伸ばし始めた髪がまだ整いきっていないセミロングの頭髪を軽く傾けて、その日もまどかはこっそりと趣味の絵を描いていました。変わったことをするというのは彼女の事実にはそぐわないものでしたけれど、こっそりと知られないようにする限りにおいては誰にだって迷惑をかけることはありません。
主に、自分の平穏に迷惑がかかるようなことを。
平成14年8月12日月曜日。お盆直前の夏休みの一日、私立樫宮学園のグラウンドでトラックに集まっていた陸上部員の面々。ことの発端は、夏の季節には相応しいであろう無責任な怪談話でした。
「取り壊されてない旧校舎があるだろ?そこに出るらしいんだよ女生徒の霊が…」
もっともらしく声をひそめて。中国からの留学生である筈の李小龍、リーシャオロンが日本の学校の怪談になぜそんなに詳しいのかは敢えて誰も指摘はしませんでした。軽薄な、と同級生の女の子たちからは認識されている彼がこういった話題集めに熱心であってもそれは不思議ではないように思えましたし、あるいは漢民族に長く伝わるフウスイとやらの秘伝や知識が真実の一端をとらえることだってあるかもしれません。
「えーほんと?怖いな怖いなー」
仁科梓はヘアバンドを留めたボブカットの髪を揺らしながら、口元に軽く手を当てました。こういう話題を嫌う恐怖心は人一倍でもこういう話題を聞きたがる好奇心は人数倍それに勝るというのは、女の子の心理構成としてはわりあい典型的なものだったでしょう。陸上部の同年の一年生、じきに始まる大会前の集中練習中とはいえ、練習ばかりでなくて休憩だってもちろんありますから余計な話題に花を咲かせる時間だってそれなりにはありました。それに元来が運動音痴な梓あたりにしてみれば、その休憩時間の方が余程楽しみだったのかったかもしれません。なにしろ彼女が陸上部に入った目的でもある格好良い先輩方と、自然にごくさりげなくお話をする機会がたくさん得られるのですから。
「星野先輩はその話って聞いたことありますか?」
「うーん、そうだなあ」
猫目に好奇の光を宿らせて、陸上部の格好良い先輩として知られている星野瑞季に話しかけたのはですが梓ではなくて、やはり一年生の島田朋子でした。長野県松本市内の高校から最近引っ越してきて、二学期から樫宮学園に編入予定となっている朋子は夏休みのうちから陸上部に参加していましたが、無愛想だとかぶっきらぼうだとかさんざんっぱら言われている彼女もやっぱり格好良い先輩、を目的に入部してきた不埒な女の子の一人ではあったのです。もっとも、梓に比べると彼女は早くも一年女子期待の新人になりつつはあったりしたのですが。
「旧校舎で自殺した生徒の幽霊が出る、って言う話は確かに聞いたことがあるけどね。でも昔うちの姉貴が調べたらしいけど、そんな生徒なんていないらしいよ」
多少、後輩をたしなめる落ちついた先輩の威厳を感じさせなくもない瑞季の発言は、ですが肝心の後半部分はまったく聞かれてはいませんでした。中国からの留学生である小龍だけでなく、上級生である先輩やその姉の世代からあるらしい噂、ということになればその信憑性もずっと増してくることになります。しかもその先輩が格好良い、ということはこの際は関係ない筈でしたけれど、素敵な先輩というのは概して嘘をつかないものでなければいけないのです。
女の子達の間で起こった噂が無責任な話題となって、暇つぶしの肝だめしという行動に発展するまでは幾ばくかの醸成期間をしか必要とはしませんでした。さすがに寮生もいる女子高生、夜夜中という訳にはいきませんが部活動のないお盆時の昼間、閉鎖されて人気のない旧校舎へ。
「ねえねえねえ本当に行くの?やめよーよ」
「もー。梓ちゃんってば怖がりなんだから」
まだ子供っぽい容姿に髪を短くした秋看麻柚は、外見に違わず元気で行動力にあふれた女の子でした。夏休みの一日、こんなにいい暇つぶしのネタがあるならば参加しないという理由は彼女にとってはもちろんありませんでしたが、ただそのあたりの暇つぶしという事情は怖がりながら同行している梓にしたところで同じものだったでしょう。
