田中恵太は空を見ることがとても好きな少年でした。正しくは、空の遥か向こうにある知らないものを探すことがとても好きな少年です。少年が学園や寮の建物に登って屋上から空を見上げることは珍しくもありませんし、よく公園の高台に行って柵に腰掛けながら流れる風に一本縛った髪の毛を揺らしています。山間にある長野県の冬でなければ、たぶん山にも高く登って一足でも空に近づこうとしたことでしょう。
「今日はどこまで行くんだ?」
「田坂の貯水池のあたり。見晴らしがいいみたいなんだ」
すれちがう自転車に乗っている稲森仁也に、小さなカメラバッグや荷物を背負った恵太は笑顔を向けました。高く、高くに登った少年はそこで空を見上げてはときおり写真を撮っています。以前はただ憧れて、ひたすら見ているだけだった空。最近はシャッターを押す機会をあまり忘れなくなったというのは、少年が成長したということだったのでしょうか。
「山に行くなら昼には降りた方がいいぞ」
「そうだね、ありがとう」
仁也がそう言ったのは、それこそ恵太が少し荷物を揃えれば山にでも行けそうな恰好をしていたからかもしれません。昼間でも、夜遅くでも空に登った恵太は長い間帰らずに、ただ空を見上げていました。寮の一室にある少年の机では、あふれるほどに無造作に積まれた遥か空遠くの写真たちが今日も増えつづけているのです。
恵太と同室で暮らしている柾木小太郎は、そんな空ばかり見ている少年と決して仲が悪いわけではありませんでした。ただ小太郎が空手部の早朝練習のために夜早く寝るときには恵太は部屋には帰っていませでしたし、早く部屋を出るときにはいつの間に帰ってきた恵太は布団にまどろんで枕に頭をあずけています。学年はいっしょですがクラスは隣り同士、最近あいさつ以外にかわす言葉が少ないのは同室の友人としては気になることだったかもしれません。早寝早起きをしている小太郎は、どうにも夜更かし少年と時間が合うことがありませんでした。
「…ねえ、恵太知らないか?」
「さあね。今日は来てないぞ」
明けて1996年の冬の一月。1年4組の教室を訪れた小太郎に、仁也はぶっきらぼうな返答を返していました。ときおりですが、最近恵太は休み時間や授業時間でも消えることがあるらしく、真面目然とした少年の奇行は今更とはいえ一部の者には心配の種になったことでしょう。少し心配げにも見える顔をした小太郎に、仁也は気にする風もなく続けます。
「コドモじゃないんだし適当に帰ってくんだろ」
「そんな言い方ないだろうに」
やや非難がましい顔をする小太郎にも恵太を探す充分な理由がありました。半分は独り言のように少年は呟きます。
「来週美城さんの誕生パーティだからなあ…恵太にも会ったら伝えといてよ」
「いいけど。でもお前の方が毎日会うんでないの?」
「もちろん話してはいるんだけどね」
恵太の様子を思い出すに、話をしたから伝えたいことが伝わっているかというと小太郎にはどうにも自信がありませんでした。身体を捕まえることと心を掴まえることとは別の問題なのであって、最近の記憶を思い出すと果たして自分の言葉が友人に届いているのかどうかと、些か心配にもなってくるのです。
「そういえば最近見てないわね」
「何やってるんだかなあ」
ぼやくような小太郎に、水木遥は恵太の揺れている髪の毛を思い出します。最近友人たちと過ごすばかりで、隣りのクラスの変わり者の少年のことを少しく忘れていた。さて借りていた本は返したろうかと少女はあらためて恵太の顔を思い起こしていました。空が好きな少年は、ふと気が付くと誰もいないところで平気でいつまでも空を見ているような性格をしていましたから、本来はそんなものをいちいち気にしてはいられません。少年はときおり悪戯な目になることはあっても、その瞳はいつもここにはないどこか遠くを見ていましたから。
その日、1月16日は彼らの同級の友人である美城咲音の誕生日でした。男女集まってパーティを行うとなれば寮内に場所を借りるわけにもいかないので、住宅地にある小さなベーカリーにテーブル席を設けて会場にしています。入り口の前で待っていた双海蓉子は、並んで歩いてくる遥と小太郎の姿を見つけると手を振って声をかけました。
「遅ーい。もうみんな先に入ってるよ」
「御免、ちょっと遅れちゃった」
軽く片手を上げて、案内された狭い店内のテーブルには簡素な飾りと小さいけど作りの凝ったケーキ。集まっている友人の姿をぐるり見渡して、蓉子は小太郎と遥に席をすすめます。
「けっきょく恵太くんは来なかったの?」
「ごめん、どうにも捕まらなくてさ」
寮の同室である小太郎はもちろん何度か恵太に声をかけていましたが、ぼんやりとした返事を返すばかりだった少年がもしかして姿を現さないのではないかという予感はありました。別に小太郎くんが謝ることではないわ、と遥がフォローします。
恵太の目に見えている友人の姿はそれこそファインダー越しにある遠く世界なのかもしれない。追いかけても、追いかけても届くかどうか分からない遥かにあるもの。
