ボブカットにヘアバンドを留めた仁科梓は高校一年生、県内でも強豪で知られる樫宮学園陸上部員でした。陸上部員でしたが、中学時代からいっさいの運動が苦手であるにもかかわらず、格好良い先輩がいるから、というなかなか不埒な動機で入部した彼女がそんなに朝も早くから、寮の外を自主的に走っていたりトレーニングしていたりするわけがありません。
日本の暑い夏とはいえ、高原にある長野の夏は他処の気候に比べればまだ幾分か、あるいはずいぶんましではありましたから早朝のまだ涼しい時間にきれいな空気でも吸っておこう、そんな気持ちで寮の外に出ていた梓は肺一杯の空気を新鮮なものに入れ替えていました。学生最大のイベントである筈の夏休み、その最初の日曜日に空気調和設備の整っただけの寮の部屋で惰眠をむさぼる、というのも何とも残念な話ではあったでしょうから。
「んー、空気がおいし♪」
薄手のワンピースにサンダルという涼しげな格好で、両手を頭の上に組んだ梓はそのまま大きくのびをしました。そうして一拍呼吸を止めて、息を深く吐き出そうとしたその時に視界に見知らぬ少女の姿が入ってきたのはもちろん、何の事件性もない単なる偶然でしかありません。
スポーツウェアを着て視界を爽快に横切っていったその娘は梓と同年程度には見えましたけれど、何となくそれより大人びても見えたのはおそらく比べる対象の方がむしろ子供っぽかっただけだったのでしょう。軽快に走り去った少女のややくせっ毛の短い頭髪は男の子のように見えなくもありませんでしたが、年齢相応の身体のラインは彼女が立派な女性であるということを証明していました。
(…誰だろ、いったい?)
のびをしたまま固まった体勢で。梓がこういった早起きをすることは彼女が若菜寮に住むようになった春からもときどきはありましたし、習慣とまではいかなくともそれに近くなっている行動というものは、いつもたいてい同じ時刻に行われるものだったりはするものです。実際梓がこういった早起きをする日の二十分前にはきまって、朝練でロードワークに出る寮生の姿もちらほらと見られますしその中には彼女と同じ陸上部の先輩も混じってはいました。
明日も同じ時間に起きればまた見かけることができるにちがいない。あえて一緒に走ろうとは思わなかった梓はたいした根拠もなくそう考えましたが、彼女の推理自体は根拠はなくとも立派に正しくはあったので、その日からしばらく梓が早朝の空気を肺一杯に吸込もうとするその前を、謎の少女は毎日駆け抜けていくようになったのです。それはもう、彼女が学園でたびたび見ている陸上部の選手達のようにきれいなフォームで。
「謎の早朝ランナー?何よそれ」
「でもでもあーちゃん聞いてよ聞いてよ」
「だからあーちゃんって呼ぶなっ」
軽く手刀を友人の頭に落とし、ポニーテールの似合う長峰彩夏は梓と同年同級同室の寮生ではありました。やや幼げに見える外見よりは充分大人びてきた年頃の彩夏にとっては、友人からあーちゃんあーちゃんと子供じみた呼び名で呼ばれるというのは多少不本意ではあったでしょう。ましてそう呼ぶ梓の方が余程子供っぽい『あーちゃん』であるには違いないのですから。
梓が言うところの謎の早朝ランナーさんはその後もたびたび現われましたが、それを話題とするのは始まったばかりの彼女たちの夏休みがさすがにまだ他愛もなくたいくつなものだったということかもしれません。ただ、同年かそれに近い少女の姿にまるで覚えがないというのは、けっして大きい訳でもないここ古坂町に住む彼女たちにとっては小さな事件ではありました。そして事件である噂に想像の尾ひれがついていくと、話題というものはどんどん妙な方向に枝わかれをしていくものです。
まあ無難に転校生だろう。
何かの合宿に来てる他校の生徒だとか。
実は身体が弱くて療養に来てるっていうのは?
登山のために体力作り。
夏休みを利用して星を見に来た。
夏休みを利用してUFOを探しに来た。
夏休みを利用してUFOに乗りに来た。
実は宇宙人とか。
実は巡業中のプロレスラー!
