未来はいつも僕らがヒーロー 第11話


 長野県は古坂町を囲う、今は雪におおわれた山々の峰。少年がひろった、四角い頑丈そうな凧はその山を越えることができずに木にかかって落ちてしまいました。糸の切れた凧、冷たい風に吹き流されて、世界を囲う壁を越えようと空に舞い上がって落ちたその凧を、ですが少年はどれほど愛しく感じていたことでしょうか。

 長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校。田中恵太は一本縛った髪の毛を冬の冷たい風にふらふらと揺らしながら、その日もどこだかを歩きまわっている筈でした。UFOが好きで空の遥かばかりを見ている少年はこの季節に雪山に入るほど莫迦ではありませんでしたが、いつだって行けるところならばどこまででも行ってみたいと思っています。
 頑丈で動きやすそうな厚手の服装に、安物のカメラが入った小さなバッグと荷物を担いで。ただ空を見るために歩きまわっては空を見るばかりで手にもっているカメラのことを忘れてしまう、恵太はそんな少年でした。

「好きで楽しいならそれでいいじゃない」

 少年がそう言っていたことを幾人かの友人たちは知っていますし、恵太のその思いはたぶん今でも変わっていません。人がやりたいことを自由にやってはいけない世界なんて、人の世界ではない筈です。
 ですが人が好きで楽しいことを行うのならば、それが人とぶつかり人を傷つけることも絶対にあるのでしょう。それを許しあえるかどうかは人によって違いますし、違う回答に正しい解答を迫るべきものでもありません。それでも人と人とが違うという事実だけはずっと存在していますから、だからこそ人は人とのつながりに迷いつづけるのです。

「それで、いい筈、か」

 頬杖をついて、傾けた頭にウェーブのかかった髪の毛を揺らして水木遥はつぶやきます。恵太が遠く飛んでいった凧を探して歩きまわり、友人の誕生日祝いをすっぽかしたことを遥は許そうと思ってはいませんでした。たとえそれを責めるつもりはなくとも、当事者が気にしていなかったとしても、少女自身の忸怩たる思いはまた別の問題ですから。

(…私って、こんな性格だったかな?)

 中学生だったころ、自分はこんなに他人のことを顧みる性格をしていただろうかとふと自身に問いかけます。身勝手にも思える他人のふるまいにいちいち反応する、実は今でもそんなことはないと遥は思っていましたが、幾人かの親しい人たちのこととなると時に例外もあるということでしょうか。

「ちょっと遥さん聞いてるー?」
「え、ああ。聞いてる聞いてる」

 学園寮の一室、小さなテーブルを挟んで座っている遥に鰈伽レイはなさけない顔を向けています。目の前にいる長い癖っ毛の少女もまた、時として遥がそんな気をまわしてしまう対象のひとりでした。同級で同じテニス部に所属、一年に満たないつきあいで一見頼りないレイが実は本当に頼りないながらも、いちおうの逞しさも責任感も持っていることを遥は知っていましたが、生来の鳥頭ぶりと悪意のない無頓着ぶりにはあまり成長のきざしが見られないようです。

「で、また蓉子と喧嘩したの?」
「ちょっとまちがって洗濯物いっしょにしちゃっただけなのよ。ひどいと思わない?」
「内容によるわね」

「お気に入りのセーターつけおきしてるところに部の練習着ほうりこんじゃったの」
「ちゃんと謝ってきなさい」

 無頓着なレイは悪気もなく友人に迷惑をかけることもままありました。遥はやれやれという顔で額に軽く指を当てると、子供をたしなめる親の口調でレイに言います。自分はやっぱり叱られることをしたんだな、と第三者にはっきり認めてもらった少女は目の前の暖かいココアをぐいと飲み干すと、もう一度友人に謝罪しにいくために立ち上がりました。

「…ありがとぉ。もっかい蓉子ちゃんにゴメンしてくる」

 謝罪のことばはあとまわしにしない。無頓着だけど素直な少女の、その時の顔を見れば少しくらい友人のために気をまわすのも良いだろうかと遥は思いました。ヘンなことに気を使ってるんだなあ、と言いいながらコロッケの乗った蕎麦をすすっている同室の友人に苦笑を返しながら。

 無頓着で悪気のない少女が時として迷惑な存在だったように、UFOが好きで空の遥か向こうばかりを見ている少年も時には迷惑きわまりない存在でした。学業でもスポーツでも地元の名門校として名が通っている私立樫宮学園高等学校、恵太の成績は抜群に良いとはいえないまでも決して悪いわけでもありませんが、気まぐれに一日姿を消すような少年の授業態度はやはり当たり前に問題と思われているようでした。

