに堕してしまいます。学問の基となる真理とやらは授かるものではなく、人が自分で探すものの筈でした。

「話題性だけで証拠もない宇宙人目撃の系譜なんて並べるだけ莫迦らしいわ。でもそこから宇宙人を知ろうとする予測と試みまでを莫迦にする決めつけはもっと莫迦らしいわね」
「月にあこがれた人が月にたどりつくまで何千年もかかったんですものねぇ」
「上手いことを言うわね」

 詩人に科学を解することはできずとも、詩人の心がなければ科学を探求することもまたできない。自分の欲しいものがなにか、目的があればそれを探すこともできますが欲しいものを思うだけで何も考えないのであれば、それは単なるコドモでしかないのでしょう。ただ、子供の心がなければ常識をいくら伸ばしたところで空の星を手につかむことはできないのです。

「今は宇宙からも最新の画像が送られてきている最中だしね」
「ハッブル宇宙望遠鏡のことだね?」
「ええ。遠く更に遠くを見ようとする人は今でもいるということよ」

 子供たちがあこがれて欲しがった、空に伸ばした手はこれまでも少しずついろいろなものを少しずつつかみとっています。ほんの100年あまりで人は空を飛び月に足を降ろすまでになった。更に100年先の人を誰が知ることができるのでしょうか。

 ハッブルの最深宇宙像と呼ばれる画像が届くのはその月、1995年12月のことでした。

 日の暮れた長野県の空。授業はもちろん部活動や課外活動の時刻もとうに終わり、夕刻を過ぎた冬空は真っ暗で、頼りない街灯のゆらめく明かりが通学路を照らしています。遥やレイたちと歩く帰り道、空にゆらめく星明かりとは違うまたたきに蓉子はふと視線を空に向けました。

「あれ・・・?」

 空を舞う物体、ゆらゆらと不規則に揺れて落ちてきたそれは、今年はじめて長野の町中に振った雪のひとひらです。その様子を見て社交辞令のように寒くなったわね、と言おうとした遥は小首を傾げている友人の顔を見て訝るような目を向けました。

「どうしたの?」
「ん。何かめずらしいものが飛んできたのかと思っちゃった」
「恵太君に毒されたんじゃないの?」

 それがUFO少年でなくても、空から知らない何かが降ってくるというのはとても興味深いことだったでしょう。そんなロマンが見たくて空を見上げているに違いない少年の心を思って、少女たちは冬空に顔を上げました。吐く息がいつのまにか白くなった、その白い息の遥かかなたからは少しずつ、銀色をした雪の欠片がいまも舞い降りてきています。お日様を奪われたひまわりの花が銀の種をつけたというのは、どこの国のお話だったでしょうか。

 少女たちが思う、少年が探している空。それは本人にも見えているわけではないのかもしれません。一人屋根の上にのぼって、木々の多い公園を抜けた丘の上で、あるいは校舎の屋上で。
 そこで見る景色やそこで切り取られる空は確かに少年の空でしたけれど、少年が探している空はもっと別のものかもしれないのです。

「どーしたのー?早く肉まん食べに行こうよー」

 少女たちが少しく足を止めていたせいか、ひとり先に歩いていたことに気づいたレイが振り返ると声をかけてきています。軽く手を振ってこたえながら、足早に歩きだす遥に蓉子はぽつりと呟きました。

「もし、もしもよ」
「ん?」
「見つけちゃったら、どうするのかしらね」

 遥か、かなたの空。
 地上にいる友人のことばに、少女は答えることはできませんでした。

おしまい


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