教室の窓から見える青空の下 第6話


 長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校陸上部。二年生の星野瑞希は繊細で中性的な顔立ちにすらりとした細身でしなやかな体型、更に部内では短距離のエースにして次期主将候補でもあり、主に異性を中心に上級生と下級生の支持を集めていました。では同級生からはどうだったか、というとわりと普通の扱いをされているようにも見えたのですが、何事も好意的に解釈する支持者層にしてみればそれもきっと性格の良さがあらわれた結果にちがいない、と思われる材料にされてしまうものなのです。

「あー。その写真きれいに撮れてるじゃなーい」

 なんて会話から始まる取り引きが一年生を中心にこっそり行われている、という噂もまことしやかに流れていました。パスケースや生徒手帳にしまいこんだ写真に一喜一憂する、それ自体はその行為そのものを楽しんでいるだけだったのかもしれませんが、もちろん瑞希自身の預かり知るところではありません。

 通称、星野瑞希親衛隊。明るく軽い下級生の女の子たちの集まりは当の「星野先輩」を置いてきぼりにしたところで日々活動を続けている、筈です。

 週末金曜日から始まる長野県高校新人陸上大会を控え、陸上部では選手たちの練習と調整とに余念がありません。県内でも強豪として知られている私立樫宮学園高等学校陸上部では、いくつもの種目で部員の幾人もが先の地区大会を突破、県大会へと駒を進めていました。その中で女子七種競技に参加登録している島田朋子、しなやかな細身の体躯にややくせっ毛の短髪をした少女は一年生ながら期待の新人の名に違わぬ成績で地区大会突破を果たしています。

「あれ、トモちゃん今日はもう上がり?」
「大会前だからね」

 差し出されたスポーツタオルを受け取って、身体を冷やさないうちに汗をふきはじめます。100mハードルからはじまり200m走、800m走、走り幅跳び走り高跳び砲丸投げやり投げと続く七種競技は女子陸上競技としてはマイナーな部類に入り、たとえば新人大会では競技が開催されますが国体の陸上競技には種目がありません。そのような扱いを受けている以上、あえてこれに参加するような選手は普段は自分の得意種目に専念している一方で、数少ない機会に集中して参加登録することがほとんどでしたから、未経験の新入生ごときが挑むには少々高い壁ではあったでしょう。なにしろこの手の複合競技では苦手な種目で落とす点数というものが勝敗に大きく関わってくるのですから、それを補う経験というものは不可欠でした。

 そしてマネージャのように朋子にタオルを差し出していた仁科梓ももちろん立派な陸上部員ではありましたが、先の地区大会では人数あわせであるかのように参加登録、見事に玉砕していました。運動神経が鈍いというより切れてぶら下がってると評判の梓は走っても飛んでも投げても低空飛行と言われる程の成績でしたが、マネージャとしての実力は一級品に近いようでヘアバンドで留めたボブカットを揺らして、ぱたぱたと走り回っては雑事をこなしています。マネージャとしての高い能力と、陸上部員としての低い能力の故にたいていの雑用が彼女に押し付けられる、そのことをどうやら理解していない点だけは少しく不幸であるかもしれません。

「トモちゃん、あーちゃんが一緒に帰ろって言ってたよ。すぐ来るって」
「りょーかい」

 その日は女子バスケットボール部も早上がりであるらしく、梓は友人の長峰彩夏の名前をあげていました。ポニーテールを結んだ快活そうな少女がやってきたのはそれからすぐのことで、そして世間話から始まった女の子三人かしましい様子を目にとめた「星野先輩」が声をかけてきたのもそれからすぐのことでした。

「おーい、身体冷やす前に早く着替えておくんだぞ」
「あ。せんぱいお疲れさまでーす」

 きゃあきゃあきゃあ。自分が声をかけたことで女の子たちが更にもりあがってしまったことなど、当の瑞季には知る由もなかったでしょう。自然体というよりは無頓着、無頓着というよりは朴念仁の星野瑞希にしてみれば、それは単に後輩への純粋な注意の呼び掛けであったには違いありません。
 瑞季は先の地区大会では男子100m走で堂々入着、もちろん県大会への出場を果たしていますが年々レベルの上がっている短距離界では100mで11秒を切るくらいでないと県優勝まではなかなか手が届きませんでした。それでも県大会まで入賞して、上信越大会への進出は確定だろうと言われている瑞季は最近は下級生の面倒も見つつ、パートナーを組んでいる同級の女子選手のコーチ役までつとめたりと精力的に活動しているように見えます。その生真面目さと面倒見の良さ、が朋子たち下級生にとっては人気の秘密でもあるようでした。

