そう思われるのが本人にとって本意か不本意かは別として。
平成14年9月5日木曜日。長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校では9月からの新学期も始まって、学生達はひさびさの友人との再会と休み中から変わらぬ友人との再会をよろこぶ余裕もないままに、日常の学生生活へと引き戻されていくことになるのです。授業はいつものとおりに始まって、部活動は秋の大会や競技会に向けて熱意を増しており、特に新入生にとっては未だお客様のような「新入り」だった時期はとうに過ぎて上級生と同じく学園の一員として普通に扱われる存在となっています。
「何だ何だぁ?休みボケでこんな問題も忘れたのか」
なんていう教師陣の叱咤激励の声を受け、朝から続く長い長い授業を終えて放課後の時間になればようやく学生の自由が取り戻されるのです。それはもちろん、部活動が始まるまでのごく短い自由でしかありませんが。
「しーちゃんいいでしょー?わたしお腹ぺこぺこだよー」
「んな都合よく材料があるわけないだろ」
司、を略してしーちゃんと呼ぶのは仁科梓。ボブカットにヘアバンドを留めた幼げな少女は外見だけでなく内面も幼げではありましたが、高校一年生くらいの年代ではまだまだコドモとオトナとコトナとが入り混じっていても何ら不思議はありません。休み時間のお弁当でいかに食欲を満たしても、放課後になれば学生の大半は欠食児童に逆戻りして膨大なエネルギーの源を補給し直そうとするのです。
学園の廊下、料理部の部室に顔出しに向かう司を見つけた梓は後をついていけば餌にありつけると短絡したに違いなく、空腹の小犬のように少年にまとわりついては無いはずの尻尾を機嫌よく振っています。司のほうはその日はかけもちの料理部には顔を出すだけにして、軽音部に行こうと思っていた矢先につかまってしまい気分的にはタイミングが悪いと思わざるをえません。
「オムレツが食べたいー」
騒々しい小犬に仕方なく餌をふるまうことにしたとしても、料理部だからといって好き勝手調理をしていいというものではありませんから部員として立派な理由なり言い訳なりは必要でした。司は一年生だからとかいってべつだん遠慮するような性格はしていませんでしたし、料理部自体もそのへんはおおらかでしたが公私を混同するならせめてブレンドの比率くらいは守りたいものです。結局アルバイト先で考えたソースの作り方を他の部員に披露する、という名目で作られたオムレツは、
「おいしーい」
という感謝の気持ちだけは存分に詰まっている一方で、技術的な感想は何一つ得られない相手の胃袋にきれいに収まってしまいました。
「トージ、これから部活?」
「んー?陸上部がこんなとこで何してんだ」
料理部に押しかけた欠食児童から解放されて。夏休み以来ひさびさの軽音部に行こうと文化部系の部室長屋に向かっていた司は見知った女生徒に呼び止められました。短髪のくせっ毛に猫目が印象的な島田朋子は二学期になって樫宮学園に編入してきたばかりの転校生でしたが、一月以上前にこちらに引っ越してきた頃から陸上部に参加していましたし、最近は梓経由でアルバイト先を紹介してもらって、司と同じお店で働いていました。
ですから転入生といっても司にすれば今更といった感じがする一方で、朋子にしてみれば校庭のトラックやフィールドには馴染んでいても校内についてはまだまだ慣れておらず知らない場所もたくさんありましたから、部活が始まるまでの短い時間を縫って学内探索をする理由は充分にあったのです。
「ちょっと図書室寄るついでにね、文化部の部室長屋も見とこうと思って」
高校陸上の規定書を借りるつもりで図書室に行っていたという朋子は本来あまり読書をする方ではありませんでしたが、理由をつけて校内の施設くらいは行っておきたいし規定書でしたらそうそう版が変わるようなこともないでしょう。司の方は外見に似合わず、というと失礼かもしれませんがかなりの読書家で図書委員だけは進んで立候補していました。ジャンルを問わず棚の端から端まで読むタイプの人間としてはより本に近い場所を確保しておくというのは重要なことで、その司から本くらいは読んだほうがいいぞ、と言われた朋子は多少悩んだような顔で、
「雑誌とかは見るけど」
「好きなもんからでいいけどな」
