汝発つ鳥の如く 前五


 京都洛中、汝鳥の町。鴨川の流れ、大通り沿いにある相撲部屋。そこに住み稽古に励むようになった青年に与えられたしこ名は巌山。ガンザンと称する新米力士は名に相応しい巌の山のような頑健な体躯と、それを支える頑健な精神とを持っていました。

 重厚なすり足で重心を落とし、仕切り線に手をついて構える。目の前には自分と同等かそれ以上の頑健な体躯を持つ人間が、自分と同等かそれ以上の力強さで構えて重心を落としている。呼吸を合わせて瞬間で立ち、正面からの激突を正面から受けとめる。

 がつ

 という重くてにぶい音が身体の芯まで響き、巨体同士の全力の突進がぶつかりあう。本来格闘技、特に拳法は半身となり自らの正中線を隠し、相手の攻撃を避けると同時に己の全力の攻撃を打ち込むのが基本だが、相撲では相手の攻撃を真正面から受け止め且つ弾き返さねばならない。狭い土俵で俊速で動く力士の攻撃を避け切る事など所詮不可能であり、強力極まる力を受けるのであれば寧ろ正面から受けねば腕なら腕が、脚なら脚が容易に砕けてしまうだろう。
 正面からのぶつかり稽古。がつ、という音が再び部屋内に響き、鍛え上げられた肉体同士が重厚なぶつかりあいを見せていました。巌山こと高槻巌はもとは若い頃から諸国を旅していた拳法家でしたが、その拳法で鍛え上げた重厚な歩法とすり足とは相撲でも変わらず彼の力を支えるものでした。

 京都の内陸にあるにも関わらず、近年になって外国人商人に一部開放された汝鳥の町では、国内外と文化と商業とが混じり合うある種特異な活況を呈しています。それは汝鳥の町を活かす生命力の源泉となっている一方で、それまでは有り得なかった様々な混乱の種子ともなり得ました。例えば犯罪に関わる事件の件数だけでも汝鳥の町は平穏な普通の町が両手の指の数あっても足りない程に多いいのです。

「だからまたぼんのことお願いしますわあ」

 両替商である天満屋の女主人、お孝が巌に白飯を振る舞う代わりに、彼女に縁のある腕白坊主どものお守りを頼んでいる。それは汝鳥の町では割と知られている事でその関係はいわゆるタニマチの先物買いだろうと言われていましたが、或いは別の理由があったのかもしれません。何れにしても時に物騒な町中で護衛か時には稽古をつけてくれる相手として巌が子供について歩いている事は珍しくはありませんでした。例えばその日も幼い巫女の少女が掃き清めているとある神社の境内で、頑健な体躯を厚手の和装に包んだ青年は最上三郎太という子供に構えを教えていました。

「もっと腰を落とす。背筋を伸ばして…そうだ」
「い、巌さぁん…結構つらいです」
「当たり前だ。でないと稽古にならないだろう」

 重心と構え、そしてすり足を基本とする歩法は武道武芸に限らず全ての体術の基本でした。稽古というと格好良い突き蹴りを打ったり重い岩や石や豆腐を担ぎあげたり、と考えますが

「そんな鍛錬は身体ができてからだ。まずは正しい身体の使い方を覚える事、まだ子供の内から重い物を持ち上げるような稽古をするものじゃない」
「でもこないだは豆腐を持ち上げてみろって…」
「あれは体の鍛錬ではないぞ」

 まだ若い子供に体と心と技の鍛錬、それぞれの違いなどが分かる筈はありませんでしたから、巌の説明に三郎太はどうにも釈然としないものを感じてはいました。きっと巌さんは筋骨隆々なお兄さんだから頭の中まで筋骨隆々なところがあるに違いない、時として稽古がつらいときにはそう考えたりもするものです。
 ただ、稽古は稽古でしたし三郎太にしたところで男の子として強さへの憧れのようなものはありましたし、それに基本基本と言いつつ時には相撲の技の基本だって教えてくれるのですから、つらい稽古もそうつまらないものではありません。

「例えば掴んだ相手を投げる時は持ち上げるんじゃない。掴んだ左を落として右を持ち上げる、豆腐を転がすのと一緒だ」

 おかげで別段背が高くもなく力が強い訳でもない三郎太は同年代の友人相手に相撲ではしばらく負けなしだったりしたのです。そういった些細な事が少年に自信と強さとを与えるという事を巌は自分も昔は子供だった身として知っていました。

