汝発つ鳥の如く 前一


 構えから正中を保ち、右手と右足をゆっくりと前に突き出し、そして重心を移す。

 ずんっ・・・

 右手と右足とを引き、重心を戻す。正中を保ち、構えに戻る。

 構えから正中を保ち、右手と右足をゆっくりと前に突き出し、そして重心を移す。

 ずんっ・・・

 右手と右足とを引き、重心を戻す。
 正中を保ち、構えに戻る。

 あとはただひたすら繰り返すだけだ。

 厚手の和装は旅に向いているかもしれない。風の吹き抜ける小高い丘にある街道沿いの桜の木に囲われた空き地で、高槻巌は日課となっている鍛錬をしながらそう思いました。ですが彼はこれから旅に出る者ではなく、旅を終えてその地で時を過ごそうと思っている者でした。鍛えられ、引き締まった巨躯は日々の鍛錬のたまものであり、鍛錬そのものを目的としていた彼の旅は、眼下に見える京都の街でひとまずの終わりを告げる筈でした。それが永き時間になるか、ひとときのこととなるかはまだわかりませんでしたが。
 男子十五にして一人発つにあたり、巌の父は一通の手紙を息子に差し渡しました。そこには京都にある相撲部屋への紹介状が記されていましたが、訝る息子に父はそこに急ぐように強要はしませんでした。

「発つならば家に戻る事はまかりならぬ。戻るならばそこに戻るが良い」

 高槻の家は歳の離れた巌の兄がとうに継いでおり、彼は自らの好きな道を生きることが許されていました。家を出て一人発つことを父に告げた時、祝福はされませんでしたが反対もまたされませんでした。
 そして神奈川にある実家を出た巌は各地を旅し時には働き、時には山中に篭りながら数えて五年以上も時を過ごしてきました。幼い頃から鍛錬を続けてきた高槻流古武術と、彼自身の力量とによって多少の困難は克服してきましたし、組み手においても全ての争いに勝つ程ではなくとも、大抵のいざこざを力で鎮められるだけのものがいつしか身についていたようです。

 そしてゆっくりとした道程を辿り、やがて彼は京都洛中、眼下に広がる汝鳥の町にたどり着きました。この世において、力士は唯一鍛錬によって得た肉体によって生活を為す者たちの集まりであり、そこに挑まんとする動機が彼を駆り立てたという事情はあったでしょう。ですが、彼が父に授かった言葉もまた彼の道程となっていました。

「まずは自らを学べ。
 そして師父に学べ。
 最後に他人と学べ。
 それが鍛錬である」

 ずんっ・・・

 正中の構えから腰を深く落とすと、両足で踏みしめた地面に散らばっていた桜の花びらが舞い上がりました。
 鍛錬を終えると手拭いで汗を拭い、自身の重厚な歩法によってえぐられた地面の穴を見て、ぼろぼろの風呂敷に包まれた簡素な荷物をかつぐと巌は空き地を後にしました。

 視界を舞う桜と眼下に広がる街並み。ひさしぶりに上手い飯にありつける、と巌は足どりを早めました。

おしまい


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