ただそういっている司は読書家としては悪食に類する方でしたから、こういう場合に女の子にお勧めの本を無責任に挙げることはできませんでした。読み始めてさえしまえば魔女狩りの歴史だろうが十字軍の記録だろうがペスト流行の実態だろうが何でも読み漁ってしまうとあっては、趣味と好みが大きく影響するものを薦めてみたところであまり意味があるとも思えません。
他愛のない挨拶をかわすと何とはなく連れ立って歩く中で、司が軽音部であることを思い出した朋子はせっかくだからと部室を案内してもらおうと思いました。
「ベースとドラムやってるんだよね?かっこいいじゃない」
アルバイト先で何度か話をしていることもあり、陸上部期待の新人、普段はぶっきらぼうな単なるスポーツ少女のような朋子が実はけっこう流行りもの好きな軽い性格をしていることを司は知っていました。べつに減るものではなし、ちょっと見せるなり聞かせるなりすることくらいはもちろん構わなかったでしょう。運動部の部室は主に校庭や体育館側に設けられていましたが、文化部の部室は特殊な設備のある教室を利用する例が多いために校内や校舎近くに設けられ、方角でいうと全く別の場所になっています。同じような形をした小部屋の扉が並ぶ通路、一学期以来のひさびさのドアを司は引き開けました。
デストロオオオオオオオイ。
むきだしのコンクリートの壁を怪しげなポスターで埋め尽くした部屋内に響きわたる轟音と、その中で一人激しく首もちぎれんとばかりに振り続けている生徒。密閉されていた扉が開いた瞬間、騒音としか聞こえない音の洪水が通路を一瞬で満たしました。慌てて扉を閉める司。
「…隣りはデスメタル部なんだ」
「…ふーん」
ひさびさの部室、同じような扉が並んでいるのであればたまには間違えることもあったでしょう。少女の冷ややかな視線を受けて、司は改めて軽音部の部室を案内しました。
オオオオオオオオオオオオ。
陸上部。東信南信中信地方の新人大会が順次迫っており、地区予選に向けて今は追い込みの真っ最中でした。疲れを残さない程度の練習、としておきながら強豪として知られる樫宮学園では本番はあくまで月末の県大会を見据えていましたから、地区大会程度では練習の厳しさが軽減されることはありません。
「あれ?トモちゃん遅かったじゃない」
「ちょっとトージに校内案内してもらってたから」
「ふーん…あ!そうだ今度の大会はトモちゃんも雑用手伝ってもらうからね」
二学期からの編入、夏休み中に行われた国体予選ではベンチに入れなかった朋子がその分スタンド席で楽をしていたことを梓は未だに根に持っているようでした。もっとも新人戦が始まったら始まったで、選手の朋子に比べれば万年補欠の梓の方にけっきょくマネージャ業が振り分けられることになるだろうに違いありません。夏休み中から練習に参加し、樫宮学園陸上部員の枠で大会参加登録を済ませておいた朋子は女子七種競技への参加が決定していました。ただその辺りは個々人の事情によって、同じく二学期から編入してきても9月から陸上部に参加するようになった生徒では参加登録を間に合わせるのは厳しかったでしょう。
「香椎勇樹っていうんだ」
「カ、シ、イ…どんな字を書くの?」
いかにも頑丈そうな体格をした少年はそれまで福岡の高校に通っていましたが、9月から長野県に引っ越してくるにあたってスポーツ進学の許されている樫宮学園に編入することになりました。その制度があること自体が樫宮の運動部に強豪が多い理由となっていて、更に学内偏差値も高く地域では文武両道の呼び声も高く上がっています。敢えてスポーツ進学を狙った勇樹には学力の自信はまるでありませんでしたが、堂々合格を果たした体力の方は地元福岡でも折り紙つきでした。自己紹介の度にいつも受けているであろう、朋子からの質問に勇樹は地面を指でなぞるとあまり上手くもない字で『香椎』と書きました。
「脊椎さん?」
「カシイ、だ!」
「何が傾いだの?」
「…わざと言ってるだろ」
「うん」
とりあえず陸上部の有望な新人らしい勇樹は、全力で走ってると曲がれないからという実にたのもしい理由で短距離走を志望していました。以前は柔道もやっていたという頑健な体格は、確かに爆発的な瞬発力を必要とする短距離走に向いているように見えます。
「砲丸投げとかも行けるんじゃない?」
「柔道は引き手がいるけど、投擲は肩と背筋を使うんじゃねーのか?」