「田中恵太は休みかー?」
「今日は天気がいいですから」

 皮肉とあきらめまじりにそんな会話が交わされる、糸の切れた凧のような少年はそんな学園生活を送っていました。
 恵太と学園寮の同室である柾木小太郎は時として友人の所在を他の生徒や教師にまで聞かれることがありましたが、夜更かしの得意なUFO少年と会う機会はというと意外に多くはありません。学園では空手部に所属、地元では子供のころからボクシングジムに通っている少年は、陽ののぼらないうちに目を覚まして星々がふりそそぐまえに床につくような健全な生活をしていました。

「決して話をしてない訳じゃないんだけど…あいかわらずかなあ」
「まあ、恵太くんだからね」

 校舎の屋上で、冬の短い日差しに暖められたコンクリートの上で小太郎と遥は古坂町を囲う山々に目を向けています。短い休み時間、そこはUFO少年が学園に来ているときにはまずここにいるであろうお気に入りの場所ですが、その日は風に揺れる一本縛った髪の毛の姿はどこにも見えませんでした。
 小太郎はわりと以前からの恵太の知り合いでしたし、UFO少年が昔よりも更にあちこちをうろつきまわるようになったことも知っていましたが、とくに本人に何か苦言を言おうとは考えてもいないようでした。男の子同士なんてそんなものなのだろうか、遥は小太郎の横顔を見ながらそう思います。遥の視線に気づくとなぜだか一瞬表情を固くした小太郎は、少し穏やかな顔になって言いました。

「気にしてるの?」
「え?」

 一瞬、何のことだかわからない少女。

「目を覚ましなさいって言ったこと」
「…そう言われれば、ちょっとはね」

 恵太が友人の誕生日祝いをすっぽかしたこと、そのとき、遥は少年にそんなことばを投げました。それはきっと少女のほうが正しかったに違いないのですが、自分が正しいからといって頭ごなしに子供を叱るような大人には遥はなりたくありませんでした。とんでもないことだ、自分だって叱られる立場の子供だっていうのに。
 何かにあこがれる気持ち。テニス部に所属している遥は、最近はもっともっとテニスに打ち込んでみたいと思うことが多くなっています。高校一年生で県大会を勝ち進んだ少女が、未だ夢を追うことに何の問題があるというのでしょうか。ただ、年頃の少女がいずれ少女と呼べる年齢を過ぎてしまえば、誰に強要されることがなくても常識や現実という手綱を握らされて放すことができなくなってしまいます。それをぷつりと切ってしまうことが許されないままに、どんどん太くなっていく綱をながめて人は自分の手元ばかりを見るようになるのでした。

「小太郎くんは、好きで楽しいことをしてる?」

 真顔で聞くにはずいぶんと照れ臭い少女の質問に、小太郎は少し真面目にボクシングと空手のどちらを選ぶか悩んでいるんだと答えました。昨今流行っているらしいケーワンとかいうもの、少年に言わせればボクシングも空手もキックボクシングもテニスとバドミントンくらいに違うらしいのですが、流石に遥もそこまで理解することはできません。ただ、少女にとって重要だったのは少年が悩んでいる選択肢、そのどちらもが少年の見ている夢であるということでした。凧を高く舞い上げる風のように夢を見る気持ちというものは人の心を押してやまず、どちらの風に乗るかで悩んでいる少年の姿は少女にはとても頼もしく見えました。

「結局、誰だってUFOを追いかけたいのよね」

 だから、少女は友人の少年のことをつい気にしてしまうのでしょうか。そんな遥を見る小太郎には、多少妬ましくも負けていられないという気持ちが強くありました。

 長野県の山沿いの県道を、稲森仁也は自転車に乗って走っています。少年の首筋をつたう汗は冷たい乾いた空気にさらわれてすぐに消えてしまい、火照った身体に心地よい涼しさとなっていました。町の境を越えて、県道をずっと登っていくとやがて車通りも少なくなる山越えの道路に繋がります。そこを越えてどこまでも行ってみたいと思うほどには仁也は糸の切れた凧ではありませんでしたが、風を切って走る感覚はともすればそうしたあこがれを是と思わせるものがありました。
 サイクリングコースというよりもドライブコースに近い、車通りの県道をずっと登っていくとやがて雪を頂いた山々を見晴るかすことのできる、開けた場所にたどりつきます。あぜ道か遊歩道かもわからないような、下草に覆われた道を踏み分けて脇に離れればそこには見晴らしのよい小さな空き地がありました。柵もない丘のような空き地には雨風に汚れた小さなベンチがすえつけられていて、季節がもう少しあたたかくなれば遠出のドライブやピクニックに最適の場所になるのでしょう。