今時すっかり稀少になった木造の旧校舎。意外に夏は涼しくて過ごしやすく、空調など効いている筈もない学園に通う学生にとっては、耐久性と設備の問題さえ除けばけっこう現役で使ってもいいように思えるものでした。もっとも、開けた扉の向こうから流れてくるよどんだ冷たい空気を受けて、不安を振り払おうとしている長峰彩夏の様子を見ると重要なのは不気味なその涼しさのようにも思えます。
「こんな昼間っから何も出ないわよ」
「昼間じゃなかったら何か出るかな」
「トモ…変なこと言わないでよぉ」
朋子の声にポニーテールを揺らして振り返り、抗議の声を上げる彩夏。 彼女の目には梓に麻柚、朋子の三人の表情が、強がっているだけの自分の不安を見透かしているようにも見えましたが、それはさすがに気の回しすぎというものだったでしょう。たとえブレンドの比率が四人四様であっても、不安と好奇心とはその時の全員に共通した持ち物である筈でしたし、その中でも麻柚と並んであっけらかんとしているかに見える朋子は名目上はこれから編入することになる学園の様子を見ておきたい、ということで一緒に付いてきていましたが、それが単なる口実に過ぎないということは彼女自身を含めた全員が恐らく分かっていることでした。
そうして、四人の少女達の姿は旧校舎の薄暗がりの中に消えていくことになります。
遠くからその姿を見る一対の視線に気づくことなく。
閉鎖された木造の旧校舎。そこは本来は風通しの悪い建物ではありませんでしたが、閉め切られた窓に澱んだ空気がひんやりと冷たくて、探索する身としてはあまり気分のいい場所ではありません。もっとも、それは単に状況と雰囲気とからそう感じているだけかもしれませんけれど。
「きっと奥には石のよろいかぶとがあってみんな石にされちゃうんだよ」
「まゆ、あんた漫画読みすぎ」
不気味な雰囲気というものは、全員が黙りこくってしまった瞬間を狙って襲い掛かってくるものですが、年頃の女の子が四人もそろっていれば全員が黙りこくるという状況なんてそうそう訪れるものではありません。やや雰囲気に敏感な梓が多少、おとなしめなのは今に始まったことではありませんし、朋子もどちらかというと何も考えずにぼーっとしていることが多いようにも見えましたが、麻柚が元気で活動的なのは会話においてもそうでしたし、彩夏が相槌なり何なりをするのもいつもの役どころの筈でした。
「こういう時ホラー映画だと一人ずつ消えてくのよね」
「ちょっとトモちゃん変なこと言わないでよ」
窓からの明かりが差すとはいえ照明の消えた薄暗がりの廊下を照らす、頼りない懐中電灯の灯かり。曲がり角の向こうの暗がりというのは何かが潜むには絶好の場所と言えなくもありません。もちろんそれには何かがそこに潜んでいるという前提がなければいけませんが、何もなくともそちらに注目してしまうのは仕方のないことだったでしょう。だから、皆が前に気を取られている間に最後尾にいた麻柚がふと何かに気づいたように振り向いて、そのまま友人達が気づかずに先に行ってしまったということもやむなしではありました。
「あれ…まゆ?どこ行ったの?」
彩夏が気がついたとき、すでに麻柚ははぐれてどこにもいませんでした。声を出して呼んでみましたが返事がなく姿も見あたりません。
突然消えた一人。冗談が現実となり、全員が黙りこくってしまった瞬間を狙って不気味な雰囲気というものは襲い掛かってくるのです。誰かが唾を飲み込む音が聞こえたような気がしましたが、それは気のせいだったかもしれませんしもしかしたら全員の音だったのかもしれません。
全員の。
一人欠けて三人の。
「ちょっと…やだあ、わたしもう帰る」
