未来はいつも僕らがヒーロー 第12話


 山から吹きおりてくる、冷たい乾いた風にときおり混じるようになった暖かい空気。街路沿いに立っている梅の匂いがその風に乗って流れてくる、長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校にも春が近づいてきていました。
 広い敷地、校庭の横にある背の高いネットに囲われたテニスコートでぱこん、ぱこんと響く音。一面に立つコンクリートの壁を相手に、水木遥が練習に打ち込んでいます。真面目な性格で自分にも他人にも厳しすぎるほど厳しい少女はウェーブのかかった髪を冷ややかな風になびかせて、一人汗を散らしながら黙々と壁打ちを続けていました。

「…はっ」

 すぱん、と伸び上がるようにしてサービス。戻ってきたボールにスピードを乗せてレシーブ、見る人が見ればそのレシーブは全て両手でラケットを握っており、力いっぱい振りぬいていることに気づいたでしょうか。右に左に走りまわって、なお片手ではなく両手で確実にボールを打ち返し続けています。
 壁打ちを続けている少女の背後で、きぃと音をたてて金網の扉が開きました。練習の邪魔をしないようにか、覗き込むようにそっとあらわれた鰈伽レイはくせのある長髪を揺らしながら、振り向いた遥に遠慮がちな声をかけます。

「あのー、水木さん、いいかな?」
「…どうしたの?今日は練習は休みの筈だけど」

 少女たちの所属しているテニス部が休みだということであれば、遥にしてもレイにしてもトレーニングウェアを着てこんな場所にいなければならない理由はありません。ただし、練習するための理由は本来部活動が休みか否かでないのももちろんでした。
 せっかく好きなテニスだから行けるところまで行ってみる。今年度、一年生で長野県大会を勝ち進んでいた遥としては、年齢に相応しく健全な自信と堅固な野心を持って自主的な練習にとりくんでいてもおかしいところはなかったでしょう。レイにしたところで初心者に毛がはえた程度の腕前しか持ってはいませんでしたが、それは彼女の熱意なり真摯さなりに影を落とすものではなかったはずです。

 遥たちが樫宮学園に入学した年、日本女子テニス界では昨年世界5位に進出した伊達公子が全仏大会で日本人女子史上初のベスト4を達成していました。それはテニスに憧れる少女たちの夢に自分にももしかしてという現実味を与えると同時に、国際的な試合に対応するための現実そのもをもまた見せつけたということでもあります。
 旧来から言われつづけてきた大型選手に対抗するためのパワーテニスの波、少なくともそれができなければ上を目指すとか行けるところまで行くとか言っても甘いままの夢になりかねないのでしょうか。

「エースをねらえ、ってやつね」
「そう」

と答えて小さく笑う遥。彼女自身昨年の大会ではそうしたパワーのある選手を幾人も見かけましたし、もちろん対戦したことだってありました。回転をつけない重いフラットボールを、しっかりと体重まで乗せたパッシングショットで速くかつ低い軌道で正確に打つこと。口で言うのはかんたんですが、それを行うにはまだまだ華奢な少女には足りないものが多いようでした。
 壁打ちに戻ろうとする遥に、私もいっしょに練習していいかなと声をかけるレイ。めずらしい熱意に軽く怪訝そうな顔になる遥に、レイはおこがましくもといった風で視線を落とすと私だって水木さんに勝ってみたいもん、と呟きました。

「志が低いわね」

 友人の声に小さく笑うと、茶化してみる遥。レイの抗議の声を聞き流した少女は何も言わずに壁撃ちで散らばっていたボールをひろい集めはじめました。二人で練習をするのであれば、散らばったボールなんて邪魔なだけでしょう。いつの間にか、レイも遥も練習中に自然な笑顔を見せるようになっていました。

