汝発つ鳥の如く 前二


 京都洛中、汝鳥の町。そこは外国人に開放された特別街区に指定されており、この時代にはまだまだ珍しい異国の商人が闊歩する、ですがそこは典型的な下町でもあり生活の活気が溢れる地域でもありました。繁華街特有の活気とはまた微妙に一線を画した、逞しさと泥臭さとがあいまじった活気。
 活気の源となるはまずは充分な量の食事。民草が飢えていないという、ごく当たり前のことはその文化が持つ活気と生命力の源泉ではあったに違いありません。旅先であれば竹筒に詰めたもち米を炊くか、街道に近い農村で麦飯や雑穀を御馳走になるか。そして相応の町ともなれば、椀に盛られた白米にありつく事も決して珍しいことではなかったでしょう。

 どこの町にも見られるであろう、通りに面した定食屋の長椅子に座して、高槻巌はその日三杯目の椀に盛られた白飯を平らげていました。旨い飯というものはそれだけで幾らでも食べることができるとばかり、何のおかずもなしにがつがつと白飯だけを平らげているその姿は確かに豪快ではあったでしょう。

 ことんっ。

 空になって積まれていく椀。男子十五の時に故郷を発ち、拳によって名を為すべく各地を旅してまわった二十一歳の青年は、厚手の和装に包まれた筋肉質の体躯に相応しい大食ぶりを発揮していました。旅の道中での鍛錬に数年をかけ、父の紹介でもある相撲部屋の門を先日叩いた後はそれまで以上の稽古と先輩の世話とに励む毎日ではありましたが、あまり大きくもない部屋では時として町に出ては自由な時間を過ごす余裕もあったようです。特に、厳しい稽古と鍛錬の合間に休憩と軽食を取る時間くらいは。

「よお、おかわり頼まぁ」

 という声を挙げて椀を差し上げたのはですが巌ではなく、彼の視線の先にいた威勢のいい青年でした。背の後ろには大きな六尺棒を立てかけて、ぼさぼさの黒髪に鉢巻を巻いた青年は、中背ながら頑健そうな身体と左眼にある傷と、何よりその威勢の良さが彼の性格をうかがわせるものでした。ふと、巌と一瞬視線のあった青年の前にはやはり空になった三杯目の椀が積まれていました。

「こちらもおかわりだ」

 互いの椀が十三杯目まで積み重ねられ、周囲の軽いどよめきの中で二人は箸を置きました。「おかわり」の呼び声以外はひたすら無言で箸を進め、胃が重くなるより先に懐が軽くなるやもしれない勝負は、どうやら一旦預かりとなりました。

 勘定をすませ定食屋を発った二人は、そのまま並ぶように歩きだしました。左眼に傷のある青年は通りの斜め向かいにある、「白河屋」と暖簾のかかった豆腐屋へと歩みを進め、巌もそれを追うかのように歩きます。何の変哲もないその豆腐屋に唯一、奇態なところがあったとすれば、その暖簾の隣りにかけられた一本ののぼりにあったでしょう。

『角が当たると死ぬほど固い、白河の豆腐はこちら』

 そして置かれている豆腐。左眼に傷のある青年はその前に立つと、おもむろに豆腐を鷲掴みにして巌の前に突き出し、強靭な握力でばきりと砕き割りました。がらがらと手から崩れ落ちる豆腐の欠片を払い落とすと、心持ち顎を突き出してからにやりと笑います。相手が何を誇示しているかは明らかすぎるほどに明らかでした。
 対して巌ももう一つあった豆腐を掴み、ごとりと重い音のするそれをおもむろに持ち上げると身体を反らせ、勢いをつけた額をたたきつけます。がつ、という鈍い音とともに見事に二つに割れた豆腐を見せつけ、にやりと笑い返す巌。

 ごっ。
 がっ。

 途端、青年たちの背後にゆらりと立った影が二人を殴り倒すと、やや高いが威勢のいい声で怒鳴りつけました。

「人の店の売り物に何しやがんだ、この唐変木ども!」

 そう言ったのはこの豆腐屋、白河屋の若い女主人である白河織江。小袖を着て長い黒髪を横一本で縛り、右手に握られているのはその売り物でもある秘伝の豆腐、足下にうずくまる屈強な男たちを一撃でのした破壊力はなかなかのものでした。

 笠松兵衛と名乗った左眼に傷のあるその青年が、よりにもよってこの汝鳥のゴロツキ長屋に住む岡っ引きであるという事、そして巌が最近こちらに来たばかりとはいえ近くの相撲部屋に入門した力士であるという事。そのどちらも織江にとっては頭の痛い事実であったでしょう。

「ち、オイラ以外にあの豆腐を素手で割れる奴がいたとはな」
「ふん、力士の力を見くびるな」

 そういう巌がまだ成り立ての力士でしかないという事は伏せられたままでした。いずれにしても、目の前で不良岡っ引きと成り立て力士に意地の張り合いをされる方としては迷惑極まりなかったでしょう。ですが、

「ま、固いか何か知らないが所詮豆腐は豆腐だ」
「何だってぇ!?」

 どちらが言ったかその一言は、織江にとっては喧嘩を売られているも同義でした。店の自慢の豆腐が舐められたとあってはそれこそ店の名折れ。

「あんた等如きにうちの本当の豆腐が割れるもんかいっ!」

 店の前であがる威勢のいい声。喧嘩と事件は京の華、とばかりに織江の声に引かれた人が集まり始めました。若いのが三人集まって何やらただごとではない気配、ごつい外見の男二人に威勢のいい姉ちゃんが一人というのも絵づらとしてはなかなかのもの。あれよという間にどこからか持ち込まれた台にまずは小手調べ、とばかりに二つの大石が積み置かれ、既に準備は万全の様子。二人並んで構え、兵衛の振り下ろした六尺棒と、巌の掌打ちがそれらを軽々と叩き割ると無責任な観衆からはやんやの喝采が上がりました。

「棒に比べりゃ素手なんてたかが知れてらぁ」
「鍛え上げた拳は武器に勝る。すぐにはっきりする事だ」

 自信ありげに言う二人の後ろ、暖簾を分けながら現れる織江。その手に抱えた大盆に乗った巨大な豆腐を運んでくると、先程まで大石の乗せられていた台にごとりとそれを乗せました。

「さあ、貧相な男の力であたしの豆腐が割れるもんか、試してもらおうかい!」

 京都洛中、汝鳥の町。そこは外国人に開放された特別街区に指定されており、この時代にはまだまだ珍しい異国の商人が闊歩する、ですがそこは典型的な下町でもあり生活の活気が溢れる地域でもありました。繁華街特有の活気とはまた微妙に一線を画した、逞しさと泥臭さがあいまじった活気。
 活気の源となるのはどうやら活気を呈する民草自身。通りに面した一軒の豆腐屋「白河屋」の暖簾の横に誇らしげに掲げられた、二本ののぼり。

『角が当たると死ぬほど固い、白河の豆腐はこちら』
『大の男もかち割れぬ固さ、伝統の白河の豆腐はこちら』

 その日以来、二つ年下の女性を姉御と呼ぶようになった男が二人、悔しげに定食屋で白飯を食べる姿が見られるようになりました。

おしまい


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