「お。今日もいたか」
「あ、こんにちは仁也」

 そこが最近の恵太のお気に入りの場所であることを知っているのは、おそらく仁也をはじめとするほんの幾人かの友人だけだったでしょう。たとえ知っていたとしても、歩いてこんな場所まで登ってくるような酔狂な者は目の前の少年以外にはいないに違いありません。
 背の高い大人に囲まれていた子供はやがて家の壁や塀を乗り越え、学園の屋上に上り公園の丘から見晴るかす町の景色もまた山々に囲まれていることに気がつきます。切り取られている空の遥か向こうを探して、今度は山々の上に腰掛けた少年はその目で何を見ているのでしょうか。いつか、UFOへと続くかもしれない遥かな道。

「そーいや双海さんが探してたぞ?」
「うーんと、何かあったかなあ…」

 山の上、空の下にいてなお心ここにあらずという少年に、駄目だこれはと思う仁也。ですが空の下に広がる風景に魅惑されているのは恵太だけではなく、自転車で遠く県道を登ってきた少年もまた山の空気を全身で体感しています。

「ここは、風が抜けるな」
「うん」

 山を越えて降りてくる風が丘を吹きぬけて、少年たちの背中から通り抜けていく。風はふたりの少年を軽々と持ち上げると空へと吹き飛ばしてしまい、彼らの小さなこころを空の遥かかなたへと運び去ってしまいました。遥かかなたの空の下にはもしかしたら何もないのかもしれない。それは行ってみなければわかることはありませんし、遥かかなたのその先には更にもっと向こうの遠い空がある筈です。

「この風は、写真に撮れないかなあ」

 手に持った安物のカメラを構えるそぶりもなく、夢見がちにつぶやく少年をですが仁也は非難する気にはなれませんでした。長居をする様子もなく立ち上がると暗くなる前には帰れよ、とだけ言って少年は丘を降りると愛用の自転車を停めている場所へと戻ります。

 少年がそこに帰ってくるということは、凧につながれた糸の最後の一本がまだ切れていないということなのでしょう。放課後、人気の少なくなった学園の美術室で遥が美城咲音と話をしていたのは、先日恵太から誕生日プレゼントにと壊れた凧を受け取った芸術家少女が壊れた凧の気持ちを知っているからだと思ったからかもしれません。その凧はといえば直される様子もないままに、無造作に、ですが丁重に美術室の壁に飾られていました。

「しっぽがいなくても誰も困らんが、いないことに気づくのは気分のいいもんではないな」

 咲音のことばに変なこと言わないでよ、と言いかけて遥は口をつぐみます。ここにカンバスがあってイーゼルがあるからこそ目の前の芸術家少女はここにいるけれど、でなければ彼女もまたどこに行くか分からない凧そのものではないのだろうか。そう思った遥は少し意地悪な質問をしてみました。

「でも、誰の気分が悪くなってもそういう人っていなくなるものよね」
「どんな色だってそこに無ければならん理由はない。あるとすれば…」
「あるとすれば?」

「色がそこに居たがっているだけだ」

 つけ足すように、少し恥ずかしそうに言う咲音。あざやかな絵の具に方々を汚している白衣の背を向けると、無愛想にカンバスに向かった少女に遥は不器用な愛おしさを感じます。結局、好きで楽しいことを身勝手にふるまっていても人は人のことを気にせずにはいられない。何本もの絵筆を手にした少女の描きかけの作品を、マナー違反かなと思いながらも遥は後ろから覗き込んでみます。

「何を、描いているのか聞いてもいい?」
「…風を描いてみようかと思ってな」

 半分は独り言のように呟く咲音の手で、冬の色に塗りつぶされたカンバスには春の絵筆が乗りはじめ、柔らかく抽象的な流れに生命の力強さが込められた季節がおとずれようとしていました。
 ああそうか、こういう祝福のしかたもあるんだと思った少女は、この風に揺れているであろう友人の、友人たちの顔を順に思い浮かべています。

 そろそろ春一番の風が吹く季節でした。

おしまい


他のお話を聞く