汝発つ鳥の如く 前四


 体を半身にして捌きつつ、腰を落として歩法により足を踏み出すと同時に重心を移しながら突き出した掌に衝撃を乗せる。用いるは掌の付け根、小指と薬指とを握り固くなった掌底で一撃、下顎部の一点を狙い相手の首を支点に打ち抜く。

どんっ。

 一撃で崩れ落ちた暴漢が足元に横たわり、残余の者も逃げていきました。京都洛中汝鳥の町、外国人に開放された下町という異人と商人との行き交う特異なこの町で、活気と同数程度には物騒な騒動が起こることもまた仕方のないことではあったでしょう。まして、その騒動に関わることを生業として選べば尚更のことで、

「ありがとうございましたわあ」
「いや。雇われた以上それだけのことはする」

 天満屋の女主人であるお孝に言われて、無愛想な返事をした高槻巌は頑健な肉体を覆う和装を軽くはたくと襟元をただしました。本来は近くの小さな相撲部屋で稽古をしている巌が用心棒まがい、というより用心棒そのものの依頼を受けた理由はそこに住んでいる破天荒な少年のお守り、という意味合いが強かったのかもしれません。お孝の店で養われている鷹見芳房という名の少年は少年というよりまだ十分に子供で、子供なりの無邪気さだとか無鉄砲さだとかあるいは無責任さだとか、そんなものを持ってはいましたが無論責任は子供でなく周囲の大人が教えるべきものですから子供に対してその子供らしさを咎として責める訳にはいきません。ですが、芳房が後生大事に抱えている火縄銃はそれを持っていること自体が責任を問われる類の物ではありました。
 そして友人あるいは悪友でもある最上三郎太を誘って、芳房が無邪気で無責任な正義感からやっかいごとに首を突っ込むという例も決して少なくはありません。巌はお孝に頼まれて、高すぎる塀を歩こうとした子猫の襟首を捕まえてくる、そんな仕事として用心棒を頼まれていました。無論、本来の相撲部屋での稽古がある巌がいつも子供に張り付いているという訳にはいかず、いちおうの保護者であるらしいお孝が子供の不穏な行動を察知して予防線を張っておく、その必要はありました。そしてそれが簡単にこなせる程度にはお孝は芳房よりも遥かに上手ではあったようです。用心棒の報酬、である丼飯を白米の一粒まできれいに平らげた巌は、礼を言うと天満屋を座しました。

「それでは馳走になった」
「また来てくんなさいましぃ」

 京都洛中、汝鳥の町。注連縄の張られている堂々とした一本の巨木があるその神社では、まだ幼い巫女によって日々掃き清められている境内で一人の少年が地面に置かれた巨大な塊を相手に悪戦苦闘していました。少年というよりも子供と呼ぶべきその子は名前を最上三郎太といい、鷹見芳房という同年代の悪友がいるおかっぱ頭の男の子でした。
 事の発端は先日のこと、芳房の用心棒として丼の白飯数杯と引き換えに雇われたという大柄な青年と出会ったときのことでした。

 どんっ。

 人間がああも吹き飛ぶ光景を見たのは無論、三郎太は初めてでしたしそれが人の力と技によって成されたということは更に驚きでした。芳房に誘われ見回り、と称する正義感による夜歩きが過ぎて夜道で暴漢に襲われそうになったとき、名の如き巌のような一撃でその場を救ってくれたのが鉢巻を締めた大柄な青年だったのです。
 人は鍛えることであれだけのことができるようになるものか、それは多少程度のあこがれを伴ってその子には大きな好奇心ともなりました。それでも三郎太が時折通りで見られるという巌の鍛錬の様子に興味を持ったとしても、少なくとも当初はその単なる好奇心だけでしかなかったという事はまちがいがありません。

「僕も巌さんみたいに強くなれますか?」

 さほど深刻なつもりはなく言っただけの言葉でしたが、答える側は何の気もないその質問に真摯な答えを投げかけてくれました。

「強くなるなら誰よりも強くなれとは言わない。だが、誰かを守れるくらいには強くなれ」

 そう言って、少年を救ってくれた恩人は少年たちを説教してくれる保護者に身柄を引き渡すと帰っていきました。

 今日も今日とて汝鳥の大通り沿い、厚手の浴衣の袖を肩口までまくりあげた巌は太い棍棒のような二の腕にずしりと重い豆腐塊を担いで鍛錬に励んでいました。一歩踏み出すごとにずぅんと重い音を立てて地面に足を踏み出す様子は確かに奇態ではありましたが、「角でなくとも当たれば痛い」と評判の白河屋の豆腐を担いだその姿は、なにしろ有無を言わせぬ迫力だけはあったのかもしれません。

「相っ変わらず精が出やがるねェ」

 やや皮肉っぽく声をかけたのは、ぼさぼさの頭髪に左目の傷が印象的な笠松兵衛。この町の立派な岡っ引きではありますが、それ以上に立派な不良岡っ引きとしても知られています。そして多少意味は違えど強い者には目がないこの二人、同年であることもあってか出会うと奇妙な競争心が持ち上がる間柄でもありました。
 兵衛の目の前、巌は担いでいた豆腐を地面に放り置くとずぅんという音と共に砂埃が舞い上がります。「大の男の力でも割れぬ」と称される白河の豆腐割りに挑み、不名誉な名を看板に記された「大の男」であるところの巌と兵衛。相手の意を察して豆腐塊にいまいましげな視線を向けると、兵衛は舌打ちしつつ呟きました。