「先輩、県大会頑張って下さいね」
「ああ、島田君も頑張ってね」
「はいっ」

 何気なく振ったように見える会話。なにげなく返答して立ち去った星野先輩の姿が見えなくなるのを待ってから、朋子は小さく喜びを口にしました。

「やったー。先輩に直々に応援されちゃった」
「あーっ!トモちゃんずるーいっ!」

 自分の立場を利用する狡猾さというものは、年頃の女の子にとっては必須の技能であったかもしれません。鬼のいぬ間になんとやら、相手がいる、とまことしやかに噂されている格好良い先輩とお近付きになるのでしたら、攻撃こそ最大の攻撃である筈でした。

 七種競技。男子の十種競技のように100mハードルからはじまり200m走に800m走、走り幅跳びに走り高跳びに砲丸投げとやり投げの七競技を行い総合得点を競う種目であり、点数を落とす種目のないように総合力が要求されることを考えると普通は練習する場所も指導者もないであろう、やり投げのような投擲競技をどれだけカバーするかが鍵になってきます。
 樫宮学園陸上部三年生の長鯨文は部内でも他にいない七種競技の選手であり、新人の朋子をこの競技に引っ張り込んだ張本人でもありました。純日本的な長い黒髪に、競技者らしい精悍な体つきをした文は選手としては器用貧乏と評されるタイプであり、それは良く言えば弱点が少ないということでもあるのです。ただ地区大会は辛うじて突破、県大会には後輩であり弟子でもある朋子と一緒に挑む文の記録はそれほど後輩と大きな違いがある訳ではありません。

「最後の大会なんでがんばりたいんだけどねえ」

 のんびりとした口調でのんびりとしたことを言うからといって、決してやる気がないわけではありません。三年生で参加する大会はどれも負けたらそれまでになるには違いなく、精一杯を尽そうとする反面それで誰もが勝てるなら確かに苦労はなかったでしょう。これまで幾度か病気療養でブランクがあった、という文の実力は相応のものであり、せめて相応の中で最高の成績を残したいところではありました。
 平成14年9月28日の土曜日。競技場のスタンド席をまばらに埋めている呑気な応援団に手を振って、競技者の長い一日が始まります。昨日金曜日の開会式から幾つかの競技が始まっていましたが、七種競技は土曜日からの開催となり前日新入生として雑用に使われていた朋子はその日はもちろん開放されることになります。

「がんばってねー」

 スタンド席から無責任に声をかけているのは長峰彩夏。それは競技に出る朋子たちへの声援と、毎度雑用に追いまわされている梓たちへの慰めと、その双方の意味があったに違いありません。その声を聞いてやってきた梓が彩夏をつかまえると、お気楽な傍観者に抗議の声を発します。

「あーちゃん、暇なら手伝ってよお」
「あたしは応援で急がしいから駄目」
「お菓子食べながら何の応援よ」

 呆れ顔でやってくる朋子。座席に敷くシートに飲み物やらお弁当やらお菓子まで、ピクニックの準備も万端の応援はあまり心強いものではないかもしれません。まして応援する対象が自分でなく格好良い先輩だと分かりきっているとあっては尚更だったでしょう。そんな相手の様子にはお構いなしで、朋子の顔を見た彩夏は何かを思い出したように話します。

「あ、そーだトモ」
「ん?なに?」
「あんたが入賞したら星野先輩の家でケーキおごってもらえることになったから頑張んのよ」

 いつのまにそんな約束を取り付けたのか、悪戯好きな小人の顔で笑っている彩夏に一瞬、朋子も呆気に取られます。

「ちょっと、なんであたしなのよ」
「だって梓じゃ無理だもん」
「ひどーい」

 抗議の声をあげている地区大会予選敗退者はもちろん県大会では出番がなく、賭け?の対象になり得る筈もありません。ただ応援する側にも選手にも気合が入ること請け合いの条件なら、朋子としても受けざるを得なかったでしょう。積極的にか消極的にかは分かりませんでしたが、即物的な応援を背に受けながら朋子はウォーミングアップをするために競技場へと戻っていきました。

