「とは言っても9月にはすぐ新人戦が始まるしね」
8月31日から始まる国体予選には参加できず、9月に地区大会の始まる新人戦に樫宮学園陸上部員の枠ですべりこみ参加登録をした朋子としては、ぜひともそちらに力を入れたいところでした。そうなると常日頃はぶっきらぼうでぼーっとしている、と言われる彼女ものんきに構えている訳にはいきませんから、ややくせっ毛の短い頭髪を振って、校庭のトラックで基礎種目のトレーニングに懸命に汗を流すことになるのです。そして新人戦の参加種目については参加枠の中から部の先輩方に任せる事になっていたのですが、
「…七種競技ですか?」
「そお。登録しておいたから」
純日本的な印象を与える長い黒髪に、女性的ながら競技者らしい精悍な体つきがこっそりアンバランスに思えなくもない長鯨文は、朋子のコーチ役を引き受けていた三年生でした。もちろん彼女自身は高校生最後の大会の数々に向けて自分の練習に専念している身の上ではあったのですけれど、世話焼きな性格と趣味とで自らそれをかってでたところもあるにはあったようです。
「だってトモちゃんいい身体してるしねえ」
「あの、あたしはそういう趣味は…」
多少、のんびりとした口調で朋子の背中をたたく文にやや腰の引けている朋子。いい身体といってももちろんおかしな意味ではなく、背筋まで含めたバランスのいい体格をしている選手というのは競技者でも意外に少ないものです。女子の100mハードル、走り高跳び、砲丸投げ、200m走、走り幅跳び、槍投げ、800m走と並ぶ七種競技のうちでも特に点数を落としやすく、経験者が少ないのが二つの投擲競技であり、肩と背中の筋肉が重要とされる種目でした。地区大会では参加人数も少ない上に種目によっては得点ゼロも珍しくはなく、それだけにある程度以上のできる選手でなければエントリーもしないという事情がありましたから敷居も高い、というのが七種競技の特殊な事情だったようです。
「投擲ができる娘って少ないのよ。実は去年一人やらせようと思ってたんだけど、けっきょくその娘も中長距離にいっちゃってねえ」
運動部のレベルが高いと言われる樫宮学園の中でも陸上部は特にその名が知られており、文のいう中長距離にいったという二年生も県ではトップクラス、上信越大会の常連で秋の大会では全国出場は固いとさえ言われていました。持病があってたまに練習を休まざるをえなかった文はそこまでの成績は残していないものの、走投跳を選ばない安定した実力が部内では評価されています。
ただもしかしたら、何でも教えられる便利な部員としての評価かもしれませんけれど。
野球部や陸上部、剣道部を筆頭に県内でも強豪と言われる私立樫宮学園高等学校運動部。その理由としてはスポーツ奨学生制度と、学業と運動ともに力を入れた各種設備の充実、それによる他県からの学生や留学生の受け入れ体勢の整備などがありました。例えば中国から来た李小龍などは可愛い女生徒を追いかけて陸上部に入ったと言われる軽薄漢でしたが、その実力は部内の一年生男子の中でも群を抜いてはいたのです。
「ったく誰が軽薄漢なんだか」
とぼやく小龍は練習にもしっかり参加していますし、むしろ正義感があるといってもいいくらいの性格を本来はしているのですが、他人に植え付けられた楽しい印象というものはなかなかぬぐうことができないものなのです。ただそれを口実に気軽な男の子として女生徒に声をかけようとしているあたり、けっして噂が噂だけでないことを証明してもいましたけれど。
そして潜在能力の高い生徒たちへの厳しい練習メニュー。基礎体力をつける反復練習では脚があがらなくなるほどにしごかれ、トラックに出たら出たで休む暇もないほどに何十本もの走り込みとフォームのチェック。各自が分かれての自主トレーニングになるまでには一年生のほとんどが沈没していましたが、それだけの下積みがあってはじめて実力の底というものは上がるのです。
「はい、しゃおちゃんタオル」
「お、サンキュー仁科」
ヘアバンドを留めたボブカットを揺らせながら、部員の間を小走りに動きまわっているのは仁科梓。小龍なり朋子なりの有望株選手とは違って、元来が運動音痴の彼女は部内でもとりわけワーストに近い各種記録の保持者である一方で、ほとんど自主的にかってでているマネージャ業では部内でも並ぶもののいないエキスパートでもありました。ただ、多くの一年生が自主トレーニングの時間になるとあちこちでぐったりしている中で、選手級の幾人かを除くと元気に動き回っているのは彼女くらいしか見かけることができません。それが梓の潜在能力なのか、あるいは適度に手を抜く能力なのかといわれるとはたして微妙なところではありました。
「はいトモちゃんもドリンク」
「…あ。あんがと」
