教室の窓から見える青空の下 第7話


 きっかけは、星野ベーカリーのカウンター上の壁面に掛けてあった一枚の絵でした。抽象画か印象画のような手法で描かれた、新緑のひなたの色に塗られた絵。長野県は古坂町にある私立樫宮学園高等学校、陸上部短距離走のエースにして美術部にも在席しているという格好良い星野瑞希先輩の絵を見れたという事は下級生の女の子たちにとってはたいへんな収穫だったでしょう。何より、その先輩の実家のベーカリーで珈琲なぞをおごってもらったとあっては。
 下級生の一団の中で志貴まどかは落ち着いた物腰としっかりした性格の持ち主だと思われてはいましたけれど、それは単に思われているだけですから彼女もやっぱりごく普通の女の子ではありました。少しく伸びてきたセミロングの頭髪を揺らして、カップを片手にその絵を見ていた彼女は自分も絵を描くのが趣味でしたが、何故だか気恥ずかしくそれを友人たち以外の人には決して教えようとはしませんでした。

「あれは何の絵なんですか?」

 多少、関西弁が混じった発音で尋ねるまどか。予想外の人数におごらされる羽目になって苦笑していた星野先輩は、自分の絵に興味を持つ子がいたという事が嬉しかったのか、かんたんにですが説明をしてくれました。昨年の文化祭で描いた、自分の思う同級生の心を色で現したという絵。それは新緑のひなたの色。

 それが誰の色であるのかはともかくとして、抽象的なものの本質を色で表現してみるというそのこと自体に、まどかは多少の興味を覚えなくもありませんでした。周囲の友人を見回して、ほんの少しの興味。

 平成14年10月20日の日曜日。気温の下がる高原では紅葉樹も見られるようになっている時節のせっかくの休日でしたが、あいにくその日は全国的に秋雨がしのつく空模様となっていました。もっとも、貴重な休みを貴重に使いたい学生にとってはそれはそれで過ごし方の手段が変わるというだけのことでしかありませんでしたけれど。
 小さなアーケードをくぐり、歩道に屋根のある商店街でお買い物。仁科梓と長峰彩夏、島田朋子の三人娘と一緒にまどかは駅前の町中を歩いていました。週七日のうち七日訪れても良いと思える、友人と遊ぶ貴重な機会。町中でしか手に入りにくい画材などを本当は買いたくもありましたが、彼女が絵を描くことを知っている友人の前であってもできればそれは控えておきたいところです。

「あー、このバッグかわいいー」

 と言っていたはずの梓の手には結局バッグでなく苺チョコクレープが握られており、遊び盛りの学生にとって所詮花は団子には勝てないもののようでした。たびたび消費されては胃袋の中に消えていく、ファストフードの数々を積み上げてみればそのバッグも買えるのでしょうが分けあって食べるに違いないクレープだって立派に必要なものではあったのです。

「ちょっとぉ、分けあうってこれわたしのよ」
「固いこと言わない言わない」

 ひったくられると無残にも一口ずつ齧られてしまうクレープ。ただ基本的にはいつもお互い様ではありましたので、抗議も形だけのものにしか成り得ません。一緒に歩くことに格別な理由がいらない関係というものは、何にも変えて得がたいものであったでしょう。

「あっ、星野先輩だ」

 ポニーテールを振ると通りの向こう、スポーツ用品店から出てくる見知った人影を指差して声を上げる彩夏。長野県は古坂町の決して大都市とは言えない駅前の商店街。電車に乗って栄えている近隣の駅まで出かけるという手ももちろんありましたけれど、地元で遊んでいるのであれば決して出来過ぎた偶然ではなく上級生の格好良い先輩を見かけることだって充分にありえました。せっかく見かけたのであれば挨拶の一つもするのが彼女たちなりの礼儀ではありましたが、それも先輩が同じ陸上部上級生の女性と一緒にいる事に気づかなければ、のことだったでしょう。

「なにーっ!?」

 気づかれないようにこっそりと大声を上げる彩夏。陸上部女子二年生のエース格で、先日の県新人大会も見事に突破、上信越大会まで進出しているその先輩のパートナーとして星野先輩がコーチ役をしているのは有名な話であり、果たして二人は付き合っているのではないかという噂もまことしやかに流れていました。
 こういう時に限って器用になる女の子たちは俊敏に身を隠したので先輩達に気づかれることはありませんでしたが、さすがに後をつける訳にもいかずに退散すると手近な喫茶店へと転がり込みます。涼しさを通り越して寒さの増してきた季節にふさわしく、暖かい珈琲が運ばれてくるのを待つとカップの中身以上に熱い談議が始まりました。

「あーいうの見るとショックだなあ」
「やっぱ先輩達付き合ってるのかな」

「いや、そうとは限らないでしょ」
「何でよ?」

「だってスポーツ用品店の袋持ってたじゃない。もしかして陸上部の備品とか買ってただけかもしんないよ」
「えーっ、それで先輩と一緒に買い物行くなんて職権乱用じゃない」
「ずるいよねー」

 当人達が知る由もない所で星野先輩をたぶらかしてる悪い先輩の話題がさんざん盛り上がると、とりあえず大抵の結論は楽観的な方向に向かっていくのです。そのあたりが年頃の女の子のたくましさではありました。

「うーん、あたしも正選手目指そう」
「あー、トモちゃんずるいー」

 正味数時間の話題を珈琲数杯で済ませてしまう。お店にとっては必ずしも乗客とは言えませんが、それは町の活気をささえるエネルギーのひとかたまりでした。

 BARホンキィトゥンク。文化都市とされる長野県ではこういったお店もある程度までは健全にならざるを得ませんでしたから、営業時間やお店の外観にも規制がかかり、特に昼間は個人経営のレストランと大差のないお店のようにしか見えませんでした。通称トージこと東司は梓たちの同級生であり、襟付きのシャツにエプロンを絞めたバーテンダーとしてこの店でアルバイトを行っていました。本来は朋子もここでアルバイトを行っていましたけれど、その日は勤務シフトの関係で司だけが店番をしています。

