「だいたいスケジュールがハードにすぎるのよ」
試験が明けたらすぐに文化祭の準備でそれが明けたら期末考査。いっそ試験の数を減らすとかしてくれればいいのに、とは進学校である樫宮学園高等学校でなくとも無理な相談ではありました。
平成14年11月2日の土曜日。20日から文化祭が始まることもあってその準備が本格的になりだした時期ではありましたが、だからといって女の子たちが友人同士集まる時間すらないかといえば決してそんなことはなかったでしょう。樫宮学園女子若菜寮で仁科梓と長峰彩夏が一緒に暮らしている、その部屋を志貴まどか訪れるというのは珍しいことではありましたけれど彼女も同じ寮生であるということを思えばべつだん不思議なことではありませんでした。
「おはよーさん。今日はトモちゃん来るんだっけ?」
ノックの音につづいて関西系の発音でおはよう、と言ったその時間はもうお昼にさしかかってはいましたが、恐らく前日夜更かしをしていたのであろう娘たちとしては自然な挨拶のようにも思えます。お客を迎えるほどに、ではなく友人を迎える程度に部屋のかたづけをしている最中だった梓はなぜか不機嫌めいて見える表情で、幼げな頬を幼げにふくらませました。
「トモちゃん午後に来るって。しーちゃんと町まで行ってるらしいよ」
「へえ?」
肩口まで伸びているセミロングの髪を揺らして、まどかのその反応が朋子に対してのものか梓に対してのものか、一緒にいた彩夏の目にはいささか不分明に映りました。町まで行った、というと電車に乗って少し栄えた近隣の町まで行っているということであり、休みの日に男女二人でそんなところに行っているというのはそれだけを聞けば穏やかな話ではありません。
しーちゃん、またはトージと呼ばれている東司は彼女等と同級の一年生で、梓とは中学からの昔馴染みでした。夏に朋子がこの町に引っ越してきて、アルバイトを始めるときに梓に紹介してもらったお店でバーテンダーのようなことをしています。知り合いのいる店がいいか、と思って紹介していたのであればこの両者が一緒にいる機会があっても格別不思議なことではありません。むしろ問題があったとすればそのアルバイトやら高校に入ってからの陸上部やらで梓のほうが司と会う機会が格段に減ったということだったでしょう。外見も性格も悪くはない、という司が云々というのではなく、梓にとっては単にいままで普通に一緒にいた相手と疎遠になっているということこそが重要な問題でした。
「んーと、何買うんだっけ?」
「リストあるぞ」
BARでのアルバイト、と言うと高校生としては問題があるようにも聞こえますが町のレストランの一歩手前程度の存在には違いがありません。そしてそういった店では大量に必要になるものは普通に仕入れて構いませんが珍しい香辛料とかハーブが一瓶必要という程度なら隣り町の指定した店に注文しておくという手法も充分にありえました。個人経営の店であるほどそういったこだわりは重要でしたし、少しの味の違いが固定客の足に影響を及ぼすことだってあるのです。
「及ぼさないこともあるけどね」
「んなことマスターの前で言うなよ」
「わかってるわかってる…あっ。あのお店?」
たんに用事を言いつけられてのお使いであれば、それが終わるのもすぐだったでしょう。司にとっては顔なじみ、朋子にとっては初対面の店員に幾種類かのハーブの小瓶を出してもらい、代金と領収書を交換するのに然程の時間がかかることもありません。受け取った紙袋を手に町中のそれなり程度に栄えたショッピングモールを歩いて駅に向かっていると、土曜日のガラス越しに目に飛込んでくる洋服やらバッグやらの姿が朋子の目にはずいぶん華やかに見えていました。
ややくせっ毛の、短い頭髪を傾けた朋子の目にふとガラスに映った自分たちの姿が入ってきます。小さな荷物を抱えて男の子と二人、華やかな町中を歩く。それはそれなりに悪くない光景のように見えました。
「…あれー?朋子じゃない何してんのォ」
突然呼び掛けられ、軽く首をすくめるときょろきょろと声の主を探す朋子。この年代の流行りであるのかいささか語尾がおぼつかない、独特の口調の発信元に目を向けてみると茶色にパーマをかけた頭髪、丈の短いスカートに裾の長いセーターといかにも派手目な格好をした女の子が立っていました。女峰いちごは朋子の隣りのクラスの生徒であり実習などで多少の面識はあったものの、はて名前を気楽に呼ばれるほどに付き合いがあったかというとそうでもないような気もします。それでもくだらない礼節を問うような年代でも間柄でもなし、隣りのクラスで自分の名前まで覚えてくれていること自体はむしろ朋子にとっては嬉しいことかもしれませんでした。