急に恐ろしくなった梓が小走りにもと来た廊下を戻りだしました。帰るなら戻らないといけないし、麻柚がいたのも後ろだったからそっちに戻るのはまちがいじゃないし、何よりこんな怖いところにいるのはもう嫌だ。梓には走り出すのに充分な理由がありましたけれど、出遅れた彩夏と朋子はまだその場に立ち止まっていましたからすぐ先の角を曲がった梓の姿もやっぱりすぐに消えてしまいました。
残されてどうしようかと、視線をあわせる二人。そしてしかたない追いかけるかと歩きはじめた耳に、遠く壁を反響して聞こえてくる梓の声。それは、あたかも悲鳴であるかのような。
「梓っ!?」
慌てて走り出す彩夏と朋子。ですがさっきまですぐそばにいた筈の梓の姿はそこにはなく、二人の目の前に続いている廊下は永遠の長さであるかのようにただまっすぐ伸びていました。何度か名前を呼んでみますが、やっぱり返答はなく。
「二人…になっちゃった」
消え入りそうな声で、ぽつりと呟く彩夏。一度目は偶然、ですがもしもう一回起きたらそれは必然になる。そして残った二人のどちらが三人目になるか、そのとき最後の一人はどうなるのか。強がっていただけの彩夏の心の平衡は揺れまくっていましたから、何をどう考えても思考の波は最悪の結末の岸辺にしかたどりつきませんでした。
とにかく二人を放って帰るわけにも行かない。正義感よりも義務感にかられた朋子の言葉で二人は一緒に旧校舎を探し回ることになりました。二人して帰るわけにはいかないし、一人だけ残して人を呼びに行くなんてもってのほかでしたから。
それからしばらく、彩夏と朋子の二人は旧校舎を探してまわりましたが消えた二人の姿を見つけることはできませんでした。ずいぶんと長い時間探していたような気もしますが、もしかしたらさほど長い時間ではなかったのかもしれません。なんとなく彩夏は朋子の手を握って離さないでいましたが、朋子の方ももちろんそれを振りほどく気なんてありませんでした。この場合は振りほどく度胸、というべきか。
「ここは美術室だったみたいね」
「本当…前は選択科目用の校舎として使われてたんだ」
古びたイーゼルやカンパスが無造作に隅に置かれた旧美術室。その中にごく最近まで使用していた形跡のある備品が混じっていたことには、美術を選択していない彩夏にはわかりませんでしたし同じく選択していたとしても本来芸術系の苦手な朋子も気づいてはいませんでした。彼女達にわかったことは決して大きすぎる訳ではないその旧校舎が美術室先の廊下で一番奥になってしまうらしいという事と、その最後の廊下の一番突き当たりの薄暗がり、そこにぼんやりと何かが見えるということだけでした。
「トモ、あ、あれ…あれ…」
廊下の奥に向けて、震える指をゆっくりと上げる彩夏。薄暗がりの先に見える、ぼんやりとした何かの姿。強い力で吸い着けられていくかのように、彩夏の指先が指し示す先に二人の視線が固定されていきます。
じっと目を凝らす。
じっと目を凝らして見ると。
真っ白に光る人影。
けたたましい悲鳴と共に、二人が駆け出すまでに数瞬しか必要とはしませんでした。体育会系らしく全力で走って、廊下の曲がり角を曲がったところで衝撃、派手に転がって倒れると驚いた様な声を頭上からかけられます。
「あーちゃん!あーちゃん大丈夫?どこ行ってたの」
「あ、梓ぁ…し、白白白いのが」
突然現れた梓の姿に、まだ混乱がおさまっていない彩夏。ですが梓は何故かその言葉ににっこりと笑って話しだしました。
「ああ。あーちゃんも見たのね?」
「え?」
「白猫でしょ?可愛かったよねー」
「え?え?」
どうにも話が噛み合わない二人。梓の後ろからひょっこりと身を乗り出してきた麻柚が事情を説明します。
「だから視聴覚室だよ。白猫の巣があったでしょ」
「そ、そう…なの?」
呆れる二人に案内される彩夏と朋子。廊下で何やら鳴き声が聞こえて、何だろうと見てみると防音された視聴覚室の隅に白猫が巣を作っていて、数匹の子猫を育てていました。その様子を見た二人は梓と麻柚とが突然消えた理由がようやく分かりましたし、防音された視聴覚室なら声が届かなかったこともありうる事ではあったでしょう。どちらかというと、子猫に夢中になって自分達を呼ぶ声が聞こえていなかっただけかもしれませんけれど。