入部早々の基礎練習に戻った勇樹を見送って、七種競技に向けて投擲種目を練習中の朋子は、付け焼き刃の砲丸投げで時に9メートルを狙えるようになっていました。大会優勝者ともなれば10メートル11メートルと越える記録を出す選手もいる一方で、選手層自体が薄い女子投擲競技で砲丸投げ9メートルを出せば上位獲得は間違いありません。特に女子七種競技に参加する選手は走跳の競技がが強い一方、投擲競技は設備がないなどの理由もあってどうしても重視されていませんでした。
中学時代からいちおう陸上部だった朋子は他の種目はひととおり経験がありましたから、先輩の指導のもと投擲競技はフォームの練習を集中し、あとは本番に勝負をかけることになります。厳しい練習は9月のまだやや長い日が落ちかかる夕刻まで続きましたが、短時間で一気に集中して鍛える一方で疲れを残しすぎないように切り上げる時間だけは早めに取られていました。
疲れる身体をひきずって、一旦自宅に戻ってシャワーを浴びて着かえるとその日はBARホンキィトゥンクでのアルバイトがありました。栄えているとまでは言い難い古坂町で高校生がアルバイト先を探すとなると、知り合いのつてを頼るのが一番早いのは間違いがありません。それがバーであるというのがこの際は問題でしたが、レストランなり大衆居酒屋なりでのバイトがあることを考えればあまり遅い時間のシフトは入れないという条件つきでならそれは普通の飲食店で働くのと一緒だよと言えなくもなかったでしょう。
「今日はお客さんこないわね」
「たまにはな」
文化都市とされる長野県ではこういった店への規制が厳しい一方で、夕刻比較的早い時間に夕飯と兼ねてお酒を飲みにくる客はけっして少なくはありません。あとは日中にレストランのように使われるか夜に静かに、或いはにぎやかに立ち寄る店として使われることになるかはほとんど立地条件の問題となります。そして夜のホンキィトゥンクは比較的静かな店で、落ち着いた雰囲気はその分客足が時にまばらになることもありました。
襟付きのシャツにエプロンを絞めて、一見一人前の給仕に見えなくもない司と朋子は時折思い出したように掃除をしたり仕込みをしたりしていましたが、特に何をするでもなく店内での時間をすごしています。ふと、手持ちぶさたになった朋子が司に声をかけました。
「ね、梓とは知り合って長いの?」
「中学から一緒のクラスだ…どうかしたのか?」
「うん?バイト紹介してもらったから」
どうにも人の好い司が、あのとおり手間のかかる梓のめんどうをつい見てしまっている様子は朋子にはすぐに想像できました。それが司の純粋な好意なのか純粋なお人好しの故なのかはまた不明ですが、梓の性格を知っている朋子としてみればその気持ちもわからなくはありません。
「ちょっと、うらやましいかな」
「すぐ慣れるだろ」
慣れというのは経験ですし、経験というのは時間で得られるものでした。この町での朋子の時間はまだまだ少ないものでしたが、それは少しずつ少しずつ積み重ねられていくものですから急いでも焦ってもどうなるものではありません。ただ、ほんの時折見せる朋子の本音もまぎれもない事実でしたし、積み重ねられる砂時計の砂一粒くらいはこの店にもある筈でしたから、それを二粒にしてあげるくらいなら司にもできそうでした。
「…今日はもう客も来ないだろうからな」
そう言うと店の奥に戻って、一本のベースギターを引っ張り出してきた司は閉店までの短い時間、BGM代わりの小さなライブを開きました。楽器はベース一本でボーカルは無し、観客も一人だけのライブはアンコールもなく、お店の片づけを始める時間まで続きました。
小さな砂粒だけを残して。
「えーっ。いーないーな、トモちゃんばっかり」
「お前よくメシおごってやってるだろ」
翌日の学園の廊下。ホンキィトゥンクで朋子が司のベースを聞かせてもらった、というのは健全なよくばりの梓にしてみればうらやましいことこの上ありませんでした。年頃の女の子としてはそういった格好良いシチュエーションというものは何よりも貴重なものだったでしょうから、即物的に食事をおごってもらう機会とはまた話が違うのです。
「あのままじゃデスメタルのネタを引っ張られそうだったしな」
「なんのはなし?」
何でもない、と言葉ではなく身ぶりで答える司の後について行きながら、梓は空腹の小犬のように無いはずの尻尾を振っていました。
他愛のない会話がもたらす貴重な砂粒を積み上げながら。
おしまい