「がんばれー、相手に毒盛ってでも勝てー」
「りょーかい」

 県大会優勝でなく突破ということなら、入賞さえすればその先にある上信越大会に進むことができます。女子選手には珍しく投擲競技を得意にする文に教わった朋子はフォームだけはみっちりと鍛えられていましたが、砲丸はまだしも槍投げを実際に行ったことは先日の地区大会本番での数えるほどしかありません。であれば最初の一投だけはなかなかプレッシャーも消える筈がありませんでした。

「どおしたの?途方に暮れて」
「いえ、まっすぐ飛ぶかなと思いまして」

 様子を見咎めたのか、声をかけてきた文に答える朋子。不安というほどではないものの、三回しかない機会の一回目で失敗したらそれはとてももったいない気がする。それを克服するのもアスリートのセルフコントロールというものでしたが、力を存分に発揮するには自信かあるいは過信が必要でそれを引き出すには目に見える練習の成果というものが不可欠でした。先日の地区大会では、それなりにまっすぐ槍を飛ばすことができたのですが。

「でもまっすぐ飛ばそうなんて考えなくてもいいのよお」
「?」
「槍に乗っちゃえばいーの」

 感覚的なアドバイスというのはそれが伝わらなければなんの意味もありません。投擲競技では本来正しいフォームを身体が覚えている限りは、それが飛んでいく角度などは考える必要がなくただ自分のスピードと勢いを乗せれば良い筈でした。あとは勢いを乗せられた槍が勝手にその身を遠くへと運ぶことになり、大切なのはその正しいフォームを身に付けているかどうかということと、余計な考えに意識奪われてそれを崩さないでいられるかということでした。

 教え込んだフォームを彼女がきちんと身に付けていれば。
 教え込んだフォームを彼女が崩さないでいられれば。

 指導者としてはちょっと逃げ口上かしら、と文が思った頃には朋子の競技順がまわってきて、スピーカから流れる音声の割れた放送に呼び出された朋子は何の感慨もなく開始線に立って、深呼吸をひとつしてからきれいなフォームで走り出すと、流れるような動作で肩口から槍を撃ち出しました。

 まっすぐに、きれいな弧を描いて。

 新人戦県大会が明けて、彩夏や朋子たちが星野ベーカリーを訪れたのはその一週間後のことでした。けっきょく文と並んで惜しくも入賞を果たせなかった朋子はそれは残念だったでしょうが、一年生で編入後すぐの大会でそれなりの成績を残すことができたということはそれなりの自信なり過信なりにはなったことでしょう。やり投げを筆頭にして投擲競技の成績が良かった後輩の成績を見て満足した文はその後も彼女のコーチ役を引き受けるつもりでいましたし、朋子の方も競技自体の魅力を感じ始めているようでした。

「惜しかったからケーキは無理でもコーヒーくらいは」

 という彩夏の提案を了承した優しい星野先輩の実家のお店で開かれたお疲れ様会。いずれ親しげにここに通うことになるに違いないという野望を持った女の子たちはベーカリーの扉をくぐりました。平凡な内装がかえって落ち着く町のベーカリーには喫茶席が設けられており、彩夏や朋子や梓ら五人の女の子が陣取ります。

「…ってちょっと、なんで麻柚もいるの?」
「かたいこと言いっこなしだよー」
「何で?何でまどかまで来てるのよ?」
「いや、おごってもらえるゆうたから」

 通称、星野瑞希親衛隊。明るく軽い下級生の女の子たちは狡猾で更に即物的で、しかも罪がないところがいちばん手に負えないところかもしれません。君たち仲がいいんだね、と微妙な笑いを浮かべている星野先輩にしてみればこれがケーキでなくコーヒーで良かったと思ったことでしょう。学生らしく淋しい懐具合を気にしている先輩の、微妙な笑いを称して微笑と言うべきかどうかは誰にも分かりませんけれど。
 それが先輩の好意につながっているのかいないのか。あるいは女の子たちにとって、それはわりとどうでもいいことだったのかもしれません。彼女たちの目的がその行動自体になっているのなら、それもやっぱり貴重な時間であるには違いなかったのですから。

 女の子同士でいっしょに騒ぐ。
 貴重な貴重な時間です。

おしまい


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