気を取り直してそっちこそ何してるの、と朋子が聞きかけた途端軽快なメロディーと共にバッグから携帯電話を取り上げたいちごはちょっと待ってねと電話機に向かって話し始めます。少しく話して電話を切った、その様子を見るになるほど誰かと待ち合わせをしているらしいと推察するのにたいした時間はかかりませんでした。
「ごめんごめん。待ち合わせしてるんだけど向こうが遅れててさァ」
どうやら自分は暇つぶしに声をかけられたらしい。そう思った朋子でしたが本当にすまなそうに眉を下げて笑っているいちごの顔を見るにつれて、細かい追求などはどうでも良いものになりました。自分だって待ちぼうけの最中に知っている人を見かけたら、藁にすがらないでいる自信などありませんでしたから。
「駄目だなあ、アタシ待つのってホント苦手で」
「でも携帯あるんでしょ?」
「使い過ぎると怒られるのよォ、先月なんか大変だったんだからァ」
「家は携帯持つなら自分で払えって言われてるからなあ」
「えーっ、たーいへーん」
などという割とどうでもいい話が数分以上は続いたでしょうか。再び手元で先程聞こえたメロディー音が奏でられると、ぱっと明るい表情になったいちごがバッグに手を突っ込みます。その様子を見ているだけで、数分程度の足止め以上の価値は充分あるように思えました。
「ごめーん、やっと駅についたみたい。それじゃあまたねェ」
あわただしく手を振って去って行くいちごの背中を見送って、朋子はようやく後ろに立っていた司の存在を思い出しました。わざわざ気を使わせないように離れて立っていたことに気がつくと、申し訳なさそうな顔を浮かべます。
「…ご、ごめんトージ。待たせちゃって」
「気にするな」
笑うでも怒るでもなくあくまで自然にそう言って、朋子の表情が変わるのを待ってから歩き出した少年を見て少女は何を思ったのでしょうか。帰りの車内でも二人の様子がそれまでと変わるようなことはありませんでした。
「そーいえば知ってる?今度の文化祭の話」
ポニーテールが軽快に跳ねて、思い出したように彩夏が話題を振ったころにはお茶うけの量もだいぶん減っていました。若菜寮の一室で午後から始めたお茶会には買い物から戻った朋子も無事に合流しましたが、女子寮ですので当然司は来ていません。
今度の文化祭の話、となれば実行委員に立候補、参加している彩夏と梓がその情報に詳しいのは当然で、彩夏の方から話を振っている以上は自分の情報に自信を持っているということでした。
「もしかしてダンスパーティの話?」
「なんだ知ってたの。でも後夜祭楽しみよねー」
それが空想或いは妄想に類する希望であったとしても、話題を出しているその瞬間はまちがいなく本気なのです。文化祭が終わって、後夜祭の会場で開かれるというダンスパーティ。そこで憧れの格好良いあの先輩と、などという野望が実現するという根拠はどこにも何ひとつないのですが女の子たちは妙な確信を持って自分たちの幸せを信じているのです。
「準備は大丈夫なの?」
「けっこうおおわらわ、でも先輩達がしっかりやってるから」
「凄いよねえ」
というその先輩達の中に憧れの格好良いあの先輩がいるということが、彩夏や梓が実行委員会に立候補したいちばんの理由であるのは間違いありません。今年の生徒会はとにかく無意味なほどに精力的で、それでいてスケジュールやら会計やらきっちり管理されており、歴代の生徒会の中でも会長副会長が「最強のコンビ」などと陰で呼ばれているとさえ言われていました。憧れの星野先輩がその生徒会を手伝っているというのは女の子たちには流石のひとことで済んでしまうのですが、いささか複雑だったのはその先輩と生徒会長との仲が噂になっている、ということだったでしょう。
樫宮学園女子陸上部の中長距離のエースにして現生徒会長、成績も友人の副会長には遅れをとるものの学年トップクラス。だからといって堅苦しい性格でもなくむしろ元気で活動的なのが人によってはうっとうしいと言われるほどで、あえて言うなら女性らしさ、ではなく男まさりという評価が多く聞かれるというあたりが弱点だったかもしれません。