『ごめんっ芳房君大丈夫?』

 ところでお孝の言っていた「ぼん」というのは主にその三郎太の事ではなく、その同年の友人であり天満屋で居候をしている鷹見芳房という少年の事を指していました。だから正しくはお孝のぼんとは、ぼんたちと表現されるべきだったかもしれません。猟師の家に生まれていた三郎太はどちらかというと身体を動かす事も嫌いではありませんでしたが、芳房はそれとは多少違う種類の活動的な子供でした。

「銃は将来、弓をも凌ぐ芸となるだろう」

 行動と論説の両方を好む少年は自分の信念に照らし合わせて、常に袋に入れているとはいえ火縄の銃を抱えて手放さず、これを武芸として極めるべく望んでいたのです。ただ、そうは言っても芳房も活動的な子供であるには違いありませんから、そんな子供が銃を抱えて時に物騒な汝鳥の町を闊歩していれば妙な危険や厄介事に遭遇しないとも限りません。ついでに言えば、少年は更に厄介事を招きやすい正義感というものも持っていたのですから。

 と、いう話はあるにしても。
 結局子供は子供な訳だったりもします。

 その日も白飯を御馳走になって天満屋を辞そうとしていた巌に、鼻頭に絆創膏を貼った芳房は声をかけると、武芸としての相撲というものについて自説を語り始めました。子供らしからぬしっかりした論調はたいしたものでしたが、わざわざ巌を捕まえて話をし出したその原因が最近悪友である三郎太に相撲でたびたび投げられた、そのあたりにある事はどうやらまちがいないようでした。

「新しい武芸に古い因習が通用するとは限りません。相撲だって鍛えた身体が刀や弓の一撃に及ばないんですから」

 刀や剣、の中に敢えて銃が入っていない事が芳房の複雑な心情の現れだったのでしょうが鼻頭の絆創膏が痛々しい分、少年の気持ちも分からなくはありませんでした。負けず嫌いの年代の子供に苦笑を一つ返した巌は、芳房がついてくるに任せたままいつものように神社の境内まで歩いて行きました。幼い巫女の少女が今日も掃き清めているそれなりに広い境内、その日は三郎太は私塾にでも行っているのか来てはおらず、その事を確認した巌は振り返ると芳房に向かって話し始めました。

「それじゃあ、型を見せてもらえないか?」
「え?」
「銃技も武芸であるなら型があるだろう」

 型が無ければ当然武芸として他人に伝える事が出来ませんから、それはあって然るべきものでしょう。ただもちろんそれは芳房が自分で作り出そうと、子供ながらに考えている最中のものでしたから今すでにそんな立派なものがある訳もありません。ただ、無いというのは悔しいですから少年は自分の背に担いでいた布袋から銃を取り出すと、もちろん火を点けないままゆっくりと構えてみせました。

「成る程、大したものだ」
「え、そうですか?」
「もう一回見せてくれないか?」

 そこまで言われれば芳房も悪い気はしません。もう一度、背から構えた銃をゆっくりと狙うように降ろしてみせました。気合いが違う分だけ先程よりも流れるような動作で、本人でも格好良かったのではないかと思えたような構えはですが、

「さっきとは型が違うぞ」
「え?…そのそれは…」
「まだまだだな」

 頑健な青年の悪戯めいた笑顔を見て、相手の引っかけに乗ってしまった芳房はしまったと思いました。心技体と言うように、鍛錬によって得た心と体とで常に揺らさぬ正しき技を為す、それが武芸である筈で、褒められて変わるような型ではとても武芸に達しているとは言えないでしょう。多少不機嫌に赤くなりながら、芳房は巌にあまり素直でない表現で本心を告げました。

「古くからある相撲の伝統は銃技にも役に立つのではないかな、と思ったんです」

 要するに三郎太に負けっ放しは悔しい、とはなかなか言えないものです。それなら自分の考える武芸としての銃技に役に立てるくらいのつもりで、一石何鳥かを狙ってみる方が健全に欲張りではありました。
 その日以来、上手いこと曜日を合わせないようにした二人の子供が神社の境内で一人稽古に励んでいる、その事を知っているのは当の神社にいる幼い巫女の少女だけでしたが、薄々なりに感づいている人はもっとたくさんいるようでした。