「お疲れ様。はい、タオル」
「ありがと…蓉子、いつの間に来てたの?」

 どの程度の時間がたっていたのか、練習コートの隅にあるベンチに腰かけていた双海蓉子は、大きめのスポーツタオルを手にとると遥とレイに差し出します。友人が見学していることにも気がつかず、ずいぶん練習に熱中していたらしい二人に蓉子は笑顔を向けていました。
 いささか足が不自由な少女が運動部に所属している友人たちの練習や試合を見学に来ることは珍しくありませんでしたし、そんな蓉子の目にうつる友人たちの姿は、少しずつ成長して変わっていく姿はただ見ているだけでも充分楽しいものだったのでしょう。入部当初は練習の厳しさについていけずに辞める辞めると言いつづけていたレイだけでなく、真面目で厳しいが故に部員との衝突が絶えなかった遥だってそれぞれの成長をしていたのですから。
 それもほんの一年足らず前のこと。鮮明さのそこなわれていない記憶を掘り起こしながら、ですが蓉子はそれとは別のことを口にしました。

「邪魔をしないように見るのが見学者の極意なんだよ」

 少女のことばに何にでも極意はあるものなのね、と苦笑する遥。しばらくいつもの軽口の応酬が続き、遥とレイがベンチコートをはおるのを待ってから、蓉子はわざとらしく思い出したような顔になります。

「そういえば、さっき恵太くんが探してたよ」
「あら?そういえば今日はしっぽを見てなかったわね」

 しっぽとは友人曰くの命名、田中恵太の頭上に揺れる一本しばった髪の毛を思い出して蓉子は小さく笑いました。探しているという理由はまず間違いなく、蓉子が手にしているものに関係があるのでしょう。

「それ…林檎よね?」

 練習を見学する少女が手に持つには不自然なものに怪訝そうな顔で遥。それが少し時期の早いホワイトデーの贈り物だと分かったのは、林檎にむすばれた小さなリボンのせいだったでしょう。赤い林檎に不器用そうに結ばれた黄色いリボン、山向こうの直売所にあったというプレゼントは果たして気がきいているのかいないのか。
 少女たちが知っているしっぽの少年は、山の向こうでも空の向こうでもいつも遥か遠くばかりを見ているような少年でしたから、たぶん林檎ではなくてそれが山の向こうで売っていたということ自体が重要なのでしょう。貼ってあるシールには、ふつうに歩いていくにはずいぶん遠くの町名が書かれていましたから。

「今度しっぽにリボンでも結んであげようかしら」

 その日はめずらしく学園に来ているらしい、自分たちを探している少年を探しにいくかと遥たちはコートを後にしました。
 見晴らしのよい屋上にでも行ったが最後、当初の目的を忘れた少年はそこから動かなくなっているでしょうから。

「で、それが恵太からのプレゼント?」
「そ。流石に驚いたけどね」

 春の訪れとともに日没が少しずつ遅くなって。まだ明るい古坂の町、練習の帰り道に柾木小太郎と肩を並べて歩きながら、遥は手元にあるリボンの結ばれた林檎に視線を落とします。一見して蓉子のそれと変わらないように見える林檎、ですが貼られているシールに書かれた地名はまるで違う場所のものでした。もちろん蓉子と遥だけではなく、幾人かに配られていた林檎のどれもがまったく別の場所の林檎だったことは言うまでもありません。
 遥はテニスに、小太郎は空手に打ち込んでいたようにどこまでも遠くへ行くことだけを望んでいた恵太は、自分の足跡を友人に贈ることにしたようでした。少しく早いホワイトデーの贈り物、さて自分はどうしようかと思いつつ小太郎は遥に言いました。

「ところで練習はどうだった?」
「本気でプロ云々だったら基本的にひたすら底上げするしかないのよね。こればっかりは一朝一夕にはいかないわよ」

 その基本的にひたすら底上げするための練習を、遥に教えてくれているのが小太郎でした。根性論の先行していた日本スポーツ界で、より科学的な練習を取り入れはじめていたのは陸上競技や格闘技であり、自分の練習の時間を割いて少女のコーチ役をつとめてくれた少年への感謝の思いは小さなものではありません。小手先の技術による勝利は一回きりで終わってしまいますが、一度身についた基礎は続けるかぎり決して無くなることはないのです。
 別に練習に限ったことではなく、これだけ支えてくれる友人たちの存在はとても貴重で大切なものでしょう。その中でも、自分の隣を歩いている少年はとても頼もしくて、少女にとって頼りになる存在でした。