「こんにちはー。しーちゃん元気?」

 中学からの同級生だという梓が手を振ると、面倒くさそうに司は手を振り返します。垂れた前髪が額に落ちかかる、鋭い目付きに精悍と言えなくもない顔立ちをした少年は決して女性が苦手な訳でも嫌いな訳でもありませんが、押しかけた彼女達の目的が暇つぶしとあわよくば奢ってもらおうという魂胆によるものだという事を「これまでの経験によって」知っていました。であれば店番として店を守る立場の者が、もろ手を上げて歓迎するという気にはなれなくても当然だったでしょう。

「お前等、遊びに来るなら飯食って金払ってけ」
「おごりじゃないの?」

 邪気のない即答は力のない拳骨によって報われました。乾いた音に頭を抑える梓たちに仕方ない、という顔をしながらも司は人数分の水を出してから、食材の余り物を使ってかんたんな料理を用意するために厨房に向かいます。他のお客が入っていないからこそのサービスでもありましたが、こんなことをしているから女の子たちにたかられてしまうのでしょう。

「おい、トモ手伝えよ」
「了解」

 勝手知ったるアルバイト先の手伝いに袖をまくるとエプロンだけを借りて腰に絞める朋子。このいい加減なあたたかさこそが或いは彼女達がこの店を訪れる、その一番の原因なのかもしれません。色気も何もない中皿に焼きうどんが盛られると、欠食児童と化した女の子たちは四人用のテーブル席についてしばらく空腹を満たすことに専念しました。

「あ、そうそうトモちゃんしーちゃんの写真焼き増しできたよ」
「ちょ、ちょっと梓こんなところで出さなくても」

 てきぱきと料理を用意していた司と朋子の様子を見て、何か思うところがあったのか思い出したように話す梓にあわてる朋子。カウンターの奥で洗い物をしていた司としては女の子たちの話題に立ち入るつもりはありませんでしたが、それが自分の事であれば聞き捨てならないところではありました。

「梓、何で俺の写真がやり取りされてんだ?」
「だっていい値で売れるんだもん」

 明快な梓の回答に対する司の答えは目の前の取り皿を回収してしまうことでした。陸上部二年生の星野瑞希を始めとして、一部男子生徒の写真が女生徒の間で出回っているという話は司も聞いたことがありましたが、それに自分も含まれているとなると多少複雑に気分のいいものではありません。もちろん、それに対して抑止力がないことなんて百も承知の上でしたが。

 ただ、年頃の少年としての自尊心もあるだろう司としては、アルバイト先の同僚である朋子が自分の写真を手に入れていたことに多少は微妙な感情を覚えていなくもありませんでした。問題は彼がついに見せてもらうことのできなかったその写真が本人すら覚えていない仮装写真だった、ということくらいで、きっと何かのネタに使うつもりでいたに違いないと思うと知らないという事はせめてもの幸福だったのでしょう。

「今度トモちゃんとしーちゃんの制服姿の写真も撮らせてね」

 それは梓なりにいちおうのフォローだったのかもしれません。制服姿の写真も、という事でそれ以外の写真があるのかどうかは語られる事がありませんでした。

「自分を色で現すと?」
「うん、そう」

 引き続き、食事を終えたホンキィトゥンクの四人席。騒がしい友人達にまどかが自分から話題を振るということはわりと珍しい部類に属していましたが、もちろん皆無というわけではありません。彼女の中では星野ベーカリーで興味を覚えて以来、どうにも気になっている話題のようで自分がいつも見て感じている色は果たしてその当人が信じている色と同じなのだろうか、違うのだろうかという思いがなかなか消えずにいるようでした。

「あたしの希望では柑橘系」
「オレンジ色かなぁ?」
「あ、かぶった」

 朋子と彩夏が目を合わせ、梓はいつものように小首を傾げて考えると声を上げます。

「ドーンピンクなんてどうかな?可愛いでしょ♪」
「それってどんな色?」
「えっとね、朝焼けの空に例えられる色やわ」

 彩夏の質問に答えたのはまどかの方でした。さすが色彩とその表現には詳しいらしく、こっそりと描いている絵を趣味にしているだけのことはあるようです。話題そのものは水面の泡のように生まれてはすぐに弾けてしまうものでしたから、いつしか女の子たちの興味は来月の樫宮学園文化祭、その後夜祭で行われると噂されているダンスパーティの話に移ってしまっていましたが、まどかの方はその答えを忘れずにたいせつに寮に持ち帰りました。

 彼女曰く幸運にも二人部屋を一人で使わせてもらっている樫宮学園女子若菜寮の一室、そこでこっそりと描いている一枚の絵。まどかが描いたそれは彼女がその日持ち帰った色だけを並べて描き上げた、賑やかに笑っている友人たちの絵でした。こっそりと、それを彼女は誰にも見せるつもりはなかったのですが。

 柑橘色や朝焼けの空の色が混じる、暖色で明るげに彩られたカンバス。
 そこに、自分の色を一筆置いてみる。

「…まあ、悪ぅないかな」

 寒色である筈の少しグレーのかかった紫よりの青が、強く自己主張をしない位置に収まるとそれは混ざり合って何故だかあたたかく自然と笑顔の浮かんでくる、そんな絵に仕上がりました。

 そんな色を見て、まどかは絵の中の自分とおんなじ笑みを浮かべています。
 夜空の雨はもう上がろうとしていました。

おしまい


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