朋子の生返事に不思議そうな顔をする梓。最初の頃はなにか不機嫌になるようなことでもあったのかしらと思いましたが、知り合って間もない友人の言動に慣れてくると、それはどうやらわりといつもの反応のようでした。なんとなくぼーっとしているときの表情というものは確かに人それぞれでしたから、
「どしたのトモちゃん?何か嫌なことでもあったの」
「ん?べつに。梓こそ何かいいことでもあったの?」
ふだんから不愛想な顔をしている娘もいれば、ふだんからゆるんだ顔をしてる娘もいるのです。
31日から始まる国体予選を前に、肉体疲労を残したままにしておくわけにはいきませんからその日の練習時間は比較的早く切り上げられることになりました。追い込みの時期にあってあえて無理をすることはアスリートの考え方ではありませんでしたけれど、8月末のこの時期、一部の学生にとってはアスリートとは別の理由で追い込まれて無理をする必要があるのです。
「何で高校生にもなってこんなに宿題があるのよぉ」
広いテーブルのある安い喫茶店というのは学生やサラリーマンにとって貴重な打合せのための場所となります。アイスコーヒーのグラスを囲んで、悲鳴を上げている梓たちのその日の議題はもちろん夏休みの課題をいかにして片づけるか、ということでした。勉強そのものの効果としてはほとんど有名無実化している夏休みの宿題ですが、与えられた期日までになにかを仕上げてもってくるというのは学生に限らず依頼なり仕事なりの基本というものです。
「あたしも残ってるけど…そこまで量はなかったでしょ。梓いままで何やってたのよ」
「何にもやってないー」
ぽかり。呆れ顔で友人を小突いたのは長峰彩夏でした。快活そうなポニーテールの少女は寮生で梓と同室でしたからルームメイトの宿題の進行くらいはもっと知っていてもよさそうなものでしたが、彼女も夏はバスケットボール部の練習に出向いていましたし優等生の梓なら陸上部に行っていないときに少しくらいは課題を片づけているものだろうと思っていました。だからいざとなったらこの娘に頼ろうとも思っていた彩夏の目論みは一瞬で崩れさったのですが、往々にして期待だとか目論みだとかいうものは裏切られるためにあるものなのです。
いずれにしても片づけなければ宿題は決して終わることがありません。長い時間をかけて各々の愚痴の発表会が終わったあとは、各々がどの分担で何を片づけるかを決めるという実務的な打合せへと移りました。たとえば面倒くさがって宿題をやっていないだけの梓は成績だけなら学年でもトップクラスであり、こういう娘には問題を解くことが必要な科目を集中してやってもらい、逆に理数系が苦手な彩夏はそちらを梓にフォローしてもらう代わりに単純作業と労力が必要な課題を受け持つ、といったような作業分担を行います。その中でふと、重大なことを思い出した彩夏はテーブルの隅で考え事をしているのか、ぼーっとしているように見える朋子に尋ねました。
「…あれ?もしかしてトモ、あんた編入前って事は夏休みの課題ないの?」
「うん。当たり前じゃない」
「ずるーいっ!」
当然、という朋子の返事を受けて梓の声が店内に響きます。こういった特権を持つ人間というのはそれを持たない人間からねたまれて当然でしたし、朋子の方もそれをわかっていたので何か手伝おうかと思ってきてはいたのですが、自身は課題を出さなくてもいいというその事実はもちろん変わる事はありません。ふと時計を見て、立ち上がりながら朋子が言います。
「あ、ごめん。そろそろバイトだからあたし行くね」
「じゃあトモちゃん明日手伝ってよね」
「OK、英語だったら得意だからやるよ」
女の子が自分で得意という以上は本当に得意だったりするものなので、頼もしい友人はおそらく容赦無くこき使われるのだと思います。31日は陸上部の国体予選がありましたから、前日の30日だけで全ての課題を終わらせなければいけませんでした。
その修羅場についてはまた別のお話となります。
BARホンキィトゥンク。高校生のアルバイト先としてはあまりそぐわない場所ではありましたが、文化都市として歓楽街の規制されている長野県ではむしろ、夜にはお酒も出る個人経営のレストランの延長といったイメージもあったでしょう。携帯電話を持ちたいから、という理由でアルバイトを探しはじめた朋子でしたが、引っ越し前に住んでいた松本市ほどには栄えていない古坂町内で働ける店というのは少ないに違いありませんし、高校生が働けるお店というのもそれなりには限られていますから、選り好みをしようとすると更に条件が厳しくなってきます。
そんな中でいいつてはないものかと、朋子は知り合ったばかりの友人に聞いてまわっていたのですが、たいした期待をしていない中でまさか梓からBARでのアルバイトを紹介されるとは思ってもいませんでした。梓自身も地元出身ではありませんし、親からの小遣いをもらっている身でアルバイトなぞしたことはなかったのですが、