「かわいいー」
つい先程までのできごとをすっかり忘れてしまったように、子猫に見入っている四人の少女。切り替えが早いのが女の子ならではの無敵で無責任な強さだったりもしますが、それこそ廊下の奥の白い人影なんてすっかり忘れてしまったかのようにも見えました。
「ってそうだ、あの幽霊!」
もちろん、そう簡単に忘れる訳にもいかないことを思い出した彩夏は事の経緯を二人に説明して、もう一回旧美術室の奥の廊下へ向かうことにします。四人四様にブレンドされた、不安と好奇心という持ち物は決して落としたりなくしたりした訳ではありませんでした。
子猫たちを驚かさないように、そっと静かに視聴覚室を出た四人は旧美術室奥の廊下へと向かいます。ですが、先程確かに白い人影が見えた筈の突き当たりの壁には特に何も見えませんし何もありませんでした。見えない、ということは単なる見間違いか或いはやっぱり本当の幽霊だったんだろうか。
おかしいな、と壁のあたりを調べている朋子と彩夏。
見間違いじゃないの?と呑気な声をかけている麻柚。
そろそろ帰ろうよと待っている梓。
その梓の方をぽん、と叩く五人目の手。
悲鳴。
大騒ぎになっている四人の少女をやや引いたように見守っていたのは、薄手ながら夏場らしからぬ長袖にジーンズを履いた女の子でした。その格好がアトピーで荒れた肌を見せるのが嫌だから、というのを同級の麻柚は知っていたかもしれません。
「まどかちゃん?何でこんなとこにいるの」
「何でって…私の方こそ聞きたいわ」
大阪府大阪市出身の関西弁。落ちついた口調の女性が話す関西弁は独特の音感があって実際の雰囲気よりさらに大人びた印象を与えていましたが、もちろん彼女も四人と同じ私立樫宮学園の一年生でした。順を追って説明するには簡単すぎる『幽霊の噂を確かめに肝だめし』という麻柚の説明にいちおう納得したまどかは呆れたような困ったような、あいまいな笑みを浮かべます。
「私は…絵を描いてたんよ。ここ静かやから」
趣味である絵をこっそりと描くには、人気がなくて本来美術室として使われていた設備もあるこの旧校舎は格好の場所でした。できれば自分がここで絵を描いてるのは内緒にしといてな、というまどかの頼みを四人は快く承知しましたが、どちらかというと閉鎖された旧校舎に無断で立ち入った共犯としてお互いの秘密を握っておくような、そんな理由もあったのかもしれません。
「そういえばさっき白い人影がね」
「ああ、あれのこと?」
毒を食らわば皿まで。ついでとばかりに案内した旧美術室の中にはまどかの描いた、黒く塗られた背景に白い人影が描かれたカンバスが置かれていました。その不思議なまでに見事な色合いが実際の暗がりにおいて、真に浮き上がったかのように見えるということは先程の実験?でもちろん証明済みでした。
「この絵のタイトルまだ決めてなかったんやけど…」
「ん?」
「枯れ尾花、に決めたわ」
「なるほど」
接点の少なかった友人の、思わぬ趣味と思わぬ冗談。彼女達にとってそれが肝だめしの一番の収穫だったのかもしれません。白猫の親が男子寮にたびたび姿を見せていた通称シロさんであることとか、その仔が女子寮で飼われることになったりとか、旧校舎がこっそりと暇人たちの集う場所になったりとか、まどかはその中でもやっぱり静かに絵を描くことが好きだったりとかしましたがそれはまた別のお話となるのです。
照明の消えた旧校舎、夏の長い日が落ちて暗くなる前に立ち去ろうとする五人の女の子。他愛もない話題に埋もれてつい聞きそびれたこと。どうしてまどかの絵がわざわざ廊下のつきあたりに掛けてあったのか。
「枯れ尾花になるまでは幽霊やからね」
彼女も年頃の女の子なみには悪戯好きなのかもしれませんでした。
おしまい