「白河杯争奪、汝鳥町内こども相撲たいかーいっ!」

 何の脈絡もなくとある一日、その神社の境内で威勢良く拳を突き上げて衆目を集めていたのは大会のスポンサーでもあるところの白河織江。催し物となれば出店が出せるのは当然で、汁粉豆腐やら豆腐煎餅やらと書かれた暖簾を下げた屋台を構えていました。本来子供好きでもある織江にとっては、稼ぎ時となるこういった企画を断る理由はありません。

「悪いな姉御。色々用意してもらって」
「なーに構わないさ。いい儲けになりそうだしね」

 都合の良すぎる町内子供相撲大会はもちろん巌の発案でしたが、たった一人の考えだけで事態が動くほど世の中は甘くありません。相撲部屋にとってもスポンサーにとっても、良い宣伝と町への交流が出来るからこそその力を貸してもらえたのですし、せいぜい賑やかな腕白坊主どもとその親御さんとを集める必要がありました。

「で、あんたのお弟子さん達は来てるのかい?」
「ああ。やる気はあるようだ」

 二人が巌の弟子であるかどうかはともかく、芳房も三郎太も強引に引っ張りこまれるように参加させられてはいましたが、男の子もやっぱり男ですから男の意地とか呼ばれているものは持っている訳です。先に伝えてしまうとこの二人が優勝してしまう程世の中はやはり甘くはないのですが、巌の思惑はいきなり最初の試合でこの二人を当ててしまう事でした。

「流石に勝つ自信はないか?」

 と言われてしまえば二人とも退く訳にはいきません。乗せられているのを承知で乗せられた二人は、即席の土俵で正面から対峙すると清めの塩だけは格好良く撒いてみせました。二人ともまわし姿ではなく、いつもの和装に帯をきつく締めただけの格好であるあたりが町内大会らしさを出しています。無責任な観客がはやし立てる中で当人同士は至っていつもの通りではありましたが、

「全く、大人はこういうのが好きだからな」
「本当に。いい見せ物になった気分ですね」

 などと気合いの入っていない会話。軽薄なはっけようのこった!の声で軽薄に組み合うとお互いの帯に手を回します。

 瞬間、力を込めて左帯を落として投げようとした三郎太に合わせて同じ側の右帯を落として重心を崩そうとする芳房。どうせ巌に教わったのであろう投げをわざと左右を逆に打って、勢いをつけていた三郎太を転がそうとします。そのまま左ですくい投げ、ようとしますが三郎太も一瞬早く腰を落として何とか踏ん張りました。互いの変化に思わず表情の変わる二人。

「芳房君!…ずるいですよ」
「勝負にずるいも何もありません。僕は右より左で投げるのが好きなだけですよ」

 明らかに無念そうな顔で答える芳房に、そうなると三郎太だって黙ってはいられません。不意をついていきなり下がって引き落とそうとしますが、芳房もやはり手を着く寸前に踏み止まります。更に頭を着けて思いきり体勢を低くして一気に寄り。容赦なく攻め始めました。

「そんなにムキにならなくても…子供ですねっ」
「僕はこれが普通です。芳房君がふらふらしてるだけじゃないの?」

 子供同士の子供っぽい意地の張り合い。二人で帯をしっかり取り合い、片腕を落としてもう片腕を引き上げ、今度は二人同時に投げ。双方の足が高く上がり、そのままゆっくりゆっくりゆっくりと傾いていくと二人ほぼ同時に顔面から地面に落ちました。

「それまでっ」

 結局同体に見えながらも勝負は着いたのですが、勝った方も次の取り組みであっさりと負けてしまっていたので大きな自慢は出来ませんでした。芳房にも三郎太にもそれぞれなりの不満が残ったでしょうけれど、互いに意地を張り合う相手がいるという事、それ自体はとても喜ぶべき事であったのかもしれません。

「痛たたた…三郎太君が手を着いてくれればこんなに擦りむかないで良かったんですよ」
「そっちこそあんなにムキにならないでもいいのに」

 斜めに落ちた日の差している神社の境内で、土俵やら屋台の片づけも済んで皆殆ど帰ってしまった時間。当の巌も顔面を擦りむいた二人を見届けると豪快に笑いながら帰ってしまい、その日のお風呂が傷口にしみるであろう事を憂鬱に思いながら芳房と三郎太とは家路を急いで行きました。
 汝鳥の外れ、静かになった境内には箒を持った幼い巫女の少女が一人。
 森塚日菜子が笑いを堪えつつ、その背中を見送っていました。

おしまい


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