「卑怯だなー、あのスーパーマンぶりは何なんだろ」
「それを言うならウーマンとかガールじゃないの?」
そういえばタンクガールとかGIジェーンとかいう映画があったよね、という意味のない話題に飛んでしまうとそれまでの無責任な話題もどこかに行ってしまうのです。もちろんお茶うけの代わりに好き勝手言われている先輩にも相応かそれ以上の苦労はあった筈でしたが、女の子たちにとって単なる噂話のネタにそこまで知ったことではありません。とりあえず、ライバルはとんでもなく強敵かもしれないということでした。
「あ。じゃああたしそろそろバイトだから」
「えーっ」
ちらりと時計を見て、朋子の言葉に不満の声をあげる梓。ですがそれが社交辞令なり友人付き合いなりから出たものではなく、アルバイト先で司が朋子と一緒にいることへの不満の声であったことに気づいた娘はいませんでした。あるいは梓以外の幾人かは気づいていないふりをしているだけだったのかもしれませんし、気づきたくなかっただけかもしれません。
朋子が司と一緒にいる、ではなくその逆であるということ。おそらく当の梓自身も中学からの友人が少しく疎遠になっていることへの不満にまるで気づいてはいなかったのでしょう。けっきょくは置いてけぼりを食うことへの単純な不満だったのでしょうが、単純な分だけどうしようもない気持ちというのは確かにあるのです。
誰も気づいていない小さな不機嫌の中で、朋子は手を振ると若菜寮を後にしました。
BARホンキィトゥンクでアルバイト。決して繁華街とはいえない町中にある店は固定の常連客を除いてはどうしようもなく混雑するほどではありません。店主でもあるマスターが一人、司がその代理かあるいは給仕をやって、朋子が給仕に入って三人のうち二人がいれば店内は回りましたし昼間であれば一人でも充分なくらいでした。特に店を開けた直後と閉める直前、客足の途切れる時間帯なら無駄話をする余裕は幾らでもありましたし、それこそいつも二人で一緒にいる、と梓に思われても仕方のないところだったでしょう。
「そういえばトージ、こないだの試験良かったんだよね?」
「ん?まあ適当にな」
適当に、という以上それは謙遜であり実際司は俊才であって相応の成績を残していました。朋子にしたところで思った程よくはできなかった、という程度で充分に平均以上の成績を残してはいたのですが、二学期に転入してから始めての試験とあって進学校である樫宮のレベルを甘く見ていたというのは正直不覚だったようです。
それ以上は司も朋子も何も言いませんでしたが、おそらくアルバイトを始めた早々で肩身の狭くなるようなことがあったのだろうとは想像ができました。その上試験前日まで友人と遊びに行っていたのであれば本来情状酌量の余地はないのですが、とりあえず朋子としては失地回復をしておきたいところだったのでしょう。
「…バイトの空いてる時間くらいだったらいいぞ」
「あ、ありがとトージ」
便利使いされているのを承知の上で、やれやれといった顔で答える司はどうにも人の好さと察しの良さとが長所でもあり短所でもあるようでした。感謝の意を笑顔と言葉で表明しつつ、朋子はあまりに人の好い目の前の知人のことを考えずにはいられません。露骨に言ってしまえば唾は多くつけておくにこしたことはないのでしょうが、見てくれは悪くないし好い人そうな司は少なくとも品定めの対象としてはかなりの高位に属していたでしょう。
(ダンスパーティ、かあ)
それなりにシチュエーションを想像。憧れの格好良いあの先輩、という空想ないし妄想は全く消えることなく新しいシーンを追加している朋子は充分に年頃の女の子であり、それを軽いだとか欲張りだとか言うのは酷というものだったでしょう。もちろん、欲張りだったり軽いというのが全くの事実だったとしても。
いまどき一途なのがはやらないのか、
あるいは一途になったことがまだないだけなのか。
「どうした?トモ」
「え?うん、なんでもない」
頬に多少の赤み。暗めの店内の照明では察しの良いトージも流石に気づきませんでしたし、朋子自身も彼女がこういったことで赤くなることが始めてだということには気がついていませんでした。
あるいは一途になったことがなかっただけか。
おしまい