「…まァた固くなってやがるのかい」
「ああ、姉御も躍起になって豆腐を鍛えている。以前よりも固く、そして重い」

 普段の売り物がどうであるかはともかく、固さを売りにする白河屋の豆腐もまた日々の鍛錬によって鍛えられていたのです。巌は放り置かれた豆腐を再び担ぎ上げ、墓石のような塊を肩に乗せると兵衛と別れました。双方が共に、いずれこの豆腐を砕いてみせると無言の言葉を交わしながら。

 まだ幼い巫女によって掃き清められている境内のあるその神社、地面に置かれた巨大な塊を相手に悪戦苦闘している三郎太の前に巌がやってきたときには既に日は中天にさしかかろうとしていました。境内の入り口近くにあるその豆腐塊を担ぎ上げてみること。好奇心のままに巌の鍛錬に首を突っ込んできた三郎太に、青年が命じたのはただそれだけでした。

「…巌さーん」
「どうだ、少しは動いたか?」

 手ぬぐいで汗を拭いている巌の言葉に駄目ですとばかり首を振る三郎太。豆腐塊は何度か持ち上げかけたらしい多少の引き摺り跡が周囲にあるだけで、早朝の場所から一尺とは動いていませんでした。既に昼の食事時、諦めて帰る話をしようかと少年がもちかけたところ、

「最初から逃げるなら何故首を突っ込むんだ?」

 巌の返答は少年の予想しない厳しいものでした。それは、おそらく子供たちの用心棒としての依頼を受けた巌なりの考えだったのでしょうが、三郎太はしばらく空腹を堪えながら、淡々と話しはじめた巌の説教を聴かされることになりました。
 関わる以上は責任を持たなければいけない。例えば巌は子供たちの用心棒としての責任を引き受けましたが、そのとき青年がそれを放棄していれば子供たち自身が代わりに暴漢に襲われた、その責を引き受けなければなりません。でははたしてその子供たちはどうであったか、自分の関わろうとした事件に責任を持つつもりで関わっているのか。子供だから危ない目にあったら逃げてもいい、というのなら最初から危ないところに近寄るべきではありませんし、自分で責任を取れるぎりぎりの線までは危ない目に近寄るというのが本来子供にとっての冒険の筈でした。
 無論、幼い子供がそこまで考えた上で好奇心を満たす行動を行っている筈がありません。ですが、それを知った上で堅苦しい説教をする責任もまた周囲の大人にはあるのではないでしょうか。少なくとも巌はそう思った上で三郎太と話をしていましたし、三郎太も巌の話をまじめに聞かされていました。そこにはおもしろくない思いも当然あったでしょうけれど。

「せめてこの豆腐は持ち上げてみろ」

 そう言って豆腐塊を指し示した巌もまた、昼飯を抜いて三郎太に付き合っているということまでは少年は気がついていませんでした。なにしろ少年の目の前にある墓石のように硬質の光沢を放つそれは、自分以上の貫目があるやに思われたほどでしたから。それでも何度か試してなんとか傾けるかせいぜい転がすくらいのことはできるようにもなりましたが、この塊を持ち上げるとなると非力な少年にはどうしたものか皆目見当もつきません。どうして転がるのに持ち上がらないんだろう、と少年が思ったとき、

「転がるんなら転がせばいい」

 考えに考えて考えていた三郎太の耳に、ふと巌の言葉が聞こえてきました。それが理解できるかどうか、それは少年がどれだけ真摯にそのことに関わっていたかということでもあるのです。

 重心を通る対角線の両端を掴んで回す。そうすれば物は簡単に転がりますが物が転がるのならそれは動くという事ですから、

「転がした下に…もぐりこむっ!」

 ずんっ。

 ごろりと回転させた豆腐の下に背中をすべりこませた三郎太は、豆腐塊を背負うようにして足の力で立ち上がるとようやく持ち上げることに成功しました。

「できたっ!できっ…わわわっ!」

 喜んではしゃいだ瞬間、重心を崩してよろけた三郎太はそのまま豆腐の下敷きになって潰されました。それでも、確かに自分の力で自分よりも貫目のありそうな豆腐塊を持ち上げた少年に巌は無骨な笑顔を向けると、潰されている少年を助け起こして右脇に抱え、豆腐は左肩に担ぎ上げて言いました。

「よし。それじゃあ昼飯でも食いにいくか」
「ちょ、ちょっと降ろして下さいよ巌さん」

 少年の抗議の声を笑って聞き流すと、大柄な体格をした頑健な青年は神社の境内を後にしました。逞しい腕に抱えられる中で、三郎太の視界の隅にはそれを笑顔で見送る幼い巫女の少女の姿が映っていました。

 やはり、誰かを守れるくらいには強くなりたいものだ。
 そう思いつつ、少年の体は神社を離れていきました。

おしまい


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