「まゆ…自分の趣味で変な想像しないでよ」
「何でー?彩夏ちゃんたちだって人の事言えないじゃん」
ボーイッシュな頭を乗り出して、いつの間にか話題に入りこんでいた秋看麻柚は一見したところはエネルギーのかたまりのような女の子にしか見えませんでしたが、はたして実際はやっぱりエネルギーのかたまりのような女の子でした。将来の夢はいまどき珍しく女子プロレスラー、それこそいまどきでなければ高校にも行かずにどこかの団体の門を叩いていても不思議ではなかった、と言われる麻柚はやはり将来のデビューを夢見て早朝のトレーニングも欠かさずにいる女の子でした。
「その娘ならこないだ話したよ。二学期からこっちに転校してくるんだって」
「そういう事は早く言いなさいよっ」
活動的で行動力があるのが彼女の特徴でした。そういう事ならと将来の同級生を訊問?するために、空気調和設備の整っただけ寮の部屋で惰眠をむさぼっていた暇人たちは、翌朝謎の早朝ランナーさんを捕まえると駅周辺のささやかな繁華街へと繰り出す予定をその場で決めたのです。
「島田…朋子さん、ね。よろしく」
「ええ」
駅前の甘味所。樫宮学園生徒御用達となっているそのお店に集まった女の子たちは、「新入り」を囲んでささやかな自己紹介を行っていました。島田朋子と名乗ったその娘は彩夏たちと同じ高校一年生、春までは長野県松本市内の高校に進学、そこでも陸上部に入っていましたが親の仕事の都合で急遽、よりにもよって一学期の終業式時期に合わせてここ古坂町に引っ越してきたばかりだったのです。
転入手続きこそ済ませたものの実際の登校は二学期の始まる九月からでしたから、実家暮らしで寮に入るわけでもない夏休み中知り合いのまるでいない環境では、ただ走っているくらいしか朋子にはやることがありませんでした。もっとも、新しい環境でまず時間をかけて町並みに慣れたいということと、先に部活には入ってしまおうかということと、これから同級生になる人達が住んでいるのであろう寮の近くをまわってみようということと、その辺の微妙な考えをいろいろ浮かべてじゃあとにかく走ってようか、と考えていたのもどうやら事実ではあったでしょう。
「あたしもあちこち旅行とか行くはずだったのになあ」
手を頭の後ろに組んで、口をとがらせながら多少不機嫌そうに朋子。学生最大のイベントである筈の夏休みをつぶされてしまったとあれば、不機嫌になるのも仕方のないことだったのかもしれません。まして7月21日、例年夏休みと同時に誕生日がやってくる彼女にとっては出会ったばかりの新しい友人たちと別れてしまう、こんなに淋しい夏休みは生まれてはじめてのことだったのでしょう。
「…暇だったら寮に遊びに来なよ。遅れ馳せだけどお誕生会とかやろ?」
「そうね、ありがと」
嬉しそうには答えながらも、なにか、どこかにまだ不機嫌が残っていそうな返事。それは新しい友人だからと簡単にわりきって付き合えるのかという苦しい感情と不安の現われでもありましたけれど、そもそも少女が友人関係をそう簡単にわりきれるような性格だったなら、こんなことで不機嫌になったりはしなかったのでしょう。
賑やかながらもまだまだ馴染みきってはいない時間が過ぎて、長い夏の日差しがようやく傾きはじめた頃。安上がりなお勘定を済ませてさてお店を出るかとウインドウ越しに外の通りを見た女の子たちの視線の先に、通りの向こう側を何の気なしに歩く繊細な容貌の少年がいたということもまた何の事件性もない単なる偶然にはちがいありませんでした。
「あ、星野先輩だっ」
ウインドウ越しの梓の声はもちろん本人に届くはずもなく、ですがそれはちょっとした偶然に鼓動を早めているような少女たちにとっては気にもならないことだったのかもしれません。彼女たちにとって陸上部の格好良い先輩、に対するあこがれというのはそれこそ身近なアイドルに対するあこがれという程度の認識しかなかったでしょうし、それだけにその思いも純粋な打算と妄想とにあふれたものではあったでしょうから。
「ね、あの人うちの先輩なの?」
「そーだよ、星野瑞希先輩。陸上部の二年生なんだ」
「ふーん」
それが甘味所での話題にさしたる興味を示せずにいた朋子がはじめて自分からかけた質問だったということに、梓も彩夏ももちろんすぐに気付いていました。それは恐らく、彼女たち自身が数ヶ月前に朋子と似たような感想をもっていたからだったでしょう。
「やっぱ明日にでも、あたし陸上部に顔出しとく」
「あーっ!トモちゃんずるい抜け駆けはなしだよ」
「梓も陸上部なんでしょ?ちゃんと練習でなきゃ駄目よ」
実際にどれほどわりきれたのか。それはまた別の話でしょうが、ささいな不機嫌ならささいなきっかけでどこかに行ってしまうことだって充分にありえます。いつのまにかごく自然に名前で呼び合っている二人を見て、彩夏は多少複雑な表情を浮かべていました。ただその理由がバスケットボール部に所属している彼女が格好良い先輩のいる陸上部の友人をうらやましく思ったから、というところにあるというのは彩夏としてはあまり認めたくない話ではあったでしょう。
複雑な気持ちを追い払うかのように軽く頭を振って、おや、となにかが足りないことに気付くと彩夏は目の前でお釣りとレシートを財布に入れていた梓に話しかけます。
「あれ?まゆは?」
「え?…あーっ、あそこ!」
梓の指差した先、いつのまにか甘味所を出たウインドウの向こうに本人曰く『さりげなく挨拶を交わそうとしている』麻柚の姿が彩夏たちには見えました。たしかに活動的で行動力があるのが麻柚の特徴らしくはありましたが、もちろんそういう集団行動を乱す行いは数瞬後には友人たちによって取り押さえられることになるのです。
「ちょっとまゆ、いーかげんにしなさいよね!」
「痛たたたたっ、1対3は卑怯だぞ、せめてタッグマッチにー」
「問答無用っ」
目の前にとつぜん現れると、かしましく騒ぎだす四人組の下級生。当の『星野先輩』にとってはいい迷惑以外の何物でもなかったでしょうが、でも彼女たちが四人組であるとして認識されたということが朋子にとってはけっこう重要なことでした。
ひとかたまりに見られているということ。
そこまでは彩夏たち他の三人は気が付いていませんでしたけれど。
おしまい