「じゃあ知ってる人のいるとこがいいんじゃないかな」
と言われた先がそのお店だったのです。梓の知り合いであった東司を通してなんとかアルバイトの約束を取り付けた朋子はそれ以来週に二日、店内にムササビがいる以外は普通のカウンターバーであるとしかいいようのないそのお店で働くようになりました。そのムササビが東のペットであるということは後で知ることになるのですが、いくら紹介されたお店で知り合いなりがいるとはいえ、最初はそれなりに不安だってあることだったでしょう。
「慣れたか?」
「まあね」
無愛想にかけられる声に無愛想に答える声。鋭い目元に垂れてきた前髪を指で払い、襟つきのシャツにエプロンをしめた東がその外見に似合わずけっこう気を利かせる質であるということは、働きはじめてしばらくした朋子にはすぐにわかりました。なるほど梓が推薦しただけのことはある、と思っていた彼女の返事が無愛想だったのもやはり普段の表情がたんにぶっきらぼうなだけだという、ただそれだけのことだったりします。そしてこういう落ち着いた店のバーテンダーは少しくらいは無愛想な方がそれらしく見えるという事情もありました。ただいずれにしても高校一年生の女の子がこういった店で働くということには先入観からくる抵抗もあるでしょうから、
「何か言われなかったのか?」
「ランチもあるし定食屋と変わらないわよ」
「そんなもんか」
「って言って押し切ったの。反対はされたに決まってるでしょ」
やけに言葉数の少ない会話、ですがお互いに意思は通じているらしくありました。ただそれはたんに性格に似たところがあるというだけかもしれず、気が合うというよりは間が合うといった感じだったかもしれません。
客のいない静かな時間は、店内も静かになっているのが常でした。
翌日の修羅場を明けた31日、国体予選の会場である長野市営競技場のスタンド席。樫宮学園陸上部の選手ではなくまだ正式な学園生徒ですらない朋子はもちろんベンチに入ることはできませんでしたから、来る途中買ってきた弁当を手に、陸上部の活躍を呑気にフェンス越しで見ることしかできませんでした。
目の前でつぎつぎと競技がこなされていく中で樫宮学園陸上部は強豪との評判を証明するかのようにその実力を示しており、例えば走り高跳びであれば身長以上のバーを軽々と飛び越え、例えばトラック競技であればスタートダッシュから圧倒して他の選手を引き離します。そして強豪として知られているということは有望な新人も多く入ってくるということで、期待の一年生の何人かも上級生に次ぐ好成績を残していました。
「島田さーん、見ててくれた?」
大学生もいる中で短距離走に堂々入着してみせた小龍が手を振っていましたが、格好良い先輩方がトラックに向かう中でそれがどれだけ目に入っていたかはわかりません。
「ずるーい。トモちゃんいるなら手伝ってよー」
半分冗談半分本気で声をかける梓。補欠組は当然選手の手伝いが仕事になりますから、悲鳴をあげながらベンチの間を走りまわってタオルやらドリンクやらを配ったり、ウォーミングアップのパートナーから果ては大会事務局からの呼び出しの対応に到るまで雑事は何でもこなさなければいけません。朋子のようにフェンス越しの特別席で呑気に見学しているという訳にはいかないのです。
長野県の高地でも残暑が厳しい8月の終わり。市営競技場のスタンド席に腰掛けて、ぼーっとしたような不愛想な顔でフィールドを眺めている女の子。それが何か考え事をしているのか何も考えていないのかは一見してまるでわかりません。ただ、不安が多いはずの引越し早々の新天地での生活も一月が過ぎて、にぎやかな新しい友人もできたしムササビのいるお店でのアルバイトも決まったし、格好良い先輩のいる陸上部でもどうやらやっていけそうだしと、彼女にとってはまずまず順調な境遇であると言えたでしょう。
たまにぼーっとしている時間にふと思い出す以前の生活。そこも同じ高校生の学生生活ではありましたけれど、知り合ってわずか三ヶ月で別れることになった前の学校の友人のことをときどきしか思い出さないようになったことは、それはそれで仕方のないことかもしれません。なにしろ私立樫宮学園高等学校での新しい生活がもうすぐ始まろうとしている、その期待と不安のまっただなかに彼女はいる筈なのですから。
「どーしたのトモちゃーん、げんきー?」
「んーっ?まあねー」
梓の声に手を振りかえす朋子。ぼーっとしているようで、考えごとをしているようで、不安定な心のうちはときたま彼女から表情を奪っていましたけれど、はたして年頃の女の子であれば心のうちが不安定であることくらいは珍しくもないものだったでしょう。
けっきょくは単にぼーっとしているだけかもしれない。
今のうちだけ。
フェンス越しに見学するだけの期間はもうすぐ終わります。
おしまい