「ちょっと頼もしすぎるのがぜいたくな欠点かな」
「うん、何か言った?」
「何も」

 そっけなく返事をすると、少女は悪戯っぽい視線を少年からそらしました。

 美城咲音はその日もテレピン油の匂いがしみこんだ美術室で、カンバスを前に彼女にだけ見えるものを描いていました。

「欲しいものを追うのに何をはばかる必要があるのだ?」
「一般的には他人の目、じゃないかな」

 美術室の隅で、それまで邪魔にならないように咲音の創作活動を見学していた蓉子は、半分ひとりごとのような少女のことばに半分ひとりごとのように答えます。他人の目を気にするということ、それは事実かもしれませんがたぶん真実ではないでしょう。
 人を思い煩わずに欲しいものを追うのであれば、たぶんはばかる必要があるのは他人を思う自分自身の目に対してでした。誰だって自分の好きなことが他人に迷惑をかけているなんて思いたくはありませんけれど、それを芸術だ趣味だ夢だといって割り切ってしまうかどうかはそれこそ人それぞれの考え方でした。

「それなら逆を返すこともできるぞ」
「?」
「自分の見ているものを人の目に伝えることができたら楽しいじゃないか」

 大切なことはそれが彼女以外の人にも見えるようになること、ではなく彼女以外の人にも見えるように彼女にだけ見えるものを表現することです。カンバスから目を離さずに刷毛をすべらせている少女もまた、欲しいものを追いかけているだけのふつうの女の子でした。小さなテーブルに置かれているリボンの結ばれた林檎に視線を向けて、蓉子は小さく笑います。

「それでね、今度の日曜日なんだけど…」

 咲音のカンバスには、吹き流れる春一番の風が描かれていました。

 天気の良い休日。田中恵太は稲森仁也と一緒に古坂町を臨む見晴らしの良い山の高台に立っています。県道沿いの道に積もっていた雪はもうすっかりなくなっていて、少年たちは歩いたり自転車に乗ったりして山を越えると、見渡す限りに連なっている空の下で流れる風に身を任せていました。

「うーん、実は辞めようかと思ってたんだけど」
「学園をか?」
「うん」

 仁也の声に、恵太はうなづきを返します。空に近づきたいとずっと思っていた、今も思っている少年は、空の遥かに向けた視線をそらさないでいつでも少年にだけ見えるものを見ようとしていました。恵太が視線を現実に降ろすのを待ってから、仁也は尋ねます。

「じゃあ、今は辞めるのは止めたってことか?」
「うーん」

 友人の質問にあいまいなことばを吐き出した恵太の耳に、ちりんとベルの音が聞こえます。気のせいだろうかと一本しばった髪の毛を揺らせた少年の視界に、自転車に乗って山坂を登ってくる見知った友人たちの姿がうつりました。ウェーブのかかった髪にうっすら汗をにじませている遥だけでなく、蓉子を後ろに乗せても軽々とペダルをこいでいる小太郎や一人でもだいぶんつらそうにしているレイや逆にまるで疲れていないように見える咲音や。

「どうしたの?みんな」
「足腰の鍛錬を兼ねてサイクリング」

 わざとらしい遥のことばは発言した当人を含めてもちろん誰も信じていませんが、大義名分を誇示するかのように蓉子はカゴに入れていたバスケットを指すと片目をとじました。自分たちの住んでいる町を見下ろすその風景は、苦労して山坂を登ってきた少年と少女たちの疲れをふきとばすには充分だったでしょう。ときならぬピクニックに恵太も仁也も苦笑すると、他愛もない、だけどとても心地よい空気を胸いっぱいに吸い込みました。
 手作りのサンドイッチや甘すぎない卵焼きやしっとりと海苔の巻かれたおにぎりや、あたたかい珈琲の入ったポットにとりとめのない友人との会話。たまにはこういうものも悪くないかなと、柵に腰かけてみんなと交わしていた視線をまた空に向けた恵太の前に、少し身体を傾けて遥が立っていました。