空の向こうを見るように、恵太は友人たちに遠く憧れているだけなのではないか。人の志向は違っていて当然だけれど、いざ一人違う者を見る身として遥が少しだけ居心地の悪さを覚えたとしても無理はありませんでした。本来我の強い少女は人と対立して孤立することもありましたけれど、それだけに当人の考えや主張は常に是であるべきだった筈です、が。
「うーん?しっぽならこの前も学園で見た覚えがあるが…」
考え込んでいた遥に、当のパーティの主役である咲音が声をあげました。ざんばら髪を無造作に束ねた本日の主役は芸術家のタマゴというよりヒヨコとしてすでに認められていて、時にはUFO少年以上に奇行が目立ちましたがその感性を表現する実力を疑う者は誰もいませんでした。
「私が夜中に美術室に篭っていたら反対の屋上で揺れていたぞ」
「え?だってそれって相当遅い時間じゃない?」
独特の言いまわしは咲音ならではだったでしょう。芸術家志望の少女が時折創作活動のために学園の美術室に平気で泊まり込むことは、学園では容認はされないまでも黙認されていましたし友人たちもそれは知っています。学園で徹夜をする少女が夜の屋上に空を見上げる少年を見たというのは、良識のある人からすればけっこうな問題だったでしょう。
結局今ここにいないUFO少年の話題はそれで終わりました。少年少女はしごくまっとうに友人の誕生日を祝い、主役の少女は溶けるロウソクの姿に前衛的な感性を刺激されていましたが、健全なパーティはかろうじて健全なまま終わると軽い満足感と満腹感を店内から吐き出します。乾いたつめたい空気が頬を切り、白い息を吐き出した少女はふと顔を上げると視界に見知った顔を見つけました。
「恵太くん?」
視線の先、頑丈で動きやすい厚手の服装に小さなカメラバッグと荷物を担いでいた少年の姿は、まるで山から降りてきたばかりのようにも見えました。いままで何をしていたかは言わずもがなのその姿で、集まっている見知った友人たちに恵太は不思議そうな顔をしています。
「あれ?みんなどうしたの?」
「どうしたのって、今日美城さんの誕生日パーティだって言ったじゃないか」
「あ、ごめん…そうだっけ?」
多少、非難の意を込めた小太郎の口調に軽く首をかしげてすまなそうにしている恵太の顔は、ですが決して悪びれているようには見えませんでした。それを見て遥は少しかちんとしたのか、強い口調で割り込みます。
「…少しは目を覚ましなさいよ」
その言葉に、恵太はやはりすまなそうな、寂しそうな笑みを浮かべています。おそらく誰に聞いても正しいのは遥の言葉なのですが、それは夢を見る者にとってはとてもつらい言葉でした。好きで楽しいならと少年は言っていた、それは正しいとしても間違っていたといても少年にとって好きで楽しいということなのですが、少女はそれに気づきません。
寂しそうな少年の顔を見て、ふーんという顔をしていたのは泳や咲音でした。小太郎や遥とのやりとりを見ていた少年は、ふと思いついたように恵太に声をかけます。
「それより、面白いものは撮れたのかい?」
「ううん。なんにも」
そんな返事にも関わらず、今度は自然な笑みを浮かべている恵太。更に咲音にこれからどこに行くつもりか、と聞かれると少年は夜まで学園に登っていようかと思っていると言いました。おそらく泳や咲音のような者にとっては恵太の言動は不思議でもなんでもないのでしょう、なにしろ冬空は空気が澄んでいてきれいなのですから、その空の下に出ないということがあるでしょうか。
その遥かにあるもの、恵太が友人でなく空を追いかけていたとしても、その凧を地上に降ろすことは人にはできませんでした。その凧が、どこかに行ってしまいそうになったとしてもそれは地上をつなぐ糸の責任ではなく凧の責任なのですから。
遥は思います。壁に囲まれた空の下に住んでいる、まだ目覚まし時計の鳴っていない世界にまどろんでいる少年は夢を見ていても良いのだろうか。夢はいつか覚めるのに?
いや、そうではない筈です。夢が覚めるなんて誰が決めたことでもないし、覚めた後の夢を追いかけることだってできない訳ではない。テニスやボクシングに没頭している者がその道に進むことだってあるのですから。
「写真を撮りたいのね?」
「…うん」
とても曖昧な質問に、少年が返した笑みは今度はどこか恥ずかしげなものでした。その笑みに遥は少し呆れた顔で小さく首を振ります。これだからコドモは、と思う気持ちに幾ばくかの愛しさと羨ましさとを交えて、だが自分もそんなコドモであることを思い出して。
少しでも空に近づくために。目覚まし時計が鳴る前に、夢の中身を忘れないために。
「好きで楽しいならそれでいい筈だもんね」
誰にともなく、呟くには大きい声での独り言。そんな少女を見て恵太は苦笑すると、誕生日プレゼントの代わりにと咲音に拾った凧を渡していました。
おしまい