「落っこちるわよ?」
「そうだね」

 と、答える少年はですがそのままの姿勢で、軽く身体をそらせながら空と遥とに視線を向けています。きっと傾けた身体のぶんだけでも、空に近づけるかなと思っているに違いありません。どこまでも、どこまでも遠くに。恵太は先ほど仁也にしていた話の続きを遥かの少女に伝えました。
 空に近づこうとずっと思っていた、高く空にあがる凧のような少年は、今は学園につながっている一本の糸を切らずに空にただよっていようかと思っているということ。しばらくは写真を撮って、空の向こうを追いかけながら巣に戻れば羽を休める場所があるそんな今の生活をつづけていようかということを、恵太は遥に伝えます。
 少年の話を聞いて、少女は小さく息をつくと言いました。

「NASAに行ってスペースシャトルに乗りたいとか言い出すと思ってたのに」
「がっかりした?」
「正直言うと、ちょっとね」

 遠慮のない友人の発言に、気を悪くしたふうもなく恵太は笑います。自分の好きなことを堂々と追いかけてみよう、そう決断した少女には恵太のことばはとても呑気で優柔不断なものに聞こえたに違いありませんから。
 好きなことを追いかけるのはいいことだと思う。でも、どうせ追いかけるならそれを叶えたい。今の恵太は空を見はるかす山に登ることはできますが、国を渡って、空のずっと遠くに渡るつもりなら知らなければいけないことはもっともっと多い筈です。少年は写真を撮り続ける一方でひとつでも多くの空を知り、体力を磨き、空に近づく者の歩き方を学ぼうと思っていました。

「天気と、山と、空気と、海と、星と、鉱物はずいぶん調べたんだ」
「あとUFOね」
「もちろん」

 自然科学を徹底的に学んで、まずは自分の身近な世界からでもそれを組み立てていく。少年が生きてきた十数年と、高校生活の三年間では長いかもしれないし短いかもしれないけれど。

「そしたら、僕の欲しい空を探しに行くんだ」

 それは大人には決して認めてもらえない、子供の瞳。その瞳に宿る光は、遥か昔からなんて人の心を引きつけてやまないのでしょうか。知らない道に立ち入らない大人ばかりで世の中が満たされていたら、世界なんて狭くてつまらないものになってしまうのです。夢見がちな恵太のことば、それ以上に夢見がちな恵太の瞳には、少女があこがれた光がまだちゃんとあるようでした。

「汝、遥か空に恵みを求めよ、ってことね」

 ロマンチストを前にすると、つい自分もつられてしまうな。そう思いながら遥は恵太にことばを送ります。少年はとても嬉しそうな、ですが少しだけ寂しそうな顔をしていました。その表情の意味は、少女に伝わっていたのでしょうか。

 たぶん二人のやりとりが終わるのを待っていたのでしょう、蓉子はゆっくりと近づいてくると、恵太に写真を撮ろうよといいました。空をうつしている少年は首にぶらさげていたカメラに手を伸ばして、わかったとみんなを並ばせようとします。

「駄目、恵太くんもうつるの」

 少女がそう言うと、後ろではすでに小太郎が学園から持ってきたのであろう三脚を取り出そうとしていました。参りましたという顔をして、恵太はカメラを首から外すと友人のところへ歩いていきます。

「最初から、そのつもりだった?」
「もちろん」

 好きで楽しいならそれでいいじゃない。そう言って、手の届かない空を追いかけるのは子供の特権です。いつまでも彼らは子供ではないのかもしれませんが、であればこそ今のあいだに子供が自分の好きな空を追いかけることの何が悪いというのでしょうか。
 それがたまには、いや、たびたび人に迷惑をかけることだってあるかもしれませんが、そんなときは自分を囲うたくさんの人に思いをはせるのも悪くないでしょう。自分が見つめている空と、自分を地上につなぎとめてくれる人たちと、両方をつなぐ糸の上を子供は歩いているのですから。

 山から吹きおりてくる風が丘を抜けて、少年たちが住んでいる古坂の町へと流れていく。自分たちが住んでいるその町を背に少年少女はひとかたまりに並びます。
 じいい、とタイマーがまわる音を背に、恵太は友人たちのもとに駆けよりました。遥かにつづく空の下、一枚のフレームに囲われた、少年たちの世界。

 好きなものはそこにもあります。
 いまこのときを。切り取られた枠の中で、ですがみんなの顔は心からの笑顔で満たされていました。

おしまい


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